2010年2月24日水曜日

少年兵兄弟の無念-18

「情報無線隊」行き同期生の消息

№20682-(11)で私は次のように書いています。
「長春の司令部で内地から転属した同期生四〇人ほど簡単な筆記試験があって、また選り分けられました。私たち七人は対空無線隊に行きました。ここで私はまた強運を引き当てたのです。

『情報無線』に選ばれた者も沢山いました。二人宛無線機と食糧を携行して国境線に配置され、ソ連軍の動向を探り通報するのです。彼らはほとんど還っていません。八月九日にソ連が侵攻してきたとき、彼らは置き去りで、本部や司令部はとっくに逃げ去っていました。」

「戦史叢書 満州方面陸軍航空作戦 防衛庁防衛研修所戦史室」で、情報無線隊行き特幹同期生の消息を知ることをできました。

「航空情報部隊の玉砕」という章の概略は次のようなものです。

第十一航空情報連隊の戦闘 (本部-温春)
ソ連の侵攻によって、まず危険にさらされたのが、国境近く配置されていた航空情報関係諸隊でした。

ソ連の侵攻が近いと判断した徳田義雄(少佐)連隊長は八月三日第一線監視哨に対して次のような指示を出していました。

「あらかじめ緊急事態に直面したならば、暗号書、乱数表を焼却する。その後の通信は生文(なまぶん)でもよい。しかしできるだけ定められた略号を使用する(例 玉砕はキヨキヨ)。ソ連が出撃し爾後の行動に関して命令を受ける暇(いとま)のない場合は、対空監視を継続するため、なるべく玉砕を避け、ポストは小隊本部に、小隊本部はポストを収容しつつ中隊本部に、次いで連隊本部に向かい行動する」。

八日夜半、連隊本部にソ連侵入の第一報がありました。九日零時すぎ、各方面から出撃した数十機のソ軍機は、東安、牡丹江その他を爆撃しました
連隊長が第二航空軍司令部に報告して、爾後の行動の指示を請うたところ「とりあえず現配置で任務を続行し、後命を待て」としめされたのでした。

五~七名で構成されていた各監視哨は状況の報告を続けていましたが、九日夕刻から玉砕の電報が相次ぎました。連隊長は独断で十日、監視哨の撤収を命じました。
十一日、ようやく第十一航空情報連隊には、敦化付近に集結し次期作戦の準備をするように命じられたのでした。連隊主力は温春から敦化に、一部は杏樹付近からハルピンを経由して新京に集結中終戦を迎えたのでした。
第十七航空情報隊の戦闘 (本部 チチハル)
北部および西部の広大な地域に展開していた同隊は、ソ連の満州侵入企図を事前に察知できませんでした。
ソ連侵入時期に関する判断や地上攻撃に際し、部隊のとるべき行動の準拠について、第二航空軍からは何らの指示や命令はありませんでした。

八月九日早朝、孫呉方面および海拉爾方面第一線ポストから、ソ連侵入の緊急電報が入いりました。続いて五叉溝方面の各ポストからもありました。しかし、これらのポストとの通信連絡は、大部分が緊急電報発信後に間もなく途絶えました。

孫呉小隊は第一線ポストの兵員を収容しつつ、北安-克山の線に後退しつつ終戦を迎えました。
嫩江小隊は、終戦まで現地にとどまって任務を遂行した後、チチハルに集結しました。

海拉爾小隊は、九日各ポストの連絡が絶え、小隊長金子少尉がポストの兵員収容のため、第一線に赴いたが、そのまま消息を絶ちました。

玉砕したと思われていた黒豹山ポストから翌十日不意に電報が入りました。敵侵入後、その後方にとり残されたこの分隊は、潜伏を続けて敵情をその都度報告していましたが、二日ののち再び通信が途絶しなした。

五叉溝 小隊は、小隊長鮫島少尉が部下部隊を現地歩兵に随伴して撤退させた後、自らは現地にとどまり敵航空情報を報告しました。その後、「部隊の武運長久を祈る」との電報を最後に消息を絶ちました。
以上のように第十七航空情報隊の損害は相当に重大でした。

