2010年2月24日水曜日

少年兵兄弟の無念-20

 製材の貨車積載
 私たちの中隊の主な作業は、製材された材木の貨車積載です。
6~8人で一つの作業班です。製材所からの斜面をトロッコに載って材木が下りてきます。厚板、薄板、雑材、鉄道枕木等様々な工場で製材された材木です。次々と下ってきたトロッコが、斜面から平地に移りスピードが落ちたところで、班ごとにトロッコに飛びつきます。

 貨物列車の引き込み線には、線路がいくつにも別れ、木製の長いプラットホームが何本もあります。トロッコを押してプラットホーム脇の材木置き場に、製材の種類ごとに、いつ貨車が入ってきても積み込めるように並べて積み上げます。

 長板は担いだときも、横に二人で投げるときも、板のしなりを上手く利用しないと、ひっくり返ったり、板の跳ね返りで大怪我をします。重いものを担いだり、板扱いしたことのないすべての捕虜たちが、トロッコを押し、板を担ぎ、「木場」の職人のように板を扱って、作業をするのです。

 鉄道の枕木や、十分乾燥のしていない松の板を担ぐときなど、腰をしっかり入れないと、担ぎ上げることも、歩くこともできません。材木の下敷きになって大怪我をしたり、死んだ兵隊もいました。

 貨車が入って積み込みの時などはさらに大変です。貨物列車が引き込み線に入っててくると、一斉に積み込みです。無蓋貨車に敷き板を敷き、四隅に丸太を立てて貨車の幅一杯に並べて積み上げていくのです。

 地面の上の材木置き場から、人の肩ほどある貨車の床に持ち上げたり、板材の上を滑らせて貨車の中に運び込むのですが、積み込みが進むほど段差が高くなります。積み込み作業は午前中に始まるのが通例ですが、終わるまでは、何時になっても昼食は食べられません。
作業は雨が降っても、雪が降っても休みはありません。

 前回8時整列と書きましたが、訂正します。7時半作業整列・点呼。出発。
8時作業開始、12時昼食・休憩。13時作業再開、17時作業終了、帰舎。
労働は週6日制で、休日は日曜の他、メーデーや革命記念日などソ連で定められた祭日が休みでした。

 シワキ収容所では6人に1人が死ぬ
 シベリアでは10人に1人が死んだのですが、シワキ収容所では6人に1人が死にました。死ぬと遺体は医務室の前に置かれているのですが、朝までの間にみんな裸になっています。着ている物を掻っ払うのです。パンツさえ盗りました。もちろん盗るのは我々日本兵で、盗った衣服をソ連の民間人の所に持ち込み、パンと取換えるのです。

 製材工場がありますから木材は山ほどあります。。あらかじめ棺桶を作っておきました。しかし、遺体が棺桶より大きい場合は入りません。タポール(斧)のみねで脚を叩くのです。凍っていますから脚はポキッと折れます。それで遺体を棺桶に収めることができるのです。

 遺体は土葬するのですが凍土です。土が1メートル以上も凍っています。なかなか掘れません。火を焚き、凍土を少しずつ融かし、鉄の棒で突き掻き、1日かかって40センチか50センチ、棺のかくれる程度でやっとです。浅いまま土をかぶせるのですから、春になると山犬か何かに掘り返されているのです。シベリアの山野に埋められた日本兵の遺体は、その後どうなっているのでしょうか。

 空腹
 捕虜たちの死因は栄養失調、発疹チフス、凍傷、作業中の事故死などです。極東・シベリア地方での捕虜の食糧は一応パン350グラム、粉、穀物(小麦、燕麦、大豆、大麦、こうりゃん、粟、稗、きびなど)400グラム、魚150グラム、生野菜または塩漬け野菜800グラム、砂糖18グラム、塩20グラムという基準、建前があったと言うことですが、実際はそんなにありません。とにかく食べ物が少ない。重労働に空腹です。

 最初の冬は大変でした。8分の1斤ほどの大きさの黒パンは1日分。それに赤いこうりゃんや大豆のカーシャ(おじやのような物)、あるいはトマトが一切れの薄い塩スープが飯盒の蓋に八分目ほど。馬鈴薯でも付いていれば最高です。その頃ソ連も飢饉で食糧不足だったようです。野菜など殆どありませんでした。

 黒パンを分配するときは大変です。当番が切るのをみんな殺気立ち、目を皿のようにして見つめています。ついには天秤秤を作って足したり減らしたりして分けていました。

 腹が空いて仕方がありません。松の虫食い穴に針金を突っ込みマツムシを釣り上げて食べました。ビタミン不足の鳥目などにはよく効きました。それに靴のかかとを削りました。牛、豚の皮です。チューインガムのように噛んで唾液を出し、多少でも空腹感を抑えました。黒パンをお湯で溶かし、量を増やして満腹感にひたった者もいましたが、彼らはみんな胃を壊してしまいました。下痢をすると、松ヤニをかじったり、木炭を粉にして「クスリ」にしました。

 寒さ
零下30度を超えると作業休止ですが、零下29度なら作業に出ます。一度作業を開始したならば途中で休止になることはありません。風が吹けば風速1メートルごとに体感温度は1度宛下がります。

零下20度から30度の酷寒での屋外作業です。まつげが凍って真っ白になります。吐く息が凍ってすぐ顔にまとわりつきます。素手で裸の金物などを掴んだりすると、すぐ凍り付いて皮がむけてしまいます。

 時々、お互いに顔を見て、白くなっていないか確かめます。白くなったら凍傷の前兆です。すぐマッサージです。手や足は、さすったり足踏みをして血行をよくしてから暖をとらないと凍傷にかかります。

