「内務班」
軍隊は入って見ると、入る前に想像していたのとは全く違うところでした。志願兵、徴兵の区別なく、最初は指導教官や古参兵からリンチを受けて大変な苦労をさせられます。とても我慢がならなかったのは、軍人精神を叩き込むための内務班の生活でした。
内務班というのは、兵営の中で兵士が寝起きする最小の単位です。営庭に面した側が「舎前」、洗濯場、厠(便所)のある裏側に面した側が「舎後」で二〇人ほどが寝起きします。まん中の廊下の両側には、銃架があって、各人の銃が立てかけてあります。廊下を挟んで板敷きの大部屋があり、まん中に長机、長椅子が置かれ、両側にわら布団のベットが並んでいます。ここが寝室であり、食堂であり、兵器手入れの場であり、休養室であります。
「軍隊内務令」には「兵営は軍人の本義に基づき、死生苦楽を共にする軍人の家庭にして兵営生活の要は起居の間、軍人精神を涵養し軍紀に慣熟せしめ強固なる団結を完成するにある」とあります。
先ず娑婆気を抜く、地方気分をたたき出すことから始まります。閉鎖社会の軍隊では兵営の外の世界(娑婆・しゃば)のことを「地方」と呼んでいました。軍隊が中心にあって、その周りはみな「地方」と言うことでしょうか。軍人・軍属以外は地方人で、例え総理大臣でも地方人となるのです。
入隊すると「地方服」を脱いで「軍服」に着替えます。初年兵は軍隊特有の言葉を先ず最初に叩き込まれます。身につけているものの呼び方も独特です。シャツは襦袢(じゅばん)、ズボン下は袴下(こした)。ズボンは袴(こ)、軍服は軍衣袴(ぐんいこ)、ポケットは物入れ、スリッパは上靴(じょうか)、軍靴は編上靴(へんじょうか)。ゲートルが巻脚絆、靴下が軍足(ぐんそく)。布団カバーが包布(ほうふ)ということです。西洋風の言葉は一切追放です。
日本の軍隊では「員数」が大変重要なことでした。員は兵員の、数は兵器や被服・弾薬・食糧の数量を表します。戦争や軍隊は、兵力と武器、装備の戦いです。数量がものをいいます。ですから数量管理が徹底しています。 朝晩二回の点呼や、内務検査、兵器検査などで員数が合うかどうかテックします。
員数が合うかどうかは大変重大な要件です。「畏くも天皇陛下からお預かりした」武器であり、被服です。ですから足りないときはあらゆる手段で「員数合わせ」をします。襦袢や袴下が足りなければ、他中隊の物干し場に行って着て来ます。営内靴がなければ風呂場に行って履いてきます。敷布が足りなければ一つの物を裂いて二つにします。これが軍隊と言うところなのです。「員数を合わせる」「員数をつける」と言うことで、海軍では、「銀蠅」(ぎんばい)と呼ぶそうです。
「僕」「君」などの地方語を使えばそれこそ鉄拳制裁の対象です。「地方の言葉を使うな」、「地方気分を出すな、弛んでいる」。一般社会の常識はここでは通用しません。俗社会から隔絶された特異な「軍隊」の鋳型にはめ込まれ、問答無用で、どんな命令でも従順に行動する兵隊に仕上げられるのです。
日本軍隊が、「地方気分」や「地方語」を忌み嫌ったのは、「地方」「娑婆」での職業や地位や身分の違いから出てくる優越感や劣等感が軍隊教育の妨げになるからでしょう。軍隊で中級や下級の「上官」となる職業軍人は、主として士官学校出の将校や、兵隊からたたき上げの下士官です。彼らは一般的な社会生活を知らず、その知識水準や知識の範囲も極めて限られた狭いものです。
しかし軍隊では、この「上官」たちが「偉い」人、「立派な」「模範的」「見習うべき」軍人という建前になっています。この「建前」「秩序」を守るためには兵隊は馬鹿でなければなりません。兵隊が「上官」を尊敬しなければなりません。例え「内心」でも、「上官」を見下したり、軽蔑したりするようなことがあってはならないのです。だから「兵隊」という軍隊での最下層の人間から「地方」に関係のある一切のものをことごとく叩き出し、空っぽの頭で、無条件に「上官」の命に従い戦闘に参加する兵隊を作り上げるのです。
六時起床です。起床ラッパが鳴って、三分~五分で毛布をたたみ、服装を整え、営庭に整列出来ないと竹刀で叩きのめされます。下士官が竹刀を持って出入り口に待ちかまえています。背中であろうが、頭であろうが容赦しません。演習から帰り内務班に帰ると、整頓が悪いといって持ち物がひっくり返されています。これを「地震」と言います。ビンタならまだましです。持ち物をひっくり返した木銃で突き倒されます。
