2010年2月7日日曜日

少年兵兄弟の無念-9

「 天皇の軍隊と私的制裁 戦場体験と人間性」
   
 内地(日本の敗戦以前は、植民地や占領地を『外地』、日本本土を『内地』とよびました)の場合は、外地の部隊より多少はましだったようですが、それにしても程度の差です。ただ、少年兵の教育隊の場合は、古兵がいません。みんな一緒に入隊した戦友です。お互いに励まし合い、支え合う戦友です。ど突かれ、殴られ、蹴っ飛ばされ、張り倒されるのも皆一緒です。それだけましだったでしょう。古兵による不合理ないびりやしごきがないのが幸いでした。

 翌年、関東軍に転属して、本格的な私的制裁の凄まじさ、内務班のいびつさを体験するのですが、それはこの先の「関東軍と八紘一宇・内務班のしごき」で述べることにしますが、「しつけ」や、「しごき」に名を借りた「いびり」を少しだけ紹介しておきましょう。

「いびり」

 「セミ」 柱にしがみつかせて「ミンミン」と鳴かせます。 鳴き声が小さい、「ミンミン蝉」は跳んでったぞ、今度は「ツクツクボーシ」だぞ等と囃し立てられます。

 「ジテンシャ」 寝台と寝台の間に身体を浮かせて自転車を漕ぐ真似をさせる。「後ろから自動車だ、もっと漕げ、早く、早く」

 「ウグイスの谷ワタリ」  寝台の下を一つ一つくぐらせて、その度に「ホーホケキョ」と鳴かせる。「顔を上げて、ホーはもっと伸ばして」

 「ゲイシャ」 銃架の陰に立たせ、銃架を芸者屋の格子に見立てます。その前を人が通る度に手招きさせ「ちょいと兄さん寄ってらっしゃい」と声をかけさせます。

 「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は……」と日の丸を振って送られてきた「召集兵」の新兵たちが、こんなことをやらされていました。

「各班回し」 軍靴の底の鋲の間にほんの少し土がついていた場合、靴紐を結び、首にかけ、各班の自分より年次の上の者一人一人に報告して回らせる。「▲班○○二等兵であります。編上靴の手入れが悪く班長殿から注意を受けました。ここにご報告いたします」。一人に一回づつ殴られても、各班を回れば数十回以上になり、顔は真っ赤に腫れ上がります。これは誇張のない軍隊の実態です。

 「少々のことは我慢しても、軍隊は飯が食えるからいいや」、などの論が成り立つのでしょうか。耐えられないで自殺する兵隊は、厠で、銃剣を立てかけ、しゃがんで喉に突き刺します。

 ここで、表題についての私の考えを述べておきます。「戦場体験」 まず「戦場体験」の概念を明確にする必要があります。 辞書によれば、用語について次のように定義されています。

 『戦争』武力を用いて争うこと。特に国家が自己の意志を貫徹するため他国家との間に     行う武力闘争。
 『軍隊』一定の規律の下に組織・編成された軍人の集団。
 『戦場』戦闘の行われている場所。(以上大辞林)
 『戦地』戦争の行われている土地。また、軍隊の出征している土地(広辞苑)

 すなわち、戦争とは、国家が他国家との間に行う武力闘争であり、どのような大義名分をつけようとも、まさに国と国との殺し合いに他なりません。戦場体験とは、人と人とが殺し合う戦争に、軍事組織の一員として動員された兵士・軍属などの、戦地における体験であります。

 戦争に勝利するためには強力な軍事組織を持つことが絶対条件です。そして強力な軍事組織は命令に絶対服従し、生命を厭わず敵に向かって立ち向かい、任務を遂行する兵士を必要とします。

 「軍人勅諭」
日本の軍隊は兵士たちを、厳しい規律と教育によって、絶対服従が習性になるまで訓練し、強制的に前線に向かわせようとしました。
一八八二年(明治一五)天皇から陸海軍軍人に与えられた「軍人勅諭」というものがあります。天皇制政府は、「軍人勅諭」によって、軍人に天皇への忠誠心を叩き込み、天皇の命令に対する絶対服従を強要するため、暗記するまで覚え込ませました。

「軍人勅諭」で最も強調されたのは、天皇への忠誠であり、軍隊は天皇の軍隊であるということでした。
「我国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある」「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と軍隊の最高指揮者であることを自ら宣言した天皇が、一番に訓示しているのが、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」ということです。

 「軍人勅諭」のもう一つの重大な内容は、天皇への忠誠と表裏一体の関係として、天皇への絶対服従と、天皇のために死ぬことを名誉とすることを兵士に叩き込んだことです。

「上官の命を承ることは実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」という「軍人勅諭」の一節で不合理な命令も私的制裁も正当化されました。

