2010年2月4日木曜日

少年兵兄弟の無念-5

「少年兵志願」             

 私は「軍国少年」という言葉をあまり好みませんし、使いません。「軍国少年」と言う言葉は戦後に造られ、流行り出した言葉だと思っています。「軍国少年」と言う言葉には、戦争の「片棒」をかつがされた、戦争に協力させられた、戦争に同調した「口惜しさ」よりも、「麻疹」(はしか)か「流行病」(はやりやまい)の様に「自然現象」のような当然のことだったという印象があります。「戦争指向」の少年たちを造りだした、戦争指導者たちの責任は陰に隠れてしまうように思えてなりません。

 私の生き残りの同期生の中で「軍国少年」という言葉を使う人はいません。徴兵でなく志願して兵隊に行ったということが一つのしこりになって残っていて、心の中の刺になっているわけだから、そんな言葉を使いたくないのです。当時の少年たちは、人間として一番正しいこと、日本人として当然あるべきこと、男の進むべき道、そういった価値観を持って、自然に、その道を歩んだのです。恐ろしいことです。戦争の道に少年たちを引きずり込んだ当時の政府、権力の施策、教育で「軍国主義指向」「戦争賛美思考」の人間に、

 普通の少年がみんなそうなっていたのです。だから恐ろしいのです。
いわゆる「軍国主義的」言葉で級友たちを煽り立て、勇ましそうに振る舞っていた一握りの連中は、「予科練」「特幹」などの志願を煽り立てます。勿論自分も応募します。ところが彼らは白紙の答案を出して不合格になります。そうして、陸軍士官学校や、海軍士官学校に願書をだし立身出世の道を目指したのでした。私は、「軍国少年」という少年がいたとしたら、こういう連中のことだと思っています。

 学徒兵は文科系学生の徴兵猶予の措置が停止され徴兵となり、やむなく、ペンを捨て銃を担いだのでした。しかもその多くが海軍の予備学生や陸軍の幹部候補生あるいは特別操縦見習士官として将校となり、消耗品としての下級将校として、戦争を厭いつつ戦死する悲劇の主人公として画かれています。

 私たち少年兵は将校となり軍人となって偉くなるという小学生の頃からの夢を捨て、兵士として、下士官として国に尽くしたいと願い、自分の意思で進んで志願したのです。これが私たち少年兵と学徒出陣兵との違いなのです。ところがそれが侵略戦争だったんでしょう。だから口惜しいのです。こんな口惜しいことがあるでしょうか。

 四三年(昭和十八年)になると、中国人民の国民的反抗で中国戦線での日本の支配は都市と鉄道沿線という点と線のみに押し込められ、一方ミッドウエー海戦以後アメリカ軍の反攻は急速に強まっていました。二月、ガダルカナル島撤退。五月、アリューシャン列島アッツ島日本軍守備隊玉砕、キスカ島撤退、十一月、ギルバート諸島マキン島日本軍守備隊玉砕。タラワ島玉砕。玉砕とは全滅、撤退とは退却のことです。少年たちにも、日本軍は押される一方だ、危ないという情勢はひしひしと感じられるようになりました。

 中学三年の十二月のある日のことでした。「お父さん。僕は、今度出来た陸軍の特別幹部候補生に志願したいんだ。許して下さい。」と訴えました。 陸軍特別幹部候補生というのはこの年十二月十四日付の勅令第九二二号「陸軍現役下士官補充及び現役臨時特例」によって生まれた陸軍現役下士官養成制度です。戦線の拡大で航空、船舶などの下級技術系幹部が不足してくる。それで未だ頭が柔軟で一定の軍事教練の下地のある十五歳から十九歳の少年を集め、速成して戦地に送り出そうということなのです。

 軍隊の中核は将校集団です。陸軍では士官学校、航空士官学校出身、海軍では兵学校、機関学校卒の職業軍人、エリートたちです。そして底辺には徴兵、応召の沢山の兵隊たちがいます。その中間にあって将校の意に添って兵隊を動かしていくのが下士官です。会社で言えば部長、課長が将校、下士官がたたき上げの係長、主任、一般社員が兵隊といったところでしょうか。

