2010年2月7日日曜日

少年兵兄弟の無念ー10

「 戦争とは人と人との殺し合い 初めての戦闘体験」

 戦局は急速に悪化しました。
 一九四四年(昭和一九)六月十五日米軍サイパン島上陸。
 七月七日守備隊玉砕。
 六月十六日中国基地の米B29爆撃機、北九州初空襲。
 十九日マリアナ沖海戦。
 三十日閣議学童集団疎開決定(八月四日実施)。
 七月四日大本営、インパール作戦中止を決定。
 十八日東条内閣総辞職。(二十二日小磯内閣成立。)
 二十一日米軍グアム島上陸。(八月十三日グアム島守備隊玉砕。)
 八月四日一億国民総武装で、各地に竹槍訓練始まる。
 十九日最高戦争指導会議で、今後採るべき戦争指導の大綱決定(戦争の指導権が連合軍 に握られたの認識とともに戦争の完遂を期す)
 二十三日学徒勤労令・女子挺身勤労令公布。ビルマ戦線北半分を失う(八月三
 日北部ミチナ陥落、九月七日雲南省拉孟、守備隊玉砕、十四日騰越守備隊玉砕、)。
 十月十日米機動部隊、沖縄空襲。
 二十日米軍レイテ島上陸。
 二十四日~二十五日フイリッピン沖海戦。
 二十四日、マリアナ基地のB29,東京初空襲。

フイリッピン沖海戦における連合艦隊の損害(昭和の歴史7太平洋戦争木坂順一郎 小学館)より
艦種      沈没  大破  中破  小破
戦艦      3       4   1
航空母艦    4    
重巡洋艦    6    4      1
軽巡洋艦    3       1   1
駆逐艦     8    1  2   8
潜水艦     6
合計     30    5  7  11

   撃沈したアメリカ艦艇
小型空母1.護衛空母2.駆逐艦2.護衛駆逐艦1.魚雷艇1.潜水艦1 合計8隻
フイリッピン沖海戦後に残った日本の艦艇破損したものも含めて戦艦6.空母7(小型空母3.商船などの改装空母4).重巡7.軽巡7(うち練習艦2)       

十月一日、私は上等兵になり、十一月には全国各地に展開して、実戦訓練でした。特幹一期生は一年半の教育課程が九ヶ月に短縮されました。十二月で教育課程は終わり、第一線に送られることになりました。十二月二十九日に卒業式が行われました。「陸軍航空通信学校における陸軍特別幹部候補生の課程を卒業せしことを証す」という卒業証書をもらいました。

 一九四五年の正月のことです。「来年の正月はあると思うな、立派に戦って死のうじゃないか、靖国神社でみんな会おうじゃないか」と班長の訓辞です。そして一人一人、決意を述べろと言われました。

 「特幹一期生として恥じぬよう戦って、名誉の戦死を遂げます」、「天皇陛下のため粉骨砕身、命を捧げます」、「靖国神社でみんなと会いましょう。自分が一番乗りであります」などなど勇ましい決意が続きました。班長は、一人一人の言葉が終わる度に、「よーし、そうだ、その通り、がんばれ、靖国で会おうぜ」と気合いを入れます。私の番が回ってきました。私は「最後の一兵となっても生き抜き、勝利まで戦います」と言ったのでした。「この野郎!貴様!来年の正月はあると思うな。立派に死のうじゃないかと言っているのに、お前ひとり一体何だ!」と言うのです。

 それで私は「一人も生き残っていなかったら、誰がワシントンに日章旗を掲げるのですか」と答えました。そうしたら「この馬鹿野郎!」、「そんなに死ぬのが怖いのか」、「靖国神社に行きたくないのか」、めちゃくちゃにぶん殴られました。

 当時は死ぬと答えるのが普通というか喜びでさえある時代でした。だからこそ「そう簡単に死んでたまるか」という気がありました。「軽々に死ねない、気安く死ぬって言うな」と思っていました。確かに「死ぬ」と言った方が格好がいいわけですが、私は「お前ら、何、お調子者をして。上官に媚びへつらって言ってんだろう。本当に死ぬ気があるのか」なんて言って戦友たちと喧嘩したこともあります。

 前線に出ることは、「戦死」の日が近くなると云うことです。しかし、少年兵たちにとっては、「訓練の成果を見せてやるぞ」「志願の時の志をいよいよ発揮できるんだ」「陰湿なしごきなどもうおさらばだ」「正義の戦いにいよいよ参加できるんだ」と嬉しくて嬉しくてたまらないのでした。「おいお前どこへ行きたい」、「俺は中国がいい。まんじゅうが食えるぞ」、「俺は南方だ、バナナにパイナップルだ」、毎晩、そんな話で持ちきりでした。

 一月はもう教育訓練はありません。転属先の決定待ちで、近隣の山へ行って燃料の伐採、炭焼きなどの作業です。そんなある日、父と姉が面会に来ました。「十二月に房蔵がまた面会に来たよ。海軍は面会が多いなあ」と言うのです。三番目の兄は、八月に面会に来たばかりでした。

 予科練土浦から回天基地大津島に出発する直前でした。回天特攻隊の兄は、出撃予定と出撃隊が決まって、家族との最後の面会だったのでしょう。山口県光基地から東京日本橋の家までの往復、汽車の車中でどんな想いで過ごしたのでしょうか。

