2010年2月7日日曜日

少年兵兄弟の無念-11

「関東軍と王道楽土」  

 特幹一期生の教育課程は、アメリカ軍の急速な反攻に一年六ヶ月から九ヶ月の半分に短縮されましたが、転属先も戦線の後退で当初の予定が大幅に変更になったようです。シンガポールに司令部のある第三航空軍関係には、輸送船が次々に撃沈されて行くことが出来ません。第四航空軍は、富永司令官がフイリッピンのマニラから台湾に逃げ帰り、昭和二〇年二月に消滅しました。航空部隊は、地上部隊に併合されました。

二月末から、私は、水戸・長岡教育隊で待機することになりました。沖縄と台湾への転属組が、それぞれ、隊伍を組んで出発しました。前線に喜び勇んで別れの手を振る戦友たちを、じりじりとする焦りと、うらやましい思いの入り交じった気持ちで、「がんばれよ!」と送り出しました。
台湾か沖縄か。アメリカの反攻は沖縄に向かいました。台湾組みの殆どは、戦後無事に帰国しました。あの時手を振って別れた沖縄組みの半数は、生きて還りませんでした。二十歳前の青春を沖縄戦で散らしたのでした。

三月一〇日、真っ暗闇の夜、壕の中で、西の空が赤々と照らされるのを眺めました。東京大空襲で、日本橋浜町の家が焼けたなど知るよしもありませんでした。

戦後、姉からその夜のことを聞きました。父は警防団の班長をやっていました。近所の人はみんな逃げ出したのに、父は、隣の家の消火に夢中でした。そのうち我が家が燃えだし、慌てて隅田川沿いに浜町公園に逃げ込みました。しかし、公園には高射砲隊が陣取っていました。明治座に入ろうとしましたが満員で人が一杯、入れません。仕方なく、新大橋のたもとで夜を明かしました。ところが明治座は猛火で炎上しました。中に入った沢山の人は焼け死に、父と姉は命拾いをしたそうです。

 本土防衛のために編成された第六航空軍に残りの大部分が転属となり、抜刀した中隊長を先頭に、意気揚々と隊伍を組んで出発をしました。京城に司令部があり中国方面を守備範囲とする第五航空軍組は、それぞれの任地に別れて出発しました。

 四月、やっと関東軍に転属になりました。兵長でした。中国東北部、当時は日本の傀儡国家満州国の首都「新京」、現在の長春に第二航空軍の司令部がありました。

途中東京を通るときは、あの東京大空襲の後ですから、車窓からの眺めは辺り一面の焼け野原、品川の海まで見えたのでびっくりしました。家は焼けたに違いない、父や姉はどうしただろうか。心配でたまりませんでしたが、どうすることも出来ませんでした。特幹入隊の前日、庭に、一生懸命防空壕を堀ったのを思い出しました。父が、「明日入隊だ。そんなことしなくていいよ」と云いながら、そばにきて汗をぬぐってくれました。

門司から連絡船が出ないので、博多から釜山には貨物船に乗ったのですが、船はどんどん沈没させられていた頃で、救命胴衣を付けさせられて、「無事着けるかわからないぞ」なんて言われながら釜山上陸しました。釜山から長春までは汽車で行きました。

長春の司令部で内地から転属した同期生四〇人ほど簡単な筆記試験があって、また選り分けられました。私たち七人は対空無線隊に行きました。ここで私はまた強運を引き当てたのです。「情報無線」に選ばれた者も沢山いました。二人宛無線機と食糧を携行して国境線に配置され、ソ連軍の動向を探り通報するのです。彼らはほとんど還っていません。八月九日にソ連が侵攻してきたとき、彼らは置き去りで、本部や司令部はとっくに逃げ去っていました。

私の配属されたのは第二二対空無線隊で、中隊本部が長春にあり、市の外れ、満福街にありました。隊からは満州各地の飛行場に対空無線分隊を派遣していました。

 隊の雰囲気は何か異様です。「特幹」とか、「少年飛行兵」とは違う「若い」のが、二十歳前で、兵長になってやってきた。古兵たちが、「落ち度」がないか、あいつらぶん殴ったってまだ下士官ではない。「上官暴行罪にはならない」と虎視眈々、私たちを狙っているのです。

