「戦争しか知らない子ども」として
一九三八年(昭和十三)四月一日には国家総動員法が発布されました。それは、戦争遂行のため国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したものでした。そして近衛内閣は「国民政府を対手とせず」の声明を発表し、自ら戦争解決の道を閉ざしたのでした。
日中戦争は、長期戦に突入し、すでに十六個師団約六〇万の大軍を送り、七万の死傷者を出していました。一方で対ソ戦備や対米戦備を進めながら、この大規模な戦争を長期にわたって続けるためには、国内体制の戦時化、とくに軍需工場の生産力の拡充が急務でありました。
五月日本軍徐州を占領、七月張鼓峰事件、十月広東、武漢三鎮占領、三九年二、三月海南島上陸、五月ノモンハン事件といった戦況の泥沼化を背景に三九年五月二十二日「青少年に賜りたる勅語」が出されました。大変難しく、わかりにくい文章ですが、当時の青少年はこんなものまで昭和天皇のお言葉だと、有難く聴かされ、読まされ、覚えさせられたのでした。参考までに紹介します。
青少年学徒に賜りたる勅語」 昭和十四年五月二二日
国本に培い国力を養ひ、以て国家隆昌の気運を永世に維持せむとす任たる極めて重く、道たる甚だ遠し、而して其の任、実に繋りて汝等、青少年学徒の雙肩に在り、汝等、其れ、気節を尚び、廉恥を重んじ、古今の史実に稽(かんが)へ、中外の時勢に鑒(かんが)み、其の思索を精にして、其の識見を長じ、執る所中を失わず、嚮(むか)ふ所正を誤らず、各其の本分を恪守 (かくしゅ)し、文を修め、武を練り、質実剛健の気風を振動し、以て負荷の大任を全くせむことを期せよ
その日、中学校(旧制五年制)以上の学校に軍事教育が行われて十五周年を記念する一大式典が、宮城前広場で挙行されました。当時の新聞はこの模様を「歩武堂々、青春武装の大絵巻」と大見出しで仰々しく次のように報道しています。
「…晴のこの日、朝鮮、台湾、満州、樺太を含む全日本からすぐった、中等学校以上約千八〇〇校代表三万二千五百余名の学生生徒は、大学学部の第一集団をはじめ学校別、地区別によって九集団、三〇個大隊、一一〇個中隊に編成され、執銃帯剣巻きゲートルの武装に凛々しく、三千余名の教職員と共に、午前七時ころ
早くも式場外部の各集合地に集合、第一集団長小原大佐以下各集団長の指揮の下に、それぞれ式場に向かって進発、同時までに宮城外苑の玉砂利とアスフアルト路面を、黒とカーキーと霜降りの三色に埋めて整列を終わる。
…陛下には御親閲台中壇侍立の荒木文相より午前を行進する各部隊の学校種別の奏上を聴召されつつ各隊の敬礼に一々御挙手の御答礼を賜い、かくて限りなき感激のうちに同一〇時四五分全集団の分列式は滞りなく終了、荒木文相の発声による『天皇陛下万歳』の声は都心に響きわたった。」
執銃帯剣巻きゲートルとは、三八式歩兵銃を担ぎ、腰に三〇年式銃剣を帯び脚にゲートルを巻いた、日本兵の典型的な姿のことなのです。当時は、大学、中学でも軍事教練が制度化していました。三八式歩兵銃は採用年の明治三八(一九〇五)年から来ています。長く重く昭和一四(一九九九)年から九九式短小銃に変えられていきました。兵士たちは、銃の先に短剣を付けて戦闘を行います。ゲートルは巻脚絆と言う呼称で、巾八センチ長さ二メートル弱のウール製、緑色の布を決められた様式で両足に巻き付け、端の細ひもで膝下に留めるもので、鉄帽などとともに兵士の戦闘服装の一つでした。
徐州会戦での西住戦車長の「英雄的な戦い」は新聞でラジオで映画で少年たちの心を沸き立たせ、「昭和の軍神・西住戦車長伝ー菊池寛」はベストセラーとなりました。
日中戦争が始まって戦火が拡大し、泥沼化すると、陸軍は英雄を創り出すことで戦意の高揚を図りました。そこから東京日々新聞、大阪毎日新聞連載の菊池寛原作の「西住戦車長伝」が松竹で吉村公三郎監督により映画化されることになりました。上原謙扮する西住小次郎戦車長は熊本県出身、久留米の戦車第一連隊の中尉で、徐州会戦など主として大陸戦線に参加し、戦死して軍神と称えられるようになったのです。それまで軍神とされていたのは、日露戦争の広瀬武夫中佐、乃木希典大将でした。
