2010年2月24日水曜日

少年兵兄弟の無念-19

航空情報連隊の消息続き
 国境配備の前提は「玉砕」でした。
 前回の、第十一航空情報連隊の戦闘と、第十七航空情報隊の戦闘の中で、十六歳から二十歳の特幹第一期同期生の多くが戦死したことを書きましたが、その配備そのものが、「玉砕」を前提としたものでした。「玉砕」するために配置されていたのでした。

 1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次のような趣旨のものでした。

 「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯で行い、このための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、日本全般の戦争指導を有利にする。」

航空作戦の方針変更
 関東軍作戦計画の方針変更に伴い、第二航空軍も次のように作戦方針を変更しました。

1.航空軍は、外蒙方面から南下及び東進するソ連軍主力を破砕し、関東軍の作戦を有利ならしめるとともに、北支方面との連絡を確保する。これがため当初、チチハル、白城子、赤峰各飛行場群を使用し主として、敵機械化部隊の後方補給を遮断して、その前進を遅滞させ、次いで戦闘部隊の撃滅をはかる。

2.作戦の推移に伴い、逐次漣京線西方飛行場群(彰武、阜新、新立屯、錦州)漣京線以東飛行場群(奉集堡、東豊、梅河口、鳳城)に後退し、前任務を遂行する。戦闘に当たっては、保有機数の特性と訓練の度に応じ、特攻的用法に徹する。

3.一部をもって石門子秘密飛行場を使用し、ウランウデ付近のシベリア鉄道橋を破壊し、敵の輸送を妨害する。

4.航空地区部隊は、後退せしめることなく現地にとどめ、敵の飛行場推進を妨害し、遊撃戦により敵の航空戦力を破砕する。

第二航空軍の配備と訓練内容の変更
 訓練内容は、新作戦計画に従って、主としてソ連機甲部隊に対する訓練に変更されました。
 航空地区部隊に対しては、敵機と刺しちがえる気魄をもってする対空射撃能力の向上、機甲、車両に爆薬をもってする肉薄攻撃の研究、普及ならびに遊撃戦法に関する創意工夫およびその訓練が要求されました。

 二航軍情報部に対しては、従来の航空情報等に加えて敵地上兵団の状況、特に機械化兵団の動静に関する探知能力の開発、訓練が要求されました。
 このように昭和二〇年に至り、各部隊の訓練内容は、一変したのでした。

そして、航軍情報部・航空情報連隊は、「その地域内で玉砕させる」前提で任務に就いていたのでした。

 なお、北、及び西の防空監視網は、第十七航空情報隊が担当し、情報二個中隊、警戒一個中隊、およそ、一,〇〇〇名の人員でした。
 また、東部正面の航空警戒に任じていた第十一航空情報部隊は、第二中隊を北鮮東部海岸に派遣していました。

 航空地区部隊も、敵機と刺しちがえる対空射撃と、機甲、車両に爆薬をもってする肉薄攻撃、遊撃戦が、究極の任務とされていたのでした。



 シワキ収容所
 シワキ収容所には大隊本部と三個中隊約千名の日本軍兵士が収容されました。そのうちの一個中隊、私たちの中隊は第十一航空補給廠公主嶺出張所の中からの混成部隊でした。中隊長T中尉は温厚で物静かな技術中尉でした。それに学徒兵上がりの少尉二人が将校です。下士官もほとんど技術屋のようで、いわゆる獰猛な古参下士官はいませんでした。それに下士官待遇の技術系軍属がいました。

 兵隊たちも、ほとんどが特幹二期生の整備兵と軍属の少年工たちです。どちらも二十歳前の少年です。特幹二期生は、私たち特幹一期生と同じ、44年(昭和19)1月に試験を受け、4月に入隊した一期生より半年遅れて10月に入隊をした上等兵でした。軍属の少年工には朝鮮出身者も何人かいました。一般の兵隊はわずかです。

 こういった構成でしたので私たちの中隊では、階級章による下級兵いじめはほとんどなく、他の中隊に比べて兵隊たちは幸せでした。ですから他の中隊の下士官たちに目の敵にされ、貴様たち弛んでいると、気合いを入れられているようでした。

 シワキの街
 シワキは製材の街でした。
 シベリア鉄道、シワキ駅の真ん前に製材工場があります。
3階建てほどの高さの工場開口部から、貨物線引き込み場に向かってトロッコレールがひかれ、トロッコに載せて、製材された材木が貨物ホームに送り込まれます。