銃の手入れが悪い、銃の菊の紋章に埃がついていたといって逆さに銃を持った捧げつつ一時間です。気分が悪くなって倒れるときは必死に銃を身体の内側に抱え背中から倒れます。返事が悪い、声が小さい、要領が悪い、たるんでいると二列に並び向かい合って殴り合う「切磋琢磨」、革のベルトで殴られる「帯革ビンタ」、机の端に逆立ちをする「急降下爆撃」等々、文字通り問答無用の私的制裁の毎日です。
せめてもの抵抗は、「ツバキ汁」に「ふけ飯」です。「ツバキ汁」は味噌汁にツバを吐きかき混ぜます。「ふけ飯」は、ご飯に頭のふけをかきむしりかき混ぜます。当番がうやうやしくお膳を捧げて「上官」に差し出します。食後、食べ残しなく空になった食器が帰ってくるとみんなで万歳を叫びます。
ある時、寝ている時にたたき起こされました。上靴が、寝台の下にきちんと揃えていなかったというのです。寝台の上に正座です。上靴を目の前に捧げて言わされました。「お上靴様、お上靴様。筑波下ろしの空っ風にボーッと致しました。
お上靴様、貴方様を粗末に致しまして真に申し訳ありません。今後このようなことを致しません。お大事に扱わせていただきます。お許し下さい」。その晩、上靴を胸に抱いて寝ることになりました。あの屈辱と口惜しさを忘れることはありません。
「しごき。いびり」
内地(日本の敗戦以前は、植民地や占領地を『外地』、日本本土を『内地』とよびました)の場合は、外地の部隊より多少はましだったようですが、それにしても程度の差です。ただ、少年兵の教育隊の場合は、古兵がいません。みんな一緒に入隊した戦友です。お互いに励まし合い、支え合う戦友です。ど突かれ、殴られ、蹴っ飛ばされ、張り倒されるのも皆一緒です。それだけましだったでしょう。古兵による不合理ないびりやしごきがないのが幸いでした。
翌年、関東軍に転属して、本格的な私的制裁の凄まじさ、内務班のいびつさを体験するのですが、「しごき」に名を借りた「いびり」を少しだけ紹介しておきましょう。
「セミ」 柱にしがみつかせて「ミンミン」と鳴かせます。 鳴き声が小さい、「ミンミン蝉」は跳んでったぞ、今度は「ツクツクボーシ」だぞ等と囃し立てられます。
「ジテンシャ」 寝台と寝台の間に身体を浮かせて自転車を漕ぐ真似をさせる。
「後ろから自動車だ、もっと漕げ、早く、早く」
「ウグイスの谷ワタリ」 寝台の下を一つ一つくぐらせて、その度に「ホーホケキョ」と鳴かせる。「顔を上げて、ホーはもっと伸ばして」
「ゲイシャ」 銃架の陰に立たせ、銃架を芸者屋の格子に見立てます。その前を人が通る度に手招きさせ「ちょいと兄さん寄ってらっしゃい」と声をかけさせます。
「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は……」と日の丸を振って送られてきた「召集兵」の新兵たちが、こんなことをやらされていました。
「各班回し」 軍靴の底の鋲の間にほんの少し土がついていた場合、靴紐を結び、首にかけ、各班の自分より年次の上の者一人一人に報告して回らせる。「▲班○○二等兵であります。編上靴の手入れが悪く班長殿から注意を受けました。ここにご報告いたします」。一人に一回づつ殴られても、各班を回れば数十回以上になり、顔は真っ赤に腫れ上がります。これは誇張のない軍隊の実態です。
「少々のことは我慢しても、軍隊は飯が食えるからいいや」、などの論が成り立つのでしょうか。「明るい話」など、あるわけがありません。耐えられないで自殺する兵隊は、厠で、銃剣を立てかけ、しゃがんで喉に突き刺します。
「早くドンパチ始まらないか。あいつら後ろからぶち殺してやる」、そう思っていた兵士たちも、少なくありませんでした。
「関東軍・元兵士の回想」
「不戦」89年3月号 「大喪の日、元兵士が語る〝痛恨の日々〟 武田逸英」より
『(前略) …… 初年兵は忙しい。夜、藁蒲団に毛布を封筒型に巻いた中に入って眠るとき以外は寸暇もない。その睡眠さえもしばしば破られ、叩き起こされる。
被服の整頓が悪いとか、編上靴の置き方がどうとか、難癖をつけてである。起床、点呼、掃除、作業、朝食、野外訓練、野外昼食、野外訓練、入浴、晩食、学科、点呼、消灯、その間にこまごました雑用があるので、うっかりしていると歯も磨けず、襦袢や 褌を洗濯する暇もない。
入浴も整列して浴場へ行く。出入り口に古兵が張り番をしていて官姓名を名乗って出入りしなければいけない。浴場の中は満員で、古年兵がふざけて暴れている。その背中も流してやらなければならず、浴槽に容易には入れない。脱衣場に上がってくると、自分の物が無くなっているのもしばしば、そこで窮余の一策でタオルを濡らし、顔を拭い、入浴を澄ませた振りして出てくることもある。
