政府・関東軍の動向
トルーマン、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳は、7月17日からベルリン郊外のポツダムで会談をひらき、7月26日に米英中三国の名でポツダム宣言を発表し、日本に即時無条件降伏するよう要求しました。連合国が日本にもとめた降伏条件は、軍国主義の除去、領土の制限、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義復活強化、経済の非軍事、および以上の目的が達成されるまでの占領などでした。
7月28日、軍部の圧力におされた鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺」し、戦争を継続するとの談話を発表しました。8月6日、アメリカは鈴木声明などを口実に広島へ原爆を投下し、ついで9日には長崎へも原爆を投下しました。8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、翌9日からソ連軍は、南樺太・満州・朝鮮へ進撃したのでした。
この事態に、「国体護持」を唯一絶対の旗印とする日本政府は、天皇の国法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を10日朝行っていました。一方大本営は、「国体護持」のため「対ソ全面作戦」を発動し「朝鮮保衛」が関東軍の主任務とされる命令を、関東軍総司令部に下達しました。
大本営の企図は対米主作戦の完遂を期すると共にソ連邦の非望破壊の為新たに全面的作戦を開始してソ軍を撃破し以て国体を護持皇土を保衛するに在り
関東軍総司令官は主作戦を対ソ作戦に指向し来攻する敵を随所に撃破して朝鮮を保衛すべし……
こうして「満州国の放棄」、「皇土朝鮮防衛」の戦略のもと、11日には「総司令部を通化に移転する。各部隊はそれぞれの戦闘を継続し、最善を尽くすべし」の命令を発し、関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行われました。移転と云うより各部隊は戦闘せよ、総司令部は退却すると云うことでしょう。総司令部は新京を捨てて小型飛行機で通化へ飛んでいったのでした。
居留民の放棄
また同じ11日に、関東軍総司令部は満州国政府を通して「政府および一般人の新京よりの離脱を許さず。ただし応召留守家族のみは避難を予想し家庭において待機すべし」の命令を発しつつ軍部とその家族、満鉄社員とその家族優先の南下輸送を始めました。第一列車が新京を出発したのは11日1時40分で、正午までに18本の列車が運行され、当時、新京に残留していた居留民14万人のうち3万8千人が新京を脱出しました。
3万8千人の内訳です。
軍人関係家族 2万0310人
大使館関係家族 750人
満鉄関係家族 1万6700人
民間人家族 240人
このとき、列車での軍人家族脱出組の指揮をとったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、また、この一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と従者たち一行は、さらに朝鮮の平壌から飛行機を使い8月18日には無事東京に帰り着いています。
また、牡丹江に居留していた なかにし礼氏は、避難しようとする民間人が駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロ離れた地点から特別列車を編成して脱出したと証言しています。
これより先、満州北部を放棄し、南部に後退する関東軍の作戦が決定され、開戦の危機が高まった時、関東軍では開拓団など居留民の措置を検討しました。しかし、居留民を内地へ移動させるには、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動するにしても、結局米ソ両軍の上陸によって戦場となる、輸送に必要な食料もめどが立たない、実行不可能の結論になりました。
それでも老若婦女子や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることが提議されましたが、総司令部第一課(作戦)は、居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひいてはソ連侵攻の誘い水になる恐れがあるとした、「対ソ静謐保持」を理由にこの提議は却下されています。
