撃ち合い・殺人・脱走
ソ連軍が入る前に混乱が始まりました。八路軍(中国共産党軍)のゲリラが決起し、満州国軍(日本の傀儡軍)が反乱を起こしました。
八路軍は華中で転戦した新四軍とともに、現在の中国人民解放軍の前身です。日中全面戦争が発展する中で、蒋介石国民党政府と中国共産党との抗日統一戦線が組まれ1937年8月、八路軍、新四軍は、それぞれ中国国民革命軍第八路軍、および中国革命軍新編第四軍と改組されました。
八路軍は延安を根拠地とし、中国民衆に根ざし、華北一帯での遊撃戦で日本軍を悩ませていました。中国東北部旧「満州国」でも、日本の官憲による苛烈な追求にもかかわらず、粘り強く活動を続けていたのでした。
満州国軍は、形式上満州国皇帝溥儀の直接支配下にありましたが、実質関東軍の支配下にある傀儡軍で、移動・演習の実施・装備の変更・昇格人事等関東軍司令部の批准が必要でした、。
1938年に満州国の国防法が制定され、一般的に云う「徴兵制」が施行されました。国内の20歳から23歳の男子を3年間軍務に尽かせました。毎年春に20万人を招集し、軍務不適応と見なされたものは土木工事などに3年間の勤労奉仕をさせました。
もともと傀儡国家の軍隊なのですから、関東軍の横暴な支配に不満を募らせていました。多くの満州国軍が、ソ連軍の侵攻とともに、日本人の将校、下士官を放逐し、反乱を起こしたのでした。
日本の植民地的支配で苦しめられていた中国人が日本人を襲撃するようになりました。襲撃、略奪、暴行、撃ち合い、殺人で街中に死体が転がっていました。
日本軍の兵舎の中ももう全く無秩序です。街に食糧や衣糧を略奪に出かけるもの。「あの野郎ひどい目にあわせやがって」と古兵や上官を追いかけ鉄砲を乱射するもの。撃ち合い。古参下士官の中には飛行場で自決するものも出て、遺体にガソリンをかけ燃やす炎が燃えさかっていました。
まともな兵隊たちも、どうしても食糧を確保しなければなりません。食糧や衣料は街の外の貨物廠に集積してあります。中国人も竹槍や青竜刀などの刀を持って群がっています。冷たく鋭い目で睨みつけてきます。憎悪の目というのでしょうか。恐ろしいです。
こちらも集団で武装して、銃剣に弾丸を込め、何時でも撃ち合い、突き合いに備え、構えながら横歩きで、じわりじわり倉庫に近ずきます。にらみ合いで一触即発です。一歩間違えば殺し合いです。はぐれれば引き込まれなぶり殺しです。
無事兵舎に帰ると、その場にへたり込み、しばらくぼんやりしています。
脱走が始まりました。何もかも統制がとれなくなっていました。敗戦で指揮命令系統もなくなっていました。
私たち十五人の分隊でも今後どうするかという議論になりました。このまま部隊について行くか。それとも自分たちだけで単独行動をとるのか。意見は二つに分かれました。多数は、大きな部隊についていった方が生きて帰れる可能性がある、それこそが天皇のためだという意見でした。
私は迷ったあげく、大きな部隊と一緒の側に付きました。分隊長軍曹、古参兵長、少年飛行兵兵長、特幹(加古川)兵長、特幹(水戸)兵長、一等兵2名(2年兵)、2等兵3名(初年兵)、10名です。
残り5人は「それは捕虜になることだ。生きて虜囚の辱めを受けず。歩いてでも日本に帰り祖国再建に尽くすのだ」と反論しました。特幹兵長(水戸)、3年兵の上等兵2名、1等兵2名です。
1941年(昭和16年)1月に東条英機陸軍大臣が軍の規律を引き締め戦意を高揚させるために「戦陣訓」を示しました。
(軍紀) 「命令一下毅然として死地に投ぜよ」
(生死感) 「生死を超越し……従容として悠久の大義に生きることを悦びとすべし」
(名を惜しむ)「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