 私も凍傷になりました。あまりの寒さに、部屋に入るとペチカの上に登って靴を履いたまま身体を暖めました。てきめんです。左足の親指が腐り始めました。幸い早く気が付きました。放っていれば肉が腐り、どんどん内部に進み骨まで達します。

 戦友に体を押さえてもらい、針金で作ったピンセットで患部をつまみ、ハサミで腐った部分の内側、まだ大丈夫なところに沿って腐った肉を切り取りました。本人は痛みと気張りで頑張ったのですが、見ていた戦友が気絶しました。一ヶ月ほど作業を休みました。その後しばらくは、靴が履けませんので、左足には大手袋を巻き付けて作業に出ました。私の左足親指は先が短くなっています。シベリア土産です。

 シラミ
 風呂はありません。汚れた衣服に垢だらけの体です。シラミが発生します。上衣の襟など裏返すと霜降りの服のようです。シラミがたかっています。

 一度入浴列車が来ましたが、それ以外入浴はしたことがありません。入浴列車というのは、最初の車両で衣類を脱いで裸になります。次の車両で衣類を差し出します。衣服の蒸気消毒です。次が蒸し風呂の車両です。床に煉瓦で仕切って焼けた石が並べてあります。水をかけます。猛烈に蒸気が立ちこめます。

 段になった高いところに座り、汗が吹き出します。汗をたらたら流しながら、榊の葉っぱで体を叩き、指でこすって垢を落とすのです。列車を降りるときは、蒸気消毒をした別の衣服を着て出てくるという仕組みになっています。シラミの大量発生が発疹チフスや伝染病の原因でした。

 いつ帰れるのか。 
防寒具は一応もらえますが、極寒の屋外作業には慣れていません。食糧も少ない。いつも空腹。そして、いつ日本に帰れるかもわからない。先の見えない希望のない毎日です。誰でも参ってしまいます。最後の踏ん張りがきかないのです。

 とりわけ下級兵士たちがばたばたと倒れていきました。死ぬ間際にはたいてい脳症になり、譫言(うわごと)を言います。夜中にパット起き上がって「汽車が出ますね。帰るんですね、日本に帰れるんだ。味噌汁が飲める。お母さん」、そういって死んだ戦友のことが、いまでも忘れられません。

 私は、少年兵を志願しをしたとき、許しをくれた父のがっくりとした姿を思い浮かべ、なんとしても生きて還り、親孝行をしようと苦難に耐えたのでした。

人間として最低の所に落ちて
私たちは、ただ自分だけが生きればいいとしか思っていませんでした。隣の戦友が下痢をします。いたわるのではありません。嬉しくなるのです。「ああ、これで隣の奴の飯が食える」、そう思うのです。

 こんなこともありました。ある兵士が病気にかかり、医務室に連れて行かれ、病床に伏したまま危篤になりました。それを聞いてその班では、まだ死んでいないのに骨箱を作りました。小指を入れて持ち帰ろうというのです。所持品はみんなで形見分けをしました。

 ところが、本人が危篤を脱して生きて帰ってきました。自分の骨箱があって、持ち物は何もありません。けれども、彼の所持品を、誰も返しませんでした。本人も生きて帰れただけでも良かったと考えて、黙って我慢するより仕方ありませんでした。

 こんな話はあまりしたくはありません。しかし本当の話なのです。まだまだ似たような話も沢山あります。人間として一番最低の所に落ちたのです。過酷な状況がそうさせたのですが、日本人同士が助け合えなかったのです。お互いが、お互いを、生き延びるために踏みつけるようにすることが多かったのです。

 シベリアで抑留された人たちは、「寒かった」「ひもじかった」「重労働が辛かった」までは話しますが、それ以上の体験は話さないのです。特に家族や遺族には話せません。

 「隣の奴が下痢したら、ああ良かったと思ってその人の分まで食べました。死体の衣服を剥がし盗ってパンと換えました。危篤の奴の形見分けをして、生き残っても、知らん顔をして返しませんでした。お宅のお父さんも同じでした 」など言えません。鉄砲の弾丸に当たって死んだのならともかく……。

 だからなかなか本当のことを話さないし、口が重く、何も話さない人もいるのです。戦争中には弾丸に当たらず生き延びてきたのに、戦争が終わって捕虜にされて……。いや捕虜ではありません。拉致です。

 スターリンのソ連は「ポツダム宣言」を踏みにじって日本軍捕虜をシベリアに連れて行き、重労働を強制しました。六〇数万の日本軍将兵がソ連に抑留されて六万数千人が死亡したとされていますが、未だに正確な数字はわかりません。まさに戦後最大の拉致問題なのです。

 そういうなかで、戦争が終わったというのに、惨めに、家族にも知られずに死んでいった。しかも、もう助け合いなどなくて、お互いに自分だけが生きることに必死の中で死んでいったのです。遺骨の多くも、まだシベリアの地にさらされたままなのです。 

 しかしそういう中でも、鈍重に人間性を貫いた人がいたり、一方で、兵隊前の社会では立派な肩書きを持っていた人がくるっと変わってしまったり、そういう両極を私は見てきました。20歳前の少年兵でしたから、強烈な印象となって記憶に残っています。日本に帰ったときには一種の人間不信に陥りました。「この野郎、上手いこと言ったって、いざというときになったら、おかしくなるんじゃないのか」そういうことが度々でした。

 ですから、もともと所属していた部隊が、戦後になって戦友会を作ると言うことができても、シベリアで同じ収容所にいた人たちが、戦後になって集まるというのはなかなか難しかったのです。ただ、シベリアに抑留されている間は、幾つかの収容所で合流したり、別れたりしていますから、帰国直前の最後の収容所で一緒になって、途中では醜い面をお互いに知らない場合には、グループを作ることも可能だったと思います。

(次回は収容所の中の民主運動) 

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