2010年2月24日水曜日

少年兵兄弟の無念-20

 製材の貨車積載
 私たちの中隊の主な作業は、製材された材木の貨車積載です。
6~8人で一つの作業班です。製材所からの斜面をトロッコに載って材木が下りてきます。厚板、薄板、雑材、鉄道枕木等様々な工場で製材された材木です。次々と下ってきたトロッコが、斜面から平地に移りスピードが落ちたところで、班ごとにトロッコに飛びつきます。

 貨物列車の引き込み線には、線路がいくつにも別れ、木製の長いプラットホームが何本もあります。トロッコを押してプラットホーム脇の材木置き場に、製材の種類ごとに、いつ貨車が入ってきても積み込めるように並べて積み上げます。

 長板は担いだときも、横に二人で投げるときも、板のしなりを上手く利用しないと、ひっくり返ったり、板の跳ね返りで大怪我をします。重いものを担いだり、板扱いしたことのないすべての捕虜たちが、トロッコを押し、板を担ぎ、「木場」の職人のように板を扱って、作業をするのです。

 鉄道の枕木や、十分乾燥のしていない松の板を担ぐときなど、腰をしっかり入れないと、担ぎ上げることも、歩くこともできません。材木の下敷きになって大怪我をしたり、死んだ兵隊もいました。

 貨車が入って積み込みの時などはさらに大変です。貨物列車が引き込み線に入っててくると、一斉に積み込みです。無蓋貨車に敷き板を敷き、四隅に丸太を立てて貨車の幅一杯に並べて積み上げていくのです。

 地面の上の材木置き場から、人の肩ほどある貨車の床に持ち上げたり、板材の上を滑らせて貨車の中に運び込むのですが、積み込みが進むほど段差が高くなります。積み込み作業は午前中に始まるのが通例ですが、終わるまでは、何時になっても昼食は食べられません。
作業は雨が降っても、雪が降っても休みはありません。

 前回8時整列と書きましたが、訂正します。7時半作業整列・点呼。出発。
8時作業開始、12時昼食・休憩。13時作業再開、17時作業終了、帰舎。
労働は週6日制で、休日は日曜の他、メーデーや革命記念日などソ連で定められた祭日が休みでした。

 シワキ収容所では6人に1人が死ぬ
 シベリアでは10人に1人が死んだのですが、シワキ収容所では6人に1人が死にました。死ぬと遺体は医務室の前に置かれているのですが、朝までの間にみんな裸になっています。着ている物を掻っ払うのです。パンツさえ盗りました。もちろん盗るのは我々日本兵で、盗った衣服をソ連の民間人の所に持ち込み、パンと取換えるのです。

 製材工場がありますから木材は山ほどあります。。あらかじめ棺桶を作っておきました。しかし、遺体が棺桶より大きい場合は入りません。タポール(斧)のみねで脚を叩くのです。凍っていますから脚はポキッと折れます。それで遺体を棺桶に収めることができるのです。

 遺体は土葬するのですが凍土です。土が1メートル以上も凍っています。なかなか掘れません。火を焚き、凍土を少しずつ融かし、鉄の棒で突き掻き、1日かかって40センチか50センチ、棺のかくれる程度でやっとです。浅いまま土をかぶせるのですから、春になると山犬か何かに掘り返されているのです。シベリアの山野に埋められた日本兵の遺体は、その後どうなっているのでしょうか。

 空腹
 捕虜たちの死因は栄養失調、発疹チフス、凍傷、作業中の事故死などです。極東・シベリア地方での捕虜の食糧は一応パン350グラム、粉、穀物(小麦、燕麦、大豆、大麦、こうりゃん、粟、稗、きびなど)400グラム、魚150グラム、生野菜または塩漬け野菜800グラム、砂糖18グラム、塩20グラムという基準、建前があったと言うことですが、実際はそんなにありません。とにかく食べ物が少ない。重労働に空腹です。

 最初の冬は大変でした。8分の1斤ほどの大きさの黒パンは1日分。それに赤いこうりゃんや大豆のカーシャ(おじやのような物)、あるいはトマトが一切れの薄い塩スープが飯盒の蓋に八分目ほど。馬鈴薯でも付いていれば最高です。その頃ソ連も飢饉で食糧不足だったようです。野菜など殆どありませんでした。

 黒パンを分配するときは大変です。当番が切るのをみんな殺気立ち、目を皿のようにして見つめています。ついには天秤秤を作って足したり減らしたりして分けていました。

 腹が空いて仕方がありません。松の虫食い穴に針金を突っ込みマツムシを釣り上げて食べました。ビタミン不足の鳥目などにはよく効きました。それに靴のかかとを削りました。牛、豚の皮です。チューインガムのように噛んで唾液を出し、多少でも空腹感を抑えました。黒パンをお湯で溶かし、量を増やして満腹感にひたった者もいましたが、彼らはみんな胃を壊してしまいました。下痢をすると、松ヤニをかじったり、木炭を粉にして「クスリ」にしました。

 寒さ
零下30度を超えると作業休止ですが、零下29度なら作業に出ます。一度作業を開始したならば途中で休止になることはありません。風が吹けば風速1メートルごとに体感温度は1度宛下がります。

零下20度から30度の酷寒での屋外作業です。まつげが凍って真っ白になります。吐く息が凍ってすぐ顔にまとわりつきます。素手で裸の金物などを掴んだりすると、すぐ凍り付いて皮がむけてしまいます。

 時々、お互いに顔を見て、白くなっていないか確かめます。白くなったら凍傷の前兆です。すぐマッサージです。手や足は、さすったり足踏みをして血行をよくしてから暖をとらないと凍傷にかかります。

 私も凍傷になりました。あまりの寒さに、部屋に入るとペチカの上に登って靴を履いたまま身体を暖めました。てきめんです。左足の親指が腐り始めました。幸い早く気が付きました。放っていれば肉が腐り、どんどん内部に進み骨まで達します。

 戦友に体を押さえてもらい、針金で作ったピンセットで患部をつまみ、ハサミで腐った部分の内側、まだ大丈夫なところに沿って腐った肉を切り取りました。本人は痛みと気張りで頑張ったのですが、見ていた戦友が気絶しました。一ヶ月ほど作業を休みました。その後しばらくは、靴が履けませんので、左足には大手袋を巻き付けて作業に出ました。私の左足親指は先が短くなっています。シベリア土産です。

 シラミ
 風呂はありません。汚れた衣服に垢だらけの体です。シラミが発生します。上衣の襟など裏返すと霜降りの服のようです。シラミがたかっています。

 一度入浴列車が来ましたが、それ以外入浴はしたことがありません。入浴列車というのは、最初の車両で衣類を脱いで裸になります。次の車両で衣類を差し出します。衣服の蒸気消毒です。次が蒸し風呂の車両です。床に煉瓦で仕切って焼けた石が並べてあります。水をかけます。猛烈に蒸気が立ちこめます。

 段になった高いところに座り、汗が吹き出します。汗をたらたら流しながら、榊の葉っぱで体を叩き、指でこすって垢を落とすのです。列車を降りるときは、蒸気消毒をした別の衣服を着て出てくるという仕組みになっています。シラミの大量発生が発疹チフスや伝染病の原因でした。

 いつ帰れるのか。 
防寒具は一応もらえますが、極寒の屋外作業には慣れていません。食糧も少ない。いつも空腹。そして、いつ日本に帰れるかもわからない。先の見えない希望のない毎日です。誰でも参ってしまいます。最後の踏ん張りがきかないのです。

 とりわけ下級兵士たちがばたばたと倒れていきました。死ぬ間際にはたいてい脳症になり、譫言(うわごと)を言います。夜中にパット起き上がって「汽車が出ますね。帰るんですね、日本に帰れるんだ。味噌汁が飲める。お母さん」、そういって死んだ戦友のことが、いまでも忘れられません。

 私は、少年兵を志願しをしたとき、許しをくれた父のがっくりとした姿を思い浮かべ、なんとしても生きて還り、親孝行をしようと苦難に耐えたのでした。

人間として最低の所に落ちて
私たちは、ただ自分だけが生きればいいとしか思っていませんでした。隣の戦友が下痢をします。いたわるのではありません。嬉しくなるのです。「ああ、これで隣の奴の飯が食える」、そう思うのです。

 こんなこともありました。ある兵士が病気にかかり、医務室に連れて行かれ、病床に伏したまま危篤になりました。それを聞いてその班では、まだ死んでいないのに骨箱を作りました。小指を入れて持ち帰ろうというのです。所持品はみんなで形見分けをしました。

 ところが、本人が危篤を脱して生きて帰ってきました。自分の骨箱があって、持ち物は何もありません。けれども、彼の所持品を、誰も返しませんでした。本人も生きて帰れただけでも良かったと考えて、黙って我慢するより仕方ありませんでした。

 こんな話はあまりしたくはありません。しかし本当の話なのです。まだまだ似たような話も沢山あります。人間として一番最低の所に落ちたのです。過酷な状況がそうさせたのですが、日本人同士が助け合えなかったのです。お互いが、お互いを、生き延びるために踏みつけるようにすることが多かったのです。

 シベリアで抑留された人たちは、「寒かった」「ひもじかった」「重労働が辛かった」までは話しますが、それ以上の体験は話さないのです。特に家族や遺族には話せません。

 「隣の奴が下痢したら、ああ良かったと思ってその人の分まで食べました。死体の衣服を剥がし盗ってパンと換えました。危篤の奴の形見分けをして、生き残っても、知らん顔をして返しませんでした。お宅のお父さんも同じでした 」など言えません。鉄砲の弾丸に当たって死んだのならともかく……。

 だからなかなか本当のことを話さないし、口が重く、何も話さない人もいるのです。戦争中には弾丸に当たらず生き延びてきたのに、戦争が終わって捕虜にされて……。いや捕虜ではありません。拉致です。

 スターリンのソ連は「ポツダム宣言」を踏みにじって日本軍捕虜をシベリアに連れて行き、重労働を強制しました。六〇数万の日本軍将兵がソ連に抑留されて六万数千人が死亡したとされていますが、未だに正確な数字はわかりません。まさに戦後最大の拉致問題なのです。

 そういうなかで、戦争が終わったというのに、惨めに、家族にも知られずに死んでいった。しかも、もう助け合いなどなくて、お互いに自分だけが生きることに必死の中で死んでいったのです。遺骨の多くも、まだシベリアの地にさらされたままなのです。 

 しかしそういう中でも、鈍重に人間性を貫いた人がいたり、一方で、兵隊前の社会では立派な肩書きを持っていた人がくるっと変わってしまったり、そういう両極を私は見てきました。20歳前の少年兵でしたから、強烈な印象となって記憶に残っています。日本に帰ったときには一種の人間不信に陥りました。「この野郎、上手いこと言ったって、いざというときになったら、おかしくなるんじゃないのか」そういうことが度々でした。

 ですから、もともと所属していた部隊が、戦後になって戦友会を作ると言うことができても、シベリアで同じ収容所にいた人たちが、戦後になって集まるというのはなかなか難しかったのです。ただ、シベリアに抑留されている間は、幾つかの収容所で合流したり、別れたりしていますから、帰国直前の最後の収容所で一緒になって、途中では醜い面をお互いに知らない場合には、グループを作ることも可能だったと思います。

(次回は収容所の中の民主運動) 

少年兵兄弟の無念-19

航空情報連隊の消息続き
 国境配備の前提は「玉砕」でした。
 前回の、第十一航空情報連隊の戦闘と、第十七航空情報隊の戦闘の中で、十六歳から二十歳の特幹第一期同期生の多くが戦死したことを書きましたが、その配備そのものが、「玉砕」を前提としたものでした。「玉砕」するために配置されていたのでした。

 1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次のような趣旨のものでした。

 「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯で行い、このための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、日本全般の戦争指導を有利にする。」

航空作戦の方針変更
 関東軍作戦計画の方針変更に伴い、第二航空軍も次のように作戦方針を変更しました。

1.航空軍は、外蒙方面から南下及び東進するソ連軍主力を破砕し、関東軍の作戦を有利ならしめるとともに、北支方面との連絡を確保する。これがため当初、チチハル、白城子、赤峰各飛行場群を使用し主として、敵機械化部隊の後方補給を遮断して、その前進を遅滞させ、次いで戦闘部隊の撃滅をはかる。

2.作戦の推移に伴い、逐次漣京線西方飛行場群(彰武、阜新、新立屯、錦州)漣京線以東飛行場群(奉集堡、東豊、梅河口、鳳城)に後退し、前任務を遂行する。戦闘に当たっては、保有機数の特性と訓練の度に応じ、特攻的用法に徹する。

3.一部をもって石門子秘密飛行場を使用し、ウランウデ付近のシベリア鉄道橋を破壊し、敵の輸送を妨害する。

4.航空地区部隊は、後退せしめることなく現地にとどめ、敵の飛行場推進を妨害し、遊撃戦により敵の航空戦力を破砕する。

第二航空軍の配備と訓練内容の変更
 訓練内容は、新作戦計画に従って、主としてソ連機甲部隊に対する訓練に変更されました。
 航空地区部隊に対しては、敵機と刺しちがえる気魄をもってする対空射撃能力の向上、機甲、車両に爆薬をもってする肉薄攻撃の研究、普及ならびに遊撃戦法に関する創意工夫およびその訓練が要求されました。

 二航軍情報部に対しては、従来の航空情報等に加えて敵地上兵団の状況、特に機械化兵団の動静に関する探知能力の開発、訓練が要求されました。
 このように昭和二〇年に至り、各部隊の訓練内容は、一変したのでした。

そして、航軍情報部・航空情報連隊は、「その地域内で玉砕させる」前提で任務に就いていたのでした。

 なお、北、及び西の防空監視網は、第十七航空情報隊が担当し、情報二個中隊、警戒一個中隊、およそ、一,〇〇〇名の人員でした。
 また、東部正面の航空警戒に任じていた第十一航空情報部隊は、第二中隊を北鮮東部海岸に派遣していました。

 航空地区部隊も、敵機と刺しちがえる対空射撃と、機甲、車両に爆薬をもってする肉薄攻撃、遊撃戦が、究極の任務とされていたのでした。



 シワキ収容所
 シワキ収容所には大隊本部と三個中隊約千名の日本軍兵士が収容されました。そのうちの一個中隊、私たちの中隊は第十一航空補給廠公主嶺出張所の中からの混成部隊でした。中隊長T中尉は温厚で物静かな技術中尉でした。それに学徒兵上がりの少尉二人が将校です。下士官もほとんど技術屋のようで、いわゆる獰猛な古参下士官はいませんでした。それに下士官待遇の技術系軍属がいました。

 兵隊たちも、ほとんどが特幹二期生の整備兵と軍属の少年工たちです。どちらも二十歳前の少年です。特幹二期生は、私たち特幹一期生と同じ、44年(昭和19)1月に試験を受け、4月に入隊した一期生より半年遅れて10月に入隊をした上等兵でした。軍属の少年工には朝鮮出身者も何人かいました。一般の兵隊はわずかです。

 こういった構成でしたので私たちの中隊では、階級章による下級兵いじめはほとんどなく、他の中隊に比べて兵隊たちは幸せでした。ですから他の中隊の下士官たちに目の敵にされ、貴様たち弛んでいると、気合いを入れられているようでした。

 シワキの街
 シワキは製材の街でした。
 シベリア鉄道、シワキ駅の真ん前に製材工場があります。
3階建てほどの高さの工場開口部から、貨物線引き込み場に向かってトロッコレールがひかれ、トロッコに載せて、製材された材木が貨物ホームに送り込まれます。

一方、製材所からは15キロほど先の森林伐採場に向かって、伐採した材木の運送用森林鉄道が引かれています。
製材工場の前にはパンの配給所がありました。当時は主食の黒パンは無料で支給されていました。

駅の脇には広場があり、共産党とか、コムソモールとか、人民委員会ですか、そんな集会所の建物がありました。

ロシア人と歌
ソ連の指導者の一人、カリーニンが亡くなった時、黒いリボンをつけた赤旗の弔旗を掲げ、街中の人々が広場に集まって「インターナショナル」を歌っているのを見たことがあります。
「インターナショナル」は4部合唱でした。

ロシャ人と歌を切り離すことができません。子供の時から自分のパートが決まっているようでした。老いも若きも、男も女も、集まるとすぐに合唱が始まり、いつも4部合唱でした。
長く厳しい寒さを耐え、ツアーの圧政を忍ぶのに歌で、慰め、励まし、それが合唱となり、より豊かに表現するために4部合唱となり、ロシア民謡が生まれたのでしょうか。

生活から生まれ歌い継がれたというのでしょうか。歌の心を大事にします。嬉しいときには嬉しい歌。悲しいときには悲しい歌。悦びには悦びの歌。沿海州の収容所のころです。「海ゆかば」のレコードをロシア人が聞いていました。なかなか良いメロデーだなというのです。「それは戦友が死んだとき歌う歌だよ、ポミライ(死人)の歌だよ」と話しました。そのロシア人はそれ以来、そのレコードをかけなくなりました。

住まい
街の道路は全部製材工場から出た「おが屑」が敷き詰められていました。おが屑の舗装のおかげでどんな寒いときでも、道路が凍って足を取られるというときはありませんでした。

家々はみな、丸太を積み重ねて作られています。丸太と丸太の間は、平らに削り、綿のようなものを詰めて隙間のないようにしてあります。建物の裾、地面に接する部分は70~80センチの高さ、20センチほどの幅に板を囲い、そこにはおが屑がぎっしり詰めてあります。床下から風が吹き込むということはありません。

入り口は板囲いで、玄関に直接風が吹き込むことはありません。取っ手には必ず布が巻き付けてあります。冬、素手で、金具を握ったりすると、手が、金具に凍り付き、無理にはがせば手の皮がむけてしまいます。

窓は、幅1メートル、縦1メートル半位で2重窓ですが、必ず花が飾ってあります。部屋は板敷きで2間か3間、ペチカを囲んでいます。ペチカは煉瓦作りで、焚き口の居間側には鉄板を敷いて煮炊きができます。ペチカのなかは、煉瓦の囲いで、暖めた空気が、中を上下してすぐには煙突から逃げないように工夫して、壁全体が暖まります。


点呼
さて、収容所の生活は朝6時の点呼から始まります。
最初のころは、収容所には日本帝国軍隊の階級章が生きていました。
東を向いて、皇居遙拝。皇居遙拝とは、天皇陛下万歳と宮城を拝むことです。
「将校を父と思え、下士官を兄と思え。一致団結して天皇のため苦難に耐えよう。力を合わせ祖国再建のため生き抜こう」、寒風吹きすさぶ中、そんな訓辞が行われたのでした。

昼食1時間を除いて8時から5時まで労働という建前でした。
朝8時、それぞれの作業場に向かうため、それぞれの作業隊ごとに門の前に整列です。これが大変です。
コンボーイ(警戒兵)が付きますが、数がなかなか合わないのです。かけ算が殆どできないのです。寒い時など、たまったものではありません。零下20度を超える朝でも、数が合うまで、20分も、30分も数え直すのです。3列、4列、6列、7列ではかけ算をしなければなりません。それではダメなのです。それで私たちは、5列に並ぶことにしました。2列で10人ですからこれなら何とか分かるようになりました。

 先日、平和祈念事業団のシベリア抑留生活の展示を見てきました。やはり作業に出かける兵士たちは、収容所の入り口前に5列で並んでいました。
 
 そんな兵隊たちのソ連がドイツに勝ったのですから不思議でなりませんでした。それでも日本へ帰るころには、スターリンの冷酷な圧政の下でも、侵略をされた祖国を守る、生まれ育った故郷を守るという民衆の底力と言うものを、ロシアの民衆と接する中で分かるようになったのでした。

 収容所の作業は三つの中隊が、主な作業としてそれぞれ、森林での伐採作業、製材所での作業、製材された材木の貨車積載を分担しました。
 そのほか、国営農場、共同農場などでの農作業、道路工事、鉄道工事なども組み込まれていました。

少年兵兄弟の無念-18

「情報無線隊」行き同期生の消息

№20682-(11)で私は次のように書いています。
「長春の司令部で内地から転属した同期生四〇人ほど簡単な筆記試験があって、また選り分けられました。私たち七人は対空無線隊に行きました。ここで私はまた強運を引き当てたのです。

『情報無線』に選ばれた者も沢山いました。二人宛無線機と食糧を携行して国境線に配置され、ソ連軍の動向を探り通報するのです。彼らはほとんど還っていません。八月九日にソ連が侵攻してきたとき、彼らは置き去りで、本部や司令部はとっくに逃げ去っていました。」

「戦史叢書 満州方面陸軍航空作戦 防衛庁防衛研修所戦史室」で、情報無線隊行き特幹同期生の消息を知ることをできました。

「航空情報部隊の玉砕」という章の概略は次のようなものです。

第十一航空情報連隊の戦闘 (本部-温春)
ソ連の侵攻によって、まず危険にさらされたのが、国境近く配置されていた航空情報関係諸隊でした。

ソ連の侵攻が近いと判断した徳田義雄(少佐)連隊長は八月三日第一線監視哨に対して次のような指示を出していました。

「あらかじめ緊急事態に直面したならば、暗号書、乱数表を焼却する。その後の通信は生文(なまぶん)でもよい。しかしできるだけ定められた略号を使用する(例 玉砕はキヨキヨ)。ソ連が出撃し爾後の行動に関して命令を受ける暇(いとま)のない場合は、対空監視を継続するため、なるべく玉砕を避け、ポストは小隊本部に、小隊本部はポストを収容しつつ中隊本部に、次いで連隊本部に向かい行動する」。

八日夜半、連隊本部にソ連侵入の第一報がありました。九日零時すぎ、各方面から出撃した数十機のソ軍機は、東安、牡丹江その他を爆撃しました
連隊長が第二航空軍司令部に報告して、爾後の行動の指示を請うたところ「とりあえず現配置で任務を続行し、後命を待て」としめされたのでした。

五~七名で構成されていた各監視哨は状況の報告を続けていましたが、九日夕刻から玉砕の電報が相次ぎました。連隊長は独断で十日、監視哨の撤収を命じました。
十一日、ようやく第十一航空情報連隊には、敦化付近に集結し次期作戦の準備をするように命じられたのでした。連隊主力は温春から敦化に、一部は杏樹付近からハルピンを経由して新京に集結中終戦を迎えたのでした。
第十七航空情報隊の戦闘 (本部 チチハル)
北部および西部の広大な地域に展開していた同隊は、ソ連の満州侵入企図を事前に察知できませんでした。
ソ連侵入時期に関する判断や地上攻撃に際し、部隊のとるべき行動の準拠について、第二航空軍からは何らの指示や命令はありませんでした。

八月九日早朝、孫呉方面および海拉爾方面第一線ポストから、ソ連侵入の緊急電報が入いりました。続いて五叉溝方面の各ポストからもありました。しかし、これらのポストとの通信連絡は、大部分が緊急電報発信後に間もなく途絶えました。

孫呉小隊は第一線ポストの兵員を収容しつつ、北安-克山の線に後退しつつ終戦を迎えました。
嫩江小隊は、終戦まで現地にとどまって任務を遂行した後、チチハルに集結しました。

海拉爾小隊は、九日各ポストの連絡が絶え、小隊長金子少尉がポストの兵員収容のため、第一線に赴いたが、そのまま消息を絶ちました。

玉砕したと思われていた黒豹山ポストから翌十日不意に電報が入りました。敵侵入後、その後方にとり残されたこの分隊は、潜伏を続けて敵情をその都度報告していましたが、二日ののち再び通信が途絶しなした。

五叉溝 小隊は、小隊長鮫島少尉が部下部隊を現地歩兵に随伴して撤退させた後、自らは現地にとどまり敵航空情報を報告しました。その後、「部隊の武運長久を祈る」との電報を最後に消息を絶ちました。
以上のように第十七航空情報隊の損害は相当に重大でした。

終戦直後、部隊長は、将兵の独断行動および自殺を固く禁じましたが、このような特殊な作戦条件下にあったため、自決する者が相次いで発生しました。それは、少年特別志願兵出身者に特に多かったようであります。

………… 以上が 「航空情報部隊の玉砕」 の大要です。

ここにある「少年特別志願兵出身者」とは、長春で私と別れた「特別幹部候補生」であり、「情報無線」に配置された当時、十六歳から二十歳の同期生の多くがその若い命を満州の地で散らしたのでした。

しかも、彼らが絶望的な状況下で戦っているとき、日本政府と、大本営は、ポツダム宣言受諾を巡って「国体護持」を唯一絶対の条件とすることで、国民も戦場に置き去りにされた兵士たちも全く念頭になく、議論を沸騰させていたのです。

同じ時、関東軍総司令部も、唯々身の保全に、「朝鮮保衛・皇土防衛」の名目で新京から満鮮国境通化へ逃げ去ることに汲々としていたのでした。

「国難ここにみる」と自ら志願して戦場に赴き、ソ連の侵攻に戦場に置き去られ、銃弾に倒れ、戦車に踏みにじられ、また、生きながらえつつも「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すこと勿れ」、「従容として悠久の大義に生きることを悦びとすべし」と、「戦陣訓」の教えに忠実に命を絶った少年兵の無念はいかばかりだったでしょうか。

彼らを教育し、彼らを煽り立て、彼らを戦場に送り出し、彼らをこのような状況に追い込み、自らは「国体護持」のみにすがりつき、反省もなく、生きながらえた権力者たちに激しい怒りを禁じ得ません。

シベリア抑留への想い

今年の春、「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」の、舞鶴引き揚げ記念の丘に桜を植樹する集いがありました。
時間の余裕があり、引き揚げ記念館を観ていたところ、ボランテイアのひとが一生懸命説明をしていました。私も説明を手伝っていましたら声をかけられました。

ある大新聞の婦人記者でした。
「私の祖父はシベリア帰りでした。けれどもシベリアのことは一言も話さないまま亡くなりました。何処の地で、どんな生活をしたのか、何にも分かりません。どうしてでしょうか。祖父の気持ちを知りたいのです。」とのことでした。

私は答えました。
「悔しくて、悲しくて、なさけなくて、やりきれなくて話さなかったのです。」
「日本政府と大本営と日本国政府に放り出され、労働力を差し出され、スターリンのソ連に拉致され、寒さと空腹と重労働に耐え、這いつくばって生きてきました。、」
「何よりも辛く悲しかったのは、人間としての尊厳を踏みにじられ、人間の尊厳をかなぐり捨て、ガキや畜生のように落ちぶれなければ生きてゆけなかったのです。」
「そんな惨めな自分のことを話すことができますか」
私は、自分の幾つかの体験を交えて話しました。
「戦友の死体の衣服を剥ぎ取ってパンと換えた、隣の戦友が下痢をしたら、いたわるのではなく、彼の飯が食えると嬉しくなった、そんな話を家族に話せますか。」
「寒かった、辛かった、腹が減った、誰も話します。でも、畜生のように落ちぶれたことは話しません。私だってそんな話をするようになったのはつい最近です。そこまで話さなければ『シベリア抑留』の本当の姿、日本政府とスターリンソ連の人道を外れた極悪非道の本質を、本当に分かってもらえないと気がついてからなのです。」

「何も話さないで亡くなったお祖父さんの口惜しさ、悲しさ、惨めさ、やりきれなさ、無念さを家族の方みんな集まって偲んで下さい。戦争の惨めさ、平和の尊さを話し合って下さい。それがお祖父さんへの最大の供養だと思います。」
私の言葉に、その婦人記者は涙を流して頷いてくれました。

私もシベリア抑留の話をしたり書いたりするときは、始めるまで、どうしても時間がかかるのです。「話したくない、でも話さなければならない」、その葛藤、自分との闘いを超えて、これから続けることにします。

少年兵兄弟の無念-17

アムールを渉りソ連の土を踏みました。
1945年9月16日、私の十七歳の誕生日、生涯忘れることのできない日となりました。
「これからどんな日々が待ち構えているのだろう」

