2010年2月7日日曜日

少年兵兄弟の無念-7

「兄との別れ」

① 兄との別れ                 
 水戸市郊外の陸軍航空通信学校長岡教育隊での、昭和十九年八月二十七日のことは生涯忘れることが出来ません。                 
 日曜日でした。外出せず内務班にいた私に、突然呼び出しがかかったのです。「父と兄が面会に来た。外出の服装で週番士官の部屋にすぐ来るように」と言うのです。「予告もなしに父が、それに兄までもが、一体何事だろう」、不安と喜びに慌てて服装を整え、週番士官の部屋に飛び込みました。

 特別外出が許可されました。土浦の予科練で「回天」搭乗員を志願した三兄は、「回天」基地への移動を前にして、たまたま面会に訪れた父と外出を許されたのでした。二人は、学徒出陣で整備兵の次兄を鉾田飛行場に訪れ、その足で水戸に回ってきたのでした。

 教育隊近く、水戸街道と陸前浜街道の別れ道に食堂がありました。親子三人、うどんといなり寿司を食べながら語り合いました。突然のことに嬉しさがこみあげ、兄が特攻隊だなど夢にも考えつきませんでした。父はどうだったのでしょうか。何を喋ったのか思い出せませんが兎に角夢中で話し合いました。父は二人の息子の語り合いを、にこにこ頷きながら、黙って見つめていました。

 帰りの時間が迫ってきました。兄は財布を出し、有り金全部差出しました。「おいこれ使えよ」、そう言って渡されたお札が、当時のお金で五円位ありました。特攻隊とは言うことが出来ず、言外に別れを告げたのでしょう。おそらく特攻隊員としての、最後の「さようなら」を告げたかったのでしょう。営門の前で、別れの時がきました。

 海軍飛行予科練習生海軍飛行兵長の兄房蔵は、肘を前に出す海軍の敬礼で、陸軍特別幹部候補生陸軍一等兵の弟得郎は、肘を横に張る陸軍の敬礼で、じっとお互いを見つめ、いつまでも別れを惜しみました。

 父は横に立って、黙って二人の息子たちを見つめていました。兄が十八歳五ヶ月。弟が十五歳十一ヶ月でした。父はどんな思いで二人の息子、少年兵の息子たちを見つめていたのでしょうか。兄は何を言いたかったのでしょうか。のぞき込むように私を見つめていました、それが、兄と私の最後の別れとなりました。

        ② 兄の推定戦没地点粟国島を訪ねて
 二〇〇一年、沖縄慰霊の日の前日の六月二十二日、兄の戦没推定地点粟国島で花束を捧げることが出来ました。
粟国島は人口九〇〇人、周囲十二キロの小島で、那覇市の北西約六〇キロに位置し、晴れた日には、東に沖縄本島、東南に慶良間列島、渡名喜島、南西方面に久米島、西に無人島鳥島を望むことが出来ます。南側を底辺に北端を頂点としてやや東に傾いた三角お結びの様な形をしています。港は南側に粟国港だけ、砂浜は東側の長浜海岸、北端から中央部にかけてはソテツが生い茂っています。人家は南部に固まっていて西側北側に人家はありません。西端の筆ん崎は九十六メートルの断崖絶壁で、その断崖は北端まで続いています。また断崖の上は原生林が続き、人が立ち寄ることは殆どありません。

 兄たち人間魚雷回天特攻隊白竜隊は四五年三月十三日山口県光基地を出撃しました。米機動部隊は既にその時ウルシー泊地を出発し南西諸島に近づいていました。回天八基、搭乗員七名、基地員一二〇名、乗組員二二五名を載せた第十八号一等輸送艦は途中、佐世保に寄港した後、潜水艦の雷撃を避けるための、之の字運動を繰り返しながら沖縄本島那覇に向かいました。

 しかし、入港直前の十八日未明、護衛艦怒和島(ぬわじま)、済州(さいしゅう)と分離した輸送艦は、那覇北西の粟国島付近で米国潜水艦スプリンガーに遭遇したのでした。三度にわたって魚雷計八本の攻撃を受け四発が命中、輸送艦は一時間もの交戦の後に遂に沈んだのでした。三月十八日午前四時北緯二六度三九分東経一二七度一三分沖縄本島那覇市北西三三浬(粟国島北北西三・五浬ー約五キロ)