そして少年たちは「エンジンの音囂々と隼は征く雲の果て……」の加藤隼戦闘隊の歌に戦場の空の蒼さを夢み、「若い血潮の予科連の七つボタンは桜に碇……」の若鷲の歌に跳びたつ決意をかためていったのでした。
加藤隼戦闘隊は、太平洋戦争初期に南方戦線で活躍した加藤建夫陸軍中佐(戦死後少将)率いる陸軍飛行第六四戦隊の通称名・愛称名でありました。一九四四年(昭和十九年)東宝で、山本次郎監督、藤田進主演により映画「加藤隼戦闘隊」が製作され、陸軍省が後援し、情報局選定の国民映画として公開されたまし。加藤隼戦闘隊の歌は、一九四〇年(昭和十五年)三月南寧で作られた「飛行第六四戦隊歌」であります。一九四一年(昭和十六年)元日に公開されたニュース映画で広く知られるようになり映画封切りの直前の一九四三年に灰田勝彦の歌で、加藤隼戦闘隊の歌としてレコード化されました。
渡邊邦夫監督、原節子、高田稔出演で、予科練生の生活と成長を描き、予科練の宣伝募集、戦意高揚のための戦争映画「決戦の大空へ」は、挿入歌「若鷲の歌」とともに大ヒットしたのでした。西条八十作詞 古関裕而作曲 歌霧島昇で、当時の少年の愛唱歌であり、予科練は少年兵の憧れ、象徴的存在となりました。
勇ましい話ばかりではありません。 四一年(昭和十六年)四月から主食が配給制になりました。中学三年の頃、四三年には雑穀などをお米の代わりにする配給制になりました。じゃがいも、小麦、大豆、さつまいも、豆かすなどがお米の代わりに配給されました。衣料品も四二年から切符制になりました。 日の丸弁当に影響が現れました。まん中の梅干しをとると下から海苔弁や、おからと炒り卵を混ぜたものが敷き詰めてあったのですが、正真正銘の日の丸弁当です。それもご飯は中央部だけ、周りはさつまいもやじゃがいもで囲んでありました。
市ヶ谷刑務所の跡地にも随分助けられました。小学校は牛込区富久小学校でしたが隣に市ヶ谷刑務所がありました。高台の学校の屋上からは刑務所内の赤(既決囚)や青(未決囚)の囚人服が眺められました。二年の時、看守の家族や、刑務所前の、仕出し屋、文房具屋など面会人のための商店の家族の学友達も一緒に、市ヶ谷刑務所は巣鴨刑務所に引っ越して行きました。
建物が壊されたままの跡地は、そのまま放置されていました。広大な空き地には塀も柵も何もありません。隣組で、縄張りを作り畑の開墾です。父が隣組の組長でしたから、週に二.三回は畑仕事です。じゃがいも、大根、なす、トマト、葉もの、いろいろ作りました。時には、朝早く、路肩にある肥やし桶を拝借して、リヤカーに乗せ運びます。我が隣組の野菜の出来は、他の組より大分質も量も良かったようです。収穫した作物を配って歩くと随分喜ばれました。
遺骨の出迎えの回数が多くなりました。旗竿頂点から少しずらして日の丸の旗を取り付け、黒いリボンが数本垂らされた弔旗が先頭です。出征の時のような鉦や太鼓はありません。ゆっくりしたテンポのラッパの音にしずしずと白木の箱の遺骨と遺影を抱えた遺族が涙をこらえて歩きます。喪章をつけて街の人達が続きます。
「天皇陛下のため、お国のため、息子は立派に戦死しました。親としてもこんな光栄なことはありません」。遺族のそんな挨拶の後、ラッパの音にのせて「海ゆかば」を合唱します。
海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ
これで解散です。遺族達は、どこの家でも、歌が終わると一斉に家の中へ駆け込みます。中学生の私は、決まって見られるこの光景が不思議でなりませんでした。ある時、親しくつきあっている家の遺骨が帰ってきました。 私は、遺族達の後をついて、家の中に入りました。家族は、みんな肩を寄せ合って、声を出して泣いていました。
その光景に、私はしばらく呆然としていましたが、やがて涙が溢れてきました。中学生の私は「よし、敵を討つぞ」そんな思いに駆られたのでした 。
青少年学徒に賜りたる勅語奉読 https://www.youtube.com/watch?v=LZGBz3WmSi4&list=UUQESND7XPxFA6UPm8bDvoIQ
返信削除鹿児島県青少年健児団朗唱譜 https://www.youtube.com/watch?v=Fxg0rAcdhf0&list=UUQESND7XPxFA6UPm8bDvoIQ