 「上官の命は朕の命令だ」「軍人精神を叩き込む」「立派な軍人にしたてあげる」と、全く不合理な命令や私的制裁が公然と日常茶飯事に横行していたのでした。
こうして習性となるまで服従が強要され、それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習性をつけさせるまで行われました。

 こうした服従の強要は「只々一途に己が本分の忠節を守り義は山岳より重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という「軍人勅諭」によって、天皇のために死ぬことを美徳とし、兵士の命を鳥の羽よりも軽いと見る非人間的な思想に他なりません。

 人殺しのための準備訓練
軍隊では戦闘が目前になくても、日常普段に、人殺しのための準備訓練が行われていました。声が小さいと言っては殴られ、動作が鈍いと蹴飛ばされ、革のベルトの帯革ビンタ、戦友同士の向かいあった切磋琢磨などは日常茶飯事、戦闘訓練、銃剣術、射撃、突撃、そして刺殺訓練等々です。中国戦線では初年兵教育の総仕上げに、中国人を銃剣で突き刺す訓練が行われていたことは、多くの元兵士の語るところであります。

 日常生活そのものが精強な兵士となるためのものであり、戦場体験とは、戦闘に参加したかどうかを問うものではありません。戦闘は主として外地において行われました。外地とは日本本土以外の土地であります。それは、占領地、植民地、従属国などの日本が武力によって支配した土地であります。したがって、その土地での兵士たちの生活は、表面的にはともかく、日本に敵意を抱き、反抗、反撃の機会をうかがう現地住民に囲まれての日常でありました。

 一九四五年(昭和二〇)一月十八日、最高戦争指導会議は全軍特攻化を決定しました。外地ばかりでなく内地でも硫黄島、沖縄が戦場となりました。さらにアメリカ軍の爆撃の日常化、艦砲射撃、アメリカ軍の本土上陸作戦に備える肉弾訓練、特攻基地の拡充、強化等々本土全体が戦場となったのでした。

 人間性を作り替える葛藤
 兵士たちが優秀な兵士になることは、敵を殺すことに勇猛な兵士となることでありました。それを拒否するには、「脱走」か「自殺」以外に道はありませんでした。しかし、「脱走兵」の家族は、非国民の家族として「村八分」で、親類縁者みな、生活するのも困難な状況に追い込まれます。「自殺兵士」の遺骨は、見せしめのために、荒縄でぐるぐる巻きにして、遺族のもとに届けられます。

 戦地における兵士たちの日常は、武力闘争の歯車の一つとして、自分自身の人間性を作り替える事との葛藤の日々であったともいえます。いわゆる「 戦争体験」 も極めて厳しく過酷なものでしたが、「戦場体験」の質的な違いはここにあるのです。

    「慰安所」
 人間性を問うものとしては、「慰安婦」「慰安所」の問題があるでしょう。日本には戦前「公娼」(おおやけに営業を認められた売春婦)制度が存在しました。私は十五歳で少年兵を志願し、旧満州、長春の関東軍対空無線隊に派遣されたのは四五年四月、十六歳でした。

 各内務班の柱には、各慰安所ごとの慰安婦の源氏名と検診結果の書いたノートがぶら下げられていました。休日には慰安所に日本兵が列をなして並んでいました。将校には日本ピー(ピーとは慰安婦のこと)下士官には鮮ピー(朝鮮人慰安婦)、兵隊には満ピー(中国人慰安婦)が与えられていました。休日の外出には「突撃一番」(避妊具)をもっていないと許可されません。

 私は、最初の外出で持っておらず、「帝国軍人がなぜそんなものを持たなければならないのですか」「そんな物を持つて、慰安所に行くのが、立派な日本帝国陸軍軍人なのでありますか。」と反論したため、「生意気云うな」「上官に口答えするのか」「女も買えない奴に敵を殺せるか」と殴り倒され、蹴飛ばされ、踏みにじられました。血まみれになった私は、その日は外出禁止となりました。この理不尽な出来事を、わたしは生涯忘れることはできません。

 日本軍にとって、「慰安所」は兵士たちの「活力剤」であり、多くの兵士たちも、当然のことと考えていたのでした。日本軍のいるところ、日本本土にも、沖縄にも名称、形態は兎に角、慰安所は存在し、公然と兵隊たちはこれを利用していたのでした。

 軍隊というところは、人間性があったら強い兵隊になれないのです。天皇のため、沢山殺せば殺すほど軍人の鏡として褒め称えられるのです。

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