tag:blogger.com,1999:blog-33679740420979169442023-11-16T04:20:23.147+09:00少年兵兄弟の無念15歳で少年兵として陸軍特別幹部候補生に志願した私が、戦後65年経った今、その無念を綴ります。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.comBlogger55125tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-72078634951627228692011-06-20T14:46:00.003+09:002011-06-20T15:04:50.640+09:00いつか来た道 日の丸・君が代の強制いつか来た道<br /> 日の丸・君が代の強制<br /> 猪熊 得郎<br /><br /> 学校での日の丸・君が代の強制が強まっている。私には日の丸・君が代に鍛えられ、十五歳で少年兵を志願した戦中の少年時代の思い出が蘇ってくる。 <br /> 戦前・戦中、四大節には各戸に日の丸の旗が掲げられた。四大節とは四方拝、紀元節、天長節、明治節である。<br /> <br /> 四方拝とは 一月一日の早朝に行われる皇室祭祀であり、神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方の神々を拝礼する。紀元節は、一八七二年(明治五)日本書紀の伝える神武天皇即位の日に基づいて制定された祝日で、二月十一日。一九四八年(昭和二三)廃止されたが、一九六一年(昭和四一)から「建国記念の日」として復活し、国民の祝日となった。天長節とは「天長地久」から天皇誕生日を祝った祝日であり、明治節とは明治天皇の誕生日に当たる十一月三日であった。<br /><br /> 一九四一年四月に小学校は国民学校となったが「国民学校令施行規則」には、四大節のセレモニーには、次のように定めらていた。(それ以前に行われていたものを集大成規制化したものであろう。)<br /><br /> 第四十七条 紀元節、天長節、明治節、及一月一日に於いては職員及児童学校に参集して左の式を行うべし<br /><br /> 一 職員及び児童「君が代」を合唱す<br /><br /> 二 職員及児童は<br /> 天皇陛下 <br /> 皇后陛下の <br /> 御影に対し奉り最敬礼を行う<br /><br /> 三 学校長は教育に関する勅語を奉読す<br /><br /> 四 学校長は教育に関する勅語に基づき誓旨のあるところを誨告(かいこく)す<br /><br /> 五 職員及児童はその祝日に相当する唱歌を合唱す<br /> (注 君が代・紀元節・天長節・明治節・一月一日・勅語奉答歌・昭憲皇太后御歌・明治天皇御製な ど)<br /> 後略 <br /><br /> 一九四一年文部省が制定した「礼法要綱」を基にした「文部省制定 昭和の国民礼法」によればこれらのセレモニーは更に次のように規定されていた。<br /><br /> 一 祝祭日には、国旗を掲げ、宮城を遙拝し、祝賀、敬粛の誠を表す。<br /><br /> 二 紀元節・天長節・明治節及び一月一日における学校の儀式は次の順序・方式による。<br /><br /> 天皇陛下・皇后陛下の御写真の覆いを撤する。<br /> この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表す。<br /> 次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に対し奉り最敬礼を行う。<br /> 次に国歌をうたう<br /> 次に学校長教育に関する勅語を奉読する。<br /> 参列者は奉読の始まると同時に上体を前に傾けて拝聴し、奉読の終わったとき、敬礼して徐に元の姿勢 に復する。<br /> 次に学校長訓話を行う。<br /> 次に当日の儀式用唱歌をうたう。<br /> 次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に覆いをする。<br /> この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表する。<br /> 以下略<br /> <br /> 【注意】<br /> 一、天皇陛下のお写真を式場の正面の正中に、皇后陛下のお写真は、天皇陛下のお写真の左(拝して 右)に奉戴する。<br /> 明治節の時には、明治天皇のお写真は天皇陛下の右(拝して左)に奉戴する。