満州事変前には20万の常備軍を持つのみであった日本陸軍は、1941年末には一挙に250万の大軍に拡大されていました。軍隊の急速動員と、戦争の長期化に伴い軍紀の退廃は急速に進行してゆきます。
「軍人勅諭」と「私的制裁」で服従を強制し軍紀を確立しようとしても、そしてまた、どんな大義名分をたてようとも、それが他国を侵略し、他民族を抑圧するものであれば、軍隊の戦闘力を高める上で兵士の自発的愛国心を期待することは出来なくなります。
そこで、「悠久の大義」という美名をかざし、天皇のために死ぬことを強制する精神的な支柱として、「戦陣訓」がつくられ押しつけられたのでした。
議論は平行線のままで結論が出ません。どっちも根拠がないわけです。大きい部隊について行けばどうして帰れる確率が高いのか。関東軍が帰すのか。ソ連軍の捕虜になってから帰れるのか。捕虜の処遇は。殺されないか。どうやって歩いてゆくのか。食料は。途中の安全は。
歩いてでも帰るという一団の中心は水戸から一緒の特幹同期生の戦友で17歳でした。三日間の激論で結論が出ない状況に 業を煮やし、彼らは、夜中、武器や食糧を持って兵舎を出て行きました。ごそごそと身支度するのを私たちは感じ取りました。
しかし、止めることは出来ません。どちらが生きて帰れるかは誰にもわかりません。声をかけ引き止めるわけにはいきません。残るもの誰もが気がつかないふりをしていました。
外に出ると彼らは、振り向いて敬礼をしました、私たちが気がついていることも知らず別れの挨拶をして行きました。彼らの後ろ姿をピスト(戦闘指揮所)の二階の窓から見送りました。
彼らが無事、日本に帰れることを祈りました。銃を担ぎ、食糧を入れた背嚢を背負い、とぼとぼと飛行場のはずれまで小さくなる影を、じっと無言で見つめていました。見送る誰の目にも涙が光っていました。それが彼らとの最後の別れでした。彼らはまだ日本に還っていません。
ソ連兵に殺されたのか。中国人に殺されたのか。それとものたれ死に、飢え死にか。彼らの最後を誰も見ていません。遺族はどんなに思っているのでしょうか。これを何死というのでしょうか。靖国神社に祀られているのでしょうか。
「生きて虜囚の辱めを受けず」、この言葉の強制で、どれほど多くの兵士が、無意味な死を選ばされたことでしょうか。どれほどの「玉砕」が、どれほどの「餓死」が、どれほどの「名誉の戦死」が作り出されたのでしょうか。
そのうち収拾のつかなくなった部隊長が「自分の身は自分で処せ」なんて言う通達を出しました。無責任な話です。半分近くが脱走しました。その時脱走した連中は機関車の運転手にピストルを突きつけ、貨物列車を走らせたのですが、ソ連の飛行機から機銃掃射を受け停車させられ、そしてまた、武装した中国人に襲撃され、命からがら、大部分が部隊に戻ってきました。
部隊長はまた、慌てて、「一丸となって帰り、天皇の御為、祖国再建に尽くす」と命令を出しました。関東軍に「在留邦人」を守ろうなどという使命感などひとかけらもありませんでした。
脱走で「員数」が足りなくて、一緒に行けば早く帰れるぞと、軍籍にないものどころか、女の人たちを丸坊主にし、軍服を着せて部隊に組み込み、シベリアにまで連れて行ったという例さえあります。
日本の軍隊は国民の軍隊でなく天皇の軍隊であり、まさに。国体護持軍でした。大本営も、関東軍総司令部も、各級指揮官も、下級兵士の生命や、非戦闘員居留民の保護安全など夢にも考えていませんでした。国民を見放すことなど当然のことなのでした。
昭和天皇と大本営は、国体護持、自分たちの安全のための、松代大本営の地下工事を進めていました。皇太子、現在の天皇は、奥日光湯本の湯の湖畔の宿で、空襲も、空腹も知ることなく、1500人の兵士に守られての日々を過ごしていました。
0 件のコメント:
コメントを投稿