初年兵は一挙手一投足に至るまで、仲間で連携している古年兵に監視されているから寸秒の油断もできない。あら探しのネタが無くても言いがかりをつけてビンタを張る。晩食後は各班軒なみビンタの大合奏が始まる。
(中略)ビンタは手だけでなく,帯革や上靴でもやり、顔が腫れて変形する。悪口雑言、罵りざんぼうの限りを尽くす。陰険極まりない。そして、すべてこれは「軍隊の申し送りじや」と言う。つまり、自分たちが初年兵のときに受けた理不尽な精神的、肉体的苦しみを、そのまま初年兵に申し送るのだそうである。
(中略)初年兵いびりや、しごきは、古年兵にとっては倒錯した日常的悦楽に転化しているわけである。その言動のくだらなさ、程度の低さは、どうしようもないほどである。はて、日本人って、こんな愚劣な人種だったのかと、思わず訝るほどである。元は純粋なところもあったと思われる者たちを、こんな蝮(まむし)のような人間に仕上げるのは、まぎれもなく現人神(アラヒトガミ)たる大元帥陛下を頭とする大日本帝国陸軍である。
こうしたリンチは、正式には許されていないが、将校も下士官も黙認している規格にあった強い兵隊をを作るには、やむをえない教育の一方法だと思っている。それに、いざ戦闘となった場合、自分が指揮して頼りになるのはこの古年兵だから、普段あまり咎めだてしてはまずいという事情もある。下士官は古年兵から上がった者だから、当然古年兵に遠慮がある。かくして軍隊、とくに内務班(兵舎内生活)でリンチは日常茶飯事として絶えない。まぎれもなく、一種の狂気集団である。(中略)
徴兵制は当初フランスに範をとったものだが、フランスはブルジョワ革命を遂げて解放され、新しく土地を獲得した農民を基盤として、兵士には革命の成果を守り王政諸国の干渉軍と勇敢に戦う強い意志があり、国家「マルセイエーズ」に表れる愛国心の高揚が見られた。
ところが日本では、明治維新も農民を十分に解放せず、農民の期待を裏切って、その後も民衆に犠牲を強いるばかりで、国家は専ら抑圧を旨としてきたので、民衆の家族の生活や生命を守ることを戦争目的にできず、したがって兵士の戦意高揚を図ることができなかった。そこで強制と脅迫によって天皇への忠誠心を植えつける方法に頼り、戦闘意欲を掻き立てる仕儀となった。つまり、軍隊は天皇のための軍隊であり、国民のための軍隊ではなかった。(後略)……… 』
「戦争・戦場体験」
辞書によれば、用語について次のように定義されています。
『戦争』武力を用いて争うこと。特に国家が自己の意志を貫徹するため他国家との間に行う武力闘争。
『軍隊』一定の規律の下に組織・編成された軍人の集団。
『戦場』戦闘の行われている場所。(以上大辞林)
『戦地』戦争の行われている土地。また、軍隊の出征している土地(広辞苑)
すなわち、戦争とは、国家が他国家との間に行う武力闘争であり、どのような大義名分をつけようとも、まさに国と国との殺し合いに他なりません。戦場体験とは、人と人とが殺し合う戦争に、軍事組織の一員として動員された兵士・軍属などの、戦地における体験であります。
戦争に勝利するためには強力な軍事組織を持つことが絶対条件です。そして強力な軍事組織は命令に絶対服従し、生命を厭わず敵に向かって立ち向かい、任務を遂行する兵士を必要とします。
「軍人勅諭」
日本の軍隊は兵士たちを、厳しい規律と教育によって、絶対服従が習性になるまで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしました。
一八八二年(明治一五)天皇から陸海軍軍人に与えられた「軍人勅諭」というものがあります。天皇制政府は、「軍人勅諭」によって、軍人に天皇への忠誠心を叩き込み、天皇の命令に対する絶対服従を強要するため、暗記するまで覚え込ませました。
『軍人勅諭』で最も強調されたのは、天皇への忠誠であり、軍隊は天皇の軍隊であるということでした。
「我国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある」「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と軍隊の最高指揮者であることを自ら宣言した天皇が、一番に訓示しているのが、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」ということです。
『軍人勅諭』のもう一つの重大な内容は、天皇への忠誠と表裏一体の関係として、天皇への絶対服従と、天皇のために死ぬことを名誉とすることを兵士に叩き込んだことです。