<br /><br /> 二、勅語読本は箱より出し、小蓋または台に載せて式場の上座に置くを例とする。<br /><br /> 三、勅語奉読に当たっては、奉読者は特に容儀・服装に注意し、予め手を清める。(フロックコート、 モーニングコート、及び和服の場合は手袋は着用しない。)<br /> 謄本は丁寧慎重に取り扱い、奉読の前後に押し頂く。<br /><br /> 四、勅語奉答の歌をうたう場合は、学校長訓話の前にする。<br /><br /> 五、勅語奉読・訓話等は、御写真を奉掲する場合は御前を避け、しからざる場合は正面の中央で行う。<br /><br /> 六、皇后陛下御誕辰・皇太后陛下御誕辰を賀し奉る儀式を行う場合には、凡そ祝日における儀式に準じ て順序・方式を定める。<br /> 遙拝式・勅語奉読式・入学式・卒業式又は記念式等学校に於ける諸儀式に就いても亦同じ。<br /> 七、学校以外の団体の行事は、適宜前各項に準じて行う。<br /><br /> 大分引用が長くなったが、六〇代後半以降の方は彷彿として戦前の四大節セレモニーを思い起こされたでし ょう。今日思えば馬鹿馬鹿しく仰々しい行事が、日本中で、「大まじめに」執り行われていたのである。<br /> 今日の日の丸・君が代の強制を見ていると、新しい装いで、どこまでこのような方向に近づくことかを危惧 せざるを得ない状況である。<br /><br /> そしてまた、このセレモニーのメインはまさに「教育勅語」の奉読であった<br /> 「勅語」とは「大辞林」によれば、「1天子の言葉。みことのり。2旧憲法下、天皇が直接に国民に下賜す るという形で発した意思表示」とあるが、天皇については、旧憲法では次のように規定している。<br /><br /> 第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す<br /> 第三条 天皇は陸海軍を統帥す<br /> 第十一条 天皇は陸海軍を統率す <br /> 第十二条 天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む<br /> 第十三条 天皇は戦いを宣し和を講じ及諸般の条約を締結す<br /><br /> まさに天皇は絶対的権力を持って国民の上に君臨し、日本の運命と国民の生殺与奪の権能を持った存在で あっり、教育に関する勅語「教育勅語」は、国民を、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運 を扶翼」する「忠良な臣民」に仕立てるための、大日本帝国の教育の国是であった。<br /><br /> 一八七九年(明治一二)の「教学大旨」には次のように書いてある。<br /> 仁義忠孝の心は、人みな、これ有り。しかれども、その幼少のはじめに、その脳髄に感覚せしめて、培養す るにあらざれば、他のもの事、すでに耳に入り先入主となるときは、のちいかんともなすべからず。故に、 当世小学校に絵図のもうけあるに準じ、古今の忠臣・義士・孝子・節婦の・画像・写真を掲げ、幼年生入校 の始めに先ずこの画像を示し、その行事の概略を説諭し、忠孝の大義を脳髄に感覚せしめんことを要す。し かるのちに、諸物の名状を知らしむれば、後来(将来)忠孝の性に養成し、博物の学(理科)において、本 末を誤ること無かるべし。<br /><br /> この伝統的君が代・日の丸付けの教育の中で、私たち当時の少年は、日出る国の天子の下「八紘一宇」 「大東亜共栄圏の確立」「国のため」、戦場に赴くことが祖国愛に充ち満ちた、男子本懐の道と信じる民草 に育てられていった。<br /><br /> 四二万の少年兵が、親たちの反対を押し切って一五年戦争に参加した。<br /> 四七年一二月、一九歳で私はシベリアから復員した。<br /> 旧制中学三年を終え少年兵の道に歩んだ私は、復学を希望して母校を訪ねた。<br /> 応接したのは、当時教頭で、私たちを熱烈に送り出し、戦後、校長になった教師であった。<br /><br /> 同級生は学徒動員で四年当時何も勉強をしていないが、戦時中の繰り上げにより四年で卒業した。君にも、 四年修了の免状をやるからどこか他所へ行ってくれ。シベリア帰りとは言わない方が良いよ。<br /><br /> 私と同じように特幹、予科練など少年兵を志願したクラスメートたちの消息を聞いた。万歳、万歳、母校の 名誉と送り出した彼は、戦後の混乱で、彼らの消息は分からない、どうしていますかね…。それが彼の答え であった。