2010年2月16日火曜日

少年兵兄弟の無念-12

陽動無線・内務班のしごき・ソ連侵攻を前にして

 私は五月に入って敦化(とんか)飛行場に派遣されました。敦化は吉林省の西北部にあり、朝鮮国境にも近く、弾薬の集積地でもありました。近年、日本軍が遺棄した毒ガス兵器で事故が起こっています。立派な飛行場がありましたが、南方に移動して飛行機は一機もありませんでした、関東軍はどんどん南方に移動していました。
 
 1941年6月22日に独ソ戦が始まり、7月2日、天皇の臨席する大本営政府連絡会議が、御前会議として開かれました。この会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定され「南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方の問題を解決す」という方針が示されました。

 南方進出については、
 帝国はその自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各搬の施策を促進す。 之が為対米英戦準備を整え先づ「対仏印泰(タイ)施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す。帝国は本号目的達成の為め対米英戦を辞せず。とし、

 北方については、
 独「ソ」戦に対しては、三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す。此の間固より周密用意を以て外交交渉を行う。独「ソ」戦争の推移帝国の為め有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す。とさだめていました。

 北方についての「密かに対ソ武力的準備」の具体策は、陸軍の大動員でした。この時までの関東軍は、平時編成の12個師団、35万人の兵力を擁していました。この関東軍の兵力を戦時編制にし、16個師団で対ソ戦準備を整えようとしたのでした。この動員は、対ソ戦の企図をかくすため、秘密のうちにすすめられ「関特演」(関東軍特別大演習)とよばれ、人員50万人、馬15万頭が動員され、在満州・朝鮮兵力16個師団85万人の態勢が整備されました。

 その後日本は対ソ武力行使の企図は中止され、対米英戦の方向に進むことになりましたが、関東軍の戦備が最も充実した1942年夏前後の在満州・朝鮮兵力は、一般師団14、戦車師団2、戦車旅団1、騎兵旅団1、国境守備隊13、独立守備隊9、独立砲兵連隊19、独立砲兵大隊14。兵員約65万、戦車675両、装甲車155両、飛行機750機で強力な戦力でした。
(当時の極東ソ連軍は、師団29、戦車旅団20などを基幹とする兵員約145万、戦車2589両であった。)

 しかし、1945年ガダルカナル島に始まった南太平洋方面からの連合軍の反攻に対して、その9月以降、関東軍から航空部隊のほか、一部の地上部隊の抽出が始められました。それ以来1945年春まで、関東軍は兵力供給基地と化し、在来精鋭部隊の殆ど全部が抽出転用されたのでした。ですから私が敦化飛行場に着任した頃には満州全土に飛行機は300機も無かったでしょう。

 少し前、新京東飛行場で、少年飛行兵15期生の操縦士が赤とんぼと言われた複葉練習機やグライダーで訓練をしているのを見ました。「なんで、そんなもんで訓練しているのだ」「そんなもので勝てるのか」と聞くと、「飛行機がないのだ」「敵機が来襲すると情報が入れば、これで上空に待機するのだ。待ち構えて、1対1の体当たりだ」という返事が返ってきました。

 同じ兵長ですが、私たち特幹より軍歴は長く、そして私とあまり年の違わない彼の眼差しは真剣でした。「お互い、頑張りましょう」そう言って敬礼を交わして別れましたが、ソ連の侵攻がはじまった後、彼は、どうなったでしょうか。「果たして日本は勝てるのだろうか。」「これから日本はどうなるのだろう」それが、国難に志願した少年兵の実感でした。シベリアに抑留されたときに国境にいたという兵士の話を聞いたのですが、重砲を皆南方に持って行ってしまったので、樽にコールタールを塗り、遠目には野砲に見せかけていたということでした。

 敦化飛行場での対空無線分隊の任務は「陽動無線」です。
 「陽動無線」というのは、実際には飛行機がいないのに、本部や他の基地と頻繁に無線通信をして、いかにも飛行機がいるかのように見せかける通信任務です。15人の分隊員が交替で、24時間送受信です。受信は数台の無線機で、数種の周波数の電波をとらえます。気象条件の影響で、電波は、高低、強弱、震えるフエ-デイングという現象に、ソ連の妨害電波が入り混じります。電波のリズムに無意識の感を働かせつつ5字遅れ、7字遅れに鉛筆を走らせます。

 上官や古兵の不合理な命令やいびりもなく、分隊員が一つになって、家族か兄弟のように心を合わせて任務に取り組んだ、充実した瞬間をこの時期味わうことが出来たのでした。7月初め、任務終了を告げられ、撤収して、本隊に帰りました。新京の本隊は、なにか慌ただしく落ち着きがありませんでした。銃の遊底はみな取り外されました。遊底とは、銃に弾丸を込めるところのカバーです。埃や雨水などが入らないようにカバーしているのです。無くても射撃には差し支えありません。余分な鉄の回収だとのことです。新兵がたくさん増えています。数ヵ月後にソ連と交戦をするかもしれない。そんなとき、対空無線隊に新兵をたくさん入れて一体どうしようというのでしょうか。