そんな不安をかき消すよう、一歩一歩踏みしめてブラゴベシチエンスクの街を歩きました。道の両側にはソ連の女子供が集まって手を出し、口々に「鉛筆」 をくれ、「万年筆」をくれ、「靴下」をくれと呼びかけてきます。

子供たちは、みんなだぶだぶの大人の着古しの服を着ています。女たちは若い娘も、年老いた老婆も、誰も彼も風呂敷のようなネッカチーフを頭にかぶり、しわだらけのブラウス、裾のすり切れたスカートにブーツ姿です。着飾った者は一人もいません。警戒のソ連兵と子供のほか男の姿など全然見かけません。たまに見かける壮年男子は、片腕、片脚の戦傷兵だけでした。

日本兵の捕虜たちは、腕時計はそれまでにほとんどソ連兵に略奪されて持っていませんでしたが、 山ほど衣服を詰め込んだ背嚢を担ぎ、おろしてあまり経っていない服と靴で、人垣の間を通り抜けます。

第一の印象はソ連の貧しさでした。何でこんなにみすぼらしく貧乏なのだろう、それが驚きでした。ドイツとの戦いにすべてをつぎ込み彼らが勝利したことなど、日本兵の知識にはありませんでした。子供たちは裸足でした。

ブラゴベシチエンスクを出発した貨車はやがてシベリア鉄道を北上しました。
二日ほどして草原のまっただ中で停車し翌朝、荷物をそのままにして下ろされました。馬鈴薯堀だというのです。

少し歩いたところに農場がありました。見渡す限り馬鈴薯畑です。ロシャ娘と二人で組にされました。畝を二つが責任分担です。まず片側の畝を私がスコップでひっくり返し馬鈴薯を掘り出します。ロシャ娘が芋を拾い集め所々にもうけた集積場所に運びます。その畝を向こう端まで終えたら昼ご飯、折り返して帰ってきたら作業終わりだというのです。

その広大さに恐れ入りました。黒土でよく肥えています。大きな芋が転がり出てきます。黙々と土を掘り返し芋を掘り出していると、手押し車で芋を運ぶ合間に、時々ロシア娘がやってきて汗を拭ってくれました。

身振り手振り、日本語とロシア語で話し合うようになりました。芋植えは雪が融けた五月頃、芋掘りはぎりぎり大きくして寒くなる直前のこの時期です。芋掘りの時期には、街の事務所は一斉に休んで農場の応援です。この娘さんも街からやってきたとのことでした。

「これからどうなるのだろう」と不安で緊張していた気持ちも、この娘さんのおかげで、ほぐれ和みました。「サーシャ」とか云ったあの娘さんは、今どうしているでしょうか。生きているなら会ってみたいものです。

片畦、掘り返しました。広場があって大きな釜があります。昼は「カーシャ」です。馬鈴薯を蒸かしてつぶし、牛乳をたっぷり、鮭を丸ごと放り込み、かきまぜて油で炒めたものです。あの味は今でも忘れません。

その後もそうでしたが、農場での昼休みはたっぷりあります。約二時間。
農場のじいさんたち、ばあさんたち、おばさんたち、そして娘さんたちがコーラスを始めました。見渡す限りの青々とした草原の中、四部合唱が響き渡りました。

日本政府と大本営、そして関東軍に見捨てられ、ソ連の冷徹な仕打ちに生命を切り刻まれた捕虜生活の数年間のなかで、ロシア娘たちとの暖かく優しいひとときは「珠玉」のような思い出です。

時々、サーシャが牛乳を持ってきてくれました。休憩です。身振り手振りの話を続けます。日本の風景のこと。暮らしのこと。残りの畦も掘り返し出発地点に戻り作業完了でした。

翌日も芋掘りの作業、「お父さんいるか」、「お母さんいるか」、「会いたいだろう」、別れに「ベスビダニヤ」さようならと手を握ってくれました。サーシャは目に涙を浮かべていました。

再び走り出した貨車は、シベリア鉄道沿線シワキ駅に着きました。アムール州シワキ、シベリア鉄道ハバロフスクとイルクーツクの中間点あたり、中国東北部(旧満州)がシベリアに突き出した頂点から少し右の肩当たり、国境のアムールから約四〇キロ、緯度でいうとサハリンの北端にあたります。

シベリア鉄道沿線の駅といってもプラットホームがあるわけではありません。貨物の引き込み線が何本もあって、給水塔がそびえています。後で知ったのですが、給水塔はシベリア鉄道で大切な役割があります。何十キロも駅と駅とが離れています。石炭輸送など、機関車の煙突からの火の粉が石炭に降りかかります。石炭が燃えたまま何十キロも列車は走るのです。駅について、給水塔の下に貨車を入れ消火となるのです。

9月28日でした。雪が降っていました。貨車を降り雪の道を10分ほど歩きました。駅の正面に製材工場があり、道はおがくずが舗装道路のように敷き詰められていました。

収容所は鉄線で囲まれ3メートルほど内側に板囲いがしてあります。鉄条網の四隅は望楼です。ソ連兵がマンドリン型機関銃を抱えて監視していました。正面の門をくぐると収容所の建物が並んでいました。ドイツ兵とルーマニア兵の捕虜が収容されていた跡だとのことでした。

部屋の中は、一段二ベットの二段ベットが並んで、真ん中に大きなペチカがありました。ここで寝起きしていよいよ重労働の始まりでしょう。

小学生からの手紙(葛飾区細田小学校)09年12月21日

S小学校6年生から、新しく手紙が来ました。
平和への願いを込めた戦場体験の真実が、子どもたちの心に響き、こだますることを、改めて教えられました。

○ 改めて平和な時代に生きている事のありがたさ、幸せに気が付くことができました。過去にそんなに大変な思いをしていた人達がいるのだと思うと胸がしめつけられるような思いをしました。私はこの時代の日本を許す事はできません。しかし、今後このようなむだな争いをおきないためにも私達がしっかりして平和の世の中を築き上げなければならないと思います。

○とても心にしみるお話しでした。とてもつらい中、必死で生きている様子が頭の中にうかんできて、とても感動しました。私の、ひいおじいちゃんに話を聞くことがありましたが、そのようにくわしくは話してくれませんでした。とても、貴重なお話しをありがとうございました。

○シベリアに連れて行かれてしまった時や戦友が亡くなった時、などの事も思い出すと、とてもつらいかもしれません。なのに長々と話を聞かせてもらいました。初めて聞いた事やら、ちょっと聞いたことがあることなど色々で、とても心が痛くなることや目がしらが熱くなりました。どうぞお元気で長生きしてください。

○お話しして下さったことはとても大変で苦労してたんだとわかりました。食料がなく、寒いのに無理やり働かされたり、私だったらすぐに死んだと思います。けれど猪熊さんはお父さんに親孝行するために、生きたのですごいと思いました。私は、猪熊さんが生きて日本に帰ったことがお父さんへの親孝行になったと思います。

○戦争でつらい体験をして、話したくないのに話して下さってありがとうございました。みんなが久しぶりに真剣に聞いていたので、戦争はイヤだということを聞きたかったんだと思います。先生からもシベリア抑留者の苦い体験は聞いていましたが、ここまでひどいとは思っていませんでした。原爆や抑留者のことは決してやってはいけないことだと思います。戦争をやってはいけないということを改めて知る事ができました。

○とてもつらかったと思いました、シベリア抑留の話を聞いたときすごく悲しいことだと思いました。足の親指がくさってそれをかわを切ってくさらせないようにする話はすごくとりはだがたちました。すごくつらかったと思います。つらい思いをして思い出したくないのに話してくれて本当にありがとうございました。

○話を聞いて改めて戦争はしてはいけない事だと感じました。ぼくは猪熊さんのつらい体験を聞いて本当につらかったんだなと思いました。こんなことが本当にあったなんて信じられないけれど、ぼくたちはこの事実に向き合っていかなくてはならないと思いました。今日の話を聞いて、これからも戦争はぜったいに起こしてはいけないと思いました。

○私は、小さいころから戦争のビデオを見ていました。今日のお話を聞いてビデオをはるかにこえたつらい体験が伝わってきました。私たちはこれからの夢など当たり前だと思っていましたが、戦争時代はちがうと聞き、すごくびっくりしました。これからの未来は私たちにあります。戦争は絶対にしたくない、しないと心からちかいたいです。

○思い出すと苦しいのに戦争の話をしてくださってありがとうございました。授業で教えてもらったシベリア抑留より、猪熊さんが体験したのを聞いた方が、おそろしさや苦しさが伝わりました。この話を聞いたら、私はこの時代に生まれて来て良かった、幸せ者なんだなと思いました。あと、親の大切さも改めて知りました。

○四年生ぐらいの時から国語の授業で戦争のことを勉強するたびに,戦争のことにかんして共感しました。戦争を体験している人に話を初めて聞いて,シベリア抑留のことは、あまり知らなくて、初めて今日聞き、とってもつらい思いをされたんだなと思いました。そして戦争は、未来にあってはならないような世界を作ってそのことを私たちより後の世代に伝えなければならないと思いました。

○話を聞いて思った事は、戦争はつらくて苦しい、命なんて、一瞬にしてなくなってしまうものなんだということです。猪熊さんの話に出てきた収容所でのことを聞いてすごくつらくなりました。今では考えられないくらいの苦しみがたくさんあってぼくは「僕が猪熊さんと同じ体験をしていたらたえられなくて死んでしまう」と思いました。今日はつらい体験を話してくれてありがとうございました。

○私にはひいおばあちゃんがいるけれど、戦争の話は、してくれません。きっと話したくないんだと思います。でも、猪熊さんは話して下さいました。とても、勇気があると思います。本当に話をして下さってありがとうございます。猪熊さんが話して下さった中で、ばらばらになった死体を数えたと話して下さったとき、私は考えただけで「身ぶるい」してしまいました。私は、戦争は、とても怖いものだと、あらためて思いました。

○シベリアでとても寒い中、命令されて無理してでも働いたり、パン約一きれ半と塩だけのスープでのたれ死んでしまう人が特にかわいそうでした。もう二度とそんなことがないように戦争のない平和な世界にしていきたいと思いました。

○話を聞いたときとても、悲しくなりました。さっきまでいた戦友が死んでしまったりしていて、とてもひさんなこうけいだったと思いました。もし戦争がなかったらこんな悲しい事はおきなかったと思いました。

○お話を聞いてなみだがでそうになりました。
私のおばあちゃんは太平洋戦争を体験していてたまにそのことを話してくれます。なので少し戦争のことは知っていました。しかし、猪熊さんのお話しは私のおばあちゃんが言えないような悲しいことがたくさんあって本当の事だとは思えないくらいびっくりしました。だからもう絶対に戦争を起こさないようにたくさんの人にこのことを伝えたいと思いました。

○ぼくは、猪熊さんの戦争の話を聞いて、もう、二度と戦争をこの世で、起こしたくないです。猪熊さんはシベリア抑留で体験したことは、今のぼくたちには、考えられない事がいっぱいです。ぼくはテレビやマンガなどでしか、戦争の事は知りませんでした。ぼくは心の中で、本当は、もっとこわいのだろうなと思っています。

○話を聞いて戦争は今のわたしたちにとって想像のつかないぐらい苦しくて大変だったんだなと思いました。今日は今まで聞いた事のない話をいっぱいしてくださってありがとうございました。わたしは猪熊さんの話を聞いてもっと生きたいと思っていた人の命を戦争という恐ろしいものがこわしてしまったんだなと思いました。その人たちのためにも、もっと世界を平和にして一日でも長く生きたいと思いました。

○私は、けっこうマンガや映画で、戦争モノを見ているので、知っている方だと思っていましたが、猪熊さんのお話しには、私の知らない事がたくさんありました。
とくにシベリア抑留は、その名前も初めて聞きました。本当に本当に辛い、苦しい事がたくさんあったんだなと思いました。私が家族や友達の死を目の当たりにしたなら、狂ってしまうと思います。痛いことを、希望をもってたえるなんて私にはとても無理です。思い出したくもないような思い出なのに、私たちのために話してくれてありがとうございました。

○戦争のことは社会の教科書などで見てだいたいはわかっていましたが、猪熊さんの話を聞いて、戦争は悲惨で悲しい事なんだなあと思いました。私がその時代の兵士だったら食べ物が少なすぎたり,シベリアの寒さにたえられなくて死んでしまうと思います。何も悪いことをしてないのに無差別に死んでいった人々の思いを伝えるために私は長く平和な世界を生きていこうと思います。

○猪熊さんの話はどれも心に痛く感じました。ぼくには89歳のおばあちゃんがいますが戦争の話になると口を閉じてしまいます。だから戦争を体験をした本人からは初めて今日聞き戦争のこわさを知ったからぼくはこの人生をシベリアで眠っている人たちのために生きていきたいです。

○ぼくは、本物の戦争を見たことがなかったのでどういうことをしたのかは分からなかったけど猪熊さんが話して下さったのでとてもよく分かりました。ぼくは猪熊さんが話して下さった昔の教科書にのっている進め進め兵隊さんという教科書にのっている話を聞いて昔の兵隊さんは行きたくなくても行かなくちゃならなかったのでとてもかわいそうに思いました。

○私は、初めて授業以外で、戦争の話を聞きました。シベリア抑留の話や戦友の死の話、とてもおどろきました。戦争はとても残酷で悲惨なことと思いました。戦争はいけないこととあらためて思いました。私は親孝行なんてしていないので手伝いでもしようかと思いました。

○いままででこんな残酷な話を聞いたのは。初めてでした。ですが貴重な話を聞けてよかったです。あと、シベリアに行ってすごく寒いなか働かされていたと聞いて、自分ではぜったいに出来ないと思いました。最後に私は平和な世の中に住んでいてよかったと思い戦争はしてはいけないと改めて思いました。

○話を聞いて思ったことが二つあります。
一つ目は戦争のひさんさです。ぼくのひいおじいちゃんからすこし戦争の話を聞きました。そのときひいおじいちゃんはすごく悲しそうな顔をしながら話をしていたのが猪熊さんと同じだと思いました。

二つ目は戦争をしてはいけないということです。ぼくはいつもゲームなどで人を殺しています。だけど猪熊さんの話を聞いて思いました。戦争はゲームとはちがって一度死んだらそれで終わりだということを知って、戦争とゲームはまったくちがうと思いました。

兵士たちはどのようにして精強な大日本帝国軍人に仕立てられるのか

「内務班」

 軍隊は入って見ると、入る前に想像していたのとは全く違うところでした。志願兵、徴兵の区別なく、最初は指導教官や古参兵からリンチを受けて大変な苦労をさせられます。とても我慢がならなかったのは、軍人精神を叩き込むための内務班の生活でした。

 内務班というのは、兵営の中で兵士が寝起きする最小の単位です。営庭に面した側が「舎前」、洗濯場、厠(便所)のある裏側に面した側が「舎後」で二〇人ほどが寝起きします。まん中の廊下の両側には、銃架があって、各人の銃が立てかけてあります。廊下を挟んで板敷きの大部屋があり、まん中に長机、長椅子が置かれ、両側にわら布団のベットが並んでいます。ここが寝室であり、食堂であり、兵器手入れの場であり、休養室であります。

 「軍隊内務令」には「兵営は軍人の本義に基づき、死生苦楽を共にする軍人の家庭にして兵営生活の要は起居の間、軍人精神を涵養し軍紀に慣熟せしめ強固なる団結を完成するにある」とあります。

 先ず娑婆気を抜く、地方気分をたたき出すことから始まります。閉鎖社会の軍隊では兵営の外の世界(娑婆・しゃば)のことを「地方」と呼んでいました。軍隊が中心にあって、その周りはみな「地方」と言うことでしょうか。軍人・軍属以外は地方人で、例え総理大臣でも地方人となるのです。

 入隊すると「地方服」を脱いで「軍服」に着替えます。初年兵は軍隊特有の言葉を先ず最初に叩き込まれます。身につけているものの呼び方も独特です。シャツは襦袢(じゅばん)、ズボン下は袴下(こした)。ズボンは袴(こ)、軍服は軍衣袴(ぐんいこ)、ポケットは物入れ、スリッパは上靴(じょうか)、軍靴は編上靴(へんじょうか)。ゲートルが巻脚絆、靴下が軍足(ぐんそく)。布団カバーが包布(ほうふ)ということです。西洋風の言葉は一切追放です。

 日本の軍隊では「員数」が大変重要なことでした。員は兵員の、数は兵器や被服・弾薬・食糧の数量を表します。戦争や軍隊は、兵力と武器、装備の戦いです。数量がものをいいます。ですから数量管理が徹底しています。 朝晩二回の点呼や、内務検査、兵器検査などで員数が合うかどうかテックします。

 員数が合うかどうかは大変重大な要件です。「畏くも天皇陛下からお預かりした」武器であり、被服です。ですから足りないときはあらゆる手段で「員数合わせ」をします。襦袢や袴下が足りなければ、他中隊の物干し場に行って着て来ます。営内靴がなければ風呂場に行って履いてきます。敷布が足りなければ一つの物を裂いて二つにします。これが軍隊と言うところなのです。「員数を合わせる」「員数をつける」と言うことで、海軍では、「銀蠅」(ぎんばい)と呼ぶそうです。

 「僕」「君」などの地方語を使えばそれこそ鉄拳制裁の対象です。「地方の言葉を使うな」、「地方気分を出すな、弛んでいる」。一般社会の常識はここでは通用しません。俗社会から隔絶された特異な「軍隊」の鋳型にはめ込まれ、問答無用で、どんな命令でも従順に行動する兵隊に仕上げられるのです。

 日本軍隊が、「地方気分」や「地方語」を忌み嫌ったのは、「地方」「娑婆」での職業や地位や身分の違いから出てくる優越感や劣等感が軍隊教育の妨げになるからでしょう。軍隊で中級や下級の「上官」となる職業軍人は、主として士官学校出の将校や、兵隊からたたき上げの下士官です。彼らは一般的な社会生活を知らず、その知識水準や知識の範囲も極めて限られた狭いものです。

 しかし軍隊では、この「上官」たちが「偉い」人、「立派な」「模範的」「見習うべき」軍人という建前になっています。この「建前」「秩序」を守るためには兵隊は馬鹿でなければなりません。兵隊が「上官」を尊敬しなければなりません。例え「内心」でも、「上官」を見下したり、軽蔑したりするようなことがあってはならないのです。だから「兵隊」という軍隊での最下層の人間から「地方」に関係のある一切のものをことごとく叩き出し、空っぽの頭で、無条件に「上官」の命に従い戦闘に参加する兵隊を作り上げるのです。
 
 六時起床です。起床ラッパが鳴って、三分~五分で毛布をたたみ、服装を整え、営庭に整列出来ないと竹刀で叩きのめされます。下士官が竹刀を持って出入り口に待ちかまえています。背中であろうが、頭であろうが容赦しません。演習から帰り内務班に帰ると、整頓が悪いといって持ち物がひっくり返されています。これを「地震」と言います。ビンタならまだましです。持ち物をひっくり返した木銃で突き倒されます。

 銃の手入れが悪い、銃の菊の紋章に埃がついていたといって逆さに銃を持った捧げつつ一時間です。気分が悪くなって倒れるときは必死に銃を身体の内側に抱え背中から倒れます。返事が悪い、声が小さい、要領が悪い、たるんでいると二列に並び向かい合って殴り合う「切磋琢磨」、革のベルトで殴られる「帯革ビンタ」、机の端に逆立ちをする「急降下爆撃」等々、文字通り問答無用の私的制裁の毎日です。

 せめてもの抵抗は、「ツバキ汁」に「ふけ飯」です。「ツバキ汁」は味噌汁にツバを吐きかき混ぜます。「ふけ飯」は、ご飯に頭のふけをかきむしりかき混ぜます。当番がうやうやしくお膳を捧げて「上官」に差し出します。食後、食べ残しなく空になった食器が帰ってくるとみんなで万歳を叫びます。

 ある時、寝ている時にたたき起こされました。上靴が、寝台の下にきちんと揃えていなかったというのです。寝台の上に正座です。上靴を目の前に捧げて言わされました。「お上靴様、お上靴様。筑波下ろしの空っ風にボーッと致しました。
お上靴様、貴方様を粗末に致しまして真に申し訳ありません。今後このようなことを致しません。お大事に扱わせていただきます。お許し下さい」。その晩、上靴を胸に抱いて寝ることになりました。あの屈辱と口惜しさを忘れることはありません。

「しごき。いびり」
 内地(日本の敗戦以前は、植民地や占領地を『外地』、日本本土を『内地』とよびました)の場合は、外地の部隊より多少はましだったようですが、それにしても程度の差です。ただ、少年兵の教育隊の場合は、古兵がいません。みんな一緒に入隊した戦友です。お互いに励まし合い、支え合う戦友です。ど突かれ、殴られ、蹴っ飛ばされ、張り倒されるのも皆一緒です。それだけましだったでしょう。古兵による不合理ないびりやしごきがないのが幸いでした。

 翌年、関東軍に転属して、本格的な私的制裁の凄まじさ、内務班のいびつさを体験するのですが、「しごき」に名を借りた「いびり」を少しだけ紹介しておきましょう。

 「セミ」 柱にしがみつかせて「ミンミン」と鳴かせます。 鳴き声が小さい、「ミンミン蝉」は跳んでったぞ、今度は「ツクツクボーシ」だぞ等と囃し立てられます。

 「ジテンシャ」 寝台と寝台の間に身体を浮かせて自転車を漕ぐ真似をさせる。
「後ろから自動車だ、もっと漕げ、早く、早く」

 「ウグイスの谷ワタリ」  寝台の下を一つ一つくぐらせて、その度に「ホーホケキョ」と鳴かせる。「顔を上げて、ホーはもっと伸ばして」

 「ゲイシャ」 銃架の陰に立たせ、銃架を芸者屋の格子に見立てます。その前を人が通る度に手招きさせ「ちょいと兄さん寄ってらっしゃい」と声をかけさせます。

 「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は……」と日の丸を振って送られてきた「召集兵」の新兵たちが、こんなことをやらされていました。

「各班回し」 軍靴の底の鋲の間にほんの少し土がついていた場合、靴紐を結び、首にかけ、各班の自分より年次の上の者一人一人に報告して回らせる。「▲班○○二等兵であります。編上靴の手入れが悪く班長殿から注意を受けました。ここにご報告いたします」。一人に一回づつ殴られても、各班を回れば数十回以上になり、顔は真っ赤に腫れ上がります。これは誇張のない軍隊の実態です。

 「少々のことは我慢しても、軍隊は飯が食えるからいいや」、などの論が成り立つのでしょうか。「明るい話」など、あるわけがありません。耐えられないで自殺する兵隊は、厠で、銃剣を立てかけ、しゃがんで喉に突き刺します。
 「早くドンパチ始まらないか。あいつら後ろからぶち殺してやる」、そう思っていた兵士たちも、少なくありませんでした。

「関東軍・元兵士の回想」
「不戦」89年3月号 「大喪の日、元兵士が語る〝痛恨の日々〟 武田逸英」より
『(前略) …… 初年兵は忙しい。夜、藁蒲団に毛布を封筒型に巻いた中に入って眠るとき以外は寸暇もない。その睡眠さえもしばしば破られ、叩き起こされる。
被服の整頓が悪いとか、編上靴の置き方がどうとか、難癖をつけてである。起床、点呼、掃除、作業、朝食、野外訓練、野外昼食、野外訓練、入浴、晩食、学科、点呼、消灯、その間にこまごました雑用があるので、うっかりしていると歯も磨けず、襦袢や 褌を洗濯する暇もない。

 入浴も整列して浴場へ行く。出入り口に古兵が張り番をしていて官姓名を名乗って出入りしなければいけない。浴場の中は満員で、古年兵がふざけて暴れている。その背中も流してやらなければならず、浴槽に容易には入れない。脱衣場に上がってくると、自分の物が無くなっているのもしばしば、そこで窮余の一策でタオルを濡らし、顔を拭い、入浴を澄ませた振りして出てくることもある。

 初年兵は一挙手一投足に至るまで、仲間で連携している古年兵に監視されているから寸秒の油断もできない。あら探しのネタが無くても言いがかりをつけてビンタを張る。晩食後は各班軒なみビンタの大合奏が始まる。

(中略)ビンタは手だけでなく,帯革や上靴でもやり、顔が腫れて変形する。悪口雑言、罵りざんぼうの限りを尽くす。陰険極まりない。そして、すべてこれは「軍隊の申し送りじや」と言う。つまり、自分たちが初年兵のときに受けた理不尽な精神的、肉体的苦しみを、そのまま初年兵に申し送るのだそうである。

(中略)初年兵いびりや、しごきは、古年兵にとっては倒錯した日常的悦楽に転化しているわけである。その言動のくだらなさ、程度の低さは、どうしようもないほどである。はて、日本人って、こんな愚劣な人種だったのかと、思わず訝るほどである。元は純粋なところもあったと思われる者たちを、こんな蝮(まむし)のような人間に仕上げるのは、まぎれもなく現人神(アラヒトガミ)たる大元帥陛下を頭とする大日本帝国陸軍である。

 こうしたリンチは、正式には許されていないが、将校も下士官も黙認している規格にあった強い兵隊をを作るには、やむをえない教育の一方法だと思っている。それに、いざ戦闘となった場合、自分が指揮して頼りになるのはこの古年兵だから、普段あまり咎めだてしてはまずいという事情もある。下士官は古年兵から上がった者だから、当然古年兵に遠慮がある。かくして軍隊、とくに内務班(兵舎内生活)でリンチは日常茶飯事として絶えない。まぎれもなく、一種の狂気集団である。(中略)

 徴兵制は当初フランスに範をとったものだが、フランスはブルジョワ革命を遂げて解放され、新しく土地を獲得した農民を基盤として、兵士には革命の成果を守り王政諸国の干渉軍と勇敢に戦う強い意志があり、国家「マルセイエーズ」に表れる愛国心の高揚が見られた。

 ところが日本では、明治維新も農民を十分に解放せず、農民の期待を裏切って、その後も民衆に犠牲を強いるばかりで、国家は専ら抑圧を旨としてきたので、民衆の家族の生活や生命を守ることを戦争目的にできず、したがって兵士の戦意高揚を図ることができなかった。そこで強制と脅迫によって天皇への忠誠心を植えつける方法に頼り、戦闘意欲を掻き立てる仕儀となった。つまり、軍隊は天皇のための軍隊であり、国民のための軍隊ではなかった。(後略)……… 』

「戦争・戦場体験」
辞書によれば、用語について次のように定義されています。

 『戦争』武力を用いて争うこと。特に国家が自己の意志を貫徹するため他国家との間に行う武力闘争。
 『軍隊』一定の規律の下に組織・編成された軍人の集団。
 『戦場』戦闘の行われている場所。(以上大辞林)
 『戦地』戦争の行われている土地。また、軍隊の出征している土地(広辞苑)

 すなわち、戦争とは、国家が他国家との間に行う武力闘争であり、どのような大義名分をつけようとも、まさに国と国との殺し合いに他なりません。戦場体験とは、人と人とが殺し合う戦争に、軍事組織の一員として動員された兵士・軍属などの、戦地における体験であります。

 戦争に勝利するためには強力な軍事組織を持つことが絶対条件です。そして強力な軍事組織は命令に絶対服従し、生命を厭わず敵に向かって立ち向かい、任務を遂行する兵士を必要とします。

 「軍人勅諭」
日本の軍隊は兵士たちを、厳しい規律と教育によって、絶対服従が習性になるまで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしました。
一八八二年(明治一五)天皇から陸海軍軍人に与えられた「軍人勅諭」というものがあります。天皇制政府は、「軍人勅諭」によって、軍人に天皇への忠誠心を叩き込み、天皇の命令に対する絶対服従を強要するため、暗記するまで覚え込ませました。

『軍人勅諭』で最も強調されたのは、天皇への忠誠であり、軍隊は天皇の軍隊であるということでした。
「我国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある」「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と軍隊の最高指揮者であることを自ら宣言した天皇が、一番に訓示しているのが、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」ということです。