 これは軍の記録でもなく、厚生省の調査でもありません。生き残った回天搭乗員が、「自分たちは生き残ってしまった。亡くなった戦友たちに申し訳ない」と苦労して、十五年ほど前に調べた資料なのです。昭和二十一年三月十五日前後に沖縄周辺にいたアメリカ軍艦を調べ出しました。潜水艦スプリンガーが当時その周辺で作戦行動についていました。スプリンガーの戦闘記録を探し出して、ついに第十八号一等輸送艦の沈没状況が判明したのでした。

 四五年六月九日、人口わずか九百・周囲十二キロの島をアメリカ軍艦が取り囲み艦砲射撃、そして戦車を先頭に米軍四万の上陸、ですから村に記録は何も残っていません。 
漁協が遊漁船一隻を出してくれました。六月の沖縄はもう三〇度を超え真夏の太陽が照り輝き空も海も蒼く澄み渡っています。 船は筆ん崎を迂回して、粟国港から四〇分、沈没地点付近は、今は鯛の漁場になっています。第十八号一等輸送艦沈没点でエンジンを停めました。粟国島はすぐ前方にあります。

 「海軍の兵隊さんなら島まで泳げます。だがここは水深一〇〇〇メートル以上の海溝の入口、潮の流れも速い。三月はとりわけ西南久米島の方に向かって船の速度くらいの潮流(時速約二キロ)波高三~五メートルの波、恐らくみんな潮流に流されたでしょう。やっと島にたどり着いたとしても断崖絶壁の岩場、疲れ切って荒波に引き戻されたのでは……」という船長の話に涙が止めどなく溢れ、その時の情景が目に浮かんできます。

 波間を漂い声をかけ励まし合いながら一人また一人と沈んでゆきます。兄はここだったのだろか。それとももっと離れたところでは……。十八歳の兄は死を目前にして何を考えのでしょうか。きっと故郷のこと、家族のことを思いふるさとの歌、赤とんぼの歌を歌いながら波間に隠れたのに違いないでしょう。もっともっと生きたかったのでしょう。 花束が揺れながら見えなくなりました。粟国島にうち寄せる波しぶきがきらきらと輝いていました。遠くに久米島と渡名喜島が浮かんでいました。

 深夜で、荒天、断崖の海岸、上陸は不可能な状況の下で殆どの回天隊員と輸送艦乗組員は戦死されたものと思われます。目的地をすぐ近くにどれほど無念だったことでしょう。人家から遠く、断崖と高台、原始林に遮ぎられ、爆発音も、救助を求める信号も島の人たちには全く届かず、為す術もなかったのでしょうか。沈没が不可避の状況で、隊員達、乗組員達は、何を思い、どんな行動をしていたのでしょうか。殆どの乗員が船とともに戦没したものと思はれますが、一部の隊員は大発艇で沖縄本島を目指したと推測されています。

 厚生省記録では、回天搭乗員七名中二名が十八日輸送艦沈没時に戦死、二十三日慶良間基地付近で二名が戦死、六月十三日、十四日に二名が本島海軍司令部付近の戦闘で戦死、私の兄は三月二十四日進出途次戦死とされています。では、誰がどういう経過でこのような記載にしたのか、厚生省でも分かりません。当時の記録を作った人達もいないし、その根拠となる記録も残っていません。このの七人の戦死を見たものもいないし、その聞き書き、報告もありません。

     ③ 兄の生きた証しを求めて
 兄房蔵は、戦場に赴くことが、家族のため、祖国のため、平和のためと心から信じて志願し、回天特攻隊員として十九歳の誕生日直前に戦死しました。兄は、十八年の短い生涯を、平和の時代を知ることなく精一杯生きてきました。兄のことを誰知られることなく埋もれたのでは、あまりにも可哀想です。平和憲法は兄たち戦没者の遺言だと思います。兄の生きた証を探し求め、その想いを語り継ぐこと。それは兄と同じ時代を生き、そして平和の時代を生きることの出来た、遺された弟の生涯の仕事です。それが兄への何よりのはなむけと信じています。

 もう四十年以上前のことですが、たまたま戸籍原本で兄房蔵についての記述を発見しました。

 『昭和弐拾年参月弐拾四日時不詳東支那に於いて戦死横須賀地方復員人事局人事部長斉藤昇 報告仝弐拾弐年拾弐月九日受付』とありました。 海軍の特攻隊員、航空機ではなく、水中特攻兵器回天の搭乗員が『東支那』で戦死?。一体どういうことなのだろう。

