少年兵兄弟の無念 (3)
「戦争しか知らない子ども」として
猪熊得郎
私が小学校三年、一九三七年(昭和十二)には廬溝橋事件が起こり中国に対する全面的な侵略戦争が始まりました。七月七日午後十時四十分頃北京の西南廬溝橋付近の永定河左岸で日本軍が演習中、中国軍と交戦しました。十一日現地で停戦協定が結ばれましたが、同じ日、近衛文麿内閣は陸軍の提案を受け「重大決意」をもって華北への派兵を決定し、三十日には廬溝橋・北京・天津を軍事占領し日中全面戦争として発展したのでした。
近衛内閣は戦争が長期化すると予想し、八月には国民を戦争遂行に協力させようと、「国民精神総動員要綱」を閣議で決定し、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンのもと、国家のために自己を犠牲にして尽くす、国民の精神を推進するための国民精神総動員運動が繰り広げられました。
戦意高揚の標語として、「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「遂げよ聖戦 興せよ東亜」「聖戦だ 己殺して 国生かせ」等と国民に耐乏生活を強いるとともに、「パーマネントを止めましょう」「日の丸弁当」奨励なども叫ばれました。日の丸弁当とは、ご飯の真ん中に梅干し一個の弁当のことなのです。
また、内務相は「時局に関する記事取り扱い方に関する件」を通達し、新聞・通信社への警察の指導を要請しました。
1.反戦・反軍的言論や軍民離間を招く事項
2.日本の国策を侵略主義と疑わせる事項
3.日本に不利となる外国新聞の記事の転載
この通達は、日本軍部の軍事行動に関する記事の差し止めを求め、以後戦争に関する報道はこの枠の中に統制されたのでした。 、
「国民精神強調月間」「国民精神作興週間」「肇国精神強調週間」など難しい言葉の行事の度に、子供達は校庭に集められ、校長先生から訓辞を聞かされました。要するに「神の国日本、万世一系の天皇をお護りして、国を護るために、己を捨てて力を合わせよう」と言うことのようでしたが、ちんぷんかんぷんでよく
分かりませんでした。何人かの学友が、気持ちが悪くなって医務室に運ばれるのですが、今日は何人だと仲間と当てっこをしたのを覚えています。
家に帰って「『こくみんせいしんさっこうしゅうかん』て何なの」と父に聞くと、「近衛さんの言うことはお父さんもよく分からないよ。そのうち分かるさ。」「でも、お父さんがこんなこと言ったなど外で言ったら駄目だぞ」と言われたのでした。少しづつ、外向きの言葉と、家の中での本音ということも身につけたようです。
新聞ラジオや少年雑誌では「広瀬中佐」や「木口小兵」「橘中佐」などの戦場美談がたっぷりと繰り広げられていました。
一九四一年(昭和一四年)九月から毎月一日は「興亜奉公日」となりました。後に八日の「大詔奉戴日」に代わりましたが、梅干しの「日の丸弁当」、国旗掲揚、神社仏閣への必勝祈願、防空訓練が行われていました。
三月一〇日の陸軍記念日は明治三七・八年の日露戦争の奉天大会戦で日本陸軍が大勝利した日です。その日は講堂に集められ、陸軍の軍人から奉天大会戦の話です。五月二七日は海軍記念日です。今度は海軍軍人の日本海大海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅した話です。戦艦三笠を先頭に「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ。本日天気晴朗なれど波高し」というZ旗上がるの話に血湧き肉躍らされました。
中国戦線の拡大と共に出征兵士を送ることが毎月のようになりました。日の丸の旗を振りながら、「天に代わりて不義を撃つ 忠勇無双の我が兵は…」と軍歌を歌って行進しました。上海陥落、南京陥落など日本軍の大勝利が伝えられると旗行列、提灯行列で街中大騒ぎになりました。子どもたちも一緒に万歳万歳と歩き回りました。
それから、天皇陛下、つまり大元帥陛下が代々木練兵場に来るようなときは、学校が近いので連れて行かれました。天皇陛下が白馬に跨って白い羽毛の帽子を被っているのを遠くから見て涙が出るほど感激していました。