終戦直後、部隊長は、将兵の独断行動および自殺を固く禁じましたが、このような特殊な作戦条件下にあったため、自決する者が相次いで発生しました。それは、少年特別志願兵出身者に特に多かったようであります。

………… 以上が 「航空情報部隊の玉砕」 の大要です。

ここにある「少年特別志願兵出身者」とは、長春で私と別れた「特別幹部候補生」であり、「情報無線」に配置された当時、十六歳から二十歳の同期生の多くがその若い命を満州の地で散らしたのでした。

しかも、彼らが絶望的な状況下で戦っているとき、日本政府と、大本営は、ポツダム宣言受諾を巡って「国体護持」を唯一絶対の条件とすることで、国民も戦場に置き去りにされた兵士たちも全く念頭になく、議論を沸騰させていたのです。

同じ時、関東軍総司令部も、唯々身の保全に、「朝鮮保衛・皇土防衛」の名目で新京から満鮮国境通化へ逃げ去ることに汲々としていたのでした。

「国難ここにみる」と自ら志願して戦場に赴き、ソ連の侵攻に戦場に置き去られ、銃弾に倒れ、戦車に踏みにじられ、また、生きながらえつつも「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すこと勿れ」、「従容として悠久の大義に生きることを悦びとすべし」と、「戦陣訓」の教えに忠実に命を絶った少年兵の無念はいかばかりだったでしょうか。

彼らを教育し、彼らを煽り立て、彼らを戦場に送り出し、彼らをこのような状況に追い込み、自らは「国体護持」のみにすがりつき、反省もなく、生きながらえた権力者たちに激しい怒りを禁じ得ません。

シベリア抑留への想い

今年の春、「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」の、舞鶴引き揚げ記念の丘に桜を植樹する集いがありました。
時間の余裕があり、引き揚げ記念館を観ていたところ、ボランテイアのひとが一生懸命説明をしていました。私も説明を手伝っていましたら声をかけられました。

ある大新聞の婦人記者でした。
「私の祖父はシベリア帰りでした。けれどもシベリアのことは一言も話さないまま亡くなりました。何処の地で、どんな生活をしたのか、何にも分かりません。どうしてでしょうか。祖父の気持ちを知りたいのです。」とのことでした。

私は答えました。
「悔しくて、悲しくて、なさけなくて、やりきれなくて話さなかったのです。」
「日本政府と大本営と日本国政府に放り出され、労働力を差し出され、スターリンのソ連に拉致され、寒さと空腹と重労働に耐え、這いつくばって生きてきました。、」
「何よりも辛く悲しかったのは、人間としての尊厳を踏みにじられ、人間の尊厳をかなぐり捨て、ガキや畜生のように落ちぶれなければ生きてゆけなかったのです。」
「そんな惨めな自分のことを話すことができますか」
私は、自分の幾つかの体験を交えて話しました。
「戦友の死体の衣服を剥ぎ取ってパンと換えた、隣の戦友が下痢をしたら、いたわるのではなく、彼の飯が食えると嬉しくなった、そんな話を家族に話せますか。」
「寒かった、辛かった、腹が減った、誰も話します。でも、畜生のように落ちぶれたことは話しません。私だってそんな話をするようになったのはつい最近です。そこまで話さなければ『シベリア抑留』の本当の姿、日本政府とスターリンソ連の人道を外れた極悪非道の本質を、本当に分かってもらえないと気がついてからなのです。」

「何も話さないで亡くなったお祖父さんの口惜しさ、悲しさ、惨めさ、やりきれなさ、無念さを家族の方みんな集まって偲んで下さい。戦争の惨めさ、平和の尊さを話し合って下さい。それがお祖父さんへの最大の供養だと思います。」
私の言葉に、その婦人記者は涙を流して頷いてくれました。

私もシベリア抑留の話をしたり書いたりするときは、始めるまで、どうしても時間がかかるのです。「話したくない、でも話さなければならない」、その葛藤、自分との闘いを超えて、これから続けることにします。

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