2010年2月16日火曜日

少年兵兄弟の無念-13

新京の暑い夏、8月

 1945年8月、新京(長春)の夏は暑く、日差しは強烈でした。心配をしていた東京の我が家からの便りが届きました。看護婦会を経営していた日本橋浜町の家は3月の空襲で消失、避難した薬局経営の市ヶ谷富久町の家は、またまた、6月の空襲で消失、父と姉は無事、リヤカー1台の荷物で、杉並の父の友人宅に落ち着いたとか。父は「得郎は満州で大丈夫だ」と言っているとのこと。赤い夕日の夕闇に、しばし、故郷の家族との日々を偲びました。

 新京東飛行場や新京西飛行場では、時々八路軍のゲリラが出てくるとの情報がありました。照明弾が打ち上げられ、慌てて探索にゆくが、何時も逃げられてしまう。両飛行場の対空無線分隊からの報告です。中隊本部でも警戒が強められました。衛兵勤務では、「誰か」、「誰か」、「誰か」、と、3回「誰何」(すいか)して応答がなければ「発砲」「射殺」すること、と命令されました。

 日本政府・ソ連軍の動向
 政府やソ連の動向を、兵士たちは知るよしもありませんでした。政府は、近衛特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼しようとしていました。7月13日にソ連に申し入れましたが、ソ連は特使受け入れを拒否するでもなく回答を引き延ばしていました。 その「和平交渉の要綱」の中に、「国体護持」を絶対条件として「賠償として一部の労力を提供することには同意す」(四の{イ})との一項があり、日本政府は役務賠償という政策を持っていました。

 7月5日に完成した関東軍作戦計画では、作戦準備の概成目標を九月末としていました。7月26日ポツダム宣言が発表されましたが、翌27日の宮崎周一参謀本部作戦部長の日誌によると「ソ連は八,九月対日開戦の公算大だが、決定的にはなお余裕あり」と記されていました。

 一方、2月11日ヤルタにおいて米英ソ三国の間に締結された協定により、ソ連はドイツ降伏2~3ヶ月後に対日参戦することを正式に約束していました。ソ連軍最高司令部は、1945年早春から満州侵攻の作戦計画を検討していました。ソ連軍部は、日本軍と戦ったノモンハン事件(昭和14年夏)での教訓を生かし、日本軍をこう観察していました。

 日本軍の下士官は狂信的に頑強であり勇敢であるとの認識に立っている。その上に、日本の兵士たちは服従心が極端に強く、命令完遂の観念は強烈この上ない。かれらは天皇のために戦場に斃れることを名誉と考えている。かつ、ソ連軍に対する敵愾心は非常に旺盛である。 戦術面でいえば攻撃を最高に重視しているが、不利な防御戦となっても頑強堅忍そのもの。夜襲の白兵攻撃を得意とし、小部隊の急襲に長じている。

 しかし、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとはせず、支那事変の戦訓を極度に自負し、いぜんとして〝皇軍不敗〟という根拠なき確信を抱いている。軍隊指揮能力は脆弱であり、創意ならびに自主性が欠如している。 戦車やロケット砲など高性能の近代兵器にたいし、将兵ともに恐怖心を強く持っている。それはみずからの兵器や装備がかなり遅れているためである。師団そのものの編成も人馬数が多いばかりで、火力装備に欠け、機動力は相当に劣っている。」 (ソ連が満州に侵攻した夏・半藤一利・文藝春秋社)

 5月7日ドイツが連合国に無条件降伏をしました。 ソ連軍最高総司令部は6月27日、対日戦略基本構想を決定しました。攻撃開始時期は8月20日~25日と予定されていました。 8月6日広島に原爆が投下されました。8月7日午後4時30分、ソ連軍最高総司令部は極東ソ連軍最高総司令官に対し、8月9日朝の攻撃開始を命令していました。国境線には、後方部隊を含めてソ連軍将兵157万7千225名、大砲および迫撃砲2万6千137門、戦車・装甲車・自走砲5千556台、戦闘機および爆撃機3千446機が勢揃いしていました。

  ソ連の侵攻
 8月9日早朝、ソ連機の空襲がありました。「いよいよ始まったか」、「手ぐすね引いた関東軍だ」、「待ち構えてロ助なんて、いちころだ」、威勢の良い言葉が飛び交っていました。
昼過ぎ、人事担当の曹長に呼び出されました。「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。特別幹部候補生猪熊兵長は明朝、公主嶺飛行場の第2分隊応援のため、無線機材とともに出発せよ」との命令です。10日早朝、無線機材を積んだトラックに同乗して公主嶺飛行場に駆けつけました。