『軍人勅諭』のもう一つの重大な内容は、天皇への忠誠と表裏一体の関係として、天皇への絶対服従と、天皇のために死ぬことを名誉とすることを兵士に叩き込んだことです。

「上官の命を承ることは実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」という「軍人勅諭」の一節で不合理な命令も私的制裁も正当化されました。

 「上官の命は朕の命令だ」「軍人精神を叩き込む」「立派な軍人にしたてあげる」と、全く不合理な命令や私的制裁が公然と日常茶飯事に横行していたのでした。
こうして習性となるまで服従が強要され、それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習性をつけさせるまで行われました。

 こうした服従の強要は「只々一途に己が本分の忠節を守り義は山岳より重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という「軍人勅諭」によって、天皇のために死ぬことを美徳とし、兵士の命を鳥の羽よりも軽いと見る非人間的な思想に他なりません。

 「人殺しのための準備訓練」
軍隊では戦闘が目前になくても、日常普段に、人殺しのための準備訓練が行われていました。声が小さいと言っては殴られ、動作が鈍いと蹴飛ばされ、革のベルトの帯革ビンタ、戦友同士の向かいあった切磋琢磨などは日常茶飯事、戦闘訓練、銃剣術、射撃、突撃、そして刺殺訓練等々です。中国戦線では初年兵教育の総仕上げに、中国人を銃剣で突き刺す訓練が行われていたことは、多くの元兵士の語るところであります。

 日常生活そのものが精強な兵士となるためのものであり、戦場体験とは、戦闘に参加したかどうかを問うものではありません。戦闘は主として外地において行われました。外地とは日本本土以外の土地であります。それは、占領地、植民地、従属国などの日本が武力によって支配した土地であります。したがって、その土地での兵士たちの生活は、表面的にはともかく、日本に敵意を抱き、反抗、反撃の機会をうかがう現地住民に囲まれての日常でありました。

「総特攻化」
 一九四五年(昭和二〇)一月十八日、最高戦争指導会議は全軍特攻化を決定しました。外地ばかりでなく内地でも硫黄島、沖縄が戦場となりました。さらにアメリカ軍の爆撃の日常化、艦砲射撃、アメリカ軍の本土上陸作戦に備える肉弾訓練、特攻基地の拡充、強化等々本土全体が戦場となったのでした。

 「人間性を作り替える葛藤」
 兵士たちが優秀な兵士になることは、敵を殺すことに勇猛な兵士となることでありました。それを拒否するには、「脱走」か「自殺」以外に道はありませんでした。しかし、「脱走兵」の家族は、非国民の家族として「村八分」で、親類縁者みな、生活するのも困難な状況に追い込まれます。「自殺兵士」の遺骨は、見せしめのために、荒縄でぐるぐる巻きにして、遺族のもとに届けられます。

 戦地における兵士たちの日常は、武力闘争の歯車の一つとして、自分自身の人間性を作り替える事との葛藤の日々であったともいえます。いわゆる「 戦争体験」も極めて厳しく過酷なものでしたが、「戦場体験」の質的な違いはここにあるのです。

 「慰安所」
 人間性を問うものとしては、「慰安婦」「慰安所」の問題があるでしょう。日本には戦前「公娼」(おおやけに営業を認められた売春婦)制度が存在しました。

 各内務班の柱には、各慰安所ごとの慰安婦の源氏名と検診結果の書いたノートがぶら下げられていました。休日には慰安所に日本兵が列をなして並んでいました。将校には日本ピー(ピーとは慰安婦のこと)下士官には鮮ピー(朝鮮人慰安婦)、兵隊には満ピー(中国人慰安婦)が与えられていました。休日の外出には「突撃一番」(コンドーム)をもっていないと許可されません。

 私は、最初の外出で持っておらず、「帝国軍人がなぜそんなものを持たなければならないのですか」「そんな物を持つて、慰安所に行くのが、立派な日本帝国陸軍軍人なのでありますか。」と反論したため、「生意気云うな」「上官に口答えするのか」「女も買えない奴に敵を殺せるか」と殴り倒され、蹴飛ばされ、踏みにじられました。血まみれになった私は、その日は外出禁止となりました。この理不尽な出来事を、わたしは生涯忘れることはできません。

 日本軍にとって、「慰安所」は兵士たちの「活力剤」であり、多くの兵士たちも、当然のことと考えていたのでした。日本軍のいるところ、各占領地はもちろんのこと、日本本土にも、沖縄にも、名称、形態は兎に角、慰安所は存在し、公然と、圧倒的多数の日本軍兵士たちは、これを利用していたのでした。

 軍隊というところは、人間性があったら強い兵隊になれないのです。天皇のため、沢山殺せば殺すほど軍人の鏡として褒め称えられるのです。

2010年2月16日火曜日

少年兵兄弟の無念-16

 8月末です。ソ連軍が入って来て、武装解除されると云うことになりました。飛行場の真ん中に武器、弾薬、飛行機を並べ、隊伍を組んで飛行場を離れると言うことです。無線機はみんな壊しました。壊すとなると頑丈です。階段の上から転がり落としたり、二階から、下のコンクリートに叩きつけたり、口惜しさの思いを叩きつけたのでした。

将校は帯刀したままで良し、銃は自衛のため三分の一は携行して良いと言うことでした。飛行場を日本軍の部隊が出て行くのと入れ違いにソ連軍の部隊が入ってきました。日本兵は背嚢一杯、荷物を抱え、新品の軍服上下、編上靴です。ソ連兵はマンドリンのような機関銃を抱え、汚れきった軍服に泥だらけの長靴を履き、目をぎらぎらさせてやってきました。

東部戦線から侵攻したソ連の部隊は、シベリアで収容所にいた囚人が多かったのです。ソ連兵の中でもとりわけ程度が低く、凶暴で、たいてい入れ墨をし略奪した時計をいくつも腕に巻いていました。

すれ違うときは緊張しました。お互いにらみ合いながら中には身構えている者もいました。あれで撃ち合ったらいちころでした。お互いがすれ違い離れたとき、ホッとしました。のどはからから、脇の下は脂汗でびしょ濡れでした。

日本軍は山の上の高射砲部隊の空き兵舎に移り、そこでソ連軍の管理下に入りました。ソ連軍の管理下と云っても、行動範囲を指定されそこで自活生活に入ったと云うことでした。

ソ連軍の管理下に入っても食糧はありませんでした。どこかで調達しなければなりません。兵舎と糧秣倉庫との間には街道があって、ソ連兵がマンドリン型機関銃を持って警戒に当たっていました。

「特攻隊」を編成して糧秣倉庫から食糧を盗んでくることになり、各隊各グループから特攻要員を募ることになりました。
 早速私たち対空無線隊には、本部から「若くて生きの良い少年飛行兵と特幹の兵長がいるだろう。その二人を特攻班長で差し出せ」と指令が来たのです。

「何が特攻隊だ」、「死んだら二階級特進か」、「偉そうに命令出して威張ってる将校どもがやればいいじゃないか」、「小さい集団だからなめられているのか」、ケンケンがくがく議論になりました。結局分隊長軍曹に説得されました。「俺たちがやらなかったら食糧がないのだ、みんなのたれ死にだ。二人やってくれないか」というのです。結局、「やってやろうじゃないか」「少年飛行兵と特幹の意気を見せてやろう」と言うことになりました。

10人ずつの「特攻隊」三班で、私たち二人はそれぞれ一つ宛の班を任せられ特攻班長でした。夜中に、「山」と「川」の合い言葉でソ連兵の警戒線を突破して、倉庫から味噌樽や、醤油樽、米袋を盗って来ました。

ソ連兵に見つかれば射殺させられるのです。街道脇まで匍匐前進です。ソ連の歩哨が遠くに離れ、反対方向を向いている隙に街道を横切るのです。帰りは大変でした。樽や袋を担いでいるのです。よくやったと思います。

闇夜に、ぬかるみに足を取られながら、味噌樽や、醤油樽、米袋を担いで、とにかく必死でした。転んでひっくり返っても声を立てられません。泥まみれになって黙々と任務遂行でした。二日続けました。あれで見つかって射殺されたらどういうことになったのでしょうか。「特攻死」なのでしょうか。

 あの敗戦の混乱時によく生きてこられたと思います。今日どう生きてゆくか、明日はどうなるかの毎日です。それだけが頭一杯の毎日です。他のことは何も考えていません。此処でどうするかの判断は、自分でしかできません。その瞬間瞬間に判断し行動し生きてきました。十六歳の夏のことです。

 それでもこれから先どうなるかお先真っ暗です。我々の場合は戦争が終わって喜んだなどと云うことは全くありません。

9月11日、私たちを乗せた貨車は公主嶺を離れました。ソ連兵に「トウキョーダモイ」「ビストラ、ビストラ」(東京へ帰るんだ、早く、早く)とせき立てられ貨車に乗り込みました。

私たち10人の小グループの悲哀です。5人、3人、2人の三つに分かれ、それぞれ他の部隊の半端の隅に置かしてもらうことになったのでした。

私は、少年飛行兵兵長と2等兵3人、そして特幹兵長の私の5人の組で、航空修理廠の埼玉県出身の軍曹の分隊と合流したのでした。偶然ですが、幸いなことにその分隊の大半は航空整備兵で特幹二期の上等兵が大半でした。

私たち5人は、他の部隊に組み込まれ、若造となめられてはならないと、どさくさに紛れ、星一つ宛ふやしたのでした。新兵2等兵は1等兵です。そして2人の兵長は伍長です。兵長と伍長は単に星一つの差ではありません。兵と下士官です。その立場は全く違います。「闇」伍長になったのです。

 しかし内地に帰ってから調べたら、終戦による特別措置で、昭和20年8月以前に兵長であった特幹は、昭和20年8月20日付けで伍長または軍曹に任官していました。
 また、船舶の海上挺進隊(丸レ艇による特攻)配属者は、転属の時点ですでに軍曹に任官し、航空通信の場合も、特攻隊志願者は、志願の時点で伍長に任官していました。

本隊から孤立した分隊で、そんなことを知るよしもなく、「闇」ということで、多少良心の呵責もあったのですが、その頃はそんなことおくびにも出さず、「伍長」を演じる図太さを備えていました。

貨車は北に向かって出発しました。「北に向かってなにがダモイだ」と言うと、「いや、新京で東に向かうのだ、吉林、敦化を経て朝鮮の清津から船だ」と意見が分かれます。

新京では、やはり北上です。悲鳴が上がりました。「まだまだだ、諦めるな」、「捕虜ということだ、一旦ソ連領に入れてから日本に帰すのだ」、「ハルピンから牡丹江を目指す、綏芬河を通って国境を越え沿海州の港から船に乗るのだ」。「わらをもつかみたい」のです。

ハルピンでは引き込み線に入って半日以上も停車したままです。口数が少なくなってきました。右か左か、吉か凶か、それだけを思い詰めています。「ビストレ、ダワイ」、「ダワイ、ダワイ」、「トーキョーダモイ」「スコーラダモイ」「ビストレ、ダワイ」(早く、乗れ、乗れ、東京へ帰るぞ、早く帰れるのだ、早くしろ)

いよいよ出発のようです。みんな貨車に乗り込み扉が閉められました。全員固唾をのんで声も出ません。ポイントを揺れてどっちへ行くのでしょう。

真っ直ぐ北上です。「ダメだー」、泣き声のようです。「いやおかしいぞ」、「右牡丹江ではないぞ」「左満州里でソ連でもない」「いったいどこへ行くのだ」「黒竜江で行き止まりだ」「どこか途中でおろされて穴を掘れ、目隠し、ズドンか」、どうなるのだろう。いろんなことを考えました。

ソ連の警乗兵は貨車の天井を歩き、鳥を撃つのか威嚇をするのか、時々抱えたマンドリン型機関銃を乱射します。
半袖の夏姿では寒くなってきました。うるさく飛び回っていたハエは真っ黒なかたまりになって壁に張り付いたままになりました。
小窓の鉄格子の間から見える樹々は紅葉しています。日本兵を乗せた貨車は、確実に北へ向かっています。もう誰も喋りません。押し黙ったまま膝を抱えています。

9月14日、黒竜江(アムール)河畔の黒河の街に着きました。
土手には先着の日本兵が腰を下ろし、休息しています。
ここでアムールを渉りシベリアへ入る船待ちのようです。
兵隊たちの後ろには縄が張られソ連兵が警戒しています。中国人がたくさん立ち並んで何か叫んでいます。時折ソ連兵の目をかすめ中に飛び込んで日本兵の荷物をかっぱらいます。

私たちの集団も待機場所を指定され腰を下ろしました。
目の前をアムールが悠々と流れています。川幅は1000メートルを超えるでしょうか。川の向こうに青々としたソ連領の森が横たわっています。時々キラリキラリとひかるものがあります。監視哨でしょうか、銃口の光でしょうか。

夕暮れです。このままここで夜を明かすのでしょう。ソ連兵が上流で手榴弾を河に投げ魚を捕っている音が「ドーン、ドーン」と響きます。河原でたき火の粉が勢いよく舞っています。ソ連兵が歌い踊り出しました。今思えば「バルカンの星の下に」や「カリンか」だったようです。

黒々としたソ連領の森を眺めながら、走馬燈のようにいろいろ思い浮かべました。「ふるさと東京のこと」、「隅田川をポンポン蒸気船で上り浅草雷門の茶店で焼きそばを食べたこと」、「兄弟たちのこと」、少年兵志願を訴えたとき「それでは征け、生命だけは大切にな」そういってがっくり肩を落とした悲しそうな父の顔 。

 「どうしてこんなことになったのだろう」、「この戦争っていったい何だったのだろうか」、「これからどうなるのだろうか」、「生きて帰れるのだろうか」、「どんなことがあっても生きて帰ろう」、「生きてかえって親孝行するのだ」そんな想いにふけりました。

月が煌々と川面を照らしていました。

その翌々日、私は、船でアムールを渉り、ソ連に入りました。
1945年9月16日、私の十七歳の誕生日でした。

少年兵兄弟の無念-15

撃ち合い・殺人・脱走

 ソ連軍が入る前に混乱が始まりました。八路軍(中国共産党軍)のゲリラが決起し、満州国軍(日本の傀儡軍)が反乱を起こしました。

八路軍は華中で転戦した新四軍とともに、現在の中国人民解放軍の前身です。日中全面戦争が発展する中で、蒋介石国民党政府と中国共産党との抗日統一戦線が組まれ1937年8月、八路軍、新四軍は、それぞれ中国国民革命軍第八路軍、および中国革命軍新編第四軍と改組されました。

八路軍は延安を根拠地とし、中国民衆に根ざし、華北一帯での遊撃戦で日本軍を悩ませていました。中国東北部旧「満州国」でも、日本の官憲による苛烈な追求にもかかわらず、粘り強く活動を続けていたのでした。

満州国軍は、形式上満州国皇帝溥儀の直接支配下にありましたが、実質関東軍の支配下にある傀儡軍で、移動・演習の実施・装備の変更・昇格人事等関東軍司令部の批准が必要でした、。

1938年に満州国の国防法が制定され、一般的に云う「徴兵制」が施行されました。国内の20歳から23歳の男子を3年間軍務に尽かせました。毎年春に20万人を招集し、軍務不適応と見なされたものは土木工事などに3年間の勤労奉仕をさせました。

もともと傀儡国家の軍隊なのですから、関東軍の横暴な支配に不満を募らせていました。多くの満州国軍が、ソ連軍の侵攻とともに、日本人の将校、下士官を放逐し、反乱を起こしたのでした。

日本の植民地的支配で苦しめられていた中国人が日本人を襲撃するようになりました。襲撃、略奪、暴行、撃ち合い、殺人で街中に死体が転がっていました。

日本軍の兵舎の中ももう全く無秩序です。街に食糧や衣糧を略奪に出かけるもの。「あの野郎ひどい目にあわせやがって」と古兵や上官を追いかけ鉄砲を乱射するもの。撃ち合い。古参下士官の中には飛行場で自決するものも出て、遺体にガソリンをかけ燃やす炎が燃えさかっていました。

まともな兵隊たちも、どうしても食糧を確保しなければなりません。食糧や衣料は街の外の貨物廠に集積してあります。中国人も竹槍や青竜刀などの刀を持って群がっています。冷たく鋭い目で睨みつけてきます。憎悪の目というのでしょうか。恐ろしいです。

こちらも集団で武装して、銃剣に弾丸を込め、何時でも撃ち合い、突き合いに備え、構えながら横歩きで、じわりじわり倉庫に近ずきます。にらみ合いで一触即発です。一歩間違えば殺し合いです。はぐれれば引き込まれなぶり殺しです。
無事兵舎に帰ると、その場にへたり込み、しばらくぼんやりしています。

脱走が始まりました。何もかも統制がとれなくなっていました。敗戦で指揮命令系統もなくなっていました。

私たち十五人の分隊でも今後どうするかという議論になりました。このまま部隊について行くか。それとも自分たちだけで単独行動をとるのか。意見は二つに分かれました。多数は、大きな部隊についていった方が生きて帰れる可能性がある、それこそが天皇のためだという意見でした。

私は迷ったあげく、大きな部隊と一緒の側に付きました。分隊長軍曹、古参兵長、少年飛行兵兵長、特幹(加古川)兵長、特幹(水戸)兵長、一等兵2名(2年兵)、2等兵3名(初年兵)、10名です。 

残り5人は「それは捕虜になることだ。生きて虜囚の辱めを受けず。歩いてでも日本に帰り祖国再建に尽くすのだ」と反論しました。特幹兵長(水戸)、3年兵の上等兵2名、1等兵2名です。

 1941年(昭和16年)1月に東条英機陸軍大臣が軍の規律を引き締め戦意を高揚させるために「戦陣訓」を示しました。

(軍紀)  「命令一下毅然として死地に投ぜよ」
(生死感) 「生死を超越し……従容として悠久の大義に生きることを悦びとすべし」
(名を惜しむ)「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」

 満州事変前には20万の常備軍を持つのみであった日本陸軍は、1941年末には一挙に250万の大軍に拡大されていました。軍隊の急速動員と、戦争の長期化に伴い軍紀の退廃は急速に進行してゆきます。

「軍人勅諭」と「私的制裁」で服従を強制し軍紀を確立しようとしても、そしてまた、どんな大義名分をたてようとも、それが他国を侵略し、他民族を抑圧するものであれば、軍隊の戦闘力を高める上で兵士の自発的愛国心を期待することは出来なくなります。

 そこで、「悠久の大義」という美名をかざし、天皇のために死ぬことを強制する精神的な支柱として、「戦陣訓」がつくられ押しつけられたのでした。

 議論は平行線のままで結論が出ません。どっちも根拠がないわけです。大きい部隊について行けばどうして帰れる確率が高いのか。関東軍が帰すのか。ソ連軍の捕虜になってから帰れるのか。捕虜の処遇は。殺されないか。どうやって歩いてゆくのか。食料は。途中の安全は。

歩いてでも帰るという一団の中心は水戸から一緒の特幹同期生の戦友で17歳でした。三日間の激論で結論が出ない状況に 業を煮やし、彼らは、夜中、武器や食糧を持って兵舎を出て行きました。ごそごそと身支度するのを私たちは感じ取りました。

しかし、止めることは出来ません。どちらが生きて帰れるかは誰にもわかりません。声をかけ引き止めるわけにはいきません。残るもの誰もが気がつかないふりをしていました。

外に出ると彼らは、振り向いて敬礼をしました、私たちが気がついていることも知らず別れの挨拶をして行きました。彼らの後ろ姿をピスト(戦闘指揮所)の二階の窓から見送りました。

彼らが無事、日本に帰れることを祈りました。銃を担ぎ、食糧を入れた背嚢を背負い、とぼとぼと飛行場のはずれまで小さくなる影を、じっと無言で見つめていました。見送る誰の目にも涙が光っていました。それが彼らとの最後の別れでした。彼らはまだ日本に還っていません。

ソ連兵に殺されたのか。中国人に殺されたのか。それとものたれ死に、飢え死にか。彼らの最後を誰も見ていません。遺族はどんなに思っているのでしょうか。これを何死というのでしょうか。靖国神社に祀られているのでしょうか。

「生きて虜囚の辱めを受けず」、この言葉の強制で、どれほど多くの兵士が、無意味な死を選ばされたことでしょうか。どれほどの「玉砕」が、どれほどの「餓死」が、どれほどの「名誉の戦死」が作り出されたのでしょうか。

 そのうち収拾のつかなくなった部隊長が「自分の身は自分で処せ」なんて言う通達を出しました。無責任な話です。半分近くが脱走しました。その時脱走した連中は機関車の運転手にピストルを突きつけ、貨物列車を走らせたのですが、ソ連の飛行機から機銃掃射を受け停車させられ、そしてまた、武装した中国人に襲撃され、命からがら、大部分が部隊に戻ってきました。

部隊長はまた、慌てて、「一丸となって帰り、天皇の御為、祖国再建に尽くす」と命令を出しました。関東軍に「在留邦人」を守ろうなどという使命感などひとかけらもありませんでした。

脱走で「員数」が足りなくて、一緒に行けば早く帰れるぞと、軍籍にないものどころか、女の人たちを丸坊主にし、軍服を着せて部隊に組み込み、シベリアにまで連れて行ったという例さえあります。

日本の軍隊は国民の軍隊でなく天皇の軍隊であり、まさに。国体護持軍でした。大本営も、関東軍総司令部も、各級指揮官も、下級兵士の生命や、非戦闘員居留民の保護安全など夢にも考えていませんでした。国民を見放すことなど当然のことなのでした。

昭和天皇と大本営は、国体護持、自分たちの安全のための、松代大本営の地下工事を進めていました。皇太子、現在の天皇は、奥日光湯本の湯の湖畔の宿で、空襲も、空腹も知ることなく、1500人の兵士に守られての日々を過ごしていました。

少年兵兄弟の無念-14

政府・関東軍の動向

 トルーマン、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳は、7月17日からベルリン郊外のポツダムで会談をひらき、7月26日に米英中三国の名でポツダム宣言を発表し、日本に即時無条件降伏するよう要求しました。連合国が日本にもとめた降伏条件は、軍国主義の除去、領土の制限、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義復活強化、経済の非軍事、および以上の目的が達成されるまでの占領などでした。

 7月28日、軍部の圧力におされた鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺」し、戦争を継続するとの談話を発表しました。8月6日、アメリカは鈴木声明などを口実に広島へ原爆を投下し、ついで9日には長崎へも原爆を投下しました。8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、翌9日からソ連軍は、南樺太・満州・朝鮮へ進撃したのでした。

 この事態に、「国体護持」を唯一絶対の旗印とする日本政府は、天皇の国法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を10日朝行っていました。一方大本営は、「国体護持」のため「対ソ全面作戦」を発動し「朝鮮保衛」が関東軍の主任務とされる命令を、関東軍総司令部に下達しました。

 大本営の企図は対米主作戦の完遂を期すると共にソ連邦の非望破壊の為新たに全面的作戦を開始してソ軍を撃破し以て国体を護持皇土を保衛するに在り
関東軍総司令官は主作戦を対ソ作戦に指向し来攻する敵を随所に撃破して朝鮮を保衛すべし……

 こうして「満州国の放棄」、「皇土朝鮮防衛」の戦略のもと、11日には「総司令部を通化に移転する。各部隊はそれぞれの戦闘を継続し、最善を尽くすべし」の命令を発し、関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行われました。移転と云うより各部隊は戦闘せよ、総司令部は退却すると云うことでしょう。総司令部は新京を捨てて小型飛行機で通化へ飛んでいったのでした。
居留民の放棄

 また同じ11日に、関東軍総司令部は満州国政府を通して「政府および一般人の新京よりの離脱を許さず。ただし応召留守家族のみは避難を予想し家庭において待機すべし」の命令を発しつつ軍部とその家族、満鉄社員とその家族優先の南下輸送を始めました。第一列車が新京を出発したのは11日1時40分で、正午までに18本の列車が運行され、当時、新京に残留していた居留民14万人のうち3万8千人が新京を脱出しました。

 3万8千人の内訳です。
軍人関係家族  2万0310人
大使館関係家族    750人
満鉄関係家族  1万6700人
民間人家族      240人

 このとき、列車での軍人家族脱出組の指揮をとったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、また、この一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と従者たち一行は、さらに朝鮮の平壌から飛行機を使い8月18日には無事東京に帰り着いています。

 また、牡丹江に居留していた なかにし礼氏は、避難しようとする民間人が駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロ離れた地点から特別列車を編成して脱出したと証言しています。
これより先、満州北部を放棄し、南部に後退する関東軍の作戦が決定され、開戦の危機が高まった時、関東軍では開拓団など居留民の措置を検討しました。しかし、居留民を内地へ移動させるには、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動するにしても、結局米ソ両軍の上陸によって戦場となる、輸送に必要な食料もめどが立たない、実行不可能の結論になりました。
 それでも老若婦女子や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることが提議されましたが、総司令部第一課(作戦)は、居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連侵攻の誘い水になる恐れがあるとした、「対ソ静謐保持」を理由にこの提議は却下されています。

 開戦するや、急激なソ連軍の侵攻に、国境周辺の居留民の殆どは、逃げるいとまもなく、第一線部隊とともに最期を遂げる事態が続出しました。また、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っていた、家族、村落、地域では、ソ連軍兵士による暴行・略奪・虐殺が相次ぎ集団自決の悲惨な事例も各地で繰り広げられました。また、辛うじて第一戦から逃れることができた居留民も、飢餓、疫病、疲労で多くの人々が途上で生き別れ、脱落することになり、多くの子どもたちが死亡し、また、残留孤児となり、置き去りにされ、残留婦人となった人もいたのです。こうして、開拓団約27万人の三人に一人強、7万8千5百人が死んだのでした。
 しかも日本政府と大本営はポツダム宣言の受諾、「国体護持」の条件の明確化などの対応に紛れて、無条件降伏に伴う関東軍の収束、在満居留民の保護などの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのです。日本の軍隊は国体護持軍であり、まさに天皇の軍隊にほかならず、国民のための軍隊ではないことを如実に示していたのです。

 停戦など 命令を受けていない
 こうした事態の進行など露知らず、「関東軍は最後の一兵まで戦う」と「水杯」を酌み交わした第2航空軍第22対空無線隊第2分隊の私たちは、新京駅で貨物列車の出発を待っていたのでした。14日深夜、本隊から伝令が来ました。「第2分隊の梅花口配備は中止変更、公主嶺飛行場の第13錬成飛行隊と協力せよ。」ということでした。

 貨物列車は出発し、15日昼過ぎ、公主嶺駅に着きました。無線機材とトラックを卸しましたがどうも様子が変なのです。軍人の家族を乗せた列車が停まっています。ホームに降りた人たちが何か囁きあっています。悄然とした様子です。涙を流している人もいます。尋ねてみました。天皇のラジオ放送があったとのこと。戦争が終わったというのです。

 私たちはホームで車座になり相談をしました。「戦争、終わったって」、「負けたんだって、本当か」、「俺たちどうなるのだ」、「どうする」、「白頭山に行くのか」、「どうやって行く、ここは満州平野の真只中だぞ」、「白頭山まで400キロだ」、目が血走り真っ赤になって興奮する者、不安に駆られ青白く震え声で話す者、しばらく議論は沸騰しましたが、分隊長の軍曹が結論を下しました。「我々はまだ何も聞いていない。命令も受けていない。とにかく飛行場に行こう。戦隊長の話を聞こう。いいか、生きるも死ぬも、みんな、一緒だぞ、俺に着いてくるか」………。しばらくの沈黙の後、飛行場に行くことになりました。

 第13錬成飛行隊長は「命令など何もない。我が第13錬成飛行隊は、最後の一兵まで戦う、ソ連戦車隊への攻撃を続行する」とのことです。私たちは生きた心地を取り戻しました。早速ピスト(戦闘指揮所)に入り、送受信所を開設し、戦闘飛行戦隊との協力に入りました。大公安嶺山脈を突破し侵攻するソ連機甲師団の戦車群への攻撃に、4式戦と1式戦の戦闘機は次々に飛び立ってゆきました。
 私たちは、戦闘機との無線電話の応答とともに、関東軍および第2航空軍、そして中隊本部からの無線連絡に細心の注意で受信機にとりつきました。

