2010年2月4日木曜日

少年兵兄弟の無念-2

【「戦争しか知らない子供」として】

 十五年戦争といわれるアジア・太平洋戦争は一九三一年(昭和六)九月十八日の柳条湖事件を発端とする満州事変で始まりましたが、私が小学三年のとき、一九三七年(昭和十二)七月七日には廬溝橋事件が起こり中国に対する全面的戦争となりました。そして中学一年の時、一九四一年(昭和一六年)十二月には、日本軍のマレー半島上陸、真珠湾奇襲攻撃とアメリカ、イギリス、オランダへの宣戦布告によってアジア・、太平洋戦争が全面的に繰り広げられ、一九四五年(昭和二〇年)八月十五日の「ポツダム宣言」の受諾による日本の無条件降伏によって戦争は終わりました。

 七〇年代に「戦争を知らない子供たち」というフォークソングがヒットしましたが、私たち兄弟は、「戦争しか知らない子供」として育ち私たちの「青春」はまさに戦争の中の青春だったのでした。特攻隊員として十八歳で戦死した兄は、戦争のためにだけ生き、そして平和の時代を知ることなく、短い生涯を沖縄の海に散っていったのでした。

 私が物心が付いた頃から小学校入学の時期は、大正ロマンの自由主義的気風が消え去り、日本の軍国主義が急速に進展する時代でした。「満蒙はわが国の生命線」であるをスローガンに中国東北地方への侵略が開始されました。一九三一年(昭和六年)九月十八日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で日本の関東軍が南満州鉄道を爆破し、それを口実に満州全土(中国東北部)を占領し、傀儡国家満州国を樹立しました。国際連盟で十三対一と加害者として批判され国際的に孤立した日本は、一九三八年(昭和八年)国際連盟を脱退しました。 

 新聞・ラジオなどのマスコミは、関東軍の虚偽の発表を鵜呑みにして、戦場美談とともに日本軍の奮戦と勝利を称え、「正義の前に支那軍ほとんど壊滅」(名古屋新聞一九三一年九月二十日)、「悪鬼の如き支那暴兵!我軍出動遂に掃討」(東京日々新聞十月十五日)、「正義の国日本、非理なる理事会」(東京日々新聞十月二十六日)など中国への侮蔑と憎悪を煽り、国際連盟を敵視する記事を溢れさせました。高まる拝外熱と軍国熱を背景に軍部は国防思想普及運動を全国に展開しました。

 私は一九三五年(昭和十年)に小学校に入学しました。小学一年の国語教科書では「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」「ヒノマルノハタバンザイ・バンザイ」と学び、唱歌の時間には「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったなら 鉄砲担いで剣下げて お馬に乗って はいどうどう」と歌いました。修身の教科書の最初の見開きには、菊の紋章の天皇旗を先頭にした近衛騎兵に守られ、馬車に乗った天皇の行列が、皇居から二重橋を渡って皇居前広場を行進している写真が飾られていました。修身の最後は「チュウギ」でした。突撃をする兵隊の中で、ラッパ手が、のけぞるように倒れながら、ラッパを吹き続けている絵を背景に、文章が掲げられていました。

 「キグチコヘイハ、イサマシクイクサ ニデマシタ。テキノタマニ アタリマシタガ、 シンデモ、ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」

 小学二年では上海事変の軍国美談、「肉弾三勇士」の話を聞きました。三二年二月二十二日、上海廟巷鎮(びょうこうちん)の戦闘で、混成第二四旅団所属工兵第一八大隊の江下武二(えしたたけじ)・北川蒸(きたがわすすむ)・作江伊之助(さくえいのすけ)の三名の一等兵が、爆弾を竹筒でつつんだ約三メートルの破壊筒を抱いて鉄条網に突入し、友軍の突撃路を開くためた自分の身を犠牲にして爆死したという話です。当時、この三名は世界無比の壮烈な戦死を遂げたというマスコミのセンセーショナルな報道に、世間は沸き立ち、朝日新聞が募集した「肉弾三勇士の歌」に与謝野寛(鉄幹)が応募当選し戸山学校軍楽隊が作曲して、大変流行したのでした

   廟行鎮の 敵の弾 我の友隊 すでに 攻む
   折から凍る 二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時