 『東支那』と『東支那海』とは全く違う。『海』の一字があるかないかなどという単純な問題ではない。まして『北支那』とか『南支那』という用語は使われたことがあるが『東支那』などという地域は存在したことがない。これは何だ。戸籍原本は永久に残るものだ。間違いにしてはあまりにも非道い。戦死者がこんな粗雑な扱いを受けてよいものだろうか。戦死者の存在そのものを否定するに等しいことだ。何が慰霊だ。何が追悼だ。私は心から怒りました。それが、兄の生きた証を探し求める出発点でした。

 様々な試行錯誤の末、回天搭乗員の生き残りの人達とも巡り会いました。兄とふれあった予科練出身者も探し出しました。改めて厚生省に兄の戦没状況を問合わせました。回答は次のようなものでした。

  平成九年五月二十九日   厚生省社会・援護局業務第二課
          戦没状況について(回答)
                  記
 光突撃隊として勤務のところ、特攻隊として沖縄方面根拠地隊に転勤発令のため荘河丸に便乗、鹿児島発沖縄に向け航行の途次、敵の攻撃を受け、昭和二〇年三月二十四日同船沈没の際、戦死。なお、沈没地点は、北緯二九度一二分、東経一二五度一三分付近です。

 回天搭乗員が隊と離れ一人だけ別の輸送船に乗って戦死したと言うことになっていたのです。兄の白龍隊というのは通称名です。第一基地回天隊が正式名称です。 人間魚雷回天というのは、酸素魚雷を改造して、頭部に一.五トンの爆装をした魚雷を人間が操縦して敵艦に体当たりするという、文字通り十死零生、必死必殺の兵器でした。

 最初は泊地攻撃という泊地に停泊した敵艦を攻撃するという戦術でした。しかし、防御が厳重になる中で航行艦攻撃で、洋上を航行する敵艦を攻撃するという戦法になりました。しかし、回天を搭載する潜水艦が次々に撃沈され少なくなりました。また、アメリカ軍の攻撃も日本本土に迫ってきました。そこで、アメリカ軍の攻撃予想地点に洞窟陣地を構え、そこに待機した回天が出撃して敵艦に体当たりをするという目的で基地回天隊が作られたのでした。

 沖縄の洞窟陣地の建設の遅れ、潜水艦の不足、そのため裸の輸送艦で出撃し、待ちかまえたアメリカ潜水艦に雷撃され、第一回天隊は全滅することになったのでした。しかも、戦果を挙げなかった特攻隊などに、軍部は何の関心も示しません。沖縄戦史のどこにも回天特攻白龍隊の記述はありません。防衛庁の戦史叢書にも一言も触れられていません。そして、特攻隊は、英雄だ、見習へ、などと嘯かれているのです。

 私は、荘河丸という輸送船の記録を探し出し三月十三日夜鹿児島港を出港したことを知りました。その日の午前中の、光基地での白龍隊搭乗員出撃記念写真に兄は写っていました。当時の鉄道の時刻表を探し出し調べましたが、到底鹿児島発荘河丸の出航には間に合いません。また、兄が、光基地を出撃の際に見送った戦友を捜し出しました。土浦から回天への着任は百人。そのうち五十人が大津島、光が同じく五十人。またそこから平生基地その他へ移動。復員後の死亡等々。見つけ出すのに二年以上かかりました。厚生省と数年間の交渉の後、記録を訂正させることが出来ました。二度出撃し、奇跡的に生き残った石橋輝好さんの証言です。

 『私の最初の出撃は、光基地からの轟隊イ三六三潜水艦で、昭和二十年五月二十八日でした。ですから、白龍隊出撃の三月十三日には、確かに光基地で訓練をしていました。その日の午後白龍隊は、第十八号一等輸送艦乗船のため、大勢の基地隊員、整備員、勤務員たちの見送りの激励の中を、庁舎前の広場から桟橋に向かいました。

 私は、途中の道筋で、白龍隊の出撃を見送りました。私は、白龍隊に特別の親しみを感じていました。白龍隊の赤近君とは、同じ予科練土浦航空隊五十八分隊の出身でした。同じく搭乗員の猪熊君は、土浦では六十一分隊でしたが、私と同じ東京の学校の出身でした。