 航空部隊ということで、銃は3人に1丁、中隊武器庫から員数外で保管していた銃で兵隊の数に合わせました。しかし、軍靴はなく地下足袋、水筒は竹筒といった有様です。関東軍は一体どうなっているのでしょうか。これで本気で戦うのだろうか。そんな疑念が胸いっぱいに広がってきました。

 こんな状況の背景です。
1945年初め頃の日本側の対ソ判断は、「ソ連は本春中立条約の破棄を通告する公算が相当大きいが、依然対日中立関係を維持するであろう……」(2月22日最高戦争指導会議決定の世界情勢判断)ということでありました。
1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次のような趣旨のものでした。

 「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯で行い、このための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、日本全般の戦争指導を有利にする。」

 4月25日大本営陸軍部策定の「世界情勢判断(案)でようやく、本年初秋以降厳に警戒を要す」と判断し、大本営は、5月30日、関東軍の態勢転換を認める形で「対ソ作戦準備」及び「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を発令しました。
関東軍は7月5日、ようやく作戦計画を策定したのです。ソ連軍が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦に持ち込むという戦術でありました。

 関東軍総司令部も新京(長春)を捨てて南満の通化に移る。そして、主力は戦いつつ後退し、全満の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保し、最後の抗戦を通化を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛する。この作戦準備完了の目途を九月末までとする、というものでした。

 そうして、7月10日には、青年義勇隊を含めた在満の適齢の男子(19歳から45歳)約40万のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員15万人ほどをのぞいた残り25万人の根こそぎ動員をかけたのです。これが後に在留日本人の悲劇を大きくしたのでした。街や開拓団には男は老人と子供だけとなりました。ソ連の侵攻になすすべもありません。男はシベリア、女性は残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。

 この根こそぎ動員によって、関東軍の対ソ戦時の兵力は次のようになりました。
 師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1、等を基幹とする兵員75万、火砲約1000門、戦車約200両、戦闘可能な飛行機200機でありました。
しかし、真の戦力となると、装備は極めて貧弱、訓練も半数はこれからという状況でした。特に根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が10万人はいたということで、野砲も400門不足していました。

 新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。ビール瓶はノモンハン事件での戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。ところが、8月2日、関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送した。「関東軍は盤石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生産に励むがよろしい……」
「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘らず、開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのでした。

 一方ソ連軍は、狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、戦車旅団40、等を基幹とする兵員約174万、火砲約30000門、戦車5300両、飛行機5200機という圧倒的な戦力でした。

 中隊では、新兵の教育訓練が始まりました。指導教官は見習士官。補助員として、特幹が当てられました。古兵をあてたら初年兵が壊れてしまうという配慮からでしょうか。おかげで私たち特幹は、毎日初年兵と一緒に教練で、模範演技を見せなければなりませんでした。初年兵はとりわけ大変です。6年兵、7年兵がいます。ここまで古くなると「解脱」(げだつ)の境地でしょうか。若い兵隊たちをあまりいびりません。寝台の神様で将校も下士官も煙たく敬遠して腫れ物に触るような扱いです。実際に内務班を取り仕切る5年兵のお目付け役です。

 内務班をかき回しているのは、3年兵、4年兵です。戦闘もなく、家族にも会えず、たいした任務もなく、ただ兵舎で暮らしているだけの古兵たちの楽しみは、祝祭日の外出で「慰安婦」を買うこと、そして内務班で新兵たちをいびることなのでした。私が語るよりも適切な文章がありますので、それを紹介します。

「 不戦」89年3月号 「大喪の日、元兵士が語る〝痛恨の日々〟 武田逸英」より

 (前略)
 初年兵は忙しい。夜、藁蒲団に毛布を封筒型に巻いた中に入って眠るとき以外は寸暇もない。その睡眠さえもしばしば破られ、叩き起こされる。被服の整頓が悪いとか、編上靴の置き方がどうとか、難癖をつけてである。起床、点呼、掃除、作業、朝食、野外訓練、野外昼食、野外訓練、入浴、晩食、学科、点呼、消灯、その間にこまごました雑用があるので、うっかりしていると歯も磨けず、襦袢や