 「敗けたとはどういうことなのだろう」と言う想いもよぎりますが、敗けたらどういうことが起こるかなど、経験のないことですし、なにもわかりません。「皇軍は不敗」だという「信念」だけ、叩き込まれていたのです。作戦行動に参加していると云うこと、その任務を立派に果たさなければと、一日を夢中で過ごしました。

停戦
 16日、ソ連戦車群攻撃の作戦行動が続いていました。夕刻、関東軍から新たな電報が入りました。「兵員名簿」、「兵器台帳」、「食料帳簿」を揃え他の書類はすべて焼却せよという電報です。それも乱数表を使う暗号電報ではなく、ナマ電報です。兵員がどれだけいて、武器がどれだけあって、食料がどれだけ残っているか、それだけ分かればよいと言うのです。暗号書を焼きながら、おかしいぞ、もしかすると、やっぱり敗戦かもしれない、という疑念がわいてきました。

 17日、関東軍の「停戦命令」を傍受しました。 高級将校がピストにやってきました。飛行服を着ているので、階級は分かりません。軍刀は立派な軍刀です。「停戦命令とは何だ。ザバイカル方面のソ連戦車を攻撃する」というのです。沈みきった兵隊たちは喜びました。みんな飛行場に集まり、飛び立つ戦闘機に手を振って見送りました。戦闘機は上空を旋回すると、やがて、東南の方に機首を向け、日本に向かって飛び去りました。「日本は負けたんだ」、「こんちくしょう」、口惜し涙があふれてきました。8月15日から2日遅れの敗戦です。

少年兵兄弟の無念-13

新京の暑い夏、8月

 1945年8月、新京(長春)の夏は暑く、日差しは強烈でした。心配をしていた東京の我が家からの便りが届きました。看護婦会を経営していた日本橋浜町の家は3月の空襲で消失、避難した薬局経営の市ヶ谷富久町の家は、またまた、6月の空襲で消失、父と姉は無事、リヤカー1台の荷物で、杉並の父の友人宅に落ち着いたとか。父は「得郎は満州で大丈夫だ」と言っているとのこと。赤い夕日の夕闇に、しばし、故郷の家族との日々を偲びました。

 新京東飛行場や新京西飛行場では、時々八路軍のゲリラが出てくるとの情報がありました。照明弾が打ち上げられ、慌てて探索にゆくが、何時も逃げられてしまう。両飛行場の対空無線分隊からの報告です。中隊本部でも警戒が強められました。衛兵勤務では、「誰か」、「誰か」、「誰か」、と、3回「誰何」(すいか)して応答がなければ「発砲」「射殺」すること、と命令されました。

 日本政府・ソ連軍の動向
 政府やソ連の動向を、兵士たちは知るよしもありませんでした。政府は、近衛特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼しようとしていました。7月13日にソ連に申し入れましたが、ソ連は特使受け入れを拒否するでもなく回答を引き延ばしていました。 その「和平交渉の要綱」の中に、「国体護持」を絶対条件として「賠償として一部の労力を提供することには同意す」(四の{イ})との一項があり、日本政府は役務賠償という政策を持っていました。

 7月5日に完成した関東軍作戦計画では、作戦準備の概成目標を九月末としていました。7月26日ポツダム宣言が発表されましたが、翌27日の宮崎周一参謀本部作戦部長の日誌によると「ソ連は八,九月対日開戦の公算大だが、決定的にはなお余裕あり」と記されていました。

 一方、2月11日ヤルタにおいて米英ソ三国の間に締結された協定により、ソ連はドイツ降伏2~3ヶ月後に対日参戦することを正式に約束していました。ソ連軍最高司令部は、1945年早春から満州侵攻の作戦計画を検討していました。ソ連軍部は、日本軍と戦ったノモンハン事件(昭和14年夏)での教訓を生かし、日本軍をこう観察していました。

 日本軍の下士官は狂信的に頑強であり勇敢であるとの認識に立っている。その上に、日本の兵士たちは服従心が極端に強く、命令完遂の観念は強烈この上ない。かれらは天皇のために戦場に斃れることを名誉と考えている。かつ、ソ連軍に対する敵愾心は非常に旺盛である。 戦術面でいえば攻撃を最高に重視しているが、不利な防御戦となっても頑強堅忍そのもの。夜襲の白兵攻撃を得意とし、小部隊の急襲に長じている。

 しかし、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとはせず、支那事変の戦訓を極度に自負し、いぜんとして〝皇軍不敗〟という根拠なき確信を抱いている。軍隊指揮能力は脆弱であり、創意ならびに自主性が欠如している。 戦車やロケット砲など高性能の近代兵器にたいし、将兵ともに恐怖心を強く持っている。それはみずからの兵器や装備がかなり遅れているためである。師団そのものの編成も人馬数が多いばかりで、火力装備に欠け、機動力は相当に劣っている。」 (ソ連が満州に侵攻した夏・半藤一利・文藝春秋社)

 5月7日ドイツが連合国に無条件降伏をしました。 ソ連軍最高総司令部は6月27日、対日戦略基本構想を決定しました。攻撃開始時期は8月20日~25日と予定されていました。 8月6日広島に原爆が投下されました。8月7日午後4時30分、ソ連軍最高総司令部は極東ソ連軍最高総司令官に対し、8月9日朝の攻撃開始を命令していました。国境線には、後方部隊を含めてソ連軍将兵157万7千225名、大砲および迫撃砲2万6千137門、戦車・装甲車・自走砲5千556台、戦闘機および爆撃機3千446機が勢揃いしていました。

  ソ連の侵攻
 8月9日早朝、ソ連機の空襲がありました。「いよいよ始まったか」、「手ぐすね引いた関東軍だ」、「待ち構えてロ助なんて、いちころだ」、威勢の良い言葉が飛び交っていました。
昼過ぎ、人事担当の曹長に呼び出されました。「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。特別幹部候補生猪熊兵長は明朝、公主嶺飛行場の第2分隊応援のため、無線機材とともに出発せよ」との命令です。10日早朝、無線機材を積んだトラックに同乗して公主嶺飛行場に駆けつけました。

 公主嶺は新京から南へ約60キロの美しい町です。与謝野鉄幹と晶子夫妻は昭和3年に満蒙旅行をしましたが、晶子が6月3日に公主嶺で詠んだ歌です。

 ○ 夏雲が楡の大木のなす列にいとよく倣ふ公主嶺かな
 ○ しずかなり水ここにして分るると云う高原の駅のひるすぎ
 ○ まろき楡円き柳の枝となる羊飼はるる牧場に立てば
 ○ 青白く楡銭乾けりおち葉より用なげなれどなまめしけれ

 当時、在満の航空兵力は約300機、うち戦闘可能なもの200機でした。飛行戦隊は次の10戦隊です。
独立第15飛行団・ 飛行第104戦隊、独立飛行体第25中隊
独立101教育飛行団・第5練習飛行隊、第23、24、26、42、教育飛行隊、第4、第13、第22錬成飛行隊。
公主嶺飛行場では、第22対空無線隊第2分隊が第13錬成飛行隊と協力をしていました。第13錬成飛行隊は、ザバイカル方面のソ連戦車攻撃に飛び立っていました。

 対空無線分隊は、小さな単位ですが、飛行戦隊に協力する独立した部隊です。第2分隊の構成は15名、分隊長は東京府立化工出身乙乾の軍曹、まとめ役は古参の兵長、そして少年飛行兵第15期兵長、特幹1期兵長3名、その他上等兵、1等兵、2等兵計9名です。

 分隊長と5名の兵長が送受信担当で、他の兵士が、設営、保守、営繕、炊事、運輸担当です。「さあ、やるぞ」と張り切っていたのですが、翌11日「情勢の変化に即応し全満州に展開する対空無線隊の再編成を行う。中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で、分隊は送信所、受信所とも撤収して、急遽新京に戻りまし

  日の丸鉢巻き 水杯
 新京の街は戦々恐々としていました。軍事施設の破壊が始まり、重要書類を焼却する黒煙が立ち上っていました。公園や広い道路には陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。性能の良い高射砲はみんな南方に持って行きました。残った高射砲はせいぜい3,4千メートルの高度にしか届きません。ソ連の飛行機を撃ち落とせません。日本の対戦車砲では、ソ連戦車の装甲板は撃ち抜けません。弾丸が跳ね飛ばされてしまいます。それで高射砲の水平射撃でソ連戦車を撃破しようというのです。

 満州国の首都新京で市街戦の準備です。
 7月の根こそぎ動員に残った年配の人たち、としよりの人たちが、「義勇軍」に動員されていました。開拓当時の必需品だった日本刀を背に負って、あちこちの街角で、家族の人々と別れを惜しんでいました。国境線を突破したソ連軍は、戦車を先頭に、猛烈な勢いで進撃をしているようです。
戻りついた中隊本部は騒然としていました。下士官も、古年兵もソ連機の空襲にそわそわおどおどしています。内地でさんざん空襲に遭い、機銃掃射で戦友を失った我々特幹が目立って落ち着いていました。

 夜、ソ連機の空襲で蝋燭の灯火の下、各地の飛行場から戻った対空無線分隊員の兵長以上が集められました。先任曹長から、新しい配備先が、それぞれの分隊に伝えられ、戦闘配備の訓辞がありました。

「ソ連の進撃は急である。対空無線隊は、それぞれの配備先に分かれ、中隊本部と連絡も途絶える状況下で戦闘に参加することになるだろう」、「分隊長は、部下の戦闘功績を必ず書き残すこと」、「分隊の指揮順位を明確にし、分隊に徹底すること」、「暗号書保管の担当者を定め、いかなる時も敵の手に渡るようなことがあってはならない、対空無線隊の軍旗と思え」、暗闇に蝋燭の灯がゆらめいています。しばしの沈黙の後、「おう」、「やるぞ」、「お互、さらばだな」、低い声のささやきがかわされました。

 日の丸鉢巻きで、水杯(みずさかずき)を酌み交わしました。水杯を捧げ、合い言葉を唱和しました。
「関東軍は最後の一兵まで戦うのだ。電鍵とダイヤルを血に染めよう。関東軍もし敗れたならば白頭山(朝満国境長白山脈の主峰、2744メートル)に集結しよう。(そこを拠点にゲリラ活動をしよう。)」

 16歳の私は、妙に冷静でした。「いよいよ最後かな」、「お父さんどうしているかな」、家族のこと、故郷のこと、これまでの思い出が走馬燈のように頭をよぎりました。私たち第2分隊は、朝満国境近く、通化後方の梅花口飛行場で、戦闘配備に着くことになりました。

 ソ連軍は東部牡丹江に迫り、西北部は大公安嶺山脈を突破し、また雄基、清津等の港から上陸し北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。14日夜、私たちは新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。

少年兵兄弟の無念-12

陽動無線・内務班のしごき・ソ連侵攻を前にして

 私は五月に入って敦化(とんか)飛行場に派遣されました。敦化は吉林省の西北部にあり、朝鮮国境にも近く、弾薬の集積地でもありました。近年、日本軍が遺棄した毒ガス兵器で事故が起こっています。立派な飛行場がありましたが、南方に移動して飛行機は一機もありませんでした、関東軍はどんどん南方に移動していました。
 
 1941年6月22日に独ソ戦が始まり、7月2日、天皇の臨席する大本営政府連絡会議が、御前会議として開かれました。この会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定され「南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方の問題を解決す」という方針が示されました。

 南方進出については、
 帝国はその自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各搬の施策を促進す。 之が為対米英戦準備を整え先づ「対仏印泰(タイ)施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す。帝国は本号目的達成の為め対米英戦を辞せず。とし、

 北方については、
 独「ソ」戦に対しては、三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す。此の間固より周密用意を以て外交交渉を行う。独「ソ」戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す。とさだめていました。

 北方についての「密かに対ソ武力的準備」の具体策は、陸軍の大動員でした。この時までの関東軍は、平時編成の12個師団、35万人の兵力を擁していました。この関東軍の兵力を戦時編制にし、16個師団で対ソ戦準備を整えようとしたのでした。この動員は、対ソ戦の企図をかくすため、秘密のうちにすすめられ「関特演」(関東軍特別大演習)とよばれ、人員50万人、馬15万頭が動員され、在満州・朝鮮兵力16個師団85万人の態勢が整備されました。

 その後日本は対ソ武力行使の企図は中止され、対米英戦の方向に進むことになりましたが、関東軍の戦備が最も充実した1942年夏前後の在満州・朝鮮兵力は、一般師団14、戦車師団2、戦車旅団1、騎兵旅団1、国境守備隊13、独立守備隊9、独立砲兵連隊19、独立砲兵大隊14。兵員約65万、戦車675両、装甲車155両、飛行機750機で強力な戦力でした。
(当時の極東ソ連軍は、師団29、戦車旅団20などを基幹とする兵員約145万、戦車2589両であった。)

 しかし、1945年ガダルカナル島に始まった南太平洋方面からの連合軍の反攻に対して、その9月以降、関東軍から航空部隊のほか、一部の地上部隊の抽出が始められました。それ以来1945年春まで、関東軍は兵力供給基地と化し、在来精鋭部隊の殆ど全部が抽出転用されたのでした。ですから私が敦化飛行場に着任した頃には満州全土に飛行機は300機も無かったでしょう。

 少し前、新京東飛行場で、少年飛行兵15期生の操縦士が赤とんぼと言われた複葉練習機やグライダーで訓練をしているのを見ました。「なんで、そんなもんで訓練しているのだ」「そんなもので勝てるのか」と聞くと、「飛行機がないのだ」「敵機が来襲すると情報が入れば、これで上空に待機するのだ。待ち構えて、1対1の体当たりだ」という返事が返ってきました。

 同じ兵長ですが、私たち特幹より軍歴は長く、そして私とあまり年の違わない彼の眼差しは真剣でした。「お互い、頑張りましょう」そう言って敬礼を交わして別れましたが、ソ連の侵攻がはじまった後、彼は、どうなったでしょうか。「果たして日本は勝てるのだろうか。」「これから日本はどうなるのだろう」それが、国難に志願した少年兵の実感でした。シベリアに抑留されたときに国境にいたという兵士の話を聞いたのですが、重砲を皆南方に持って行ってしまったので、樽にコールタールを塗り、遠目には野砲に見せかけていたということでした。

 敦化飛行場での対空無線分隊の任務は「陽動無線」です。
 「陽動無線」というのは、実際には飛行機がいないのに、本部や他の基地と頻繁に無線通信をして、いかにも飛行機がいるかのように見せかける通信任務です。15人の分隊員が交替で、24時間送受信です。受信は数台の無線機で、数種の周波数の電波をとらえます。気象条件の影響で、電波は、高低、強弱、震えるフエ-デイングという現象に、ソ連の妨害電波が入り混じります。電波のリズムに無意識の感を働かせつつ5字遅れ、7字遅れに鉛筆を走らせます。

 上官や古兵の不合理な命令やいびりもなく、分隊員が一つになって、家族か兄弟のように心を合わせて任務に取り組んだ、充実した瞬間をこの時期味わうことが出来たのでした。7月初め、任務終了を告げられ、撤収して、本隊に帰りました。新京の本隊は、なにか慌ただしく落ち着きがありませんでした。銃の遊底はみな取り外されました。遊底とは、銃に弾丸を込めるところのカバーです。埃や雨水などが入らないようにカバーしているのです。無くても射撃には差し支えありません。余分な鉄の回収だとのことです。新兵がたくさん増えています。数ヵ月後にソ連と交戦をするかもしれない。そんなとき、対空無線隊に新兵をたくさん入れて一体どうしようというのでしょうか。

 航空部隊ということで、銃は3人に1丁、中隊武器庫から員数外で保管していた銃で兵隊の数に合わせました。しかし、軍靴はなく地下足袋、水筒は竹筒といった有様です。関東軍は一体どうなっているのでしょうか。これで本気で戦うのだろうか。そんな疑念が胸いっぱいに広がってきました。

 こんな状況の背景です。
1945年初め頃の日本側の対ソ判断は、「ソ連は本春中立条約の破棄を通告する公算が相当大きいが、依然対日中立関係を維持するであろう……」(2月22日最高戦争指導会議決定の世界情勢判断)ということでありました。
1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次のような趣旨のものでした。

 「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯で行い、このための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、日本全般の戦争指導を有利にする。」

 4月25日大本営陸軍部策定の「世界情勢判断(案)でようやく、本年初秋以降厳に警戒を要す」と判断し、大本営は、5月30日、関東軍の態勢転換を認める形で「対ソ作戦準備」及び「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を発令しました。
関東軍は7月5日、ようやく作戦計画を策定したのです。ソ連軍が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦に持ち込むという戦術でありました。

 関東軍総司令部も新京(長春)を捨てて南満の通化に移る。そして、主力は戦いつつ後退し、全満の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保し、最後の抗戦を通化を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛する。この作戦準備完了の目途を九月末までとする、というものでした。

 そうして、7月10日には、青年義勇隊を含めた在満の適齢の男子(19歳から45歳)約40万のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員15万人ほどをのぞいた残り25万人の根こそぎ動員をかけたのです。これが後に在留日本人の悲劇を大きくしたのでした。街や開拓団には男は老人と子供だけとなりました。ソ連の侵攻になすすべもありません。男はシベリア、女性は残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。

 この根こそぎ動員によって、関東軍の対ソ戦時の兵力は次のようになりました。
 師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1、等を基幹とする兵員75万、火砲約1000門、戦車約200両、戦闘可能な飛行機200機でありました。
しかし、真の戦力となると、装備は極めて貧弱、訓練も半数はこれからという状況でした。特に根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が10万人はいたということで、野砲も400門不足していました。

 新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。ビール瓶はノモンハン事件での戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。ところが、8月2日、関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送した。「関東軍は盤石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生産に励むがよろしい……」
「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘らず、開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのでした。

 一方ソ連軍は、狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40、等を基幹とする兵員約174万、火砲約30000門、戦車5300両、飛行機5200機という圧倒的な戦力でした。

 中隊では、新兵の教育訓練が始まりました。指導教官は見習士官。補助員として、特幹が当てられました。古兵をあてたら初年兵が壊れてしまうという配慮からでしょうか。おかげで私たち特幹は、毎日初年兵と一緒に教練で、模範演技を見せなければなりませんでした。初年兵はとりわけ大変です。6年兵、7年兵がいます。ここまで古くなると「解脱」(げだつ)の境地でしょうか。若い兵隊たちをあまりいびりません。寝台の神様で将校も下士官も煙たく敬遠して腫れ物に触るような扱いです。実際に内務班を取り仕切る5年兵のお目付け役です。

 内務班をかき回しているのは、3年兵、4年兵です。戦闘もなく、家族にも会えず、たいした任務もなく、ただ兵舎で暮らしているだけの古兵たちの楽しみは、祝祭日の外出で「慰安婦」を買うこと、そして内務班で新兵たちをいびることなのでした。私が語るよりも適切な文章がありますので、それを紹介します。

「 不戦」89年3月号 「大喪の日、元兵士が語る〝痛恨の日々〟 武田逸英」より

 (前略)
 初年兵は忙しい。夜、藁蒲団に毛布を封筒型に巻いた中に入って眠るとき以外は寸暇もない。その睡眠さえもしばしば破られ、叩き起こされる。被服の整頓が悪いとか、編上靴の置き方がどうとか、難癖をつけてである。起床、点呼、掃除、作業、朝食、野外訓練、野外昼食、野外訓練、入浴、晩食、学科、点呼、消灯、その間にこまごました雑用があるので、うっかりしていると歯も磨けず、襦袢や

 褌を洗濯する暇もない。
 入浴も整列して浴場へ行く。出入り口に古兵が張り番をしていて官姓名を名乗って出入りしなければいけない。浴場の中は満員で、古年兵がふざけて暴れている。その背中も流してやらなければならず、浴槽に容易には入れない。脱衣場に上がってくると、自分の物が無くなっているのもしばしば、そこで窮余の一策でタオルを濡らし、顔を拭い、入浴を澄ませた振りして出てくることもある。

 初年兵は一挙手一投足に至るまで、仲間で連携している古年兵に監視されているから寸秒の油断もできない。あら探しのネタが無くても言いがかりをつけてビンタを張る。晩食後は各班軒なみビンタの大合奏が始まる。(中略) ビンタは手だけでなく,帯革や上靴でもやり、顔が腫れて変形する。悪口雑言、罵りざんぼうの限りを尽くす。陰険極まりない。そして、すべてこれは「軍隊の申し送りじや」と言う。つまり、自分たちが初年兵のときに受けた理不尽な精神的、肉体的苦しみを、そのまま初年兵に申し送るのだそうである。(中略)

 初年兵いびりや、しごきは、古年兵にとっては倒錯した日常的悦楽に転化しているわけである。その言動のくだらなさ、程度の低さは、どうしようもないほどである。はて、日本人って、こんな愚劣な人種だったのかと、思わず訝るほどである。元は純粋なところもあったと思われる者たちを、こんな蝮(まむし)のような人間に仕上げるのは、まぎれもなく現人神(アラヒトガミ)たる大元帥陛下を頭とする大日本帝国陸軍である。

 こうしたリンチは、正式には許されていないが、将校も下士官も黙認している。規格に合った強い兵隊を作るには、やむをえない教育の一方法だと思っている。それに、いざ戦闘となった場合、自分が指揮して頼りになるのはこの古年兵だから、普段あまり咎めだてしてはまずいという事情もある。下士官は古年兵から上がった者だから、当然古年兵に遠慮がある。かくして軍隊、とくに内務班(兵舎内生活)でリンチは日常茶飯事として絶えない。まぎれもなく、一種の狂気集団である。(中略)

 徴兵制は当初フランスに範をとったものだが、フランスはブルジョワ革命を遂げて解放され、新しく土地を獲得した農民を基盤として、兵士には革命の成果を守り王政諸国の干渉軍と勇敢に戦う強い意志があり、国家「マルセイエーズ」に表れる愛国心の高揚が見られた。

 ところが日本では、明治維新も農民を十分に解放せず、農民の期待を裏切って、その後も民衆に犠牲を強いるばかりで、国家は専ら抑圧を旨としてきたので、民衆の家族の生活や生命を守ることを戦争目的にできず、したがって兵士の戦意高揚を図ることができなかった。そこで強制と脅迫によって天皇への忠誠心を植えつける方法に頼り、戦闘意欲を掻き立てる仕儀となった。つまり、軍隊は天皇のための軍隊であり、国民のための軍隊ではなかった。(後略)………

 私たち特幹7名は、あらかじめ「寝台の神様」7年兵には話をつけておき、朝食後も、晩食後も、初年兵の訓練、演習に参加する以外は、班を抜け出し、一緒に集まることにしました。古年兵たちから身を守る「自衛」のためです。「早くドンパチ始まらないか。あいつら後ろからぶち殺してやる」本気でそんな風に思っていました。毎週日曜になると、外出どころか「脱走兵」探しです。我慢がならなく脱走するのです。内地からでなく、現地召集の兵隊は土地勘があります。中国語もある程度できます。中国人部落に逃げ込み、匿ってもらったら百パーセント発見不可能です。

 応召の四十近い初年兵が自殺をしました。内地からの兵隊です。理不尽で地獄のような内務班生活に耐えられなかったのでしょう。便所で、銃剣を立て懸け、屈みこんで喉を突き息絶えました。上官の責任が問われます。自殺したことは内密にして、事故死として遺骨は送り返されたようです。これも「名誉の戦死」なのでしょうか。遺族には何と報告したのでしょうか。

 次々に見聞きする異常事態に「これで勝てるのかな」という不安が募る一方、日本は正しいと信じていて、「天皇陛下の大御心(おおみこころ)を途中で捻じ曲げる奴がいるからこういう事態になるのだ」「天皇に申し訳ない」「いつか立派な軍人になってこういう奴らを正すのだ」と思うのでした。子どもの頃からの日の丸・君が代・天皇づけの教育とは恐ろしいものです。なにしろ「天皇」は「大元帥陛下」で、「神聖にして冒すべからず」の「かしこくも現人神(あらひとがみ)」であらせられるのです。
 でも天皇のために死ぬとは思っていませんでした。「天皇陛下万歳」なんていうのはインチキです。 恰好をつけるポーズだと思っていました。 死ぬとしたら、「祖国」のため、「愛する家族」のためだと思っていました。

2010年2月11日木曜日

いつか来た道

「紀元節」と教育勅語  

 今日は、『建国記念の日』ということのようだ。戦前の『紀元節』である。
 私には日の丸・君が代に鍛えられ、一五歳で少年兵を志願した戦中の少年時代の思い出が蘇ってくる。

 この日、登校前に日の丸の旗を立てるのが私の仕事だった。
 小学校の授業は休み、祝賀の式が行われる。
 全校教職員、児童が講堂に集められ、白手袋に燕尾服の校長が、恭しく巻物を掲げ、おもむろに拡げて読み上げる。

 「ちんおもうにわがこうそこうそうくにをはじむるところこうえんに(朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に)……御名御爾(ぎょめいぎょじ)」

校長は抑揚をつけて読み上げるが、子どもたちにはちんぷんかんぷんだ。
音を立てて鼻をかむことも出来ない。仕方なしに、服の袖でこすり上げる。服の袖はてかてかに光るようになる。

ありがたい校長の訓話が終わってやっと「難行苦行」から解放され、「落雁」(らくがん)のお菓子をもらっていそいそと家に帰る。

御名御璽で終わりだーとほっとするのと落雁の味が忘れられない思い出だ。

中学時代はもう「落雁」などは食べられない。「贅沢は敵だ」、「欲しがりません勝つまでは」の時代だ。

式が終わると三八式歩兵銃を担いで、雪が降ったときは、上半身裸、近くの神社に向かって駆け足行進。「武運長久。必勝祈願」だ。

戦前・戦中、四大節には各戸に日の丸の旗が掲げられた。四大節とは四方拝、紀元節、天長節、明治節である。

四方拝とは 一月一日の早朝に行われる皇室祭祀であり、神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方の神々を拝礼する。紀元節は、一八七二年(明治五)日本書紀の伝える神武天皇即位の日に基づいて制定された祝日で、二月一一日。一九四八年(昭和二三)廃止されたが、一九六一年(昭和四一)から「建国記念の日」として復活し、国民の祝日となった。天長節とは「天長地久」から天皇誕生日を祝った祝日であり、明治節とは明治天皇の誕生日に当たる一一月三日であった。

 一九四一年四月に小学校は国民学校となったが「国民学校令施行規則」には、四大節のセレモニーには、次のように定めらていた。(それ以前に行われていたものを集大成規制化したものであろう。)

 第四十七条 紀元節、天長節、明治節、及一月一日に於いては職員及児童学校に参集して左の式を行うべし

 一 職員及び児童「君が代」を合唱す

 二 職員及児童は
   天皇陛下 
   皇后陛下の 
   御影に対し奉り最敬礼を行う

 三 学校長は教育に関する勅語を奉読す

 四 学校長は教育に関する勅語に基づき誓旨のあるところを誨告(かいこく)
   す

五 職員及児童はその祝日に相当する唱歌を合唱す
(注 君が代・紀元節・天長節・明治節・一月一日・勅語奉答歌・昭憲皇
      太后御歌・明治天皇御製など)
    後略    

 一九四一年文部省が制定した「礼法要綱」を基にした「文部省制定 昭和の国民礼法」によればこれらのセレモニーは更に次のように規定されていた。

 一 祝祭日には、国旗を掲げ、宮城を遙拝し、祝賀、敬粛の誠を表す。

 二 紀元節・天長節・明治節及び一月一日における学校の儀式は次の順序・方式による。

天皇陛下・皇后陛下の御写真の覆いを撤する。
   この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表す。
次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に対し奉り最敬礼を行う。
   次に国歌をうたう
次に学校長教育に関する勅語を奉読する。
   参列者は奉読の始まると同時に上体を前に傾けて拝聴し、奉読の終わったとき、敬礼して徐に元の姿勢   に復する。
次に学校長訓話を行う。
   次に当日の儀式用唱歌をうたう。
次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に覆いをする。
   この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表する。
以下略
 