<br /> <br /> 今、君が代・日の丸を強制している人たちは、いったいその結果にどこまで責任を取るのだろうか。た だ、野となれ山となれしか考えていないのであろうか。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com4tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-57176639967869434822011-05-26T13:35:00.001+09:002011-05-26T13:40:06.730+09:00兄と弟 二人の少年兵 兄と弟<br /> 二人の少年兵<br /> 猪 熊 得 郎<br /> (「不戦」2000年2月121号)<br /><br />一九四三年冬<br />二つ上の兄は<br />「国難ここにみる」と「元寇の歌」を歌って<br />「予科練」を志願した。 <br />十五歳の弟も<br />必死で父を説得した。<br /><br />「アッツもタラワも<br /> そしてマキンも<br /> みんな玉砕だ。<br /> 今行かなければ<br /> 大変なことになる。」 <br />「特幹」を志願する。<br /><br />「日の丸」の金縁の額と<br />白馬に跨った「大元帥陛下」の写真が<br />父と子を見下ろしていた。<br />三日後、とうとう父は諦めた。<br /> 「行きなさい、<br /> でも、生命(いのち)は大切にな」。<br /><br />一九四四年夏<br />「日の丸・君が代」に育てられ<br />「日の丸・君が代」に鍛えられた<br />兄と弟は<br />水戸陸軍航空通信学校の営門で<br />最後の別れをした。<br /><br />陸軍特別幹部候補生<br />陸軍一等兵の弟は<br />十五歳十一ヶ月<br />海軍飛行予科練習生<br />海軍飛行兵長の兄は<br />十八歳五ヶ月<br /><br />二人の父は<br />いつまでも敬礼し見つめ合う息子たちを<br />黙ってじっと見つめていた。<br />「日の丸・君が代」に育てられ<br />「日の丸・君が代」に鍛えられた息子たちと<br />父はもう会うことが出来なかった。<br /><br />兄は数日後<br />土浦海軍航空隊から<br />特攻隊員として<br />瀬戸内海大津島(おおづしま)の <br />人間魚雷「回天」基地に<br />旅だって行った。<br /><br />一九四五年早春<br />兄は沖縄に向かった。<br />回天特攻隊を乗せた輸送艦は<br />待ちかまえた<br />アメリカ潜水艦の雷撃で沈没<br />回天もろとも、全員戦死した。<br /><br />一九四五年夏<br />弟は旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。<br />「日の丸と君が代」の下<br />死ぬことを教えた<br />高級将校たちは<br />いち早く日本へ飛び去った。<br /><br />脱走、略奪、殺し合い、<br />混乱の中で戦友は<br /> 「天皇のため、祖国再建のため<br /> 歩いて日本に帰るのだ」 <br />そう云って飛行場を離れた<br />彼らは未だ還っていない。 <br /><br />天皇の兵士たちは<br />シベリアへ送られ<br />飢えと寒さと重労働に<br />次々と倒れ<br />六万人が零下三〇度の異国に葬られ<br />祖国の土を踏むことがなかった。<br /><br /> 「皇居遙拝<br /> 将校を父と思え<br /> 下士官を兄と思え<br /> 天皇のため苦しみに耐えよ」 <br />今日も戦友が死んだ。<br />「みそ汁が飲みたい。お母さん。」<br /><br />一九四七年冬<br />弟は祖国の土を踏んだ。<br />故郷は東京大空襲で跡形もなく<br />水戸で別れた父も兄ももういなかった。<br />そして云われた。<br />「シベリア帰りとは云うなよ」<br /><br />生きるため国土復興のため<br />一生懸命働いた弟が<br />やがてお年寄りと呼ばれる頃<br />高齢者が多いから国が貧しい<br />福祉・医療費の切り下げ切り捨て。<br />「老人は 死んで下さい 国のため」<br /><br />「日の丸・君が代」が<br />我がもの顔に嘯(うそぶ)いている。<br />「日の丸・君が代」に育てられた君たちよ<br />「日の丸・君が代」のため今度こそ死んだらどうだ。