2010年2月7日日曜日

少年兵兄弟の無念-6

「生きるも死ぬも運次第」

 特幹募集のキャンペーンが大々的に繰り広げられました。朝日新聞主催の機動演習まで行われました。

 朝日新聞 昭和19年1月16日 進め『陸軍特別幹部候補生』
              ――海空立体機動演習見学――

 苛烈なる決戦下、航空戦並に海上補給戦に活躍する航空、船舶両兵種の中堅幹部の多数育成は刻下の急務なるに鑑み、本社は新設の陸軍特別幹部候補生制度の普及徹底のため陸軍当局の指導にて広く中学校、商業学校、工業学校代表者および生徒代表二千六百名を軍都宇品に招き宇品港を中心に瀬戸内海において特別実施される陸軍船舶部隊および航空部隊の実戦さながらの海空立体機動演習を下記要領により見学せしめ、舟艇機動作戦の重要性を認識せしめ併せて本年度特幹候補生要員拡充に資せんとする。

 期日 一月二十二日(土) 午前十時より  一泊二日間  
      二十三日(日) 午後二時まで
 場所 広島県宇品港を中心とする瀬戸内海および厳島 

 演習参加部隊 歩兵一個大隊、砲兵一個中隊、船舶部隊(以上演習部隊)歩兵一個中隊、砲兵一個中隊、船舶部隊の一部、航空部隊(以上対応部隊)飛行機、上陸用舟艇並に船舶多数参加

 演習見学者 各中学校、商業学校、工業学校より校長(又は指導代表者)および志願者代表(第三学年生)生徒各一名、各地方視学官一名宛合計二千六百名、旅費は往復汽車賃(三等)を支給し演習見学期間一泊二日間四食分は軍給与とす、宿泊は在校船舶の船室を無料提供す。
 主催 朝日新聞 後援 陸軍省、文部省、内務省、運輸逓信省、情報局 協賛 広島県、広島市、日本放送協会

 また昭和十九年一月二十八日付では「陸軍『特幹』沸る熱誠 征く級全員 血書の志願もどしどし」と報じられていました。
 
 当初の少年兵は、高等小学校卒業程度であるために、学歴を度外視し、中等学校を中途退学して志願入校するものはほとんどありませんでした。また、生徒として入隊して二等兵で、伍長の階級に達するまでには二年半ないし三年が要求されました。

 このため海軍が中学三年終了程度で採用する甲種飛行予科練の制度を採用し、入隊後二年程度で下士官に任官させる方法をとるようになりますと、中学卒業者及び在学者で、志願する者は、ほとんどそれに応募するようになったのでした。 

 少年がみな海軍の予科練にとられてしまうという危機感から、予科練に対抗して特別幹部候補生を作り、少年たちを陸軍に確保しようとするという陸軍の意識が特幹を生み出したと言うことも出来るでしょう。また見方を変えて言うならば、二十歳を超えた人材をかり出したのが学徒出陣であったしそれ以下の人材を刈り尽くしたのが、この特幹であったとも言えるでしょう。

 陸軍の敗戦時の書類資料の焼却で正確な数字は分かりませんが、元特幹の同期会が協力して調べた数字に依れば、昭和十九年四月から敗戦までの僅か一年半に、特幹に八万名を超える少年たちが入隊をしたのでした。また当時の新聞では、十倍の競争率であったと報じられていました。

 甲種予科練は、昭和十六年十二月の大平洋戦争開戦後の昭和十七年四月から、特幹制度がまだない十八年十二月までの入隊数三万四千五百名、特幹創設の昭和十九年四月から敗戦までの入隊数十万三千名でありました。
なお「わだつみのこえ」の学徒出陣は約十二万名~十三万名といわれています。

 特幹の採用試験は全国各地で行われ、第一次身体検査の後、昭和十八年二月十六日に学力検査が行われ、私は東京の早稲田中学校で試験を受けました。 試験は、算数と「特別幹部候補生たらんとする決意を旧師に報ずる文を書け」と言う作文でした。