  【注意】
   一、天皇陛下のお写真を式場の正面の正中に、皇后陛下のお写真は、天皇陛下のお写真の左(拝して      右)に奉戴する。明治節の時には、明治天皇のお写真は天皇陛下の右(拝して左)に奉戴する。

   二、勅語読本は箱より出し、小蓋または台に載せて式場の上座に置くを例とする。

   三、勅語奉読に当たっては、奉読者は特に容儀・服装に注意し、予め手を清める。(フロックコート、     モーニングコート、及び和服の場合は手袋は着用しない。)謄本は丁寧慎重に取り扱い、奉読の前     後に押し頂く。

   四、勅語奉答の歌をうたう場合は、学校長訓話の前にする。

   五、勅語奉読・訓話等は、御写真を奉掲する場合は御前を避け、しからざ
     る場合は正面の中央で行う。

   六、七、略

 七〇代以降の方は彷彿として戦前の四大節セレモニーを思い起こされたでしょう。今日思えば馬鹿馬鹿しく仰々しい行事が、日本中で、「大まじめに」執り行われていたのである。
 今日の日の丸・君が代の強制を見ていると、新しい装いで、どこまでこのような方向に近づくことかを危惧せざるを得ない状況である。

 そしてまた、このセレモニーのメインはまさに「教育勅語」の奉読であった「勅語」とは「大辞林」によれば、「1天子の言葉。みことのり。2旧憲法下、天皇が直接に国民に下賜するという形で発した意思表示」とあるが、天皇については、旧憲法では次のように規定している。

 第一条  大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す
 第三条  天皇は陸海軍を統帥す
 第十一条 天皇は陸海軍を統率す 
 第十二条 天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む
 第十三条 天皇は戦いを宣し和を講じ及諸般の条約を締結す

まさに天皇は絶対的権力を持って国民の上に君臨し、日本の運命と国民の生殺与奪の権能を持った存在であり、教育に関する勅語「教育勅語」は、国民を、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼」する「忠良な臣民」に仕立てるための、大日本帝国の教育の国是であった。

 一八七九年(明治一二)の「教学大旨」には次のように書いてある。

 仁義忠孝の心は、人みな、これ有り。しかれども、その幼少のはじめに、その脳髄に感覚せしめて、培養するにあらざれば、他のもの事、すでに耳に入り先入主となるときは、のちいかんともなすべからず。

故に、当世小学校に絵図のもうけあるに準じ、古今の忠臣・義士・孝子・節婦の・画像・写真を掲げ、幼年生入校の始めに先ずこの画像を示し、その行事の概略を説諭し、忠孝の大義を脳髄に感覚せしめんことを要す。

しかるのちに、諸物の名状を知らしむれば、後来(将来)忠孝の性に養成し、博物の学(理科)において、本末を誤ること無かるべし。

この伝統的君が代・日の丸付けの教育の中で、私たち当時の少年は、日出る国の天子の下「八紘一宇」「大東亜共栄圏の確立」「国のため」、戦場に赴くことが祖国愛に充ち満ちた、男子本懐の道と信じる民草に育てられていったのである。

2010年2月7日日曜日

少年兵兄弟の無念-11

「関東軍と王道楽土」  

 特幹一期生の教育課程は、アメリカ軍の急速な反攻に一年六ヶ月から九ヶ月の半分に短縮されましたが、転属先も戦線の後退で当初の予定が大幅に変更になったようです。シンガポールに司令部のある第三航空軍関係には、輸送船が次々に撃沈されて行くことが出来ません。第四航空軍は、富永司令官がフイリッピンのマニラから台湾に逃げ帰り、昭和二〇年二月に消滅しました。航空部隊は、地上部隊に併合されました。

二月末から、私は、水戸・長岡教育隊で待機することになりました。沖縄と台湾への転属組が、それぞれ、隊伍を組んで出発しました。前線に喜び勇んで別れの手を振る戦友たちを、じりじりとする焦りと、うらやましい思いの入り交じった気持ちで、「がんばれよ!」と送り出しました。
台湾か沖縄か。アメリカの反攻は沖縄に向かいました。台湾組みの殆どは、戦後無事に帰国しました。あの時手を振って別れた沖縄組みの半数は、生きて還りませんでした。二十歳前の青春を沖縄戦で散らしたのでした。

三月一〇日、真っ暗闇の夜、壕の中で、西の空が赤々と照らされるのを眺めました。東京大空襲で、日本橋浜町の家が焼けたなど知るよしもありませんでした。

戦後、姉からその夜のことを聞きました。父は警防団の班長をやっていました。近所の人はみんな逃げ出したのに、父は、隣の家の消火に夢中でした。そのうち我が家が燃えだし、慌てて隅田川沿いに浜町公園に逃げ込みました。しかし、公園には高射砲隊が陣取っていました。明治座に入ろうとしましたが満員で人が一杯、入れません。仕方なく、新大橋のたもとで夜を明かしました。ところが明治座は猛火で炎上しました。中に入った沢山の人は焼け死に、父と姉は命拾いをしたそうです。

 本土防衛のために編成された第六航空軍に残りの大部分が転属となり、抜刀した中隊長を先頭に、意気揚々と隊伍を組んで出発をしました。京城に司令部があり中国方面を守備範囲とする第五航空軍組は、それぞれの任地に別れて出発しました。

 四月、やっと関東軍に転属になりました。兵長でした。中国東北部、当時は日本の傀儡国家満州国の首都「新京」、現在の長春に第二航空軍の司令部がありました。

途中東京を通るときは、あの東京大空襲の後ですから、車窓からの眺めは辺り一面の焼け野原、品川の海まで見えたのでびっくりしました。家は焼けたに違いない、父や姉はどうしただろうか。心配でたまりませんでしたが、どうすることも出来ませんでした。特幹入隊の前日、庭に、一生懸命防空壕を堀ったのを思い出しました。父が、「明日入隊だ。そんなことしなくていいよ」と云いながら、そばにきて汗をぬぐってくれました。

門司から連絡船が出ないので、博多から釜山には貨物船に乗ったのですが、船はどんどん沈没させられていた頃で、救命胴衣を付けさせられて、「無事着けるかわからないぞ」なんて言われながら釜山上陸しました。釜山から長春までは汽車で行きました。

長春の司令部で内地から転属した同期生四〇人ほど簡単な筆記試験があって、また選り分けられました。私たち七人は対空無線隊に行きました。ここで私はまた強運を引き当てたのです。「情報無線」に選ばれた者も沢山いました。二人宛無線機と食糧を携行して国境線に配置され、ソ連軍の動向を探り通報するのです。彼らはほとんど還っていません。八月九日にソ連が侵攻してきたとき、彼らは置き去りで、本部や司令部はとっくに逃げ去っていました。

私の配属されたのは第二二対空無線隊で、中隊本部が長春にあり、市の外れ、満福街にありました。隊からは満州各地の飛行場に対空無線分隊を派遣していました。

 隊の雰囲気は何か異様です。「特幹」とか、「少年飛行兵」とは違う「若い」のが、二十歳前で、兵長になってやってきた。古兵たちが、「落ち度」がないか、あいつらぶん殴ったってまだ下士官ではない。「上官暴行罪にはならない」と虎視眈々、私たちを狙っているのです。

 内地や台湾に転属した組みは違っていました。下級技術系幹部の不足、新しい機器で訓練を受けてきた若手と言うことで、早速、兵長のまま下士官待遇され、初年兵の教育を任された者もあったようでした。

隊では、何かあってはと言うことで、当初、特幹7人、最古参の准尉が指導担当で、別個の特別教育の毎日でした。先に述べたように、私は初外出のとき、「『突撃一番(避妊具)』など持って慰安所に行かなければ立派な帝国軍人になれないのですか」とやって叩きのめされ、初外出が禁止になりました。これを知った担当准尉は烈火のごとく怒り、下士官全員を集めて、「俺に何の話もなく、特幹にちょっかいをかけたら、貴様たち、ただでは済まないぞ」と凄ごんだそうです。
 
 初めて外出できたのは四月二十九日の天長節(昭和天皇の誕生日)でした。驚きました。「新京」は満州国の首都です。日本で言ったら東京です。街の真ん中に慰安所があって、兵隊がズボンのベルトに手をかけて列をつくって順番を待っているのです。

 いわゆる身体を使う仕事、汚れる仕事はみんな中国人で、日本人は威張っていました。電車に乗ると運転手や車掌はみんな中国人ですから、兵隊たちは「切符は後ろの奴が持っている」、後ろでは「前の奴が持っている」と嘘を言って無賃乗車をしていました。

道ばたで中国人がスイカを売っているときも、兵隊の一人がその中国人と話し込むのです。その間に別の兵隊がかっぱらって行ったり、どの兵隊も白昼公然とやっていて、愕然としました、
 
日本の「記念日」です。長春の中心にある大同広場(現『人民広場』)に関東軍司令官の山田乙三と満州国皇帝溥儀の花輪が飾ってありました。山田乙三の方が上座にあるのです。満州国皇帝溥儀の花輪は下座です。

中国人部落は危険だからと立ち入り禁止でしたが、演習で、重武装して部隊で入ったとき、子どもたちに石をぶつけられました。子どもたちはみな、私たちを恐れず、憎悪の目で睨み付けていました。恐ろしかったです。

「満州国」建国の理念「五族協和・王道楽土」とは一体何だろう。「八紘一宇・大東和共栄圏の確立」と言うけれどもどうなっているのだろうか。私の胸に疑問がわいてきました。

心の中では八紘一宇とか大東亜共栄圏というのは信じていたし、だから、当然、五族協和、王道楽土が実現していると思っていました。八紘とは広い地の果て、天下という意味です。一宇とは一つの家ということです。神武天皇が即位のときに発した言葉をもとにしています。八紘一宇、大東亜共栄圏の確立というのは、日出ずる国の天子、つまり天皇の意向のもとにアジアをそして世界を統一しようという対外膨張を正当化するために使われたスローガンです。五族協和、王道楽土というのは「満州国」建国の理念です。満州民族、大和民族、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族の五民族が協力し、アジアの理想的な政治体制を「王道」として、満州国皇帝を中心に理想国家を建設するというものです。

天皇はこのことを知っているのだろうか。天皇に申し訳ない。誰がこんなことをやってんだ」と、また疑問に思うのです。
 兵隊の中には慰安所なんて当然だと並んでいる人もいるし、これはどうかと並ばない人もいる。私の中には、やはり戦争の目的はこういうことではないという気持ちがありました。今考えると全くのインチキですが、それをほんとに信じていたのですから、日本の天皇が盟主の中心なのに、その日本人が泥棒し、ふんぞり返ってはいけない、そう思っていたわけです。俺は皇軍の、天皇の兵士の一人だから慰安所なんてとんでもない。ところが、そういう女も買えないような兵隊に敵兵が殺せるか、そういってぶん殴られるのです。

純粋に八紘一宇・大東亜共栄圏の確立を信じ、天皇のため、その「聖戦」に参加し、一兵士として身を捧げることを誇りとしていた少年兵の私は、「何か間違っている、天皇の御心をねじ曲げている奴らがいる」そんな怒りと悲しみが高まっていったのでした。

次回は関東軍と内務班 国体護持 棄兵・棄民

少年兵兄弟の無念-9

「 天皇の軍隊と私的制裁 戦場体験と人間性」
   
 内地(日本の敗戦以前は、植民地や占領地を『外地』、日本本土を『内地』とよびました)の場合は、外地の部隊より多少はましだったようですが、それにしても程度の差です。ただ、少年兵の教育隊の場合は、古兵がいません。みんな一緒に入隊した戦友です。お互いに励まし合い、支え合う戦友です。ど突かれ、殴られ、蹴っ飛ばされ、張り倒されるのも皆一緒です。それだけましだったでしょう。古兵による不合理ないびりやしごきがないのが幸いでした。

 翌年、関東軍に転属して、本格的な私的制裁の凄まじさ、内務班のいびつさを体験するのですが、それはこの先の「関東軍と八紘一宇・内務班のしごき」で述べることにしますが、「しつけ」や、「しごき」に名を借りた「いびり」を少しだけ紹介しておきましょう。

「いびり」

 「セミ」 柱にしがみつかせて「ミンミン」と鳴かせます。 鳴き声が小さい、「ミンミン蝉」は跳んでったぞ、今度は「ツクツクボーシ」だぞ等と囃し立てられます。

 「ジテンシャ」 寝台と寝台の間に身体を浮かせて自転車を漕ぐ真似をさせる。「後ろから自動車だ、もっと漕げ、早く、早く」

 「ウグイスの谷ワタリ」  寝台の下を一つ一つくぐらせて、その度に「ホーホケキョ」と鳴かせる。「顔を上げて、ホーはもっと伸ばして」

 「ゲイシャ」 銃架の陰に立たせ、銃架を芸者屋の格子に見立てます。その前を人が通る度に手招きさせ「ちょいと兄さん寄ってらっしゃい」と声をかけさせます。

 「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は……」と日の丸を振って送られてきた「召集兵」の新兵たちが、こんなことをやらされていました。

「各班回し」 軍靴の底の鋲の間にほんの少し土がついていた場合、靴紐を結び、首にかけ、各班の自分より年次の上の者一人一人に報告して回らせる。「▲班○○二等兵であります。編上靴の手入れが悪く班長殿から注意を受けました。ここにご報告いたします」。一人に一回づつ殴られても、各班を回れば数十回以上になり、顔は真っ赤に腫れ上がります。これは誇張のない軍隊の実態です。

 「少々のことは我慢しても、軍隊は飯が食えるからいいや」、などの論が成り立つのでしょうか。耐えられないで自殺する兵隊は、厠で、銃剣を立てかけ、しゃがんで喉に突き刺します。

 ここで、表題についての私の考えを述べておきます。「戦場体験」 まず「戦場体験」の概念を明確にする必要があります。 辞書によれば、用語について次のように定義されています。

 『戦争』武力を用いて争うこと。特に国家が自己の意志を貫徹するため他国家との間に     行う武力闘争。
 『軍隊』一定の規律の下に組織・編成された軍人の集団。
 『戦場』戦闘の行われている場所。(以上大辞林)
 『戦地』戦争の行われている土地。また、軍隊の出征している土地(広辞苑)

 すなわち、戦争とは、国家が他国家との間に行う武力闘争であり、どのような大義名分をつけようとも、まさに国と国との殺し合いに他なりません。戦場体験とは、人と人とが殺し合う戦争に、軍事組織の一員として動員された兵士・軍属などの、戦地における体験であります。

 戦争に勝利するためには強力な軍事組織を持つことが絶対条件です。そして強力な軍事組織は命令に絶対服従し、生命を厭わず敵に向かって立ち向かい、任務を遂行する兵士を必要とします。

 「軍人勅諭」
日本の軍隊は兵士たちを、厳しい規律と教育によって、絶対服従が習性になるまで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしました。
一八八二年(明治一五)天皇から陸海軍軍人に与えられた「軍人勅諭」というものがあります。天皇制政府は、「軍人勅諭」によって、軍人に天皇への忠誠心を叩き込み、天皇の命令に対する絶対服従を強要するため、暗記するまで覚え込ませました。

「軍人勅諭」で最も強調されたのは、天皇への忠誠であり、軍隊は天皇の軍隊であるということでした。
「我国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある」「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と軍隊の最高指揮者であることを自ら宣言した天皇が、一番に訓示しているのが、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」ということです。

 「軍人勅諭」のもう一つの重大な内容は、天皇への忠誠と表裏一体の関係として、天皇への絶対服従と、天皇のために死ぬことを名誉とすることを兵士に叩き込んだことです。

「上官の命を承ることは実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」という「軍人勅諭」の一節で不合理な命令も私的制裁も正当化されました。

 「上官の命は朕の命令だ」「軍人精神を叩き込む」「立派な軍人にしたてあげる」と、全く不合理な命令や私的制裁が公然と日常茶飯事に横行していたのでした。
こうして習性となるまで服従が強要され、それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習性をつけさせるまで行われました。

 こうした服従の強要は「只々一途に己が本分の忠節を守り義は山岳より重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という「軍人勅諭」によって、天皇のために死ぬことを美徳とし、兵士の命を鳥の羽よりも軽いと見る非人間的な思想に他なりません。

 人殺しのための準備訓練
軍隊では戦闘が目前になくても、日常普段に、人殺しのための準備訓練が行われていました。声が小さいと言っては殴られ、動作が鈍いと蹴飛ばされ、革のベルトの帯革ビンタ、戦友同士の向かいあった切磋琢磨などは日常茶飯事、戦闘訓練、銃剣術、射撃、突撃、そして刺殺訓練等々です。中国戦線では初年兵教育の総仕上げに、中国人を銃剣で突き刺す訓練が行われていたことは、多くの元兵士の語るところであります。

 日常生活そのものが精強な兵士となるためのものであり、戦場体験とは、戦闘に参加したかどうかを問うものではありません。戦闘は主として外地において行われました。外地とは日本本土以外の土地であります。それは、占領地、植民地、従属国などの日本が武力によって支配した土地であります。したがって、その土地での兵士たちの生活は、表面的にはともかく、日本に敵意を抱き、反抗、反撃の機会をうかがう現地住民に囲まれての日常でありました。

 一九四五年(昭和二〇)一月十八日、最高戦争指導会議は全軍特攻化を決定しました。外地ばかりでなく内地でも硫黄島、沖縄が戦場となりました。さらにアメリカ軍の爆撃の日常化、艦砲射撃、アメリカ軍の本土上陸作戦に備える肉弾訓練、特攻基地の拡充、強化等々本土全体が戦場となったのでした。

 人間性を作り替える葛藤
 兵士たちが優秀な兵士になることは、敵を殺すことに勇猛な兵士となることでありました。それを拒否するには、「脱走」か「自殺」以外に道はありませんでした。しかし、「脱走兵」の家族は、非国民の家族として「村八分」で、親類縁者みな、生活するのも困難な状況に追い込まれます。「自殺兵士」の遺骨は、見せしめのために、荒縄でぐるぐる巻きにして、遺族のもとに届けられます。

 戦地における兵士たちの日常は、武力闘争の歯車の一つとして、自分自身の人間性を作り替える事との葛藤の日々であったともいえます。いわゆる「 戦争体験」 も極めて厳しく過酷なものでしたが、「戦場体験」の質的な違いはここにあるのです。

    「慰安所」
 人間性を問うものとしては、「慰安婦」「慰安所」の問題があるでしょう。日本には戦前「公娼」(おおやけに営業を認められた売春婦)制度が存在しました。私は十五歳で少年兵を志願し、旧満州、長春の関東軍対空無線隊に派遣されたのは四五年四月、十六歳でした。

 各内務班の柱には、各慰安所ごとの慰安婦の源氏名と検診結果の書いたノートがぶら下げられていました。休日には慰安所に日本兵が列をなして並んでいました。将校には日本ピー(ピーとは慰安婦のこと)下士官には鮮ピー(朝鮮人慰安婦)、兵隊には満ピー(中国人慰安婦)が与えられていました。休日の外出には「突撃一番」(避妊具)をもっていないと許可されません。

 私は、最初の外出で持っておらず、「帝国軍人がなぜそんなものを持たなければならないのですか」「そんな物を持つて、慰安所に行くのが、立派な日本帝国陸軍軍人なのでありますか。」と反論したため、「生意気云うな」「上官に口答えするのか」「女も買えない奴に敵を殺せるか」と殴り倒され、蹴飛ばされ、踏みにじられました。血まみれになった私は、その日は外出禁止となりました。この理不尽な出来事を、わたしは生涯忘れることはできません。

 日本軍にとって、「慰安所」は兵士たちの「活力剤」であり、多くの兵士たちも、当然のことと考えていたのでした。日本軍のいるところ、日本本土にも、沖縄にも名称、形態は兎に角、慰安所は存在し、公然と兵隊たちはこれを利用していたのでした。

 軍隊というところは、人間性があったら強い兵隊になれないのです。天皇のため、沢山殺せば殺すほど軍人の鏡として褒め称えられるのです。

少年兵兄弟の無念ー10

「 戦争とは人と人との殺し合い 初めての戦闘体験」

 戦局は急速に悪化しました。
 一九四四年(昭和一九)六月十五日米軍サイパン島上陸。
 七月七日守備隊玉砕。
 六月十六日中国基地の米B29爆撃機、北九州初空襲。
 十九日マリアナ沖海戦。
 三十日閣議学童集団疎開決定(八月四日実施)。
 七月四日大本営、インパール作戦中止を決定。
 十八日東条内閣総辞職。(二十二日小磯内閣成立。)
 二十一日米軍グアム島上陸。(八月十三日グアム島守備隊玉砕。)
 八月四日一億国民総武装で、各地に竹槍訓練始まる。
 十九日最高戦争指導会議で、今後採るべき戦争指導の大綱決定(戦争の指導権が連合軍 に握られたの認識とともに戦争の完遂を期す)
 二十三日学徒勤労令・女子挺身勤労令公布。ビルマ戦線北半分を失う(八月三
 日北部ミチナ陥落、九月七日雲南省拉孟、守備隊玉砕、十四日騰越守備隊玉砕、)。
 十月十日米機動部隊、沖縄空襲。
 二十日米軍レイテ島上陸。
 二十四日~二十五日フイリッピン沖海戦。
 二十四日、マリアナ基地のB29,東京初空襲。

フイリッピン沖海戦における連合艦隊の損害(昭和の歴史7太平洋戦争木坂順一郎 小学館)より
艦種      沈没  大破  中破  小破
戦艦      3       4   1
航空母艦    4    
重巡洋艦    6    4      1
軽巡洋艦    3       1   1
駆逐艦     8    1  2   8
潜水艦     6
合計     30    5  7  11

   撃沈したアメリカ艦艇
小型空母1.護衛空母2.駆逐艦2.護衛駆逐艦1.魚雷艇1.潜水艦1 合計8隻
フイリッピン沖海戦後に残った日本の艦艇破損したものも含めて戦艦6.空母7(小型空母3.商船などの改装空母4).重巡7.軽巡7(うち練習艦2)       

十月一日、私は上等兵になり、十一月には全国各地に展開して、実戦訓練でした。特幹一期生は一年半の教育課程が九ヶ月に短縮されました。十二月で教育課程は終わり、第一線に送られることになりました。十二月二十九日に卒業式が行われました。「陸軍航空通信学校における陸軍特別幹部候補生の課程を卒業せしことを証す」という卒業証書をもらいました。

 一九四五年の正月のことです。「来年の正月はあると思うな、立派に戦って死のうじゃないか、靖国神社でみんな会おうじゃないか」と班長の訓辞です。そして一人一人、決意を述べろと言われました。

 「特幹一期生として恥じぬよう戦って、名誉の戦死を遂げます」、「天皇陛下のため粉骨砕身、命を捧げます」、「靖国神社でみんなと会いましょう。自分が一番乗りであります」などなど勇ましい決意が続きました。班長は、一人一人の言葉が終わる度に、「よーし、そうだ、その通り、がんばれ、靖国で会おうぜ」と気合いを入れます。私の番が回ってきました。私は「最後の一兵となっても生き抜き、勝利まで戦います」と言ったのでした。「この野郎!貴様!来年の正月はあると思うな。立派に死のうじゃないかと言っているのに、お前ひとり一体何だ!」と言うのです。

 それで私は「一人も生き残っていなかったら、誰がワシントンに日章旗を掲げるのですか」と答えました。そうしたら「この馬鹿野郎!」、「そんなに死ぬのが怖いのか」、「靖国神社に行きたくないのか」、めちゃくちゃにぶん殴られました。

 当時は死ぬと答えるのが普通というか喜びでさえある時代でした。だからこそ「そう簡単に死んでたまるか」という気がありました。「軽々に死ねない、気安く死ぬって言うな」と思っていました。確かに「死ぬ」と言った方が格好がいいわけですが、私は「お前ら、何、お調子者をして。上官に媚びへつらって言ってんだろう。本当に死ぬ気があるのか」なんて言って戦友たちと喧嘩したこともあります。

 前線に出ることは、「戦死」の日が近くなると云うことです。しかし、少年兵たちにとっては、「訓練の成果を見せてやるぞ」「志願の時の志をいよいよ発揮できるんだ」「陰湿なしごきなどもうおさらばだ」「正義の戦いにいよいよ参加できるんだ」と嬉しくて嬉しくてたまらないのでした。「おいお前どこへ行きたい」、「俺は中国がいい。まんじゅうが食えるぞ」、「俺は南方だ、バナナにパイナップルだ」、毎晩、そんな話で持ちきりでした。

 一月はもう教育訓練はありません。転属先の決定待ちで、近隣の山へ行って燃料の伐採、炭焼きなどの作業です。そんなある日、父と姉が面会に来ました。「十二月に房蔵がまた面会に来たよ。海軍は面会が多いなあ」と言うのです。三番目の兄は、八月に面会に来たばかりでした。

 予科練土浦から回天基地大津島に出発する直前でした。回天特攻隊の兄は、出撃予定と出撃隊が決まって、家族との最後の面会だったのでしょう。山口県光基地から東京日本橋の家までの往復、汽車の車中でどんな想いで過ごしたのでしょうか。

 父に特幹の卒業証書を渡しました。「軍刀買ってやるよ。」「金は何とか工面するよ」。私は嬉しくてたまりませんでした。軍刀を下げられるのは曹長になってからです。まだまだずっと先のことです。それまで生きていられるかどうか分かりません。それでも、もう会えるかどうか分からない息子に、親として精いっぱい出来ることを考えたのでしょう。「無理するなよ。軍刀無くたって戦えるよ。有難う。嬉しいよ」そう言うのが精いっぱいでした。営門まで送って、肩をしぼめて、振り返り振り返り、手を振りながら、とぼとぼと歩く背中を見つめたのが、父との最後の別れでした。

 二月に、私は、今のひたちなか市にあった常陸教導飛行師団の水戸東飛行場に配置されました。ここからは一宇隊、殉儀隊、第二四、四四、五二、五三振武隊など多くの特攻隊が、レイテ沖、台湾、沖縄海域に向けて出撃しました。私は、ここで初めての戦闘体験をしたのでした。

 二月十六日から三日間、硫黄島を取り囲んだアメリカ海軍機動部隊は、猛烈な艦砲射撃の後、十九日、上陸を強行しました。その二月十六・十七日の両日、鹿島灘に接近したニミッツ提督指揮下のアメリカ航空母艦から飛び立った数千の艦載機群によって、関東一円の日本軍飛行基地が壊滅的打撃を受けたのです。水戸東では空襲警報のでないうち、気が付いたら雲霞の如き大群のアメリカ艦載機が頭の上にやってきていました。日本のレーダーに捉えられないように海上すれすれに飛んできて、海岸で急上昇したのです。

 二日間にわたる猛烈な爆撃と銃撃を受けて、四百を超える陸軍の飛行機は炎上破壊され、百八十名を超える兵士が戦死しました。 零戦を超える性能を持った米海軍戦闘機グラマンF6Fヘルスキャットと、双胴で二〇ミリの機関砲を持ったロッキードP38です。数十機の編隊で二つに分かれ、「8」の字のたすきがけに交互に小型爆弾の爆撃と機銃掃射を繰り返していくのです。

 急襲した米軍機は、まず格納庫前に置かれ、銃弾と燃料を満載して何時でも飛び立てるよう準備された邀撃戦闘機のすべてを破壊しました。胴体に米軍爆撃機B29の撃墜マークを描いた戦闘機が猛烈な勢いで火を吹きました。機関銃や機関砲の銃弾が盲発してあたりに飛び散ります。近くに寄ることは出来ません。たまたま飛び立つことが出来た日本の戦闘機は袋だたきで瞬く間に撃ち落とされてしまいました。