 父に特幹の卒業証書を渡しました。「軍刀買ってやるよ。」「金は何とか工面するよ」。私は嬉しくてたまりませんでした。軍刀を下げられるのは曹長になってからです。まだまだずっと先のことです。それまで生きていられるかどうか分かりません。それでも、もう会えるかどうか分からない息子に、親として精いっぱい出来ることを考えたのでしょう。「無理するなよ。軍刀無くたって戦えるよ。有難う。嬉しいよ」そう言うのが精いっぱいでした。営門まで送って、肩をしぼめて、振り返り振り返り、手を振りながら、とぼとぼと歩く背中を見つめたのが、父との最後の別れでした。

 二月に、私は、今のひたちなか市にあった常陸教導飛行師団の水戸東飛行場に配置されました。ここからは一宇隊、殉儀隊、第二四、四四、五二、五三振武隊など多くの特攻隊が、レイテ沖、台湾、沖縄海域に向けて出撃しました。私は、ここで初めての戦闘体験をしたのでした。

 二月十六日から三日間、硫黄島を取り囲んだアメリカ海軍機動部隊は、猛烈な艦砲射撃の後、十九日、上陸を強行しました。その二月十六・十七日の両日、鹿島灘に接近したニミッツ提督指揮下のアメリカ航空母艦から飛び立った数千の艦載機群によって、関東一円の日本軍飛行基地が壊滅的打撃を受けたのです。水戸東では空襲警報のでないうち、気が付いたら雲霞の如き大群のアメリカ艦載機が頭の上にやってきていました。日本のレーダーに捉えられないように海上すれすれに飛んできて、海岸で急上昇したのです。

 二日間にわたる猛烈な爆撃と銃撃を受けて、四百を超える陸軍の飛行機は炎上破壊され、百八十名を超える兵士が戦死しました。 零戦を超える性能を持った米海軍戦闘機グラマンF6Fヘルスキャットと、双胴で二〇ミリの機関砲を持ったロッキードP38です。数十機の編隊で二つに分かれ、「8」の字のたすきがけに交互に小型爆弾の爆撃と機銃掃射を繰り返していくのです。

 急襲した米軍機は、まず格納庫前に置かれ、銃弾と燃料を満載して何時でも飛び立てるよう準備された邀撃戦闘機のすべてを破壊しました。胴体に米軍爆撃機B29の撃墜マークを描いた戦闘機が猛烈な勢いで火を吹きました。機関銃や機関砲の銃弾が盲発してあたりに飛び散ります。近くに寄ることは出来ません。たまたま飛び立つことが出来た日本の戦闘機は袋だたきで瞬く間に撃ち落とされてしまいました。

 完全に飛行場の空を制した米軍機は続いて格納庫を狙い、次々に爆弾を投下し破壊し尽くしました。格納庫も全部やられました。その後は対空射撃の銃座と兵員を狙い撃ちしてきました。一つの銃座に何十機もが、編隊で交互に組んで突っ込んでくるのです。ほとんどの銃座が沈黙してしまいました。

 対空射撃の銃座をあらかた沈黙させると、今度は格納庫の周りや兵舎の間に掘ってある壕に向かって爆撃と機銃掃射です。日本兵を捜し、狙い撃ちです。とにかく、高度十メートルもない低空飛行で攻撃するのです。米軍機が真っ直ぐに降下し、土煙を上げながら機関銃の弾道が近づいてきます。飛行士の顔が見えます。飛行眼鏡がきらりと光ります。「天皇陛下万歳と言って死ぬのだろうか」、「いや、お母さんといって死ぬのだそうだ」、「母の早く亡くなった私はお父さんといって死ぬのだろうか」、一瞬そんなことを考えた私の数メートル先で機銃掃射をやめ、小型爆弾を落とした米軍機は機首を上げ、私は泥まみれになりながら命拾いをしました。機関銃の弾丸がヒュルヒュル、チュンチュンチュンって音で、パッパッパって土煙が立って、カラカラカラって薬莢の落ちる音がするのです。怖かったです。

 何度目かの攻撃の後、私は受信所にいました。受信所は指揮所と同じ飛行場の真ん中にあります。それこそ攻撃の焦点です。飛ぶ飛行機ももう一機もありません。此処にいたら何もしないで狙われているだけです。送信所に行こうと言うことになりました。

 送信所は飛行場から離れた山のような所にあって、崖に掘った横穴式の壕の中にありました。ところが送信所に行く途中で機銃掃射に遭い、手間取ってしまいました。その時の一連の攻撃で壕の入り口に爆弾が落とされ、送信所にいた全員が死んでいました。みんな爆風でバラバラになっていて、レシーバーをつけたままの首が転がっています。首のない胴体があります。電鍵を握ったままの腕が転がっています。無惨な姿になっていました。あの時、機銃掃射に遭っていなかったら、私も送信所にいて同じ運命でした。これも運です。

 死体は文字通りバラバラで、それを私たちが集めるのです。揃えるのです。もうただ無我夢中で集めました。何と言ったら良いのか、涙も出て来ません。ちょっと言い表せないです。しっかりしなきゃいけないと自分に言い聞かせながら、もう戦友は死んだという、そういう何とも言えない口惜しさと、悲しさと、それからむごたらしいけれども、彼らを何とか守ってやらなきゃいけないというような使命感とか、そんなのがごちゃ混ぜになっていました。何とも言い難いです。五体揃えていって何人死んだかわかるのです。そうやって十一人揃えました。
 
志願して未だ一年もたたない、十六歳から二十歳の同期生です。身体の部位は全て揃うわけではなくて「だいたい」です。機関銃や機関砲で機銃掃射を何度も受けると、死体がちぎれて跳ね上がって電線にぶら下がったり、どこかへ飛んでわからなくなるからです。脳味噌の出ている頭が転がったりもしていました。私はこのとき、戦争とは格好良いものではない。人と人との殺し合いそのものだと骨身にしみて思いました。十六歳の初めての戦闘体験でした。

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