 褌を洗濯する暇もない。
 入浴も整列して浴場へ行く。出入り口に古兵が張り番をしていて官姓名を名乗って出入りしなければいけない。浴場の中は満員で、古年兵がふざけて暴れている。その背中も流してやらなければならず、浴槽に容易には入れない。脱衣場に上がってくると、自分の物が無くなっているのもしばしば、そこで窮余の一策でタオルを濡らし、顔を拭い、入浴を澄ませた振りして出てくることもある。

 初年兵は一挙手一投足に至るまで、仲間で連携している古年兵に監視されているから寸秒の油断もできない。あら探しのネタが無くても言いがかりをつけてビンタを張る。晩食後は各班軒なみビンタの大合奏が始まる。(中略) ビンタは手だけでなく,帯革や上靴でもやり、顔が腫れて変形する。悪口雑言、罵りざんぼうの限りを尽くす。陰険極まりない。そして、すべてこれは「軍隊の申し送りじや」と言う。つまり、自分たちが初年兵のときに受けた理不尽な精神的、肉体的苦しみを、そのまま初年兵に申し送るのだそうである。(中略)

 初年兵いびりや、しごきは、古年兵にとっては倒錯した日常的悦楽に転化しているわけである。その言動のくだらなさ、程度の低さは、どうしようもないほどである。はて、日本人って、こんな愚劣な人種だったのかと、思わず訝るほどである。元は純粋なところもあったと思われる者たちを、こんな蝮(まむし)のような人間に仕上げるのは、まぎれもなく現人神(アラヒトガミ)たる大元帥陛下を頭とする大日本帝国陸軍である。

 こうしたリンチは、正式には許されていないが、将校も下士官も黙認している。規格に合った強い兵隊を作るには、やむをえない教育の一方法だと思っている。それに、いざ戦闘となった場合、自分が指揮して頼りになるのはこの古年兵だから、普段あまり咎めだてしてはまずいという事情もある。下士官は古年兵から上がった者だから、当然古年兵に遠慮がある。かくして軍隊、とくに内務班(兵舎内生活)でリンチは日常茶飯事として絶えない。まぎれもなく、一種の狂気集団である。(中略)

 徴兵制は当初フランスに範をとったものだが、フランスはブルジョワ革命を遂げて解放され、新しく土地を獲得した農民を基盤として、兵士には革命の成果を守り王政諸国の干渉軍と勇敢に戦う強い意志があり、国家「マルセイエーズ」に表れる愛国心の高揚が見られた。

 ところが日本では、明治維新も農民を十分に解放せず、農民の期待を裏切って、その後も民衆に犠牲を強いるばかりで、国家は専ら抑圧を旨としてきたので、民衆の家族の生活や生命を守ることを戦争目的にできず、したがって兵士の戦意高揚を図ることができなかった。そこで強制と脅迫によって天皇への忠誠心を植えつける方法に頼り、戦闘意欲を掻き立てる仕儀となった。つまり、軍隊は天皇のための軍隊であり、国民のための軍隊ではなかった。(後略)………

 私たち特幹7名は、あらかじめ「寝台の神様」7年兵には話をつけておき、朝食後も、晩食後も、初年兵の訓練、演習に参加する以外は、班を抜け出し、一緒に集まることにしました。古年兵たちから身を守る「自衛」のためです。「早くドンパチ始まらないか。あいつら後ろからぶち殺してやる」本気でそんな風に思っていました。毎週日曜になると、外出どころか「脱走兵」探しです。我慢がならなく脱走するのです。内地からでなく、現地召集の兵隊は土地勘があります。中国語もある程度できます。中国人部落に逃げ込み、匿ってもらったら百パーセント発見不可能です。

 応召の四十近い初年兵が自殺をしました。内地からの兵隊です。理不尽で地獄のような内務班生活に耐えられなかったのでしょう。便所で、銃剣を立て懸け、屈みこんで喉を突き息絶えました。上官の責任が問われます。自殺したことは内密にして、事故死として遺骨は送り返されたようです。これも「名誉の戦死」なのでしょうか。遺族には何と報告したのでしょうか。

 次々に見聞きする異常事態に「これで勝てるのかな」という不安が募る一方、日本は正しいと信じていて、「天皇陛下の大御心(おおみこころ)を途中で捻じ曲げる奴がいるからこういう事態になるのだ」「天皇に申し訳ない」「いつか立派な軍人になってこういう奴らを正すのだ」と思うのでした。子どもの頃からの日の丸・君が代・天皇づけの教育とは恐ろしいものです。なにしろ「天皇」は「大元帥陛下」で、「神聖にして冒すべからず」の「かしこくも現人神(あらひとがみ)」であらせられるのです。
 でも天皇のために死ぬとは思っていませんでした。「天皇陛下万歳」なんていうのはインチキです。 恰好をつけるポーズだと思っていました。 死ぬとしたら、「祖国」のため、「愛する家族」のためだと思っていました。

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