 算数にはこんな問題もありました。
 「爆弾積載時の速度四〇〇キロ、投下後はその四分の一の速度を増す、重爆撃機が十時間の航続時間を有するとき、この機は何キロ遠き地まで爆撃し得るか、但し敵地上空において三十分を費やし、その他に三十分の余裕をおくべきものとす。」

 私は運が良いのです。 戦争では、兵隊の生命は自分で守ることはできません。「任地」や「任務」は「命令」で決まるのです。そこには自分の意思や希望を働かす余地は全くありません。それこそ「運」に恵まれるかどうかということだけで生命がもてあそばれます。
後で考えると、運が良かった、あれで助かった、命を長らえたと思うことが何度もあります。

 その最初がこの入隊志願のときでした。特幹第一期の採用は航空と船舶の二つの兵科に限られ、航空は操縦・通信・整備、船舶は船舶工兵、船舶通信、特殊艇要員、整備要員でした。どちらかの希望に○をつけるのです。
私の長兄は船舶兵で南方に転戦していました。戦地の兄から軍事郵便のはがきが着くと必ずどこか一カ所検閲で墨が塗ってあります。長兄は検閲を想定して地名をどこかに入れてあります。姉が先ずその墨を丹念に拭き取ると、下からペン字の地名が現れてきます。「アツ、マニラだ」「アレ、セブ島だ。セブ島ってどこだろう。地図持ってきてよ」。すぐ上の兄と私が地図で調べます。「今度はアンボンだ。アンボンてどこだ、すごいな船舶兵は。あちこち飛び回って」。そんなことで何か船舶兵に憧れを持っていたのでした。

 だから私は船舶兵志望に○をつけました。しかし「大空への憧れ」、大空を飛びたいという憧れを打ち消すことはできませんでした。試験を終わって退席直前、慌てて、船舶兵を×で消し、航空兵に○を書き、会場を飛びだしたのでした。

 戦後にわかったのですが、特幹一期の船舶兵は一八九〇人でしたが四五年四月から小豆島で訓練し、八月には一七一八人が特攻隊として第一線に配置されました。いわゆる陸軍海上挺進隊です。そのうち一一八五人がルソン島、沖縄、台湾沖で戦死しました。あの時、船舶兵に○のまま試験場を出ていたら、私もその中に入っていたと思います。

 陸軍海上挺進隊というのは、海軍の震洋特攻隊と同じです。特幹一期生を主力に創設された、陸軍の水上特攻隊でした。長さ五メートル、トヨタの六〇馬力ガソリンエンジンが付いたベニヤ板製で「連絡艇」通称レ艇(マルレ)に二五〇キロの爆薬を付けて敵艦に体当たりするのです。海軍の震洋は頭からぶつかります。

 陸軍のレ艇は海面下で爆発させるため、衝突直前に艇を反転し爆薬を投下します。攻撃は三隻~九隻一体になって夜中に行われます。米艦は攻撃を避けるため、夜は港外に避難しています。そのため米艦に近づけず引き返してくることも度々ありました。ルソン島では米軍の進撃が早く、出撃基地を追われ、再度の出撃もならず、陸上部隊と地上戦闘に参加となります。

 すると「お前たちは特攻隊の生き残りだ。斬り込み隊で死んでこい」と命令されるのです。敵の見えるところまで進むと援護部隊はそこから一歩も出ずに、斬り込み隊の少年兵たちに「さあ、お前たち行け!」と突撃させられるわけです。生き残ると死ぬまで「斬り込み隊」です。ひどい話です。

 あの時、船舶兵志望のままだったら、恐らく私は海上艇進隊で戦死をしていたことでしょう。今の私はいなかったことでしょう。私は合格でした。四月六日に、水戸市郊外の陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊せよという通知を受け取りました。

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