 戦局が悪化していく中で、現役下士官、とりわけ航空、船舶、通信、整備技術などの、兵科及び技術系下士官を大量に養成する必要に迫られていたので、十五歳から十九歳まで、中学三年二学期終了程度の学力、既に軍事教練をある程度習得している生徒を採用し、一般の兵隊は二等兵として入隊するのですが、入隊後直ちに一等兵、六ヶ月ごとに進級して一年半後には伍長又は軍曹の大量の現役下士官を作ろうというのがこの制度でした。

 当時、中学三年では、中学校でかなりの軍事教練を習得していました。また、海軍の飛行予科練習生(予科練)の大量採用に対抗して少年兵を陸軍に引き留めることもねらいでした。
 当時の少年にとって海への憧れ、空への憧れというものは強烈でした。そしてそれは海軍への憧れ、予科練への憧れでもありました。海軍の「飛行予科練習生・予科練」は少年兵の象徴的存在でした。西条八十作詞・古関祐而作曲で霧島昇の歌った『若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨』という『若鷲の歌』」は少年たちの愛唱歌となっていました。すべての中学校に予科練募集の勧誘が行われていました。

 予科練を画いた『決戦の大空へ』(一九四三年東宝映画。山下良三製作。渡辺邦夫監督。原節子、木村功主演。海軍省後援)は強烈に少年たちの心を捉えました。陸軍にも『西住戦車長伝』(一九四〇年松竹映画。菊池寛原作。吉村公三郎監督。上原謙主演)などがありましたが、少年たちには躍動感が今ひとつでした。『加藤隼戦闘隊』」(一九四四年東宝映画。山本嘉次郎監督。藤田進主演)で陸軍がやっと海軍に追いついたと言うことでしょうか。特幹は、予科練の大量採用で「少年たちはみんな海軍に持っていかれる」と危機感を抱いた陸軍の、少年を陸軍に引き留める対抗策でもありました。オペラ歌手で有名な藤原義江が「特幹の歌」を歌い、灰田勝彦が「特幹兄は征く」を歌いました。

 さらには消耗品として飛行機特攻や、船舶特攻の要員を大量に急速に補うために、この制度ができたとも云えます。実際に、この船舶特幹一期生を柱として陸軍の水上特攻海上挺身隊が生まれ、船舶特幹一期生千九百名中千百四十名が戦場の露と消えました。

 十二月十五日付の朝日新聞に、「陸軍に特別幹部候補生―一年半で優秀な下士官を養成」と四段抜きの大きなタイトルで報じられ、「陸軍では戦局の養成に即応するため、今度、少年兵の『兄さん兵』ともいうべき『陸軍特別幹部候補生』新制度は、これまでの幹部候補生あるいは特別操縦見習士官と少年兵の中間に当たるもので、制度としては、国軍の幹部である下士官養成の点で、従来の少年兵に類似しているが、教育期間の短い点と、決戦化にふさわしい敵前下の実地訓練に重点が置かれていることが特徴である。今回の新制度の新設によって、皇国のあらゆる青少年層に、等しく陸軍幹部として進む道が完備されることになった」と解説しています。

 十五歳の、中学三年の私が少年兵を志願するというのです。父はびっくりしました。もちろん反対です。
 私の家は男四人、女一人の五人兄弟でしたが、私が末っ子の四男でした。長兄は昭和十六年七月に対ソ戦の準備で大動員がかかった「関特演」(関東軍特別大演習の略)に召集されて、満州で船舶兵の訓練を受け、その後南方のフィリッピン、インドネシアに転戦していました。

 次兄は物理学校(現東京理科大学)を繰り上げ卒業し立川飛行機で働いていましたが、昭和十八年十二月の学徒出陣の日、鉾田飛行部隊に入隊しました。次兄は当時のことを語ったことがありません。軽爆撃機や特攻機の整備をしていました。より高く、より速く、より安全にと兄たちが整備した飛行機で、同じ若者たちが特攻に飛び立ったのでした。そんな体験からでしょう、復員後は技術者にはならず、ホテル・ドアマンのアルバイトをしながら医者になりました。