開戦するや、急激なソ連軍の侵攻に、国境周辺の居留民の殆どは、逃げるいとまもなく、第一線部隊とともに最期を遂げる事態が続出しました。また、「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っていた、家族、村落、地域では、ソ連軍兵士による暴行・略奪・虐殺が相次ぎ集団自決の悲惨な事例も各地で繰り広げられました。また、辛うじて第一戦から逃れることができた居留民も、飢餓、疫病、疲労で多くの人々が途上で生き別れ、脱落することになり、多くの子どもたちが死亡し、また、残留孤児となり、置き去りにされ、残留婦人となった人もいたのです。こうして、開拓団約27万人の三人に一人強、7万8千5百人が死んだのでした。
しかも日本政府と大本営はポツダム宣言の受諾、「国体護持」の条件の明確化などの対応に紛れて、無条件降伏に伴う関東軍の収束、在満居留民の保護などの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのです。日本の軍隊は国体護持軍であり、まさに天皇の軍隊にほかならず、国民のための軍隊ではないことを如実に示していたのです。
停戦など 命令を受けていない
こうした事態の進行など露知らず、「関東軍は最後の一兵まで戦う」と「水杯」を酌み交わした第2航空軍第22対空無線隊第2分隊の私たちは、新京駅で貨物列車の出発を待っていたのでした。14日深夜、本隊から伝令が来ました。「第2分隊の梅花口配備は中止変更、公主嶺飛行場の第13錬成飛行隊と協力せよ。」ということでした。
貨物列車は出発し、15日昼過ぎ、公主嶺駅に着きました。無線機材とトラックを卸しましたがどうも様子が変なのです。軍人の家族を乗せた列車が停まっています。ホームに降りた人たちが何か囁きあっています。悄然とした様子です。涙を流している人もいます。尋ねてみました。天皇のラジオ放送があったとのこと。戦争が終わったというのです。
私たちはホームで車座になり相談をしました。「戦争、終わったって」、「負けたんだって、本当か」、「俺たちどうなるのだ」、「どうする」、「白頭山に行くのか」、「どうやって行く、ここは満州平野の真只中だぞ」、「白頭山まで400キロだ」、目が血走り真っ赤になって興奮する者、不安に駆られ青白く震え声で話す者、しばらく議論は沸騰しましたが、分隊長の軍曹が結論を下しました。「我々はまだ何も聞いていない。命令も受けていない。とにかく飛行場に行こう。戦隊長の話を聞こう。いいか、生きるも死ぬも、みんな、一緒だぞ、俺に着いてくるか」………。しばらくの沈黙の後、飛行場に行くことになりました。
第13錬成飛行隊長は「命令など何もない。我が第13錬成飛行隊は、最後の一兵まで戦う、ソ連戦車隊への攻撃を続行する」とのことです。私たちは生きた心地を取り戻しました。早速ピスト(戦闘指揮所)に入り、送受信所を開設し、戦闘飛行戦隊との協力に入りました。大公安嶺山脈を突破し侵攻するソ連機甲師団の戦車群への攻撃に、4式戦と1式戦の戦闘機は次々に飛び立ってゆきました。
私たちは、戦闘機との無線電話の応答とともに、関東軍および第2航空軍、そして中隊本部からの無線連絡に細心の注意で受信機にとりつきました。
「敗けたとはどういうことなのだろう」と言う想いもよぎりますが、敗けたらどういうことが起こるかなど、経験のないことですし、なにもわかりません。「皇軍は不敗」だという「信念」だけ、叩き込まれていたのです。作戦行動に参加していると云うこと、その任務を立派に果たさなければと、一日を夢中で過ごしました。
停戦
16日、ソ連戦車群攻撃の作戦行動が続いていました。夕刻、関東軍から新たな電報が入りました。「兵員名簿」、「兵器台帳」、「食料帳簿」を揃え他の書類はすべて焼却せよという電報です。それも乱数表を使う暗号電報ではなく、ナマ電報です。兵員がどれだけいて、武器がどれだけあって、食料がどれだけ残っているか、それだけ分かればよいと言うのです。暗号書を焼きながら、おかしいぞ、もしかすると、やっぱり敗戦かもしれない、という疑念がわいてきました。
17日、関東軍の「停戦命令」を傍受しました。 高級将校がピストにやってきました。飛行服を着ているので、階級は分かりません。軍刀は立派な軍刀です。「停戦命令とは何だ。ザバイカル方面のソ連戦車を攻撃する」というのです。沈みきった兵隊たちは喜びました。みんな飛行場に集まり、飛び立つ戦闘機に手を振って見送りました。戦闘機は上空を旋回すると、やがて、東南の方に機首を向け、日本に向かって飛び去りました。「日本は負けたんだ」、「こんちくしょう」、口惜し涙があふれてきました。8月15日から2日遅れの敗戦です。
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