「紀元節」と教育勅語
今日は、『建国記念の日』ということのようだ。戦前の『紀元節』である。
私には日の丸・君が代に鍛えられ、一五歳で少年兵を志願した戦中の少年時代の思い出が蘇ってくる。
この日、登校前に日の丸の旗を立てるのが私の仕事だった。
小学校の授業は休み、祝賀の式が行われる。
全校教職員、児童が講堂に集められ、白手袋に燕尾服の校長が、恭しく巻物を掲げ、おもむろに拡げて読み上げる。
「ちんおもうにわがこうそこうそうくにをはじむるところこうえんに(朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に)……御名御爾(ぎょめいぎょじ)」
校長は抑揚をつけて読み上げるが、子どもたちにはちんぷんかんぷんだ。
音を立てて鼻をかむことも出来ない。仕方なしに、服の袖でこすり上げる。服の袖はてかてかに光るようになる。
ありがたい校長の訓話が終わってやっと「難行苦行」から解放され、「落雁」(らくがん)のお菓子をもらっていそいそと家に帰る。
御名御璽で終わりだーとほっとするのと落雁の味が忘れられない思い出だ。
中学時代はもう「落雁」などは食べられない。「贅沢は敵だ」、「欲しがりません勝つまでは」の時代だ。
式が終わると三八式歩兵銃を担いで、雪が降ったときは、上半身裸、近くの神社に向かって駆け足行進。「武運長久。必勝祈願」だ。
戦前・戦中、四大節には各戸に日の丸の旗が掲げられた。四大節とは四方拝、紀元節、天長節、明治節である。
四方拝とは 一月一日の早朝に行われる皇室祭祀であり、神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方の神々を拝礼する。紀元節は、一八七二年(明治五)日本書紀の伝える神武天皇即位の日に基づいて制定された祝日で、二月一一日。一九四八年(昭和二三)廃止されたが、一九六一年(昭和四一)から「建国記念の日」として復活し、国民の祝日となった。天長節とは「天長地久」から天皇誕生日を祝った祝日であり、明治節とは明治天皇の誕生日に当たる一一月三日であった。
一九四一年四月に小学校は国民学校となったが「国民学校令施行規則」には、四大節のセレモニーには、次のように定めらていた。(それ以前に行われていたものを集大成規制化したものであろう。)
第四十七条 紀元節、天長節、明治節、及一月一日に於いては職員及児童学校に参集して左の式を行うべし
一 職員及び児童「君が代」を合唱す
二 職員及児童は
天皇陛下
皇后陛下の
御影に対し奉り最敬礼を行う
三 学校長は教育に関する勅語を奉読す
四 学校長は教育に関する勅語に基づき誓旨のあるところを誨告(かいこく)
す
五 職員及児童はその祝日に相当する唱歌を合唱す
(注 君が代・紀元節・天長節・明治節・一月一日・勅語奉答歌・昭憲皇
太后御歌・明治天皇御製など)
後略
一九四一年文部省が制定した「礼法要綱」を基にした「文部省制定 昭和の国民礼法」によればこれらのセレモニーは更に次のように規定されていた。
一 祝祭日には、国旗を掲げ、宮城を遙拝し、祝賀、敬粛の誠を表す。
二 紀元節・天長節・明治節及び一月一日における学校の儀式は次の順序・方式による。
天皇陛下・皇后陛下の御写真の覆いを撤する。
この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表す。
次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に対し奉り最敬礼を行う。
次に国歌をうたう
次に学校長教育に関する勅語を奉読する。
参列者は奉読の始まると同時に上体を前に傾けて拝聴し、奉読の終わったとき、敬礼して徐に元の姿勢 に復する。
次に学校長訓話を行う。
次に当日の儀式用唱歌をうたう。
次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に覆いをする。
この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表する。
以下略
【注意】
一、天皇陛下のお写真を式場の正面の正中に、皇后陛下のお写真は、天皇陛下のお写真の左(拝して 右)に奉戴する。明治節の時には、明治天皇のお写真は天皇陛下の右(拝して左)に奉戴する。
二、勅語読本は箱より出し、小蓋または台に載せて式場の上座に置くを例とする。
三、勅語奉読に当たっては、奉読者は特に容儀・服装に注意し、予め手を清める。(フロックコート、 モーニングコート、及び和服の場合は手袋は着用しない。)謄本は丁寧慎重に取り扱い、奉読の前 後に押し頂く。
四、勅語奉答の歌をうたう場合は、学校長訓話の前にする。
五、勅語奉読・訓話等は、御写真を奉掲する場合は御前を避け、しからざ
る場合は正面の中央で行う。
六、七、略
七〇代以降の方は彷彿として戦前の四大節セレモニーを思い起こされたでしょう。今日思えば馬鹿馬鹿しく仰々しい行事が、日本中で、「大まじめに」執り行われていたのである。
今日の日の丸・君が代の強制を見ていると、新しい装いで、どこまでこのような方向に近づくことかを危惧せざるを得ない状況である。
そしてまた、このセレモニーのメインはまさに「教育勅語」の奉読であった「勅語」とは「大辞林」によれば、「1天子の言葉。みことのり。2旧憲法下、天皇が直接に国民に下賜するという形で発した意思表示」とあるが、天皇については、旧憲法では次のように規定している。
第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す
第三条 天皇は陸海軍を統帥す
第十一条 天皇は陸海軍を統率す
第十二条 天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む
第十三条 天皇は戦いを宣し和を講じ及諸般の条約を締結す
まさに天皇は絶対的権力を持って国民の上に君臨し、日本の運命と国民の生殺与奪の権能を持った存在であり、教育に関する勅語「教育勅語」は、国民を、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼」する「忠良な臣民」に仕立てるための、大日本帝国の教育の国是であった。
一八七九年(明治一二)の「教学大旨」には次のように書いてある。
仁義忠孝の心は、人みな、これ有り。しかれども、その幼少のはじめに、その脳髄に感覚せしめて、培養するにあらざれば、他のもの事、すでに耳に入り先入主となるときは、のちいかんともなすべからず。
故に、当世小学校に絵図のもうけあるに準じ、古今の忠臣・義士・孝子・節婦の・画像・写真を掲げ、幼年生入校の始めに先ずこの画像を示し、その行事の概略を説諭し、忠孝の大義を脳髄に感覚せしめんことを要す。
しかるのちに、諸物の名状を知らしむれば、後来(将来)忠孝の性に養成し、博物の学(理科)において、本末を誤ること無かるべし。
この伝統的君が代・日の丸付けの教育の中で、私たち当時の少年は、日出る国の天子の下「八紘一宇」「大東亜共栄圏の確立」「国のため」、戦場に赴くことが祖国愛に充ち満ちた、男子本懐の道と信じる民草に育てられていったのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