2010年2月24日水曜日

少年兵兄弟の無念-17

アムールを渉りソ連の土を踏みました。
1945年9月16日、私の十七歳の誕生日、生涯忘れることのできない日となりました。
「これからどんな日々が待ち構えているのだろう」

そんな不安をかき消すよう、一歩一歩踏みしめてブラゴベシチエンスクの街を歩きました。道の両側にはソ連の女子供が集まって手を出し、口々に「鉛筆」 をくれ、「万年筆」をくれ、「靴下」をくれと呼びかけてきます。

子供たちは、みんなだぶだぶの大人の着古しの服を着ています。女たちは若い娘も、年老いた老婆も、誰も彼も風呂敷のようなネッカチーフを頭にかぶり、しわだらけのブラウス、裾のすり切れたスカートにブーツ姿です。着飾った者は一人もいません。警戒のソ連兵と子供のほか男の姿など全然見かけません。たまに見かける壮年男子は、片腕、片脚の戦傷兵だけでした。

日本兵の捕虜たちは、腕時計はそれまでにほとんどソ連兵に略奪されて持っていませんでしたが、 山ほど衣服を詰め込んだ背嚢を担ぎ、おろしてあまり経っていない服と靴で、人垣の間を通り抜けます。

第一の印象はソ連の貧しさでした。何でこんなにみすぼらしく貧乏なのだろう、それが驚きでした。ドイツとの戦いにすべてをつぎ込み彼らが勝利したことなど、日本兵の知識にはありませんでした。子供たちは裸足でした。

ブラゴベシチエンスクを出発した貨車はやがてシベリア鉄道を北上しました。
二日ほどして草原のまっただ中で停車し翌朝、荷物をそのままにして下ろされました。馬鈴薯堀だというのです。

少し歩いたところに農場がありました。見渡す限り馬鈴薯畑です。ロシャ娘と二人で組にされました。畝を二つが責任分担です。まず片側の畝を私がスコップでひっくり返し馬鈴薯を掘り出します。ロシャ娘が芋を拾い集め所々にもうけた集積場所に運びます。その畝を向こう端まで終えたら昼ご飯、折り返して帰ってきたら作業終わりだというのです。

その広大さに恐れ入りました。黒土でよく肥えています。大きな芋が転がり出てきます。黙々と土を掘り返し芋を掘り出していると、手押し車で芋を運ぶ合間に、時々ロシア娘がやってきて汗を拭ってくれました。

身振り手振り、日本語とロシア語で話し合うようになりました。芋植えは雪が融けた五月頃、芋掘りはぎりぎり大きくして寒くなる直前のこの時期です。芋掘りの時期には、街の事務所は一斉に休んで農場の応援です。この娘さんも街からやってきたとのことでした。

「これからどうなるのだろう」と不安で緊張していた気持ちも、この娘さんのおかげで、ほぐれ和みました。「サーシャ」とか云ったあの娘さんは、今どうしているでしょうか。生きているなら会ってみたいものです。

片畦、掘り返しました。広場があって大きな釜があります。昼は「カーシャ」です。馬鈴薯を蒸かしてつぶし、牛乳をたっぷり、鮭を丸ごと放り込み、かきまぜて油で炒めたものです。あの味は今でも忘れません。

その後もそうでしたが、農場での昼休みはたっぷりあります。約二時間。
農場のじいさんたち、ばあさんたち、おばさんたち、そして娘さんたちがコーラスを始めました。見渡す限りの青々とした草原の中、四部合唱が響き渡りました。

日本政府と大本営、そして関東軍に見捨てられ、ソ連の冷徹な仕打ちに生命を切り刻まれた捕虜生活の数年間のなかで、ロシア娘たちとの暖かく優しいひとときは「珠玉」のような思い出です。

時々、サーシャが牛乳を持ってきてくれました。休憩です。身振り手振りの話を続けます。日本の風景のこと。暮らしのこと。残りの畦も掘り返し出発地点に戻り作業完了でした。

翌日も芋掘りの作業、「お父さんいるか」、「お母さんいるか」、「会いたいだろう」、別れに「ベスビダニヤ」さようならと手を握ってくれました。サーシャは目に涙を浮かべていました。

再び走り出した貨車は、シベリア鉄道沿線シワキ駅に着きました。アムール州シワキ、シベリア鉄道ハバロフスクとイルクーツクの中間点あたり、中国東北部(旧満州)がシベリアに突き出した頂点から少し右の肩当たり、国境のアムールから約四〇キロ、緯度でいうとサハリンの北端にあたります。

シベリア鉄道沿線の駅といってもプラットホームがあるわけではありません。貨物の引き込み線が何本もあって、給水塔がそびえています。後で知ったのですが、給水塔はシベリア鉄道で大切な役割があります。何十キロも駅と駅とが離れています。石炭輸送など、機関車の煙突からの火の粉が石炭に降りかかります。石炭が燃えたまま何十キロも列車は走るのです。駅について、給水塔の下に貨車を入れ消火となるのです。

9月28日でした。雪が降っていました。貨車を降り雪の道を10分ほど歩きました。駅の正面に製材工場があり、道はおがくずが舗装道路のように敷き詰められていました。

収容所は鉄線で囲まれ3メートルほど内側に板囲いがしてあります。鉄条網の四隅は望楼です。ソ連兵がマンドリン型機関銃を抱えて監視していました。正面の門をくぐると収容所の建物が並んでいました。ドイツ兵とルーマニア兵の捕虜が収容されていた跡だとのことでした。

部屋の中は、一段二ベットの二段ベットが並んで、真ん中に大きなペチカがありました。ここで寝起きしていよいよ重労働の始まりでしょう。

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