<br />初心忘れるな。<br />それが愛国心。<br /><br />冗談じゃあない<br />「日の丸・君が代」に育てられ<br />「日の丸・君が代」で鍛えられ<br />地獄の入り口を<br />はいまわった俺たち。<br /><br />そう簡単に死んでたまるか。<br />俺たちは侵略戦争に<br />青春を捧げた生証人。<br />生きること、語ること、<br />それが、それこそが<br />「日の丸・君が代」と俺達の闘いだ。<br /> <br /> おわり猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-71800990880317731052010-07-30T22:14:00.002+09:002010-07-30T22:26:56.150+09:00帝国陸海軍の少年兵4海 軍 の少年兵 1<br /><br /> 海軍飛行予科練習生(予科練―少兵の代名詞)<br /><br /> 1930年(昭和5年)6月、前年末の海軍省令第11号による海軍志願令規則の改正により、横須賀海軍航空隊に、「予科練習部」が出来たのが始りである。<br /><br /> 創設時は15歳から17歳を対象として、修業年限は3年、全国5千9百余名の志願者から79名が一期生とて入隊した。<br /><br /> その後当初から採用時高等小学校2年卒業程度のものを乙種とし、中学4年1学期終了程度(創設当初)のもので修業年限を短くしたものを甲種とした。<br />[表1]<br /> (表1) 予科練・入隊者・戦没者数<br /><br /> 創設 入隊者数 戦没者数<br />乙 種 1930年 87550 4900<br />甲 種 1937年 139720 6778<br />丙 種 1940年 7298 5509 <br />乙 特 1943年 6715 1348 <br />合 計 241238 62635<br /><br />乙種<br /><br />予科練は、将来の航空特務士官を養成するための制度であり、それに必要な高度の知識と特殊な技能、指揮能力を持った人材の養成を目的にしたものであった。<br /><br />第1期生から第7期生までが「予科練習生」と呼ばれ、その後、「乙種飛行予科練習生」と変更になった。<br />1期から7期までの入隊が合計1105名、そのうち717名が戦死、戦没率68.9%であった。<br /><br />甲種<br /><br />1年に200名足らずの入隊、訓練で、3年間も掛けて養成する「予科練習生」の制度では、どう考えても航空戦力充実の要請に応えることが出来ない。それで予科練習生の教育機関を短くする制度が考えられた。<br /><br />採用の学力を高くし、学力を(旧姓)中学4年1学期終了程度とし、修業年限を半減させた「甲種飛行予科練習生」を発足させ、従来の制度の8期生からを「乙種飛行予科練習生」とした。<br /><br />甲種飛行予科練習生は、1937(昭12)年9月1日、2874名から選ばれた250名が第1期生として入隊した。<br /><br />丙種<br /><br />日本海軍が,士官を中心とした操縦講習員の養成を始めたのは、1926(大正元)年であった。これまであった、「操縦練習生」「偵察練習生」などを一本化して、1940(昭15)年10月、「丙種飛行予科練習生」が生まれた。<br /><br />「丙種飛行予科練習生」は、既に海軍軍人としての勤務実績を持つ人々を、他の各科から選抜して搭乗員として養成しようとするものであった。<br />予科練としての就業期間は極めて短く6ヶ月と定められたが、実際には、1ヶ月から4ヶ月で卒業したものも多い。<br /><br />1940(昭15)年10月1日に第1期生が入隊して、この期が閉じられる1943(昭18)年3月31日までに、7732名が入隊して、戦没者5905名、戦没率71%である。<br /><br />特乙<br /><br />米軍の大反攻作戦によって、日本の航空作戦は逼迫し、1942(昭17)年度に乙種飛行予科練習生の第二次試験に合格したままになっていた者から、年齢16歳6ヶ月以上で短期教育に適する者を特乙として採用した。<br /><br />特乙は、1943(昭18)年、第1期生1585名が岩国空に入隊してから、1944(昭19)年10月1日、第10期生が高野山空に入隊するまでの間、合計6845名が採用され,1348名が戦没、戦没率は約20%である。