 内地や台湾に転属した組みは違っていました。下級技術系幹部の不足、新しい機器で訓練を受けてきた若手と言うことで、早速、兵長のまま下士官待遇され、初年兵の教育を任された者もあったようでした。

隊では、何かあってはと言うことで、当初、特幹7人、最古参の准尉が指導担当で、別個の特別教育の毎日でした。先に述べたように、私は初外出のとき、「『突撃一番(避妊具)』など持って慰安所に行かなければ立派な帝国軍人になれないのですか」とやって叩きのめされ、初外出が禁止になりました。これを知った担当准尉は烈火のごとく怒り、下士官全員を集めて、「俺に何の話もなく、特幹にちょっかいをかけたら、貴様たち、ただでは済まないぞ」と凄ごんだそうです。
 
 初めて外出できたのは四月二十九日の天長節(昭和天皇の誕生日)でした。驚きました。「新京」は満州国の首都です。日本で言ったら東京です。街の真ん中に慰安所があって、兵隊がズボンのベルトに手をかけて列をつくって順番を待っているのです。

 いわゆる身体を使う仕事、汚れる仕事はみんな中国人で、日本人は威張っていました。電車に乗ると運転手や車掌はみんな中国人ですから、兵隊たちは「切符は後ろの奴が持っている」、後ろでは「前の奴が持っている」と嘘を言って無賃乗車をしていました。

道ばたで中国人がスイカを売っているときも、兵隊の一人がその中国人と話し込むのです。その間に別の兵隊がかっぱらって行ったり、どの兵隊も白昼公然とやっていて、愕然としました、
 
日本の「記念日」です。長春の中心にある大同広場(現『人民広場』)に関東軍司令官の山田乙三と満州国皇帝溥儀の花輪が飾ってありました。山田乙三の方が上座にあるのです。満州国皇帝溥儀の花輪は下座です。

中国人部落は危険だからと立ち入り禁止でしたが、演習で、重武装して部隊で入ったとき、子どもたちに石をぶつけられました。子どもたちはみな、私たちを恐れず、憎悪の目で睨み付けていました。恐ろしかったです。

「満州国」建国の理念「五族協和・王道楽土」とは一体何だろう。「八紘一宇・大東和共栄圏の確立」と言うけれどもどうなっているのだろうか。私の胸に疑問がわいてきました。

心の中では八紘一宇とか大東亜共栄圏というのは信じていたし、だから、当然、五族協和、王道楽土が実現していると思っていました。八紘とは広い地の果て、天下という意味です。一宇とは一つの家ということです。神武天皇が即位のときに発した言葉をもとにしています。八紘一宇、大東亜共栄圏の確立というのは、日出ずる国の天子、つまり天皇の意向のもとにアジアをそして世界を統一しようという対外膨張を正当化するために使われたスローガンです。五族協和、王道楽土というのは「満州国」建国の理念です。満州民族、大和民族、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族の五民族が協力し、アジアの理想的な政治体制を「王道」として、満州国皇帝を中心に理想国家を建設するというものです。

天皇はこのことを知っているのだろうか。天皇に申し訳ない。誰がこんなことをやってんだ」と、また疑問に思うのです。
 兵隊の中には慰安所なんて当然だと並んでいる人もいるし、これはどうかと並ばない人もいる。私の中には、やはり戦争の目的はこういうことではないという気持ちがありました。今考えると全くのインチキですが、それをほんとに信じていたのですから、日本の天皇が盟主の中心なのに、その日本人が泥棒し、ふんぞり返ってはいけない、そう思っていたわけです。俺は皇軍の、天皇の兵士の一人だから慰安所なんてとんでもない。ところが、そういう女も買えないような兵隊に敵兵が殺せるか、そういってぶん殴られるのです。

純粋に八紘一宇・大東亜共栄圏の確立を信じ、天皇のため、その「聖戦」に参加し、一兵士として身を捧げることを誇りとしていた少年兵の私は、「何か間違っている、天皇の御心をねじ曲げている奴らがいる」そんな怒りと悲しみが高まっていったのでした。

次回は関東軍と内務班 国体護持 棄兵・棄民

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