一方、製材所からは15キロほど先の森林伐採場に向かって、伐採した材木の運送用森林鉄道が引かれています。
製材工場の前にはパンの配給所がありました。当時は主食の黒パンは無料で支給されていました。

駅の脇には広場があり、共産党とか、コムソモールとか、人民委員会ですか、そんな集会所の建物がありました。

ロシア人と歌
ソ連の指導者の一人、カリーニンが亡くなった時、黒いリボンをつけた赤旗の弔旗を掲げ、街中の人々が広場に集まって「インターナショナル」を歌っているのを見たことがあります。
「インターナショナル」は4部合唱でした。

ロシャ人と歌を切り離すことができません。子供の時から自分のパートが決まっているようでした。老いも若きも、男も女も、集まるとすぐに合唱が始まり、いつも4部合唱でした。
長く厳しい寒さを耐え、ツアーの圧政を忍ぶのに歌で、慰め、励まし、それが合唱となり、より豊かに表現するために4部合唱となり、ロシア民謡が生まれたのでしょうか。

生活から生まれ歌い継がれたというのでしょうか。歌の心を大事にします。嬉しいときには嬉しい歌。悲しいときには悲しい歌。悦びには悦びの歌。沿海州の収容所のころです。「海ゆかば」のレコードをロシア人が聞いていました。なかなか良いメロデーだなというのです。「それは戦友が死んだとき歌う歌だよ、ポミライ(死人)の歌だよ」と話しました。そのロシア人はそれ以来、そのレコードをかけなくなりました。

住まい
街の道路は全部製材工場から出た「おが屑」が敷き詰められていました。おが屑の舗装のおかげでどんな寒いときでも、道路が凍って足を取られるというときはありませんでした。

家々はみな、丸太を積み重ねて作られています。丸太と丸太の間は、平らに削り、綿のようなものを詰めて隙間のないようにしてあります。建物の裾、地面に接する部分は70~80センチの高さ、20センチほどの幅に板を囲い、そこにはおが屑がぎっしり詰めてあります。床下から風が吹き込むということはありません。

入り口は板囲いで、玄関に直接風が吹き込むことはありません。取っ手には必ず布が巻き付けてあります。冬、素手で、金具を握ったりすると、手が、金具に凍り付き、無理にはがせば手の皮がむけてしまいます。

窓は、幅1メートル、縦1メートル半位で2重窓ですが、必ず花が飾ってあります。部屋は板敷きで2間か3間、ペチカを囲んでいます。ペチカは煉瓦作りで、焚き口の居間側には鉄板を敷いて煮炊きができます。ペチカのなかは、煉瓦の囲いで、暖めた空気が、中を上下してすぐには煙突から逃げないように工夫して、壁全体が暖まります。


点呼
さて、収容所の生活は朝6時の点呼から始まります。
最初のころは、収容所には日本帝国軍隊の階級章が生きていました。
東を向いて、皇居遙拝。皇居遙拝とは、天皇陛下万歳と宮城を拝むことです。
「将校を父と思え、下士官を兄と思え。一致団結して天皇のため苦難に耐えよう。力を合わせ祖国再建のため生き抜こう」、寒風吹きすさぶ中、そんな訓辞が行われたのでした。

昼食1時間を除いて8時から5時まで労働という建前でした。
朝8時、それぞれの作業場に向かうため、それぞれの作業隊ごとに門の前に整列です。これが大変です。
コンボーイ(警戒兵)が付きますが、数がなかなか合わないのです。かけ算が殆どできないのです。寒い時など、たまったものではありません。零下20度を超える朝でも、数が合うまで、20分も、30分も数え直すのです。3列、4列、6列、7列ではかけ算をしなければなりません。それではダメなのです。それで私たちは、5列に並ぶことにしました。2列で10人ですからこれなら何とか分かるようになりました。

 先日、平和祈念事業団のシベリア抑留生活の展示を見てきました。やはり作業に出かける兵士たちは、収容所の入り口前に5列で並んでいました。
 
 そんな兵隊たちのソ連がドイツに勝ったのですから不思議でなりませんでした。それでも日本へ帰るころには、スターリンの冷酷な圧政の下でも、侵略をされた祖国を守る、生まれ育った故郷を守るという民衆の底力と言うものを、ロシアの民衆と接する中で分かるようになったのでした。

 収容所の作業は三つの中隊が、主な作業としてそれぞれ、森林での伐採作業、製材所での作業、製材された材木の貨車積載を分担しました。
 そのほか、国営農場、共同農場などでの農作業、道路工事、鉄道工事なども組み込まれていました。

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