「上官の命を承ることは実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」という「軍人勅諭」の一節で不合理な命令も私的制裁も正当化されました。
「上官の命は朕の命令だ」「軍人精神を叩き込む」「立派な軍人にしたてあげる」と、全く不合理な命令や私的制裁が公然と日常茶飯事に横行していたのでした。
こうして習性となるまで服従が強要され、それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習性をつけさせるまで行われました。
こうした服従の強要は「只々一途に己が本分の忠節を守り義は山岳より重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という「軍人勅諭」によって、天皇のために死ぬことを美徳とし、兵士の命を鳥の羽よりも軽いと見る非人間的な思想に他なりません。
「人殺しのための準備訓練」
軍隊では戦闘が目前になくても、日常普段に、人殺しのための準備訓練が行われていました。声が小さいと言っては殴られ、動作が鈍いと蹴飛ばされ、革のベルトの帯革ビンタ、戦友同士の向かいあった切磋琢磨などは日常茶飯事、戦闘訓練、銃剣術、射撃、突撃、そして刺殺訓練等々です。中国戦線では初年兵教育の総仕上げに、中国人を銃剣で突き刺す訓練が行われていたことは、多くの元兵士の語るところであります。
日常生活そのものが精強な兵士となるためのものであり、戦場体験とは、戦闘に参加したかどうかを問うものではありません。戦闘は主として外地において行われました。外地とは日本本土以外の土地であります。それは、占領地、植民地、従属国などの日本が武力によって支配した土地であります。したがって、その土地での兵士たちの生活は、表面的にはともかく、日本に敵意を抱き、反抗、反撃の機会をうかがう現地住民に囲まれての日常でありました。
「総特攻化」
一九四五年(昭和二〇)一月十八日、最高戦争指導会議は全軍特攻化を決定しました。外地ばかりでなく内地でも硫黄島、沖縄が戦場となりました。さらにアメリカ軍の爆撃の日常化、艦砲射撃、アメリカ軍の本土上陸作戦に備える肉弾訓練、特攻基地の拡充、強化等々本土全体が戦場となったのでした。
「人間性を作り替える葛藤」
兵士たちが優秀な兵士になることは、敵を殺すことに勇猛な兵士となることでありました。それを拒否するには、「脱走」か「自殺」以外に道はありませんでした。しかし、「脱走兵」の家族は、非国民の家族として「村八分」で、親類縁者みな、生活するのも困難な状況に追い込まれます。「自殺兵士」の遺骨は、見せしめのために、荒縄でぐるぐる巻きにして、遺族のもとに届けられます。
戦地における兵士たちの日常は、武力闘争の歯車の一つとして、自分自身の人間性を作り替える事との葛藤の日々であったともいえます。いわゆる「 戦争体験」も極めて厳しく過酷なものでしたが、「戦場体験」の質的な違いはここにあるのです。
「慰安所」
人間性を問うものとしては、「慰安婦」「慰安所」の問題があるでしょう。日本には戦前「公娼」(おおやけに営業を認められた売春婦)制度が存在しました。
各内務班の柱には、各慰安所ごとの慰安婦の源氏名と検診結果の書いたノートがぶら下げられていました。休日には慰安所に日本兵が列をなして並んでいました。将校には日本ピー(ピーとは慰安婦のこと)下士官には鮮ピー(朝鮮人慰安婦)、兵隊には満ピー(中国人慰安婦)が与えられていました。休日の外出には「突撃一番」(コンドーム)をもっていないと許可されません。
私は、最初の外出で持っておらず、「帝国軍人がなぜそんなものを持たなければならないのですか」「そんな物を持つて、慰安所に行くのが、立派な日本帝国陸軍軍人なのでありますか。」と反論したため、「生意気云うな」「上官に口答えするのか」「女も買えない奴に敵を殺せるか」と殴り倒され、蹴飛ばされ、踏みにじられました。血まみれになった私は、その日は外出禁止となりました。この理不尽な出来事を、わたしは生涯忘れることはできません。
日本軍にとって、「慰安所」は兵士たちの「活力剤」であり、多くの兵士たちも、当然のことと考えていたのでした。日本軍のいるところ、各占領地はもちろんのこと、日本本土にも、沖縄にも、名称、形態は兎に角、慰安所は存在し、公然と、圧倒的多数の日本軍兵士たちは、これを利用していたのでした。
軍隊というところは、人間性があったら強い兵隊になれないのです。天皇のため、沢山殺せば殺すほど軍人の鏡として褒め称えられるのです。
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