 私たち子供は、竹の筒を抱えて、「午前五時」とこの歌を歌いながら遊んだのを覚えています。一九六五年、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の「私の昭和史」に出演した当時の上海公使館付き陸軍武官補佐官であった田中隆吉元少佐は肉弾三勇士についてこう語っていました。「命令した上官がですな、爆弾の導火線の火縄を一メートルにしておけば、あの鉄条網を爆破して安全に帰ることが出来たんです。それが誤って五〇センチ、即ち半分にしてしまったんです。それで……三人は無残な爆死を遂げちゃったんです。……彼らは完全に爆破して帰れると思っていたんです。

 「肉弾三勇士」の後、先生から「なぜ、支那兵をチャンコロというのか」と教えられました。支那と言う言葉は中国を侮蔑した言葉です。―明治二七・八年の日清戦争の時、当時の日本は貧しかったから優秀な武器は買えなかった。鉄砲を撃っても「バン」とはいわない。「チャン」としか言わなかった。けれど日本の兵隊は優秀だから鉄砲で「チャンと」撃つと、「コロリ」と支那兵が倒れる。チャン、コロリだ。だから彼らはチャンコロなのだ。―と真面目に教え込まれました。

 子ども心にバタ屋とクズ屋の違いを知っていました。クズ屋というのはお金を払って屑を買って、それを仕切り場で売って生計を立てている人です。リヤカーを引き、「屑や―、お払い!」と呼び声をかけながら街をまわっていました。バタ屋というのは竹の屑籠を背にして、ゴミ箱や道ばた、街角にある屑を拾って、
それを仕切り場で売って生計を立てている人達です。当時朝鮮は日本の植民地でした。故国で食べていけず多くの朝鮮人が日本に移り住んでいました。貧しい朝鮮の人たちは、肉体労働やそうい仕事をしていました。私たち日本の子どもは、それを見て、「朝鮮人、バタ屋、バタ屋」とからかっていたのです。

  私たちを育てた当時の教科書の一部を紹介します。小学一年 修身

 木口小兵は、勇ましく戦に出ました。 敵の弾に当たりましたが、死んでも、ラッパを口から離しませんでした。 

三年国語 軍旗
 身を捨てて、皇国のために、まっしぐら、進む兵士の しるしの軍旗、しるしの軍旗。  
四年唱歌 靖国神社
 命は軽く 義は重し。その義を踏みて大君に 命を捧げし大丈夫(ますらお)よ。
鋼(かね)の鳥居の奥深く 神垣高くまつられて、誉れは世々に残るなれ。

五年唱歌 入営
 ますらたけおと生い立ちて、国の守りに召されたる 君が身の上、うらやまし。
 望めどかなわぬ 人もあるに、召さるる君こそ誉れなれ、さらば行け、国のため。

六年唱歌 出征兵士
 老いたる父の願いは一つ。義勇の務め、御国に尽くし、孝子の誉れ、我が家にあげよ。
 老いたる母の願いは一つ。軍に行かば、からだをいとえ。弾丸(たま)に死すとも、病に 死すな。

四五年(昭和二〇)には子供向けにこんな歌まで作られていました。
  日本良い国、清い国 世界に一つの 神の国 
  日本良い国 強い国 世界に輝く 偉い国

 「国民合唱」として日本放送協会のラジヲをつうじて歌唱指導された「勝ち抜く僕ら少国民」という歌があります。 
   勝ち抜く僕ら少国民 必勝祈願の朝参り 天皇陛下の御ために 八幡さまの神前で
  死ねと教えた父母(ちちはは)の 木刀振って真剣に 赤い血潮を受け継いで 敵を百  千斬り倒す
  心に決死の白襷 力をつけてみせますと 掛けて勇んで突撃だ 今朝も願いを掛けて  きた         

 国民学校四年の音楽にも「無言のがいせん」と言う歌がありました。 「無言のがいせん」は、戦死して、遺骨を納めた白木の箱で還ると言うことです。 四年生の小学生に、おじさんあなたがてほんです。と歌わせるのです。

 雲山万里かけめぐり、敵を破ったおじさんが 今日は無言で帰られた。
  無言の勇士のがいせんに、梅のかおりが身にしみる。みんなは無言でおじぎした。
  み国の使命にぼくたちも、やがて働く日が来たら、おじさんあなたが手本です。

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