 完全に飛行場の空を制した米軍機は続いて格納庫を狙い、次々に爆弾を投下し破壊し尽くしました。格納庫も全部やられました。その後は対空射撃の銃座と兵員を狙い撃ちしてきました。一つの銃座に何十機もが、編隊で交互に組んで突っ込んでくるのです。ほとんどの銃座が沈黙してしまいました。

 対空射撃の銃座をあらかた沈黙させると、今度は格納庫の周りや兵舎の間に掘ってある壕に向かって爆撃と機銃掃射です。日本兵を捜し、狙い撃ちです。とにかく、高度十メートルもない低空飛行で攻撃するのです。米軍機が真っ直ぐに降下し、土煙を上げながら機関銃の弾道が近づいてきます。飛行士の顔が見えます。飛行眼鏡がきらりと光ります。「天皇陛下万歳と言って死ぬのだろうか」、「いや、お母さんといって死ぬのだそうだ」、「母の早く亡くなった私はお父さんといって死ぬのだろうか」、一瞬そんなことを考えた私の数メートル先で機銃掃射をやめ、小型爆弾を落とした米軍機は機首を上げ、私は泥まみれになりながら命拾いをしました。機関銃の弾丸がヒュルヒュル、チュンチュンチュンって音で、パッパッパって土煙が立って、カラカラカラって薬莢の落ちる音がするのです。怖かったです。

 何度目かの攻撃の後、私は受信所にいました。受信所は指揮所と同じ飛行場の真ん中にあります。それこそ攻撃の焦点です。飛ぶ飛行機ももう一機もありません。此処にいたら何もしないで狙われているだけです。送信所に行こうと言うことになりました。

 送信所は飛行場から離れた山のような所にあって、崖に掘った横穴式の壕の中にありました。ところが送信所に行く途中で機銃掃射に遭い、手間取ってしまいました。その時の一連の攻撃で壕の入り口に爆弾が落とされ、送信所にいた全員が死んでいました。みんな爆風でバラバラになっていて、レシーバーをつけたままの首が転がっています。首のない胴体があります。電鍵を握ったままの腕が転がっています。無惨な姿になっていました。あの時、機銃掃射に遭っていなかったら、私も送信所にいて同じ運命でした。これも運です。

 死体は文字通りバラバラで、それを私たちが集めるのです。揃えるのです。もうただ無我夢中で集めました。何と言ったら良いのか、涙も出て来ません。ちょっと言い表せないです。しっかりしなきゃいけないと自分に言い聞かせながら、もう戦友は死んだという、そういう何とも言えない口惜しさと、悲しさと、それからむごたらしいけれども、彼らを何とか守ってやらなきゃいけないというような使命感とか、そんなのがごちゃ混ぜになっていました。何とも言い難いです。五体揃えていって何人死んだかわかるのです。そうやって十一人揃えました。
 
志願して未だ一年もたたない、十六歳から二十歳の同期生です。身体の部位は全て揃うわけではなくて「だいたい」です。機関銃や機関砲で機銃掃射を何度も受けると、死体がちぎれて跳ね上がって電線にぶら下がったり、どこかへ飛んでわからなくなるからです。脳味噌の出ている頭が転がったりもしていました。私はこのとき、戦争とは格好良いものではない。人と人との殺し合いそのものだと骨身にしみて思いました。十六歳の初めての戦闘体験でした。

少年兵兄弟の無念-8

「少年兵の訓練・内務班」

 私は、1944年(昭和19年)4月6日、水戸市郊外の陸軍航空通信学校長岡教育隊に、陸軍特別幹部候補生として入隊をしました。父と姉が見送りに来てくれました。営門で別れの時、東京女子医専(現東京女子医大)に在学中で母代わりの姉が、服装を直しボタンをはめてくれました。手が震えていました。私は父の猛烈な反対を押し切って志願を「承諾」してもらったのですが、かなりの特幹同期生は親に反対され、親の目を「かすめて」判子を押し、願書を出していました。保護者の「承諾印」がないと入隊できません。

 三人に一人位はいたと思います。親にすればああいう時代でも当然子どもが少年兵を志願することに反対するし、子どもの方は、親の反対を押し切ってでも志願をするのです。親は、入隊通知が来て呆然としても、もう「入隊拒否」は出来ません。泣き泣き子どもを見送ると言うことになるのです。

 最初私は機上無線要員でしたが、体力検査があり、対空無線隊要員となりました。四月十日に入校式が行われましたが、襟に幹部候補生の座金、二つ星の一等兵、胸には航空兵の翼をあしらった胸章です。いよいよ軍人だ。立派な軍人になって、国のため、天皇のために戦うのだと、心に誓ったのでした。

 航空通信と言っても幾つかに別れます。爆撃機や偵察機に乗って地上や他の飛行機と通信するのが機上無線です。飛行場のピスト(戦闘指揮所)から飛行機と通信をするのが対空無線。特攻機との交信もここで行います。「敵艦発見」「戦艦○隻、駆逐艦○隻」、「われ突入す」、「ツー」、突入するとき電鍵を押します。音が途切れたときが激突の瞬間です。

 飛行場と飛行場、飛行場と司令部などと通信連絡をするのが通信連隊。航測通信は、方向探知機を操作し、電波をとらえて、方位を測定します。数カ所の探知所の測定交差点が飛行機の位置となります。

 情報無線は主として暗号電報の解読です。交信は、文字を五桁の数字にします。さらにそれを乱数表で組み替えて送受信します。乱数表は通例三ヶ月毎に更新されます。暗号通信の送受信、解読は、どの要員でもこなします。(対空無線隊が
飛行機と交信するときは通例暗号電報ではありません。無線電話の時は一応暗語と言うことになっていました。)情報無線要員は、司令部や本部などに配置されていました。また、このほかソ満国境では、国境地帯に二人づつ無線機と食糧を持って配置され、ソ連の動向を探っていました。

 通信整備は、無線機の整備、保守、修理等を任務とします。
 私たち対空無線隊要員の中隊の教育訓練は、午前中が講義、学科教育で、精神講話、軍人勅諭、典範令、数学、電気工学、物理、モールス信号の送受信訓練等でした。送受信は一分間百二十五字が目標でした。間違えたり、遅かったりするとぶん殴られたり、練兵場一週の駆け足です。

 午後は、体操、軍事教練、無線機の取り扱い、野外での送信所、受信所の設置訓練です。毎日、たるんでいる、動作がのろいと怒鳴られ、軍装して駆け足、全速力で突撃の訓練、時にはガス室でマスクを外す訓練でした。

 軍隊は入って見ると、入る前に想像していたのとは全く違うところでした。志願兵、徴兵の区別なく、最初は指導教官や古参兵からリンチを受けて大変な苦労をさせられます。軍隊こそ男の中の男の世界と信じて志願した少年兵にとってその落差は大変なものです。今でいえば高校生の年頃でしたが、自分の意志で志願した私たちにとって猛訓練も耐えることも出来ました。

 しかし、とても我慢がならなかったのは、軍人精神を叩き込むための内務班の生活でした。内務班というのは、兵営の中で兵士が寝起きする最小の単位です。営庭に面した側が「舎前」、洗濯場、厠(便所)のある裏側に面した側が「舎後」で二〇人ほどが寝起きします。まん中の廊下の両側には、銃架があって、各人の銃が立てかけてあります。廊下を挟んで板敷きの大部屋があり、まん中に長机、長椅子が置かれ、両側にわら布団のベットが並んでいます。ここが寝室であり、食堂であり、兵器手入れの場であり、休養室であります。

 「軍隊内務令」には「兵営は軍人の本義に基づき、死生苦楽を共にする軍人の家庭にして兵営生活の要は起居の間、軍人精神を涵養し軍紀に慣熟せしめ強固なる団結を完成するにある」とあります。

 先ず娑婆気を抜く、地方気分をたたき出すことから始まります。閉鎖社会の軍隊では兵営の外の世界(娑婆・しゃば)のことを「地方」と呼んでいました。軍隊が中心にあって、その周りはみな「地方」と言うことでしょうか。軍人・軍属以外は地方人で、例え総理大臣でも地方人となるのです。

 先ず入隊すると「地方服」を脱いで「軍服」に着替えます。初年兵は軍隊特有の言葉を先ず最初に叩き込まれます。身につけているものの呼び方も独特です。シャツは襦袢(じゅばん)、ズボン下は袴下(こした)。ズボンは袴(こ)、軍服は軍衣袴(ぐんいこ)、ポケットは物入れ、スリッパは上靴(じょうか)、軍靴は編上靴(へんじょうか)。ゲートルが巻脚絆、靴下が軍足(ぐんそく)。布団カバーが包布(ほうふ)ということです。西洋風の言葉は一切追放です。

 日本の軍隊では「員数」が大変重要なことでした。員は兵員の、数は兵器や被服・弾薬・食糧の数量を表します。戦争や軍隊は、兵力と武器、装備の戦いです。数量がものをいいます。ですから数量管理が徹底しています。 朝晩二回の点呼や、内務検査、兵器検査などで員数が合うかどうかテックします。

 員数が合うかどうかは大変重大な要件です。「畏くも天皇陛下からお預かりした」武器であり、被服です。ですから足りないときはあらゆる手段で「員数合わせ」をします。襦袢や袴下が足りなければ、他中隊の物干し場に行って着て来ます。営内靴がなければ風呂場に行って履いてきます。敷布が足りなければ一つの物を裂いて二つにします。これが軍隊と言うところなのです。「員数を合わせる」「員数をつける」と言うことで、海軍では、「銀蠅」(ぎんばい)と呼ぶそうです。

 「僕」「君」などの地方語を使えばそれこそ鉄拳制裁の対象です。「地方の言葉を使うな」、「地方気分を出すな、弛んでいる」。一般社会の常識はここでは通用しません。俗社会から隔絶された特異な「軍隊」の鋳型にはめ込まれ、問答無用で、どんな命令でも従順に行動する兵隊に仕上げられるのです。

 日本軍隊が、「地方気分」や「地方語」を忌み嫌ったのは、「地方」「娑婆」での職業や地位や身分の違いから出てくる優越感や劣等感が軍隊教育の妨げになるからでしょう。軍隊で中級や下級の「上官」となる職業軍人は、主として士官学校出の将校や、兵隊からたたき上げの下士官です。彼らは一般的な社会生活を知らず、その知識水準や知識の範囲も極めて限られた狭いものです。

 しかし軍隊では、この「上官」たちが「偉い」人、「立派な」「模範的」「見習うべき」軍人という建前になっています。この「建前」「秩序」を守るためには兵隊は馬鹿でなければなりません。兵隊が「上官」を尊敬しなければなりません。例え「内心」でも、「上官」を見下したり、軽蔑したりするようなことがあってはならないのです。だから「兵隊」という軍隊での最下層の人間から「地方」に関係のある一切のものをことごとく叩き出し、空っぽの頭で、無条件に「上官」の命に従い戦闘に参加する兵隊を作り上げるのです。
 
 六時起床です。起床ラッパが鳴って、三分以内に毛布をたたみ、服装を整え、営庭に整列出来ないと竹刀で叩きのめされます。下士官が竹刀を持って出入り口に待ちかまえています。背中であろうが、頭であろうが容赦しません。演習から帰り内務班に帰ると、整頓が悪いといって持ち物がひっくり返されています。これを「地震」と言います。ビンタならまだましです。持ち物をひっくり返した木銃で突き倒されます。

 銃の手入れが悪い、銃の菊の紋章に埃がついていたといって逆さに銃を持った捧げつつ一時間です。気分が悪くなって倒れるときは必死に銃を身体の内側に抱え背中から倒れます。返事が悪い、声が小さい、要領が悪い、たるんでいると二列に並び向かい合って殴り合う「切磋琢磨」、革のベルトで殴られる「帯革ビンタ」、机の端に逆立ちをする「急降下爆撃」等々、文字通り問答無用の私的制裁の毎日です。

 せめてもの抵抗は、「ツバキ汁」に「ふけ飯」です。「ツバキ汁」は味噌汁にツバを吐きかき混ぜます。「ふけ飯」は、ご飯に頭のふけをかきむしりかき混ぜます。当番がうやうやしくお膳を捧げて「上官」に差し出します。食後、食べ残しなく空になった食器が帰ってくるとみんなで万歳を叫びます。

 ある時、寝ている時にたたき起こされました。上靴が、寝台の下にきちんと揃えていなかったというのです。寝台の上に正座です。上靴を目の前に捧げて言わされました。「お上靴様、お上靴様。筑波下ろしの空っ風にボーッと致しました。お上靴様、貴方様を粗末に致しまして真に申し訳ありません。今後このようなことを致しません。お大事に扱わせていただきます。お許し下さい」。その晩、上靴を胸に抱いて寝ることになりました。あの屈辱と口惜しさを忘れることはありません。

 夜、消灯ラッパが聞こえると、あちこちの寝台からすすり泣きが聞こえてきます。一途な純情で入隊した少年の私は、当然、軍隊のもつ様々な矛盾とぶつかりました。「何故、こんなにぶん殴られ痛めつけられないと一人前の軍人になれないのだろうか。何かが間違っている。これはきっと、天皇陛下の大御心を途中でひん曲げる奴がいるからこうなるのだ。そいつ等をいつか叩き直してやろう。」そんな風に思ったのでした。

少年兵兄弟の無念-7

「兄との別れ」

① 兄との別れ                 
 水戸市郊外の陸軍航空通信学校長岡教育隊での、昭和十九年八月二十七日のことは生涯忘れることが出来ません。                 
 日曜日でした。外出せず内務班にいた私に、突然呼び出しがかかったのです。「父と兄が面会に来た。外出の服装で週番士官の部屋にすぐ来るように」と言うのです。「予告もなしに父が、それに兄までもが、一体何事だろう」、不安と喜びに慌てて服装を整え、週番士官の部屋に飛び込みました。

 特別外出が許可されました。土浦の予科練で「回天」搭乗員を志願した三兄は、「回天」基地への移動を前にして、たまたま面会に訪れた父と外出を許されたのでした。二人は、学徒出陣で整備兵の次兄を鉾田飛行場に訪れ、その足で水戸に回ってきたのでした。

 教育隊近く、水戸街道と陸前浜街道の別れ道に食堂がありました。親子三人、うどんといなり寿司を食べながら語り合いました。突然のことに嬉しさがこみあげ、兄が特攻隊だなど夢にも考えつきませんでした。父はどうだったのでしょうか。何を喋ったのか思い出せませんが兎に角夢中で話し合いました。父は二人の息子の語り合いを、にこにこ頷きながら、黙って見つめていました。

 帰りの時間が迫ってきました。兄は財布を出し、有り金全部差出しました。「おいこれ使えよ」、そう言って渡されたお札が、当時のお金で五円位ありました。特攻隊とは言うことが出来ず、言外に別れを告げたのでしょう。おそらく特攻隊員としての、最後の「さようなら」を告げたかったのでしょう。営門の前で、別れの時がきました。

 海軍飛行予科練習生海軍飛行兵長の兄房蔵は、肘を前に出す海軍の敬礼で、陸軍特別幹部候補生陸軍一等兵の弟得郎は、肘を横に張る陸軍の敬礼で、じっとお互いを見つめ、いつまでも別れを惜しみました。

 父は横に立って、黙って二人の息子たちを見つめていました。兄が十八歳五ヶ月。弟が十五歳十一ヶ月でした。父はどんな思いで二人の息子、少年兵の息子たちを見つめていたのでしょうか。兄は何を言いたかったのでしょうか。のぞき込むように私を見つめていました、それが、兄と私の最後の別れとなりました。

        ② 兄の推定戦没地点粟国島を訪ねて
 二〇〇一年、沖縄慰霊の日の前日の六月二十二日、兄の戦没推定地点粟国島で花束を捧げることが出来ました。
粟国島は人口九〇〇人、周囲十二キロの小島で、那覇市の北西約六〇キロに位置し、晴れた日には、東に沖縄本島、東南に慶良間列島、渡名喜島、南西方面に久米島、西に無人島鳥島を望むことが出来ます。南側を底辺に北端を頂点としてやや東に傾いた三角お結びの様な形をしています。港は南側に粟国港だけ、砂浜は東側の長浜海岸、北端から中央部にかけてはソテツが生い茂っています。人家は南部に固まっていて西側北側に人家はありません。西端の筆ん崎は九十六メートルの断崖絶壁で、その断崖は北端まで続いています。また断崖の上は原生林が続き、人が立ち寄ることは殆どありません。

 兄たち人間魚雷回天特攻隊白竜隊は四五年三月十三日山口県光基地を出撃しました。米機動部隊は既にその時ウルシー泊地を出発し南西諸島に近づいていました。回天八基、搭乗員七名、基地員一二〇名、乗組員二二五名を載せた第十八号一等輸送艦は途中、佐世保に寄港した後、潜水艦の雷撃を避けるための、之の字運動を繰り返しながら沖縄本島那覇に向かいました。

 しかし、入港直前の十八日未明、護衛艦怒和島(ぬわじま)、済州(さいしゅう)と分離した輸送艦は、那覇北西の粟国島付近で米国潜水艦スプリンガーに遭遇したのでした。三度にわたって魚雷計八本の攻撃を受け四発が命中、輸送艦は一時間もの交戦の後に遂に沈んだのでした。三月十八日午前四時北緯二六度三九分東経一二七度一三分沖縄本島那覇市北西三三浬(粟国島北北西三・五浬ー約五キロ)

 これは軍の記録でもなく、厚生省の調査でもありません。生き残った回天搭乗員が、「自分たちは生き残ってしまった。亡くなった戦友たちに申し訳ない」と苦労して、十五年ほど前に調べた資料なのです。昭和二十一年三月十五日前後に沖縄周辺にいたアメリカ軍艦を調べ出しました。潜水艦スプリンガーが当時その周辺で作戦行動についていました。スプリンガーの戦闘記録を探し出して、ついに第十八号一等輸送艦の沈没状況が判明したのでした。

 四五年六月九日、人口わずか九百・周囲十二キロの島をアメリカ軍艦が取り囲み艦砲射撃、そして戦車を先頭に米軍四万の上陸、ですから村に記録は何も残っていません。 
漁協が遊漁船一隻を出してくれました。六月の沖縄はもう三〇度を超え真夏の太陽が照り輝き空も海も蒼く澄み渡っています。 船は筆ん崎を迂回して、粟国港から四〇分、沈没地点付近は、今は鯛の漁場になっています。第十八号一等輸送艦沈没点でエンジンを停めました。粟国島はすぐ前方にあります。

 「海軍の兵隊さんなら島まで泳げます。だがここは水深一〇〇〇メートル以上の海溝の入口、潮の流れも速い。三月はとりわけ西南久米島の方に向かって船の速度くらいの潮流(時速約二キロ)波高三~五メートルの波、恐らくみんな潮流に流されたでしょう。やっと島にたどり着いたとしても断崖絶壁の岩場、疲れ切って荒波に引き戻されたのでは……」という船長の話に涙が止めどなく溢れ、その時の情景が目に浮かんできます。

 波間を漂い声をかけ励まし合いながら一人また一人と沈んでゆきます。兄はここだったのだろか。それとももっと離れたところでは……。十八歳の兄は死を目前にして何を考えのでしょうか。きっと故郷のこと、家族のことを思いふるさとの歌、赤とんぼの歌を歌いながら波間に隠れたのに違いないでしょう。もっともっと生きたかったのでしょう。 花束が揺れながら見えなくなりました。粟国島にうち寄せる波しぶきがきらきらと輝いていました。遠くに久米島と渡名喜島が浮かんでいました。

 深夜で、荒天、断崖の海岸、上陸は不可能な状況の下で殆どの回天隊員と輸送艦乗組員は戦死されたものと思われます。目的地をすぐ近くにどれほど無念だったことでしょう。人家から遠く、断崖と高台、原始林に遮ぎられ、爆発音も、救助を求める信号も島の人たちには全く届かず、為す術もなかったのでしょうか。沈没が不可避の状況で、隊員達、乗組員達は、何を思い、どんな行動をしていたのでしょうか。殆どの乗員が船とともに戦没したものと思はれますが、一部の隊員は大発艇で沖縄本島を目指したと推測されています。

 厚生省記録では、回天搭乗員七名中二名が十八日輸送艦沈没時に戦死、二十三日慶良間基地付近で二名が戦死、六月十三日、十四日に二名が本島海軍司令部付近の戦闘で戦死、私の兄は三月二十四日進出途次戦死とされています。では、誰がどういう経過でこのような記載にしたのか、厚生省でも分かりません。当時の記録を作った人達もいないし、その根拠となる記録も残っていません。このの七人の戦死を見たものもいないし、その聞き書き、報告もありません。

     ③ 兄の生きた証しを求めて
 兄房蔵は、戦場に赴くことが、家族のため、祖国のため、平和のためと心から信じて志願し、回天特攻隊員として十九歳の誕生日直前に戦死しました。兄は、十八年の短い生涯を、平和の時代を知ることなく精一杯生きてきました。兄のことを誰知られることなく埋もれたのでは、あまりにも可哀想です。平和憲法は兄たち戦没者の遺言だと思います。兄の生きた証を探し求め、その想いを語り継ぐこと。それは兄と同じ時代を生き、そして平和の時代を生きることの出来た、遺された弟の生涯の仕事です。それが兄への何よりのはなむけと信じています。

 もう四十年以上前のことですが、たまたま戸籍原本で兄房蔵についての記述を発見しました。

 『昭和弐拾年参月弐拾四日時不詳東支那に於いて戦死横須賀地方復員人事局人事部長斉藤昇 報告仝弐拾弐年拾弐月九日受付』とありました。 海軍の特攻隊員、航空機ではなく、水中特攻兵器回天の搭乗員が『東支那』で戦死?。一体どういうことなのだろう。

 『東支那』と『東支那海』とは全く違う。『海』の一字があるかないかなどという単純な問題ではない。まして『北支那』とか『南支那』という用語は使われたことがあるが『東支那』などという地域は存在したことがない。これは何だ。戸籍原本は永久に残るものだ。間違いにしてはあまりにも非道い。戦死者がこんな粗雑な扱いを受けてよいものだろうか。戦死者の存在そのものを否定するに等しいことだ。何が慰霊だ。何が追悼だ。私は心から怒りました。それが、兄の生きた証を探し求める出発点でした。

 様々な試行錯誤の末、回天搭乗員の生き残りの人達とも巡り会いました。兄とふれあった予科練出身者も探し出しました。改めて厚生省に兄の戦没状況を問合わせました。回答は次のようなものでした。

  平成九年五月二十九日   厚生省社会・援護局業務第二課
          戦没状況について(回答)
                  記
 光突撃隊として勤務のところ、特攻隊として沖縄方面根拠地隊に転勤発令のため荘河丸に便乗、鹿児島発沖縄に向け航行の途次、敵の攻撃を受け、昭和二〇年三月二十四日同船沈没の際、戦死。なお、沈没地点は、北緯二九度一二分、東経一二五度一三分付近です。

 回天搭乗員が隊と離れ一人だけ別の輸送船に乗って戦死したと言うことになっていたのです。兄の白龍隊というのは通称名です。第一基地回天隊が正式名称です。 人間魚雷回天というのは、酸素魚雷を改造して、頭部に一.五トンの爆装をした魚雷を人間が操縦して敵艦に体当たりするという、文字通り十死零生、必死必殺の兵器でした。

 最初は泊地攻撃という泊地に停泊した敵艦を攻撃するという戦術でした。しかし、防御が厳重になる中で航行艦攻撃で、洋上を航行する敵艦を攻撃するという戦法になりました。しかし、回天を搭載する潜水艦が次々に撃沈され少なくなりました。また、アメリカ軍の攻撃も日本本土に迫ってきました。そこで、アメリカ軍の攻撃予想地点に洞窟陣地を構え、そこに待機した回天が出撃して敵艦に体当たりをするという目的で基地回天隊が作られたのでした。

 沖縄の洞窟陣地の建設の遅れ、潜水艦の不足、そのため裸の輸送艦で出撃し、待ちかまえたアメリカ潜水艦に雷撃され、第一回天隊は全滅することになったのでした。しかも、戦果を挙げなかった特攻隊などに、軍部は何の関心も示しません。沖縄戦史のどこにも回天特攻白龍隊の記述はありません。防衛庁の戦史叢書にも一言も触れられていません。そして、特攻隊は、英雄だ、見習へ、などと嘯かれているのです。

 私は、荘河丸という輸送船の記録を探し出し三月十三日夜鹿児島港を出港したことを知りました。その日の午前中の、光基地での白龍隊搭乗員出撃記念写真に兄は写っていました。当時の鉄道の時刻表を探し出し調べましたが、到底鹿児島発荘河丸の出航には間に合いません。また、兄が、光基地を出撃の際に見送った戦友を捜し出しました。土浦から回天への着任は百人。そのうち五十人が大津島、光が同じく五十人。またそこから平生基地その他へ移動。復員後の死亡等々。見つけ出すのに二年以上かかりました。厚生省と数年間の交渉の後、記録を訂正させることが出来ました。二度出撃し、奇跡的に生き残った石橋輝好さんの証言です。

 『私の最初の出撃は、光基地からの轟隊イ三六三潜水艦で、昭和二十年五月二十八日でした。ですから、白龍隊出撃の三月十三日には、確かに光基地で訓練をしていました。その日の午後白龍隊は、第十八号一等輸送艦乗船のため、大勢の基地隊員、整備員、勤務員たちの見送りの激励の中を、庁舎前の広場から桟橋に向かいました。

 私は、途中の道筋で、白龍隊の出撃を見送りました。私は、白龍隊に特別の親しみを感じていました。白龍隊の赤近君とは、同じ予科練土浦航空隊五十八分隊の出身でした。同じく搭乗員の猪熊君は、土浦では六十一分隊でしたが、私と同じ東京の学校の出身でした。

 光基地に来てから知ったのですが、私は錦城中学、彼は錦城商業でした。私は柔道二段で、いかついというか、ごついというか、みんなから荒っぽい感じをもたれていました。一方猪熊君は非常に穏和で優男、真面目で目立たず、出しゃばる様子はなく訓練に励んでいました。私と猪熊君は大変対照的なので、「石橋と猪熊が同じ錦城出身の予科練、同じ回天特攻隊員などとはとても考えられない」と、みんなからよく言われていました。だから私にとって、白龍隊はとても身近なものでした。その白龍隊の出撃を、私は、忘れるはずがありません。

 出撃する白龍隊の先頭は、河合隊長をはじめとする回天搭乗員達でした。隊長の河合中尉、予備学生出身の堀田少尉、新野・田中の二人の二等兵曹、そして予科練土浦航空隊出身の赤近忠三(土空五八分隊)・猪熊房蔵(土空六一分隊)・伊東祐之二等飛行兵曹(土空四四分隊)の三隊員で、七人の搭乗員がいました。 搭乗員達は見送りの人たちの激励に応えて、手に持った桜の小枝を頭の上にかざして、振っていました。私の写真帳には、猪熊君、伊東君、赤近君、新野君のそれぞれの写真があります。出撃の時、白龍隊搭乗員の持っていた、あの桜の小枝が印象深く、今でも鮮かに思い出されます。出撃の時の彼のことをはっきり覚えています。』

 厚生省の記録の訂正は次のようなものでした。
 平成十二年三月二十八日付厚生省社会・社会援護局業務第二課長

   戦没状況について(回答)
 故海軍一等海軍飛行兵曹猪熊房蔵様にかかる戦没状況につきましては、次の通り
お知らせします。
              記
  戦没年月日  昭和二十年三月二十四日
  昭和二十年三月十三日沖縄方面根拠地隊付きとなり、第十八号輸送艦に便乗、沖
  縄基地進出の途次、東支那海に於いて、敵潜水艦の攻撃を受け、戦死。