<br /><br />甲、乙、丙<br /><br />夢多き、純真な少年兵制度に、甲、乙、丙などの名称を着けるなどの無理解、無頓着、無粋で、無神経な呼称は、やがて練習生相互の間に、反目と対立を生むこととなった。<br /><br />戦前の小学校成績表、いわゆる「通信簿」の成績評価は甲、乙、丙の三段階絶対評価であった。甲、乙、丙は当時の人々にとって、歴然たる評価の基準であった。<br /><br />乙種にすれば収まらない。後から出来た制度が甲種。しかも1年も先に入隊して猛訓練に耐えている。ところが後から来て、青白いのが、階級も、数ヶ月もすれば追い抜いて行く。我慢がならない。甲乙が混在した航空隊では衝突が絶えない。すれ違えば部隊ごとの殴り合いである。<br /><br />1944(昭和19)年3月には、ついに、三重航空隊の甲種は土浦航空隊に移動。土浦航空隊の乙種は三重航空隊に移動した。それ以後、土浦航空隊は甲種予科練、三重航空隊は乙種予科練の教育訓練の場となった程である。<br /><br />七つボタンの誕生<br /><br />1937(昭和12)年に甲飛の制度が出来たのであるが、当初、海軍は、この制度を海軍士官養成の海軍兵学校に準じるような制度であるように宣伝して中学生を募集していた。<br /><br />入隊して「ジョンベラ」の水平服を着せられた初期の甲飛生の不平、不満、屈辱感は燃え上がった。<br />第3期生の中には、「水兵服」を恥じ、屈辱感から、折角の休暇に故郷に帰らぬ者も出た。<br /><br />「われわれは軍人として入籍した以上帰ることはできない。しかし後輩が甲飛に来ることは阻止しなければならない」と出身中学へ甲飛受験を止めるように指示する文書を送る動きが出始めたのである。<br /><br />おどろいた当局は厳重な調査をしたが、3期生の団結は固く、「修正」の名をかりた暴力の制裁にも屈せず、ついに煽動者を見つけ出すことが出来なかった。当局は懐柔ににあたることになった。<br /><br />甲種予科練3期生は、将来の処遇、現在の教育内容の改善、七つボタンに短剣やウイングマークをつけた制服などの要求を提出した。<br /><br />この結果、服装面では短剣が割引されて、1942(昭17)年11月1日に「七つボタン」の制服が誕生して、甲飛は第8期生からこれを着用するようになった。<br /> これが予科練の代名詞ともある七つボタン誕生のいきさつである。<br /><br /> 搭乗員の消耗の激しくなった1943(昭18)年以後は大量採用が行われ、終戦までの僅か2年半で20万4千名が採用された。(表2)<br /><br /><br /> (表2) 予科練43年以降の採用数<br /> 甲種 乙種 計<br /> 1943年 7310 31203 38513<br /> 1944年 33140 78027 11167<br /> 1945年 29280 25035 54315<br /> 合計 69730 134263 203995<br /><br /> 海軍航空特攻(神風特攻隊)2225名のうち予科練は1728名(68%)。 桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)震洋(ベニヤ製水上特攻艇)、海竜(中有翼小型潜行艇)、蛟竜(水中特攻)伏龍(人間機雷)、土竜(もぐら特攻)神竜(滑空特攻機)等の特攻は全て予科練を主力として編成された。<br />(予科練と特攻については後述する)<br /><br />燃料不足、機材不足、戰況逼迫のため搭乗員教育は45(昭20)年1月1日で中止。予科練教育は45(昭20)年6月で中止。以後本土決戦を前にして、予科練教育末程了者は基地整備、修了者は総員特攻、水上水中特攻要員とされた。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-52485637360101305662010-07-28T11:38:00.002+09:002010-07-28T11:43:10.319+09:00帝国陸海軍の少年兵3帝国陸海軍の少年兵3<br /><br /> 少年兵制度の誕生<br /><br /> 『大空への憧れと少年兵 <br /> そして軍人に 』<br /><br /> すでに述べたように、足掛け15年にわたるアジア・太平洋戦争の下で、帝国陸海軍の少年兵は42万名を超えたが、それは1930年(昭和5)の海軍飛行予科練習生の創設で始でまった。