 光基地に来てから知ったのですが、私は錦城中学、彼は錦城商業でした。私は柔道二段で、いかついというか、ごついというか、みんなから荒っぽい感じをもたれていました。一方猪熊君は非常に穏和で優男、真面目で目立たず、出しゃばる様子はなく訓練に励んでいました。私と猪熊君は大変対照的なので、「石橋と猪熊が同じ錦城出身の予科練、同じ回天特攻隊員などとはとても考えられない」と、みんなからよく言われていました。だから私にとって、白龍隊はとても身近なものでした。その白龍隊の出撃を、私は、忘れるはずがありません。

 出撃する白龍隊の先頭は、河合隊長をはじめとする回天搭乗員達でした。隊長の河合中尉、予備学生出身の堀田少尉、新野・田中の二人の二等兵曹、そして予科練土浦航空隊出身の赤近忠三(土空五八分隊)・猪熊房蔵(土空六一分隊)・伊東祐之二等飛行兵曹(土空四四分隊)の三隊員で、七人の搭乗員がいました。 搭乗員達は見送りの人たちの激励に応えて、手に持った桜の小枝を頭の上にかざして、振っていました。私の写真帳には、猪熊君、伊東君、赤近君、新野君のそれぞれの写真があります。出撃の時、白龍隊搭乗員の持っていた、あの桜の小枝が印象深く、今でも鮮かに思い出されます。出撃の時の彼のことをはっきり覚えています。』

 厚生省の記録の訂正は次のようなものでした。
 平成十二年三月二十八日付厚生省社会・社会援護局業務第二課長

   戦没状況について(回答)
 故海軍一等海軍飛行兵曹猪熊房蔵様にかかる戦没状況につきましては、次の通り
お知らせします。
              記
  戦没年月日  昭和二十年三月二十四日
  昭和二十年三月十三日沖縄方面根拠地隊付きとなり、第十八号輸送艦に便乗、沖
  縄基地進出の途次、東支那海に於いて、敵潜水艦の攻撃を受け、戦死。

 しかし、輸送艦沈没は三月十八日。兄の戦死は二十四日、何故か。戦死場所は、沖縄進出途次。それはどの地点のことを指すのか。疑問は残っています。調査は続いています。

④ ひとつの伝聞
 二〇〇四年になって、「全国回天会」からある「伝聞」が伝えられました。一九四五年四月一日アメリカ軍は沖縄本島に、その直前の三月二十六日には慶良間諸島に上陸しました。「まだ米軍上陸以前に、日本の海軍の大発艇(大型発動機艇)が慶良間列島に立ち寄って負傷者を降ろし、燃料を補給して沖縄本島に向かった」というものです。その伝聞を残した人は、慶良間諸島に働きに来ていた久米島の人で、その人は既に亡くなっている、その島が、どの島かはわからないということでした。

 大発艇というのは二〇人ぐらいは乗れる上陸用の船です。沈んだ第十八号一等輸送艦も大発艇を載せていました。第十八号一等輸送艦は魚雷が当たって瞬時に沈没する轟沈ではありません。アメリカ潜水艦と一時間交戦をしています。船が沈む前に大発艇を発進させることは出来たわけです。

また、便乗の回天搭乗員は、乗組員のように艦と運命を共にする必要はありません。回天搭乗員が最後まで戦闘することを他の人々も望んでいたことでしょう。回天搭乗員を優先して大発艇に載せることも充分考えられることです。二人の搭乗員が陸上戦闘で戦死したことになっています。また、搭乗員以外に、回天基地要員の軍医と整備準士官が沖縄海軍司令部付近の戦闘で死んだとされています。これらのことは大発艇で慶良間諸島に立ち寄り、沖縄本島に立ち寄ったという「伝聞」と結びついています。

 〇五年六月、私は、とりあえず慶良間諸島で一番大きな渡嘉敷島を訪れました。大発艇が来て燃料を補給したならば、当時の軍や、役場が関係しているはずです。また複数の人の記憶があるはずです。今は観光地で六〇年以上も前のことです。また、米軍の上陸で激しい戦闘があり、住民の「集団自決」もありました。困難でも行かなければ分からないと調べました。