 しかし、輸送艦沈没は三月十八日。兄の戦死は二十四日、何故か。戦死場所は、沖縄進出途次。それはどの地点のことを指すのか。疑問は残っています。調査は続いています。

④ ひとつの伝聞
 二〇〇四年になって、「全国回天会」からある「伝聞」が伝えられました。一九四五年四月一日アメリカ軍は沖縄本島に、その直前の三月二十六日には慶良間諸島に上陸しました。「まだ米軍上陸以前に、日本の海軍の大発艇(大型発動機艇)が慶良間列島に立ち寄って負傷者を降ろし、燃料を補給して沖縄本島に向かった」というものです。その伝聞を残した人は、慶良間諸島に働きに来ていた久米島の人で、その人は既に亡くなっている、その島が、どの島かはわからないということでした。

 大発艇というのは二〇人ぐらいは乗れる上陸用の船です。沈んだ第十八号一等輸送艦も大発艇を載せていました。第十八号一等輸送艦は魚雷が当たって瞬時に沈没する轟沈ではありません。アメリカ潜水艦と一時間交戦をしています。船が沈む前に大発艇を発進させることは出来たわけです。

また、便乗の回天搭乗員は、乗組員のように艦と運命を共にする必要はありません。回天搭乗員が最後まで戦闘することを他の人々も望んでいたことでしょう。回天搭乗員を優先して大発艇に載せることも充分考えられることです。二人の搭乗員が陸上戦闘で戦死したことになっています。また、搭乗員以外に、回天基地要員の軍医と整備準士官が沖縄海軍司令部付近の戦闘で死んだとされています。これらのことは大発艇で慶良間諸島に立ち寄り、沖縄本島に立ち寄ったという「伝聞」と結びついています。

 〇五年六月、私は、とりあえず慶良間諸島で一番大きな渡嘉敷島を訪れました。大発艇が来て燃料を補給したならば、当時の軍や、役場が関係しているはずです。また複数の人の記憶があるはずです。今は観光地で六〇年以上も前のことです。また、米軍の上陸で激しい戦闘があり、住民の「集団自決」もありました。困難でも行かなければ分からないと調べました。

当時の状況を体験した方にも会いましたが、渡嘉敷島ではありませんでした。今度は二番目に大きな島、座間味島に行く予定です。肉親の遺族にとって、いつ、どこで、どんなふうに死んだのか、それが何よりも知りたいことです。戦死した者にしても、いつ、どこで、どんなふうにして死んだかも曖昧にしたまま忘れられてしまう、こんな悲しい、こんな口惜しいことはないと思います。

戦死者がそんな扱いをされているのです。それが余計に腹立たしいのです。何が慰霊だ、何が追悼だ。死に方さえはっきりしないまま、戦争で死んだ人を偲んで平和を尊びますなんて、何、言ってんだという気持ちになります。

最後にジャーナリスト増田れい子さんが私たち兄弟のことを書いた随想を紹介します。
風紋 言いのこしておきたいこと   
増田れい子(国公労調査時報2004年9月号より)
……………………………
 五十九年前に戦場で、ヒロシマ、ナガサキ、また沖縄本島、主要各都市を中心に三一〇万人のナマ身の人間が、あるいは爆死しあるいは飢えあるいは差し違えて死に果てた末、戦果は止んだ。戦場となったアジアの各地での非業の死者は、二〇〇〇万人を数える。もう少し戦争が長引いていたら、死者の数はもちろんさらに増えていたであろう。かくいう私自身も空襲か飢餓で、命を失っていたに違いない。敗戦時、私は十六歳だった。

 実は、この年齢で戦場に身をおいていた、いわゆる少年兵は決して少なくない。戦争末期海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に何と四十二万人もの少年が志願している。彼らはのちに特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装をほどこした水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力とされた。

 猪熊得郎さんはその少年兵の生き残りで、少年兵を通して日本の侵略戦争をはじめ平和について、憲法について考え発言を続けているひとりである。猪熊さんは、父の反対を押し切って一九四四年、十五歳で志願して陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊、水戸東飛行場に勤務(その間、米軍の艦載機による攻撃で十一名の同期生を失う)、のち満州に送られ敗戦、十七歳でソ連の捕虜となりシベリア抑留。ダモイ(帰還)したのは四七年末、十九歳のときだった。

ダモイしてみると東京の家は空襲であとかたもなく、父はすでに亡く、二歳上で少年兵だった兄房蔵さんも戦死していた。房蔵さんは人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員(海軍二等飛行兵曹)として沖縄へ向け出撃、四五年三月十八日沖縄本島近くの粟国島北北西五キロ付近で米艦からの雷撃によって乗艦(第十八号一等輸送艦)が沈没、回天もろとも青い海に果てた。時に十八歳。実は兄戦死の正確な場所、日時をたしかめるまで得郎さんは何と五十年をこえる歳月を費やしている。

国の記録が杜撰であり、度重なる調査依頼にも有効な回答が得られなかったこと、戦死者が多く有力な証言が少なかったことがその主な理由だが、得郎さんはあきらめなかった。いや、あきらめることは不可能だった。自分も含めて、いったいあの志願は何であったのか戦争をはじめた国家とはいったい何なのか、考えれば考えるほど疑問がつのったからである。

 房蔵さんは二首の遺詠をしたためていた。

 益良夫の後見む心次々にうけつぎ来たりて 我もまた征く
 身は一つ千々に砕きて醜千人殺し殺すも なほあき足らじ

 得郎さんはある雑誌にこう書いている。「小学一年の教科書から〃ススメ、ススメ、ヘイタイススメ〃と学び、〃ボクは軍人大好きよ〃と歌い、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸躍らせ、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと心から信じる少年に育てあげられた。(中略)

私たち当時の少年は、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。そしてその戦争が〃大東亜戦争〃の美名の下、他国を侵略し、他国の民族を支配し、抑圧する戦争だったのだ。しかも少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び〃戦争をする国〃にしようとしている」

そうして、私もつい見落としていたのだが、実は少年兵はいまも再生産されている。少年自衛官とも言うべき陸海空「自衛隊生徒」(十五歳以上十七歳未満の中学卒業者から選ぶ)が毎年採用されている。平成十五年度の合格者は六四六名(昨年度採用は四一一名)で増加傾向にある。応募者はここ数年一万人をこえ倍率は三十倍に迫る。選択の自由はある。だが、同時に一人として戦場で死なせないための、戦争国家をつくらない選択の自由もあることをこの際明確にしておきたい。

少年兵兄弟の無念-6

「生きるも死ぬも運次第」

 特幹募集のキャンペーンが大々的に繰り広げられました。朝日新聞主催の機動演習まで行われました。

 朝日新聞 昭和19年1月16日 進め『陸軍特別幹部候補生』
              ――海空立体機動演習見学――

 苛烈なる決戦下、航空戦並に海上補給戦に活躍する航空、船舶両兵種の中堅幹部の多数育成は刻下の急務なるに鑑み、本社は新設の陸軍特別幹部候補生制度の普及徹底のため陸軍当局の指導にて広く中学校、商業学校、工業学校代表者および生徒代表二千六百名を軍都宇品に招き宇品港を中心に瀬戸内海において特別実施される陸軍船舶部隊および航空部隊の実戦さながらの海空立体機動演習を下記要領により見学せしめ、舟艇機動作戦の重要性を認識せしめ併せて本年度特幹候補生要員拡充に資せんとする。

 期日 一月二十二日(土) 午前十時より  一泊二日間  
      二十三日(日) 午後二時まで
 場所 広島県宇品港を中心とする瀬戸内海および厳島 

 演習参加部隊 歩兵一個大隊、砲兵一個中隊、船舶部隊(以上演習部隊)歩兵一個中隊、砲兵一個中隊、船舶部隊の一部、航空部隊(以上対応部隊)飛行機、上陸用舟艇並に船舶多数参加

 演習見学者 各中学校、商業学校、工業学校より校長(又は指導代表者)および志願者代表(第三学年生)生徒各一名、各地方視学官一名宛合計二千六百名、旅費は往復汽車賃(三等)を支給し演習見学期間一泊二日間四食分は軍給与とす、宿泊は在校船舶の船室を無料提供す。
 主催 朝日新聞 後援 陸軍省、文部省、内務省、運輸逓信省、情報局 協賛 広島県、広島市、日本放送協会

 また昭和十九年一月二十八日付では「陸軍『特幹』沸る熱誠 征く級全員 血書の志願もどしどし」と報じられていました。
 
 当初の少年兵は、高等小学校卒業程度であるために、学歴を度外視し、中等学校を中途退学して志願入校するものはほとんどありませんでした。また、生徒として入隊して二等兵で、伍長の階級に達するまでには二年半ないし三年が要求されました。

 このため海軍が中学三年終了程度で採用する甲種飛行予科練の制度を採用し、入隊後二年程度で下士官に任官させる方法をとるようになりますと、中学卒業者及び在学者で、志願する者は、ほとんどそれに応募するようになったのでした。 

 少年がみな海軍の予科練にとられてしまうという危機感から、予科練に対抗して特別幹部候補生を作り、少年たちを陸軍に確保しようとするという陸軍の意識が特幹を生み出したと言うことも出来るでしょう。また見方を変えて言うならば、二十歳を超えた人材をかり出したのが学徒出陣であったしそれ以下の人材を刈り尽くしたのが、この特幹であったとも言えるでしょう。

 陸軍の敗戦時の書類資料の焼却で正確な数字は分かりませんが、元特幹の同期会が協力して調べた数字に依れば、昭和十九年四月から敗戦までの僅か一年半に、特幹に八万名を超える少年たちが入隊をしたのでした。また当時の新聞では、十倍の競争率であったと報じられていました。

 甲種予科練は、昭和十六年十二月の大平洋戦争開戦後の昭和十七年四月から、特幹制度がまだない十八年十二月までの入隊数三万四千五百名、特幹創設の昭和十九年四月から敗戦までの入隊数十万三千名でありました。
なお「わだつみのこえ」の学徒出陣は約十二万名~十三万名といわれています。

 特幹の採用試験は全国各地で行われ、第一次身体検査の後、昭和十八年二月十六日に学力検査が行われ、私は東京の早稲田中学校で試験を受けました。 試験は、算数と「特別幹部候補生たらんとする決意を旧師に報ずる文を書け」と言う作文でした。

 算数にはこんな問題もありました。
 「爆弾積載時の速度四〇〇キロ、投下後はその四分の一の速度を増す、重爆撃機が十時間の航続時間を有するとき、この機は何キロ遠き地まで爆撃し得るか、但し敵地上空において三十分を費やし、その他に三十分の余裕をおくべきものとす。」

 私は運が良いのです。 戦争では、兵隊の生命は自分で守ることはできません。「任地」や「任務」は「命令」で決まるのです。そこには自分の意思や希望を働かす余地は全くありません。それこそ「運」に恵まれるかどうかということだけで生命がもてあそばれます。
後で考えると、運が良かった、あれで助かった、命を長らえたと思うことが何度もあります。

 その最初がこの入隊志願のときでした。特幹第一期の採用は航空と船舶の二つの兵科に限られ、航空は操縦・通信・整備、船舶は船舶工兵、船舶通信、特殊艇要員、整備要員でした。どちらかの希望に○をつけるのです。
私の長兄は船舶兵で南方に転戦していました。戦地の兄から軍事郵便のはがきが着くと必ずどこか一カ所検閲で墨が塗ってあります。長兄は検閲を想定して地名をどこかに入れてあります。姉が先ずその墨を丹念に拭き取ると、下からペン字の地名が現れてきます。「アツ、マニラだ」「アレ、セブ島だ。セブ島ってどこだろう。地図持ってきてよ」。すぐ上の兄と私が地図で調べます。「今度はアンボンだ。アンボンてどこだ、すごいな船舶兵は。あちこち飛び回って」。そんなことで何か船舶兵に憧れを持っていたのでした。

 だから私は船舶兵志望に○をつけました。しかし「大空への憧れ」、大空を飛びたいという憧れを打ち消すことはできませんでした。試験を終わって退席直前、慌てて、船舶兵を×で消し、航空兵に○を書き、会場を飛びだしたのでした。

 戦後にわかったのですが、特幹一期の船舶兵は一八九〇人でしたが四五年四月から小豆島で訓練し、八月には一七一八人が特攻隊として第一線に配置されました。いわゆる陸軍海上挺進隊です。そのうち一一八五人がルソン島、沖縄、台湾沖で戦死しました。あの時、船舶兵に○のまま試験場を出ていたら、私もその中に入っていたと思います。

 陸軍海上挺進隊というのは、海軍の震洋特攻隊と同じです。特幹一期生を主力に創設された、陸軍の水上特攻隊でした。長さ五メートル、トヨタの六〇馬力ガソリンエンジンが付いたベニヤ板製で「連絡艇」通称レ艇(マルレ)に二五〇キロの爆薬を付けて敵艦に体当たりするのです。海軍の震洋は頭からぶつかります。

 陸軍のレ艇は海面下で爆発させるため、衝突直前に艇を反転し爆薬を投下します。攻撃は三隻~九隻一体になって夜中に行われます。米艦は攻撃を避けるため、夜は港外に避難しています。そのため米艦に近づけず引き返してくることも度々ありました。ルソン島では米軍の進撃が早く、出撃基地を追われ、再度の出撃もならず、陸上部隊と地上戦闘に参加となります。

 すると「お前たちは特攻隊の生き残りだ。斬り込み隊で死んでこい」と命令されるのです。敵の見えるところまで進むと援護部隊はそこから一歩も出ずに、斬り込み隊の少年兵たちに「さあ、お前たち行け!」と突撃させられるわけです。生き残ると死ぬまで「斬り込み隊」です。ひどい話です。

 あの時、船舶兵志望のままだったら、恐らく私は海上艇進隊で戦死をしていたことでしょう。今の私はいなかったことでしょう。私は合格でした。四月六日に、水戸市郊外の陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊せよという通知を受け取りました。

2010年2月4日木曜日

少年兵兄弟の無念-5

「少年兵志願」             

 私は「軍国少年」という言葉をあまり好みませんし、使いません。「軍国少年」と言う言葉は戦後に造られ、流行り出した言葉だと思っています。「軍国少年」と言う言葉には、戦争の「片棒」をかつがされた、戦争に協力させられた、戦争に同調した「口惜しさ」よりも、「麻疹」(はしか)か「流行病」(はやりやまい)の様に「自然現象」のような当然のことだったという印象があります。「戦争指向」の少年たちを造りだした、戦争指導者たちの責任は陰に隠れてしまうように思えてなりません。

 私の生き残りの同期生の中で「軍国少年」という言葉を使う人はいません。徴兵でなく志願して兵隊に行ったということが一つのしこりになって残っていて、心の中の刺になっているわけだから、そんな言葉を使いたくないのです。当時の少年たちは、人間として一番正しいこと、日本人として当然あるべきこと、男の進むべき道、そういった価値観を持って、自然に、その道を歩んだのです。恐ろしいことです。戦争の道に少年たちを引きずり込んだ当時の政府、権力の施策、教育で「軍国主義指向」「戦争賛美思考」の人間に、

 普通の少年がみんなそうなっていたのです。だから恐ろしいのです。
いわゆる「軍国主義的」言葉で級友たちを煽り立て、勇ましそうに振る舞っていた一握りの連中は、「予科練」「特幹」などの志願を煽り立てます。勿論自分も応募します。ところが彼らは白紙の答案を出して不合格になります。そうして、陸軍士官学校や、海軍士官学校に願書をだし立身出世の道を目指したのでした。私は、「軍国少年」という少年がいたとしたら、こういう連中のことだと思っています。

 学徒兵は文科系学生の徴兵猶予の措置が停止され徴兵となり、やむなく、ペンを捨て銃を担いだのでした。しかもその多くが海軍の予備学生や陸軍の幹部候補生あるいは特別操縦見習士官として将校となり、消耗品としての下級将校として、戦争を厭いつつ戦死する悲劇の主人公として画かれています。

 私たち少年兵は将校となり軍人となって偉くなるという小学生の頃からの夢を捨て、兵士として、下士官として国に尽くしたいと願い、自分の意思で進んで志願したのです。これが私たち少年兵と学徒出陣兵との違いなのです。ところがそれが侵略戦争だったんでしょう。だから口惜しいのです。こんな口惜しいことがあるでしょうか。

 四三年(昭和十八年)になると、中国人民の国民的反抗で中国戦線での日本の支配は都市と鉄道沿線という点と線のみに押し込められ、一方ミッドウエー海戦以後アメリカ軍の反攻は急速に強まっていました。二月、ガダルカナル島撤退。五月、アリューシャン列島アッツ島日本軍守備隊玉砕、キスカ島撤退、十一月、ギルバート諸島マキン島日本軍守備隊玉砕。タラワ島玉砕。玉砕とは全滅、撤退とは退却のことです。少年たちにも、日本軍は押される一方だ、危ないという情勢はひしひしと感じられるようになりました。

 中学三年の十二月のある日のことでした。「お父さん。僕は、今度出来た陸軍の特別幹部候補生に志願したいんだ。許して下さい。」と訴えました。 陸軍特別幹部候補生というのはこの年十二月十四日付の勅令第九二二号「陸軍現役下士官補充及び現役臨時特例」によって生まれた陸軍現役下士官養成制度です。戦線の拡大で航空、船舶などの下級技術系幹部が不足してくる。それで未だ頭が柔軟で一定の軍事教練の下地のある十五歳から十九歳の少年を集め、速成して戦地に送り出そうということなのです。

 軍隊の中核は将校集団です。陸軍では士官学校、航空士官学校出身、海軍では兵学校、機関学校卒の職業軍人、エリートたちです。そして底辺には徴兵、応召の沢山の兵隊たちがいます。その中間にあって将校の意に添って兵隊を動かしていくのが下士官です。会社で言えば部長、課長が将校、下士官がたたき上げの係長、主任、一般社員が兵隊といったところでしょうか。

 戦局が悪化していく中で、現役下士官、とりわけ航空、船舶、通信、整備技術などの、兵科及び技術系下士官を大量に養成する必要に迫られていたので、十五歳から十九歳まで、中学三年二学期終了程度の学力、既に軍事教練をある程度習得している生徒を採用し、一般の兵隊は二等兵として入隊するのですが、入隊後直ちに一等兵、六ヶ月ごとに進級して一年半後には伍長又は軍曹の大量の現役下士官を作ろうというのがこの制度でした。

 当時、中学三年では、中学校でかなりの軍事教練を習得していました。また、海軍の飛行予科練習生(予科練)の大量採用に対抗して少年兵を陸軍に引き留めることもねらいでした。
 当時の少年にとって海への憧れ、空への憧れというものは強烈でした。そしてそれは海軍への憧れ、予科練への憧れでもありました。海軍の「飛行予科練習生・予科練」は少年兵の象徴的存在でした。西条八十作詞・古関祐而作曲で霧島昇の歌った『若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨』という『若鷲の歌』」は少年たちの愛唱歌となっていました。すべての中学校に予科練募集の勧誘が行われていました。

 予科練を画いた『決戦の大空へ』(一九四三年東宝映画。山下良三製作。渡辺邦夫監督。原節子、木村功主演。海軍省後援)は強烈に少年たちの心を捉えました。陸軍にも『西住戦車長伝』(一九四〇年松竹映画。菊池寛原作。吉村公三郎監督。上原謙主演)などがありましたが、少年たちには躍動感が今ひとつでした。『加藤隼戦闘隊』」(一九四四年東宝映画。山本嘉次郎監督。藤田進主演)で陸軍がやっと海軍に追いついたと言うことでしょうか。特幹は、予科練の大量採用で「少年たちはみんな海軍に持っていかれる」と危機感を抱いた陸軍の、少年を陸軍に引き留める対抗策でもありました。オペラ歌手で有名な藤原義江が「特幹の歌」を歌い、灰田勝彦が「特幹兄は征く」を歌いました。

 さらには消耗品として飛行機特攻や、船舶特攻の要員を大量に急速に補うために、この制度ができたとも云えます。実際に、この船舶特幹一期生を柱として陸軍の水上特攻海上挺身隊が生まれ、船舶特幹一期生千九百名中千百四十名が戦場の露と消えました。

 十二月十五日付の朝日新聞に、「陸軍に特別幹部候補生―一年半で優秀な下士官を養成」と四段抜きの大きなタイトルで報じられ、「陸軍では戦局の養成に即応するため、今度、少年兵の『兄さん兵』ともいうべき『陸軍特別幹部候補生』新制度は、これまでの幹部候補生あるいは特別操縦見習士官と少年兵の中間に当たるもので、制度としては、国軍の幹部である下士官養成の点で、従来の少年兵に類似しているが、教育期間の短い点と、決戦化にふさわしい敵前下の実地訓練に重点が置かれていることが特徴である。今回の新制度の新設によって、皇国のあらゆる青少年層に、等しく陸軍幹部として進む道が完備されることになった」と解説しています。

 十五歳の、中学三年の私が少年兵を志願するというのです。父はびっくりしました。もちろん反対です。
 私の家は男四人、女一人の五人兄弟でしたが、私が末っ子の四男でした。長兄は昭和十六年七月に対ソ戦の準備で大動員がかかった「関特演」(関東軍特別大演習の略)に召集されて、満州で船舶兵の訓練を受け、その後南方のフィリッピン、インドネシアに転戦していました。

 次兄は物理学校(現東京理科大学)を繰り上げ卒業し立川飛行機で働いていましたが、昭和十八年十二月の学徒出陣の日、鉾田飛行部隊に入隊しました。次兄は当時のことを語ったことがありません。軽爆撃機や特攻機の整備をしていました。より高く、より速く、より安全にと兄たちが整備した飛行機で、同じ若者たちが特攻に飛び立ったのでした。そんな体験からでしょう、復員後は技術者にはならず、ホテル・ドアマンのアルバイトをしながら医者になりました。

 三兄も次兄と同じ日、十七歳で海軍の予科練で三重航空隊に入隊しました。兄は、入隊前夜の送別会で「…国難ここに見る…」と元寇の歌を歌いました。
 その上一人残った、まだ十五歳の私が特幹を志願するというのです。大変なことです。親として反対するのは当然のことでしょう。

 父は必死で私を説得しました。「お父さんはお前が兵隊に征くことに反対するのではない。もう三人も征っている。充分お国のために尽くしている。銃後の守りも大切だ。お前だってもう何年か後には徴兵で兵隊に征くことになる。それまで心と体を鍛え、銃後を護ることも大切なことだ。」

 私は頑として説を曲げませんでした。「お父さん。アッツ島(アリューシャン列島)もマキンもタラワ(中部太平洋ギルバート諸島)も玉砕(全滅)した。このままではアメリカの反攻の前に日本は大変なことになりそうだ。今こそ僕たち日本男児はみんな戦場に出て、国を守るため、東洋平和のため戦わなければならいのだ。是非僕の特幹志願を認めてもらいたい。」

 あまりの頑強さに父は論調を変えてきました。「そんなに軍人になりたいのなら士官学校に行きなさい。学校でも推薦しているではないか。特幹でも士官学校でも軍人になることに代わりはないだろう。まして士官学校を出て将校になれば、下士官や兵隊よりもっと大切な任務について、よりいっそうお国のために役に立つことになるのだろう。その方がずっと忠義を尽くす道じゃあないか。士官学校に行きなさい。」

 私は意志を変えませんでした。「士官学校に行けば、確かに将校になって偉くなれる。だけれども戦場に出るのは五年も六年も先だ。それでは間に合わない。その頃日本はどうなっているのか分からない。どうしても今志願して祖国日本を守る戦いに参加したいのだ。お父さん、日本がどうなっても良いのですか。」
 そんな押し問答を三日間続けました。私は口もきかなくなりました。父をにらみつけて食事も食べなくなりました。根負けした父は四日目「それなら征きなさい。しかし命だけは大切にしなさい。」と許してくれました。

 「それでは征け」と言った父の、その時のがっくりと肩を落とした姿は今でも目に浮かびます。父の後ろの壁には大元帥陛下昭和天皇の写真と日の丸の旗の額が飾ってありました。
 私は母を早くに亡くしたのですが、私と父の論争の間、部屋の外の廊下では、女子医専の学生で母代わりの姉がずっと聞いていました。生涯忘れることの出来ない痛恨の思い出です。

 入隊のとき、かなりの少年兵は親に反対され、親の目をかすめて判子を押していました。保護者の承諾印がないと入隊できません。親にすればああいう時代でも当然反対するでしょうし、子どもの方は、親の反対を押し切ってでもとなるのです。だから、私は余計に頭にくるわけです。

 つまりそういうふうにさせられた。そういう少年に仕立て上げられた。そして自分の意思で志願した。そこに少年兵の口惜しさ、無念、悔いがあるのです。引っ張り出されたのではない。自分の正義感で、自分の祖国愛で、自分の意思で行ったのだ。そして戦争の片棒を担がされたのだ。しかもそれが侵略戦争だったのだ。正義感と夢あふれた青春はもう二度と帰ってこないのです。口惜しいです。無念です。もしその時志願していなければ、工場に学徒動員されただけだったと思います。こんな口惜しい思いはしなくてすんだでしょう。

 さっきは学徒出陣との違いと言いましたが、それはまた、軍国主義的教育をたたき込まれ大変な苦労をしたけれど、戦場体験も、戦争の片棒を担がされた経験も、志願するかどうかの決断を迫られる経験もせずにすんだ「少国民・学童疎開」世代と、私たち「少年兵・学徒動員」世代との違いでもあるのです。

少年兵兄弟の無念-4

「戦争しか知らない子ども」として    
                         
 一九三八年(昭和十三)四月一日には国家総動員法が発布されました。それは、戦争遂行のため国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したものでした。そして近衛内閣は「国民政府を対手とせず」の声明を発表し、自ら戦争解決の道を閉ざしたのでした。

 日中戦争は、長期戦に突入し、すでに十六個師団約六〇万の大軍を送り、七万の死傷者を出していました。一方で対ソ戦備や対米戦備を進めながら、この大規模な戦争を長期にわたって続けるためには、国内体制の戦時化、とくに軍需工場の生産力の拡充が急務でありました。

 五月日本軍徐州を占領、七月張鼓峰事件、十月広東、武漢三鎮占領、三九年二、三月海南島上陸、五月ノモンハン事件といった戦況の泥沼化を背景に三九年五月二十二日「青少年に賜りたる勅語」が出されました。大変難しく、わかりにくい文章ですが、当時の青少年はこんなものまで昭和天皇のお言葉だと、有難く聴かされ、読まされ、覚えさせられたのでした。参考までに紹介します。

 青少年学徒に賜りたる勅語」 昭和十四年五月二二日   
 国本に培い国力を養ひ、以て国家隆昌の気運を永世に維持せむとす任たる極めて重く、道たる甚だ遠し、而して其の任、実に繋りて汝等、青少年学徒の雙肩に在り、汝等、其れ、気節を尚び、廉恥を重んじ、古今の史実に稽(かんが)へ、中外の時勢に鑒(かんが)み、其の思索を精にして、其の識見を長じ、執る所中を失わず、嚮(むか)ふ所正を誤らず、各其の本分を恪守 (かくしゅ)し、文を修め、武を練り、質実剛健の気風を振動し、以て負荷の大任を全くせむことを期せよ

 その日、中学校(旧制五年制)以上の学校に軍事教育が行われて十五周年を記念する一大式典が、宮城前広場で挙行されました。当時の新聞はこの模様を「歩武堂々、青春武装の大絵巻」と大見出しで仰々しく次のように報道しています。

 「…晴のこの日、朝鮮、台湾、満州、樺太を含む全日本からすぐった、中等学校以上約千八〇〇校代表三万二千五百余名の学生生徒は、大学学部の第一集団をはじめ学校別、地区別によって九集団、三〇個大隊、一一〇個中隊に編成され、執銃帯剣巻きゲートルの武装に凛々しく、三千余名の教職員と共に、午前七時ころ
早くも式場外部の各集合地に集合、第一集団長小原大佐以下各集団長の指揮の下に、それぞれ式場に向かって進発、同時までに宮城外苑の玉砂利とアスフアルト路面を、黒とカーキーと霜降りの三色に埋めて整列を終わる。