 三兄も次兄と同じ日、十七歳で海軍の予科練で三重航空隊に入隊しました。兄は、入隊前夜の送別会で「…国難ここに見る…」と元寇の歌を歌いました。
 その上一人残った、まだ十五歳の私が特幹を志願するというのです。大変なことです。親として反対するのは当然のことでしょう。

 父は必死で私を説得しました。「お父さんはお前が兵隊に征くことに反対するのではない。もう三人も征っている。充分お国のために尽くしている。銃後の守りも大切だ。お前だってもう何年か後には徴兵で兵隊に征くことになる。それまで心と体を鍛え、銃後を護ることも大切なことだ。」

 私は頑として説を曲げませんでした。「お父さん。アッツ島(アリューシャン列島)もマキンもタラワ(中部太平洋ギルバート諸島)も玉砕(全滅)した。このままではアメリカの反攻の前に日本は大変なことになりそうだ。今こそ僕たち日本男児はみんな戦場に出て、国を守るため、東洋平和のため戦わなければならいのだ。是非僕の特幹志願を認めてもらいたい。」

 あまりの頑強さに父は論調を変えてきました。「そんなに軍人になりたいのなら士官学校に行きなさい。学校でも推薦しているではないか。特幹でも士官学校でも軍人になることに代わりはないだろう。まして士官学校を出て将校になれば、下士官や兵隊よりもっと大切な任務について、よりいっそうお国のために役に立つことになるのだろう。その方がずっと忠義を尽くす道じゃあないか。士官学校に行きなさい。」

 私は意志を変えませんでした。「士官学校に行けば、確かに将校になって偉くなれる。だけれども戦場に出るのは五年も六年も先だ。それでは間に合わない。その頃日本はどうなっているのか分からない。どうしても今志願して祖国日本を守る戦いに参加したいのだ。お父さん、日本がどうなっても良いのですか。」
 そんな押し問答を三日間続けました。私は口もきかなくなりました。父をにらみつけて食事も食べなくなりました。根負けした父は四日目「それなら征きなさい。しかし命だけは大切にしなさい。」と許してくれました。

 「それでは征け」と言った父の、その時のがっくりと肩を落とした姿は今でも目に浮かびます。父の後ろの壁には大元帥陛下昭和天皇の写真と日の丸の旗の額が飾ってありました。
 私は母を早くに亡くしたのですが、私と父の論争の間、部屋の外の廊下では、女子医専の学生で母代わりの姉がずっと聞いていました。生涯忘れることの出来ない痛恨の思い出です。

 入隊のとき、かなりの少年兵は親に反対され、親の目をかすめて判子を押していました。保護者の承諾印がないと入隊できません。親にすればああいう時代でも当然反対するでしょうし、子どもの方は、親の反対を押し切ってでもとなるのです。だから、私は余計に頭にくるわけです。

 つまりそういうふうにさせられた。そういう少年に仕立て上げられた。そして自分の意思で志願した。そこに少年兵の口惜しさ、無念、悔いがあるのです。引っ張り出されたのではない。自分の正義感で、自分の祖国愛で、自分の意思で行ったのだ。そして戦争の片棒を担がされたのだ。しかもそれが侵略戦争だったのだ。正義感と夢あふれた青春はもう二度と帰ってこないのです。口惜しいです。無念です。もしその時志願していなければ、工場に学徒動員されただけだったと思います。こんな口惜しい思いはしなくてすんだでしょう。

 さっきは学徒出陣との違いと言いましたが、それはまた、軍国主義的教育をたたき込まれ大変な苦労をしたけれど、戦場体験も、戦争の片棒を担がされた経験も、志願するかどうかの決断を迫られる経験もせずにすんだ「少国民・学童疎開」世代と、私たち「少年兵・学徒動員」世代との違いでもあるのです。

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