当時の状況を体験した方にも会いましたが、渡嘉敷島ではありませんでした。今度は二番目に大きな島、座間味島に行く予定です。肉親の遺族にとって、いつ、どこで、どんなふうに死んだのか、それが何よりも知りたいことです。戦死した者にしても、いつ、どこで、どんなふうにして死んだかも曖昧にしたまま忘れられてしまう、こんな悲しい、こんな口惜しいことはないと思います。

戦死者がそんな扱いをされているのです。それが余計に腹立たしいのです。何が慰霊だ、何が追悼だ。死に方さえはっきりしないまま、戦争で死んだ人を偲んで平和を尊びますなんて、何、言ってんだという気持ちになります。

最後にジャーナリスト増田れい子さんが私たち兄弟のことを書いた随想を紹介します。
風紋 言いのこしておきたいこと   
増田れい子(国公労調査時報2004年9月号より)
……………………………
 五十九年前に戦場で、ヒロシマ、ナガサキ、また沖縄本島、主要各都市を中心に三一〇万人のナマ身の人間が、あるいは爆死しあるいは飢えあるいは差し違えて死に果てた末、戦果は止んだ。戦場となったアジアの各地での非業の死者は、二〇〇〇万人を数える。もう少し戦争が長引いていたら、死者の数はもちろんさらに増えていたであろう。かくいう私自身も空襲か飢餓で、命を失っていたに違いない。敗戦時、私は十六歳だった。

 実は、この年齢で戦場に身をおいていた、いわゆる少年兵は決して少なくない。戦争末期海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に何と四十二万人もの少年が志願している。彼らはのちに特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装をほどこした水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力とされた。

 猪熊得郎さんはその少年兵の生き残りで、少年兵を通して日本の侵略戦争をはじめ平和について、憲法について考え発言を続けているひとりである。猪熊さんは、父の反対を押し切って一九四四年、十五歳で志願して陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊、水戸東飛行場に勤務(その間、米軍の艦載機による攻撃で十一名の同期生を失う)、のち満州に送られ敗戦、十七歳でソ連の捕虜となりシベリア抑留。ダモイ(帰還)したのは四七年末、十九歳のときだった。

ダモイしてみると東京の家は空襲であとかたもなく、父はすでに亡く、二歳上で少年兵だった兄房蔵さんも戦死していた。房蔵さんは人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員(海軍二等飛行兵曹)として沖縄へ向け出撃、四五年三月十八日沖縄本島近くの粟国島北北西五キロ付近で米艦からの雷撃によって乗艦(第十八号一等輸送艦)が沈没、回天もろとも青い海に果てた。時に十八歳。実は兄戦死の正確な場所、日時をたしかめるまで得郎さんは何と五十年をこえる歳月を費やしている。

国の記録が杜撰であり、度重なる調査依頼にも有効な回答が得られなかったこと、戦死者が多く有力な証言が少なかったことがその主な理由だが、得郎さんはあきらめなかった。いや、あきらめることは不可能だった。自分も含めて、いったいあの志願は何であったのか戦争をはじめた国家とはいったい何なのか、考えれば考えるほど疑問がつのったからである。

 房蔵さんは二首の遺詠をしたためていた。

 益良夫の後見む心次々にうけつぎ来たりて 我もまた征く
 身は一つ千々に砕きて醜千人殺し殺すも なほあき足らじ

 得郎さんはある雑誌にこう書いている。「小学一年の教科書から〃ススメ、ススメ、ヘイタイススメ〃と学び、〃ボクは軍人大好きよ〃と歌い、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸躍らせ、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと心から信じる少年に育てあげられた。(中略)

私たち当時の少年は、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。そしてその戦争が〃大東亜戦争〃の美名の下、他国を侵略し、他国の民族を支配し、抑圧する戦争だったのだ。しかも少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び〃戦争をする国〃にしようとしている」

そうして、私もつい見落としていたのだが、実は少年兵はいまも再生産されている。少年自衛官とも言うべき陸海空「自衛隊生徒」(十五歳以上十七歳未満の中学卒業者から選ぶ)が毎年採用されている。平成十五年度の合格者は六四六名(昨年度採用は四一一名)で増加傾向にある。応募者はここ数年一万人をこえ倍率は三十倍に迫る。選択の自由はある。だが、同時に一人として戦場で死なせないための、戦争国家をつくらない選択の自由もあることをこの際明確にしておきたい。

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