 …陛下には御親閲台中壇侍立の荒木文相より午前を行進する各部隊の学校種別の奏上を聴召されつつ各隊の敬礼に一々御挙手の御答礼を賜い、かくて限りなき感激のうちに同一〇時四五分全集団の分列式は滞りなく終了、荒木文相の発声による『天皇陛下万歳』の声は都心に響きわたった。」

 執銃帯剣巻きゲートルとは、三八式歩兵銃を担ぎ、腰に三〇年式銃剣を帯び脚にゲートルを巻いた、日本兵の典型的な姿のことなのです。当時は、大学、中学でも軍事教練が制度化していました。三八式歩兵銃は採用年の明治三八(一九〇五)年から来ています。長く重く昭和一四(一九九九)年から九九式短小銃に変えられていきました。兵士たちは、銃の先に短剣を付けて戦闘を行います。ゲートルは巻脚絆と言う呼称で、巾八センチ長さ二メートル弱のウール製、緑色の布を決められた様式で両足に巻き付け、端の細ひもで膝下に留めるもので、鉄帽などとともに兵士の戦闘服装の一つでした。

 徐州会戦での西住戦車長の「英雄的な戦い」は新聞でラジオで映画で少年たちの心を沸き立たせ、「昭和の軍神・西住戦車長伝ー菊池寛」はベストセラーとなりました。

 日中戦争が始まって戦火が拡大し、泥沼化すると、陸軍は英雄を創り出すことで戦意の高揚を図りました。そこから東京日々新聞、大阪毎日新聞連載の菊池寛原作の「西住戦車長伝」が松竹で吉村公三郎監督により映画化されることになりました。上原謙扮する西住小次郎戦車長は熊本県出身、久留米の戦車第一連隊の中尉で、徐州会戦など主として大陸戦線に参加し、戦死して軍神と称えられるようになったのです。それまで軍神とされていたのは、日露戦争の広瀬武夫中佐、乃木希典大将でした。

 そして少年たちは「エンジンの音囂々と隼は征く雲の果て……」の加藤隼戦闘隊の歌に戦場の空の蒼さを夢み、「若い血潮の予科連の七つボタンは桜に碇……」の若鷲の歌に跳びたつ決意をかためていったのでした。

 加藤隼戦闘隊は、太平洋戦争初期に南方戦線で活躍した加藤建夫陸軍中佐(戦死後少将)率いる陸軍飛行第六四戦隊の通称名・愛称名でありました。一九四四年(昭和十九年)東宝で、山本次郎監督、藤田進主演により映画「加藤隼戦闘隊」が製作され、陸軍省が後援し、情報局選定の国民映画として公開されたまし。加藤隼戦闘隊の歌は、一九四〇年(昭和十五年)三月南寧で作られた「飛行第六四戦隊歌」であります。一九四一年(昭和十六年)元日に公開されたニュース映画で広く知られるようになり映画封切りの直前の一九四三年に灰田勝彦の歌で、加藤隼戦闘隊の歌としてレコード化されました。

 渡邊邦夫監督、原節子、高田稔出演で、予科練生の生活と成長を描き、予科練の宣伝募集、戦意高揚のための戦争映画「決戦の大空へ」は、挿入歌「若鷲の歌」とともに大ヒットしたのでした。西条八十作詞 古関裕而作曲 歌霧島昇で、当時の少年の愛唱歌であり、予科練は少年兵の憧れ、象徴的存在となりました。

 勇ましい話ばかりではありません。 四一年(昭和十六年)四月から主食が配給制になりました。中学三年の頃、四三年には雑穀などをお米の代わりにする配給制になりました。じゃがいも、小麦、大豆、さつまいも、豆かすなどがお米の代わりに配給されました。衣料品も四二年から切符制になりました。 日の丸弁当に影響が現れました。まん中の梅干しをとると下から海苔弁や、おからと炒り卵を混ぜたものが敷き詰めてあったのですが、正真正銘の日の丸弁当です。それもご飯は中央部だけ、周りはさつまいもやじゃがいもで囲んでありました。

 市ヶ谷刑務所の跡地にも随分助けられました。小学校は牛込区富久小学校でしたが隣に市ヶ谷刑務所がありました。高台の学校の屋上からは刑務所内の赤(既決囚)や青(未決囚)の囚人服が眺められました。二年の時、看守の家族や、刑務所前の、仕出し屋、文房具屋など面会人のための商店の家族の学友達も一緒に、市ヶ谷刑務所は巣鴨刑務所に引っ越して行きました。

 建物が壊されたままの跡地は、そのまま放置されていました。広大な空き地には塀も柵も何もありません。隣組で、縄張りを作り畑の開墾です。父が隣組の組長でしたから、週に二.三回は畑仕事です。じゃがいも、大根、なす、トマト、葉もの、いろいろ作りました。時には、朝早く、路肩にある肥やし桶を拝借して、リヤカーに乗せ運びます。我が隣組の野菜の出来は、他の組より大分質も量も良かったようです。収穫した作物を配って歩くと随分喜ばれました。

 遺骨の出迎えの回数が多くなりました。旗竿頂点から少しずらして日の丸の旗を取り付け、黒いリボンが数本垂らされた弔旗が先頭です。出征の時のような鉦や太鼓はありません。ゆっくりしたテンポのラッパの音にしずしずと白木の箱の遺骨と遺影を抱えた遺族が涙をこらえて歩きます。喪章をつけて街の人達が続きます。

 「天皇陛下のため、お国のため、息子は立派に戦死しました。親としてもこんな光栄なことはありません」。遺族のそんな挨拶の後、ラッパの音にのせて「海ゆかば」を合唱します。

 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば 草生(くさむ)す屍
 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ

 これで解散です。遺族達は、どこの家でも、歌が終わると一斉に家の中へ駆け込みます。中学生の私は、決まって見られるこの光景が不思議でなりませんでした。ある時、親しくつきあっている家の遺骨が帰ってきました。 私は、遺族達の後をついて、家の中に入りました。家族は、みんな肩を寄せ合って、声を出して泣いていました。

 その光景に、私はしばらく呆然としていましたが、やがて涙が溢れてきました。中学生の私は「よし、敵を討つぞ」そんな思いに駆られたのでした 。

少年兵兄弟の無念-3

   少年兵兄弟の無念 (3)
       「戦争しか知らない子ども」として 
                       猪熊得郎
 私が小学校三年、一九三七年(昭和十二)には廬溝橋事件が起こり中国に対する全面的な侵略戦争が始まりました。七月七日午後十時四十分頃北京の西南廬溝橋付近の永定河左岸で日本軍が演習中、中国軍と交戦しました。十一日現地で停戦協定が結ばれましたが、同じ日、近衛文麿内閣は陸軍の提案を受け「重大決意」をもって華北への派兵を決定し、三十日には廬溝橋・北京・天津を軍事占領し日中全面戦争として発展したのでした。

 近衛内閣は戦争が長期化すると予想し、八月には国民を戦争遂行に協力させようと、「国民精神総動員要綱」を閣議で決定し、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンのもと、国家のために自己を犠牲にして尽くす、国民の精神を推進するための国民精神総動員運動が繰り広げられました。

 戦意高揚の標語として、「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「遂げよ聖戦 興せよ東亜」「聖戦だ 己殺して 国生かせ」等と国民に耐乏生活を強いるとともに、「パーマネントを止めましょう」「日の丸弁当」奨励なども叫ばれました。日の丸弁当とは、ご飯の真ん中に梅干し一個の弁当のことなのです。

 また、内務相は「時局に関する記事取り扱い方に関する件」を通達し、新聞・通信社への警察の指導を要請しました。
   1.反戦・反軍的言論や軍民離間を招く事項
   2.日本の国策を侵略主義と疑わせる事項
3.日本に不利となる外国新聞の記事の転載
この通達は、日本軍部の軍事行動に関する記事の差し止めを求め、以後戦争に関する報道はこの枠の中に統制されたのでした。  、

 「国民精神強調月間」「国民精神作興週間」「肇国精神強調週間」など難しい言葉の行事の度に、子供達は校庭に集められ、校長先生から訓辞を聞かされました。要するに「神の国日本、万世一系の天皇をお護りして、国を護るために、己を捨てて力を合わせよう」と言うことのようでしたが、ちんぷんかんぷんでよく
分かりませんでした。何人かの学友が、気持ちが悪くなって医務室に運ばれるのですが、今日は何人だと仲間と当てっこをしたのを覚えています。

 家に帰って「『こくみんせいしんさっこうしゅうかん』て何なの」と父に聞くと、「近衛さんの言うことはお父さんもよく分からないよ。そのうち分かるさ。」「でも、お父さんがこんなこと言ったなど外で言ったら駄目だぞ」と言われたのでした。少しづつ、外向きの言葉と、家の中での本音ということも身につけたようです。  

 新聞ラジオや少年雑誌では「広瀬中佐」や「木口小兵」「橘中佐」などの戦場美談がたっぷりと繰り広げられていました。

 一九四一年(昭和一四年)九月から毎月一日は「興亜奉公日」となりました。後に八日の「大詔奉戴日」に代わりましたが、梅干しの「日の丸弁当」、国旗掲揚、神社仏閣への必勝祈願、防空訓練が行われていました。

 三月一〇日の陸軍記念日は明治三七・八年の日露戦争の奉天大会戦で日本陸軍が大勝利した日です。その日は講堂に集められ、陸軍の軍人から奉天大会戦の話です。五月二七日は海軍記念日です。今度は海軍軍人の日本海大海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅した話です。戦艦三笠を先頭に「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ。本日天気晴朗なれど波高し」というZ旗上がるの話に血湧き肉躍らされました。

 中国戦線の拡大と共に出征兵士を送ることが毎月のようになりました。日の丸の旗を振りながら、「天に代わりて不義を撃つ 忠勇無双の我が兵は…」と軍歌を歌って行進しました。上海陥落、南京陥落など日本軍の大勝利が伝えられると旗行列、提灯行列で街中大騒ぎになりました。子どもたちも一緒に万歳万歳と歩き回りました。

 それから、天皇陛下、つまり大元帥陛下が代々木練兵場に来るようなときは、学校が近いので連れて行かれました。天皇陛下が白馬に跨って白い羽毛の帽子を被っているのを遠くから見て涙が出るほど感激していました。

 そういうふうに育ってきたわけですから、日本民族というのは優秀な民族で、朝鮮人や中国人は劣った民族だと思っていました。「我々は日出ずる国の天子の下、アジアの平和のため大東亜戦争に征くんだ」と、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」と言う言葉を子ども心に信じていました。
 
 一九四〇年(昭和一五)は神武天皇が即位したという架空の紀元で二六〇〇年という事で大々的に紀元二六〇〇年奉祝の行事が繰り広げられました。 七月二六日に近衛文麿内閣は閣議で「基本国策要項」を決定しました。それは「国家国防体制」を確立し「八紘(はっこう)を一宇(いちう)とする肇国の大精神」によって「大東亜共栄圏」を確立するというものでした。 八紘とは広い地の果て、天下という意味、一宇とは一つの家ということです。 八紘一宇とは七二〇年の「日本書紀」で初代神武天皇が奈良の橿原の宮で即位したさい発したとされる「掩八紘而為宇(はっこうをおおいていえとなす)にもとづいて造語された言葉で日出る国の天子、すなわち日本の天皇の意向のもとに全世界を一体化しようという意味で日本の対外膨張を正当化するために用いられたスローガンです。

 そうして中学生時代は、日本軍の戦果を伝える大本営発表にラジオの前で万歳をし、軍事教練で戦場を夢見たのでした。

 一九四一年(昭和一六年)十二月八日、日本軍は奇襲攻撃でマレー半島に上陸するとともに、ハワイ真珠湾を攻撃しました。アメリカ、イギリス、オランダに宣戦布告をし、戦争は、アジア・太平洋戦争へと発展しました。日本政府は、これを「大東亜戦争」と名付けました。

 学校への通学は、戦闘帽に巻脚絆、最寄りの駅から二列縦隊の隊伍を組んで校門では当番生徒に「歩調とれ!」「頭(かしら)右!」の号令で敬礼を交わします。校庭の中央奥にある神社で「武運長久」の祈願。それから教室に入って授業です。一年の時から三八式歩兵銃ををかついで軍事教練、三年の時は、二泊三日、軽井沢で野外演習をしました。 冬、雪が降ると一斉に授業を止めて校庭に集合。上半身裸になって、町中を駆け足行進です。

 さらに戦局の推移とともに「撃ちてし止まむ」「進め一億火の玉だ」「月月火水木金金」などの新しいスローガンと「軍艦行進曲」「元寇」「抜刀隊」「加藤隼戦闘隊長」「若鷲の歌」等の軍歌に少年達は「正義感」と「愛国心」を燃え立たせたのでした。 私たち当時の少年は軍歌を応援歌として育ちました。

 朝日新聞一九四三年二月二八日の朝刊です。
 撃ちてし止まむ 受けて見よこの手榴弾
米英撃破の突撃路はいま開かれようとしている。彼らが呼号する鉄と火薬の防御陣がいかに固く長くともわれは征く。鉄火の嵐を衝いて、皇軍勇士は断じてゆくのだ!!幾たりかの戦友が倒れて行った。〃大元帥陛下万歳〃を奉唱して笑いながら死んでいった……。今こそ受けよ、この恨み、この肉弾!この一塊、この一塊の手榴弾に、戦友のそして一億の恨みがこもっているのだ。敵の生肝を、この口で、この爪で、挟ってやるのだ!広×数万キロの戦線に、総進撃の喚声が、怒濤のようにどよもし、どよもす。数万の屍を踏み越えて、皇軍勇士は突撃する。ユニオン・ジャックと星条旗を足下に蹂躙して、進む突撃路はロンドンへワシントンへ続いているのだ……烈火の戦場精神は凝って百畳敷の大写真となった。別項社告のように、東京および大阪の三箇所に掲揚して「撃ちてし止まむ」の精神を呼びかけるのである。
      

 四三年三月五日、鉄兜の日本軍兵士が手榴弾を投げようとする瞬間の写真ポスター、朝日新聞企画で、35枚の印画紙、100畳敷が東京有楽町の日劇(現マリオン)正面に掲げられ、三月一〇日の陸軍記念日には、その前で陸軍軍楽隊による演奏が行われました。

 銀座四丁目の服部時計の建物にも、撃ちてし止まむのスローガンの同じ写真の大きなポスターが貼られました。銀座四丁目の四つ角の歩道には、米国、英国、オランダ、中国、四カ国の国旗が描かれていました。私たち中学生は、学校の終業後、みんなで連れ立ってその国旗を踏みにじりに行きました。憎らしげに踏みにじり、銀座四丁目の四つ角を何度も何度も回ったのでした。

少年兵兄弟の無念-2

【「戦争しか知らない子供」として】

 十五年戦争といわれるアジア・太平洋戦争は一九三一年(昭和六)九月十八日の柳条湖事件を発端とする満州事変で始まりましたが、私が小学三年のとき、一九三七年(昭和十二)七月七日には廬溝橋事件が起こり中国に対する全面的戦争となりました。そして中学一年の時、一九四一年(昭和一六年)十二月には、日本軍のマレー半島上陸、真珠湾奇襲攻撃とアメリカ、イギリス、オランダへの宣戦布告によってアジア・、太平洋戦争が全面的に繰り広げられ、一九四五年(昭和二〇年)八月十五日の「ポツダム宣言」の受諾による日本の無条件降伏によって戦争は終わりました。

 七〇年代に「戦争を知らない子供たち」というフォークソングがヒットしましたが、私たち兄弟は、「戦争しか知らない子供」として育ち私たちの「青春」はまさに戦争の中の青春だったのでした。特攻隊員として十八歳で戦死した兄は、戦争のためにだけ生き、そして平和の時代を知ることなく、短い生涯を沖縄の海に散っていったのでした。

 私が物心が付いた頃から小学校入学の時期は、大正ロマンの自由主義的気風が消え去り、日本の軍国主義が急速に進展する時代でした。「満蒙はわが国の生命線」であるをスローガンに中国東北地方への侵略が開始されました。一九三一年(昭和六年)九月十八日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で日本の関東軍が南満州鉄道を爆破し、それを口実に満州全土(中国東北部)を占領し、傀儡国家満州国を樹立しました。国際連盟で十三対一と加害者として批判され国際的に孤立した日本は、一九三八年(昭和八年)国際連盟を脱退しました。 

 新聞・ラジオなどのマスコミは、関東軍の虚偽の発表を鵜呑みにして、戦場美談とともに日本軍の奮戦と勝利を称え、「正義の前に支那軍ほとんど壊滅」(名古屋新聞一九三一年九月二十日)、「悪鬼の如き支那暴兵!我軍出動遂に掃討」(東京日々新聞十月十五日)、「正義の国日本、非理なる理事会」(東京日々新聞十月二十六日)など中国への侮蔑と憎悪を煽り、国際連盟を敵視する記事を溢れさせました。高まる拝外熱と軍国熱を背景に軍部は国防思想普及運動を全国に展開しました。

 私は一九三五年(昭和十年)に小学校に入学しました。小学一年の国語教科書では「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」「ヒノマルノハタバンザイ・バンザイ」と学び、唱歌の時間には「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったなら 鉄砲担いで剣下げて お馬に乗って はいどうどう」と歌いました。修身の教科書の最初の見開きには、菊の紋章の天皇旗を先頭にした近衛騎兵に守られ、馬車に乗った天皇の行列が、皇居から二重橋を渡って皇居前広場を行進している写真が飾られていました。修身の最後は「チュウギ」でした。突撃をする兵隊の中で、ラッパ手が、のけぞるように倒れながら、ラッパを吹き続けている絵を背景に、文章が掲げられていました。

 「キグチコヘイハ、イサマシクイクサ ニデマシタ。テキノタマニ アタリマシタガ、 シンデモ、ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」

 小学二年では上海事変の軍国美談、「肉弾三勇士」の話を聞きました。三二年二月二十二日、上海廟巷鎮(びょうこうちん)の戦闘で、混成第二四旅団所属工兵第一八大隊の江下武二(えしたたけじ)・北川蒸(きたがわすすむ)・作江伊之助(さくえいのすけ)の三名の一等兵が、爆弾を竹筒でつつんだ約三メートルの破壊筒を抱いて鉄条網に突入し、友軍の突撃路を開くためた自分の身を犠牲にして爆死したという話です。当時、この三名は世界無比の壮烈な戦死を遂げたというマスコミのセンセーショナルな報道に、世間は沸き立ち、朝日新聞が募集した「肉弾三勇士の歌」に与謝野寛(鉄幹)が応募当選し戸山学校軍楽隊が作曲して、大変流行したのでした

   廟行鎮の 敵の弾 我の友隊 すでに 攻む
   折から凍る 二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時

 私たち子供は、竹の筒を抱えて、「午前五時」とこの歌を歌いながら遊んだのを覚えています。一九六五年、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の「私の昭和史」に出演した当時の上海公使館付き陸軍武官補佐官であった田中隆吉元少佐は肉弾三勇士についてこう語っていました。「命令した上官がですな、爆弾の導火線の火縄を一メートルにしておけば、あの鉄条網を爆破して安全に帰ることが出来たんです。それが誤って五〇センチ、即ち半分にしてしまったんです。それで……三人は無残な爆死を遂げちゃったんです。……彼らは完全に爆破して帰れると思っていたんです。

 「肉弾三勇士」の後、先生から「なぜ、支那兵をチャンコロというのか」と教えられました。支那と言う言葉は中国を侮蔑した言葉です。―明治二七・八年の日清戦争の時、当時の日本は貧しかったから優秀な武器は買えなかった。鉄砲を撃っても「バン」とはいわない。「チャン」としか言わなかった。けれど日本の兵隊は優秀だから鉄砲で「チャンと」撃つと、「コロリ」と支那兵が倒れる。チャン、コロリだ。だから彼らはチャンコロなのだ。―と真面目に教え込まれました。

 子ども心にバタ屋とクズ屋の違いを知っていました。クズ屋というのはお金を払って屑を買って、それを仕切り場で売って生計を立てている人です。リヤカーを引き、「屑や―、お払い!」と呼び声をかけながら街をまわっていました。バタ屋というのは竹の屑籠を背にして、ゴミ箱や道ばた、街角にある屑を拾って、
それを仕切り場で売って生計を立てている人達です。当時朝鮮は日本の植民地でした。故国で食べていけず多くの朝鮮人が日本に移り住んでいました。貧しい朝鮮の人たちは、肉体労働やそうい仕事をしていました。私たち日本の子どもは、それを見て、「朝鮮人、バタ屋、バタ屋」とからかっていたのです。

  私たちを育てた当時の教科書の一部を紹介します。小学一年 修身

 木口小兵は、勇ましく戦に出ました。 敵の弾に当たりましたが、死んでも、ラッパを口から離しませんでした。 

三年国語 軍旗
 身を捨てて、皇国のために、まっしぐら、進む兵士の しるしの軍旗、しるしの軍旗。  
四年唱歌 靖国神社
 命は軽く 義は重し。その義を踏みて大君に 命を捧げし大丈夫(ますらお)よ。
鋼(かね)の鳥居の奥深く 神垣高くまつられて、誉れは世々に残るなれ。

五年唱歌 入営
 ますらたけおと生い立ちて、国の守りに召されたる 君が身の上、うらやまし。
 望めどかなわぬ 人もあるに、召さるる君こそ誉れなれ、さらば行け、国のため。

六年唱歌 出征兵士
 老いたる父の願いは一つ。義勇の務め、御国に尽くし、孝子の誉れ、我が家にあげよ。
 老いたる母の願いは一つ。軍に行かば、からだをいとえ。弾丸(たま)に死すとも、病に 死すな。

四五年(昭和二〇)には子供向けにこんな歌まで作られていました。
  日本良い国、清い国 世界に一つの 神の国 
  日本良い国 強い国 世界に輝く 偉い国

 「国民合唱」として日本放送協会のラジヲをつうじて歌唱指導された「勝ち抜く僕ら少国民」という歌があります。 
   勝ち抜く僕ら少国民 必勝祈願の朝参り 天皇陛下の御ために 八幡さまの神前で
  死ねと教えた父母(ちちはは)の 木刀振って真剣に 赤い血潮を受け継いで 敵を百  千斬り倒す
  心に決死の白襷 力をつけてみせますと 掛けて勇んで突撃だ 今朝も願いを掛けて  きた         

 国民学校四年の音楽にも「無言のがいせん」と言う歌がありました。 「無言のがいせん」は、戦死して、遺骨を納めた白木の箱で還ると言うことです。 四年生の小学生に、おじさんあなたがてほんです。と歌わせるのです。

 雲山万里かけめぐり、敵を破ったおじさんが 今日は無言で帰られた。
  無言の勇士のがいせんに、梅のかおりが身にしみる。みんなは無言でおじぎした。
  み国の使命にぼくたちも、やがて働く日が来たら、おじさんあなたが手本です。

少年兵兄弟の無念-1

 私は、戦争体験、戦場体験を語り継ぐいくつかの運動に参加していますが、戦争体験の中でも、戦場体験は今消え去ろうとしています。敗戦の時、入隊して間もない初年兵だった兵士が82歳です。志願した少年兵の一番年少者でも78歳です。しかも元兵士たちはなかなか口を開きません。語らないまま亡くなっています。忌まわしく、思い出したくもない体験を語りたくないのは当然でしょう。

 戦争とは、国家が他国家との間に行う武力闘争であり、どのような大義名分をつけようとも、まさに国と国との殺し合いにほかなりません。戦場体験とは、人と人とが殺し合う戦争に、軍事組織の一員として動員された兵士・軍属などの、戦地に於ける体験であります。軍隊では戦闘が目前になくとも、日常不断に人殺しのための訓練が行われていました。日常生活そのものが精強な兵士となるためのものであり、戦場体験とは、戦闘に参加したかどうかを問うものではありません。兵士たちが優秀な兵士となることは、敵を殺すことに勇猛な兵士となることでありました。それを拒否するには「脱走」か「自殺」以外に道はありませんでした。

 戦地に於ける兵士たちの日常は、武力闘争の歯車の一つとして、自分自身の人間性を作り替えることとの葛藤の日々だであったとも言えます。内地でのいわゆる「戦争体験」も極めて厳しく過酷なものでしたが、「戦場体験」の質的違いはここにあるのです。

 私たちは元兵士たちに説得します。あの悲惨な戦争をくりかえさないために口を開こう。語り継ごう。語ることの出来ない戦死した戦友のためにも、悲しみ、怒り、口惜しさ、無念の思いを語ろうではないか。
 戦場体験を後世に語り継ぐための私たちの呼びかけの言葉です。「語らずに死ねるか」、「生きているうちに語ろう」、「語らないうちに死ぬことは止めよう」

 私は一九二八年(昭和三)九月生まれで現在79歳です。
 本籍は東京中央区日本橋浜町三丁目、小学生時代は牛込区(現新宿区)市ヶ谷富久町で育ちました。新宿の伊勢丹裏から市ヶ谷の士官学校、九段の靖国神社に通じるじる当時は6メートル幅の靖国通りに面して私の家がありました。

 子供の頃は、毎日のように戸山が原の射撃場や、代々木の練兵場に行き来する軍装した兵隊たちの行進を眺め、勇ましい軍歌を聞きながら育ったのでした。休みの日には、斜め前のカフエに、沢山の兵隊がたむろしていました。

 私は一九四四年(昭和十九年)十五歳で少年兵を志願し、一九四七年(昭和二二)十二月にシベリアでの抑留生活を終え復員したのは十九歳でした。十六歳の初めての戦闘体験で、アメリカ軍戦闘機の攻撃で壕の入口に爆弾を落とされ、切れ切れになった同期生の戦友の死体を集めて五体を揃え、十一名を確認したとき、戦争とは格好良いものではない、まさに人と人との殺し合いなのだと肝に銘じたのでした。 

 旧満州公主嶺飛行場で敗戦のとき、「歩いてでも日本に帰るのだ」と別れた十七歳の戦友の、とぼとぼと飛行場から消える影を見送ったことも忘れません。殺されたのか、飢え死にしたのか、彼は未だに日本に帰っていません。

 シベリアの収容所で、夜中にふと起き上がって、「帰れるんだ、汽車が出る。味噌汁が飲める、お母さん」そう言ってバタッと倒れ、そのまま亡くなった戦友の声が、今でも耳に残っています。

 二歳上の兄は人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員として沖縄出撃途中、一九四五年(昭和二〇年)三月、十八歳で戦死しました。喧嘩をしたことなど一度もない、真面目で、温和しく、芯があり、家族思いの兄が出撃直前、次の遺詠を残していました。 

  身は一つ 千々に砕きて 醜(しこ)千人 殺し殺すも なほ あきたらじ   

 身体はは一つしかないが、千にも砕いて、アメリカ兵千人を殺すのだ。それでもなお飽き足らない。  

 十八歳の、あの温和しい優男の兄が、こんな歌を残して出撃をしたのでした。当時の人間魚雷回天特攻隊の搭乗員は、半数以上が予科練(少年兵)出身で、回天が正確に敵艦をとらえれば、一人の搭乗員、一隻の回天で、確実に敵艦を沈めることが出来る。戦艦、航空母艦なら四千名のアメリカ兵が乗っている。巡洋艦なら一千人以上、駆逐艦なら数百人だ。 

 回天搭乗員が一人で一千人宛のアメリカ兵を殺せば、家族を、愛する人達を、そして祖国日本を守ることが出来るのだ、そう真剣に思っていたのでした。 
 しかし、旧軍部、厚生労働省の杜撰な記録で、兄の正確な戦没場所も、戦没日時もいまだに分かっていません。

 戦後六十年以上経った今も、私は毎年沖縄を訪れ、兄の足跡を探し求めています。少年たちの純真な心を利用し死に追いやった戦争指導者の謝罪を一度も聞いたことはありません。
 私は、私や兄など、当時の少年がどのようにして戦場に赴くようになったのか、そしてどのような戦場体験をしたのか、そして42万名を超える少年兵についてこの機会に語ることと致します。