<br /><br />戦前の横須賀軍港は、大日本帝国海軍のアジア侵略の最大の拠点であったが、同時に「少年兵」の象徴ともいうべき海軍飛行予科練習生「予科練」の誕生の地でもあった。東京湾に接した横須賀市貝山緑地の坂を登ると右に「横須賀航空隊跡地」の碑、左の海を見下ろす林の中に「予科練誕生の地」の碑がある。<br /><br /> 碑には、「……昭和5年6月1日横須賀海軍航空隊の一隅に、海軍少年航空兵の教育機関として、横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し、やがて予科錬と、愛称されるようになった。志願者の年齢は15歳から17歳、修業年数は3ヶ年、……全国5千9百余名の志願者から厳選された79名が第一期生として入隊した。」とある。<br /><br />当時の日本海軍は、ロンドン海軍軍縮条約(1930)によって軍備の拡張を制限され艦艇建造に技術力を結集する一方、条約に拘束されない航空軍備の拡充に力を入れ始めていた。また1929年10月には、ニューヨーク・ウォール街での株式の大暴落から経済恐慌が世界を駆け巡った。東京帝国大学卒業生の就職率でさえ30パーセントという就職難の時代である。<br /><br /> 海軍は経済的な理由で進学できない少年に目をつけ、優秀な人材を確保するために1930年、予科練を発足させた。少年たちは、軍人になるということよりも、「公費」で大空に羽ばたくことができるという夢を膨らませ、希望に燃えて志願をしたのだった。<br /><br /> 予科練第一期の採用試験には、大空への憧れを抱く若者たちが殺到し、志願者は実に5807名にも及んだ。そのうち合格者はわずかに79名、実に73.5倍の倍率であった。ちなみに1934年2月の陸軍少年飛行兵第1期生170名採用の倍率は約30倍でった。<br /><br /> 大日本帝国海軍最大の根拠地横須賀は、少年兵の養成に絶好の環境にあった。軍人になるということよりも「大空に憧れて」集まってきた少年兵が目にしたのは、沖に停泊した航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など軍艦の「勇姿」だ。また航空隊の隊内の海岸沿いには格納庫がならび戦闘機、偵察機、複葉練習機など様々な飛行機が翼を休め、いっそうの「夢」をかきたてた。<br /><br />そして「大空への夢」で胸をときめかした少年たちもやがて軍隊の実態を知り、「空を飛ぶこと」が帝国軍人として「戦場に赴くこと」と肝に銘じるようになっていくのであった。<br /><br /> この間の事情につて下平忠彦氏は次のうに述べいる。(海の若鷲「予科練の徹底徹研究」―光人社)<br /> <br /> 「夢多き少年期の者が、当時大空にあこがれを持つのはきわて自然のことであった。そして、実にその要求を満たしうる〝少年兵募集〟ポスターを目にしたとき、矢も盾もたまらぬ気持ちになるのもまた当然のことである。<br /><br /> しかし、少年航空兵を志願するとうことは、軍人になるということであるくらいは頭の中ではわかっていても、軍人や軍隊がいかなるものであるのか、その実態についてはほとんど理解していなかったといって良い。入隊して軍隊の実態に触れて、とまどった者も多かったと思う。<br /><br /> それでも、大空への夢の大きさに比べれば、厳格な規律も訓練の辛さも物の数ではなかった。一年たち二年たち、大空への夢を実現させる前に、すでに一角(ひとかど)の軍人としてまず成長するのでる。それが大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)開戦前に志願した少年たちの大方であった。」<br /><br />そうして、この1期生79名のうち49名が戦没したのであった。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-82963525082588669492010-07-27T20:49:00.002+09:002010-07-27T20:51:50.762+09:00帝国陸海軍の少年兵2 「帝国陸海軍の少年兵」 (2)<br /> 猪熊 得郎 <br />少年兵42万以上<br /> 先のアジア・太平洋戦争では、教育の可能性に富み、心身ともに柔軟<br />で、五感も鋭敏な少年時代から教育訓練をして、近現代戦の戦力を充実<br />させ、さらには急速に大量動員して戦力を補充するため、日本帝国陸海<br />軍は42万名以上の少年兵を動員した。