そういうふうに育ってきたわけですから、日本民族というのは優秀な民族で、朝鮮人や中国人は劣った民族だと思っていました。「我々は日出ずる国の天子の下、アジアの平和のため大東亜戦争に征くんだ」と、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」と言う言葉を子ども心に信じていました。
一九四〇年(昭和一五)は神武天皇が即位したという架空の紀元で二六〇〇年という事で大々的に紀元二六〇〇年奉祝の行事が繰り広げられました。 七月二六日に近衛文麿内閣は閣議で「基本国策要項」を決定しました。それは「国家国防体制」を確立し「八紘(はっこう)を一宇(いちう)とする肇国の大精神」によって「大東亜共栄圏」を確立するというものでした。 八紘とは広い地の果て、天下という意味、一宇とは一つの家ということです。 八紘一宇とは七二〇年の「日本書紀」で初代神武天皇が奈良の橿原の宮で即位したさい発したとされる「掩八紘而為宇(はっこうをおおいていえとなす)にもとづいて造語された言葉で日出る国の天子、すなわち日本の天皇の意向のもとに全世界を一体化しようという意味で日本の対外膨張を正当化するために用いられたスローガンです。
そうして中学生時代は、日本軍の戦果を伝える大本営発表にラジオの前で万歳をし、軍事教練で戦場を夢見たのでした。
一九四一年(昭和一六年)十二月八日、日本軍は奇襲攻撃でマレー半島に上陸するとともに、ハワイ真珠湾を攻撃しました。アメリカ、イギリス、オランダに宣戦布告をし、戦争は、アジア・太平洋戦争へと発展しました。日本政府は、これを「大東亜戦争」と名付けました。
学校への通学は、戦闘帽に巻脚絆、最寄りの駅から二列縦隊の隊伍を組んで校門では当番生徒に「歩調とれ!」「頭(かしら)右!」の号令で敬礼を交わします。校庭の中央奥にある神社で「武運長久」の祈願。それから教室に入って授業です。一年の時から三八式歩兵銃ををかついで軍事教練、三年の時は、二泊三日、軽井沢で野外演習をしました。 冬、雪が降ると一斉に授業を止めて校庭に集合。上半身裸になって、町中を駆け足行進です。
さらに戦局の推移とともに「撃ちてし止まむ」「進め一億火の玉だ」「月月火水木金金」などの新しいスローガンと「軍艦行進曲」「元寇」「抜刀隊」「加藤隼戦闘隊長」「若鷲の歌」等の軍歌に少年達は「正義感」と「愛国心」を燃え立たせたのでした。 私たち当時の少年は軍歌を応援歌として育ちました。
朝日新聞一九四三年二月二八日の朝刊です。
撃ちてし止まむ 受けて見よこの手榴弾
米英撃破の突撃路はいま開かれようとしている。彼らが呼号する鉄と火薬の防御陣がいかに固く長くともわれは征く。鉄火の嵐を衝いて、皇軍勇士は断じてゆくのだ!!幾たりかの戦友が倒れて行った。〃大元帥陛下万歳〃を奉唱して笑いながら死んでいった……。今こそ受けよ、この恨み、この肉弾!この一塊、この一塊の手榴弾に、戦友のそして一億の恨みがこもっているのだ。敵の生肝を、この口で、この爪で、挟ってやるのだ!広×数万キロの戦線に、総進撃の喚声が、怒濤のようにどよもし、どよもす。数万の屍を踏み越えて、皇軍勇士は突撃する。ユニオン・ジャックと星条旗を足下に蹂躙して、進む突撃路はロンドンへワシントンへ続いているのだ……烈火の戦場精神は凝って百畳敷の大写真となった。別項社告のように、東京および大阪の三箇所に掲揚して「撃ちてし止まむ」の精神を呼びかけるのである。
四三年三月五日、鉄兜の日本軍兵士が手榴弾を投げようとする瞬間の写真ポスター、朝日新聞企画で、35枚の印画紙、100畳敷が東京有楽町の日劇(現マリオン)正面に掲げられ、三月一〇日の陸軍記念日には、その前で陸軍軍楽隊による演奏が行われました。
銀座四丁目の服部時計の建物にも、撃ちてし止まむのスローガンの同じ写真の大きなポスターが貼られました。銀座四丁目の四つ角の歩道には、米国、英国、オランダ、中国、四カ国の国旗が描かれていました。私たち中学生は、学校の終業後、みんなで連れ立ってその国旗を踏みにじりに行きました。憎らしげに踏みにじり、銀座四丁目の四つ角を何度も何度も回ったのでした。
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