 公主嶺は新京から南へ約60キロの美しい町です。与謝野鉄幹と晶子夫妻は昭和3年に満蒙旅行をしましたが、晶子が6月3日に公主嶺で詠んだ歌です。

 ○ 夏雲が楡の大木のなす列にいとよく倣ふ公主嶺かな
 ○ しずかなり水ここにして分るると云う高原の駅のひるすぎ
 ○ まろき楡円き柳の枝となる羊飼はるる牧場に立てば
 ○ 青白く楡銭乾けりおち葉より用なげなれどなまめしけれ

 当時、在満の航空兵力は約300機、うち戦闘可能なもの200機でした。飛行戦隊は次の10戦隊です。
独立第15飛行団・ 飛行第104戦隊、独立飛行体第25中隊
独立101教育飛行団・第5練習飛行隊、第23、24、26、42、教育飛行隊、第4、第13、第22錬成飛行隊。
公主嶺飛行場では、第22対空無線隊第2分隊が第13錬成飛行隊と協力をしていました。第13錬成飛行隊は、ザバイカル方面のソ連戦車攻撃に飛び立っていました。

 対空無線分隊は、小さな単位ですが、飛行戦隊に協力する独立した部隊です。第2分隊の構成は15名、分隊長は東京府立化工出身乙乾の軍曹、まとめ役は古参の兵長、そして少年飛行兵第15期兵長、特幹1期兵長3名、その他上等兵、1等兵、2等兵計9名です。

 分隊長と5名の兵長が送受信担当で、他の兵士が、設営、保守、営繕、炊事、運輸担当です。「さあ、やるぞ」と張り切っていたのですが、翌11日「情勢の変化に即応し全満州に展開する対空無線隊の再編成を行う。中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で、分隊は送信所、受信所とも撤収して、急遽新京に戻りまし

  日の丸鉢巻き 水杯
 新京の街は戦々恐々としていました。軍事施設の破壊が始まり、重要書類を焼却する黒煙が立ち上っていました。公園や広い道路には陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。性能の良い高射砲はみんな南方に持って行きました。残った高射砲はせいぜい3,4千メートルの高度にしか届きません。ソ連の飛行機を撃ち落とせません。日本の対戦車砲では、ソ連戦車の装甲板は撃ち抜けません。弾丸が跳ね飛ばされてしまいます。それで高射砲の水平射撃でソ連戦車を撃破しようというのです。

 満州国の首都新京で市街戦の準備です。
 7月の根こそぎ動員に残った年配の人たち、としよりの人たちが、「義勇軍」に動員されていました。開拓当時の必需品だった日本刀を背に負って、あちこちの街角で、家族の人々と別れを惜しんでいました。国境線を突破したソ連軍は、戦車を先頭に、猛烈な勢いで進撃をしているようです。
戻りついた中隊本部は騒然としていました。下士官も、古年兵もソ連機の空襲にそわそわおどおどしています。内地でさんざん空襲に遭い、機銃掃射で戦友を失った我々特幹が目立って落ち着いていました。

 夜、ソ連機の空襲で蝋燭の灯火の下、各地の飛行場から戻った対空無線分隊員の兵長以上が集められました。先任曹長から、新しい配備先が、それぞれの分隊に伝えられ、戦闘配備の訓辞がありました。

「ソ連の進撃は急である。対空無線隊は、それぞれの配備先に分かれ、中隊本部と連絡も途絶える状況下で戦闘に参加することになるだろう」、「分隊長は、部下の戦闘功績を必ず書き残すこと」、「分隊の指揮順位を明確にし、分隊に徹底すること」、「暗号書保管の担当者を定め、いかなる時も敵の手に渡るようなことがあってはならない、対空無線隊の軍旗と思え」、暗闇に蝋燭の灯がゆらめいています。しばしの沈黙の後、「おう」、「やるぞ」、「お互、さらばだな」、低い声のささやきがかわされました。

 日の丸鉢巻きで、水杯(みずさかずき)を酌み交わしました。水杯を捧げ、合い言葉を唱和しました。
「関東軍は最後の一兵まで戦うのだ。電鍵とダイヤルを血に染めよう。関東軍もし敗れたならば白頭山(朝満国境長白山脈の主峰、2744メートル)に集結しよう。(そこを拠点にゲリラ活動をしよう。)」

 16歳の私は、妙に冷静でした。「いよいよ最後かな」、「お父さんどうしているかな」、家族のこと、故郷のこと、これまでの思い出が走馬燈のように頭をよぎりました。私たち第2分隊は、朝満国境近く、通化後方の梅花口飛行場で、戦闘配備に着くことになりました。

 ソ連軍は東部牡丹江に迫り、西北部は大公安嶺山脈を突破し、また雄基、清津等の港から上陸し北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。14日夜、私たちは新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。

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