<br /><br />そしてこの内約40万名が米英蘭への開戦以後、とりわけ約30万名は戦局の悪化した1944年(昭和19)以後の採用であり、まさに、航空、水上、水中の特攻補充要員であり、さらにまた、国体護持のための本土決戦要員として準備されていたのである。<br /><br />少年兵とは何か。<br />○ 徴兵適齢期以前、14歳~19歳の少年を対象として志願による採用。<br />○ 短期間での下級幹部(下士官)の養成。 大量充足を目的とする。<br />○ 陸軍士官学校、幼年学校、海軍兵学校、 海軍機関学校等は、帝国陸 海軍中核幹部の職業軍人を養成するもの であり、 徴兵適齢期 以前の入隊であるが、当然、「少年兵」ではない。<br />○1930年(昭和8)の予科練創設以来約42万人以上の少年兵がアジア ・太平洋戦争に参加した。<br />○1942年(昭和17)頃以前の少年兵(予科練)の戦没率は60%以上 であり、それ以後の少年兵の戦没率 は大きく減少するが、その多く は本土防衛要員としての配置、あるいは特攻隊要員としての訓練中に 敗戦を迎えた。<br /> <br /><br /> 少年兵の概略は次の通りであるが、それぞれについての詳細は後述する。<br /> <br /> 名称 創設 採用数 <br />海軍飛行予科練習生(予科練) 1930年6月 241283 名 <br /> 予科練は少年兵の代名詞であり、「七つ釦は桜に碇」の歌とともに少年たちの憧れの的であった。<br /><br /> 15~19歳、甲種中三,乙種高小二年卒程度の学力対象。<br />海軍特攻【神風特攻隊】2525名のうち予科練は1728名ー68%<br />桜花、回天、震洋、海竜、蛟竜、伏龍、土竜、神竜等の特攻はすべて予科練を中心に編成されていた。<br /> <br /> 創設 採用数 <br />海軍特別年少兵 (特年兵) 1942年9月 18160名<br /> 映画「男たちの大和」に出てくる年齢十四歳以上十六歳未満を対象、<br />この制度が出来た頃から少年の陸海軍への青田刈り競争が激しくなり、<br />陸軍に対する秘密保持上ごく限られた関係者にしかこの制度は知られていなかった。約5千名が戦死。戦艦武蔵、大和などにも多数乗艦していた。<br /> 創設 採用数 <br />海軍特別幹部練習生 1945年5月 15540名 <br /> 飛行機もなく予科練募集中止の後、少年兵確保のため創設、主として<br />人間機雷伏龍特攻要員としての訓練中に敗戦を迎える。短期間で敗戦のため詳細不明。城山三郎も入隊。<br /><br /> 創設 採用数<br />陸軍少年通信兵 1933年12月 586名 <br /> 陸軍最初の少年兵、師団・航空・戦車・固定・船舶・船舶固定・特殊<br />情報<br /><br /> 創設 採用数<br />陸軍少年飛行兵 1934年2月 58460名<br /> 映画「ホタル」や「月光の夏」に出てくる少年兵。<br /> 陸軍航空の中核。 操縦、通信、整備<br /><br /> 創設 採用数<br />陸軍少年戦車兵 1939年12月 3780名 <br /> 陸軍地上部隊の中で花形的存在。ノモンハン事件で日本軍が、<br /> ソ連の戦車を中心とする機工兵団により壊滅的打撃を受けた<br /> ことを背景として創設。 <br /> <br /> 創設 採用数<br />陸軍少年工科兵 1940年12月 5955名 <br /> 火工科、技工科、銃工科、鍛工科、木工科、機工科、 電工科、火薬、皮革具、銃、軍刀、火砲、木工測量、<br /> 発動機、電機通信機器<br /><br /> 創設 採用数<br />陸軍少年野砲兵 1942年12月 610名<br /> 主としてサイパン、ビルマ、フイリッピンの各戦線に配置<br /> された。<br /><br /> 創設 採用数<br />陸軍少年重砲兵 1942年12月 615名<br /> 14歳~18歳。主として水中聴測要員として養成、要塞、<br /> 船舶情報連隊に配置。<br /><br /> 創設 採用数<br />陸軍少年高射兵 1942年12月約 1400名<br /> 測高、聴測、電測が重視される中で創設、十八歳未満、学歴不問<br /><br /> 創設 採用数<br />陸軍特別幹部候補生 (特幹) 1944年4月 約8万名以上 <br /> 軍部の書類焼却で正確な数字は不明・米軍の反抗による戦局の<br /> 急迫、大量の下級技術系幹部の充足、海軍の予科練大量募集に対 抗して創設、十五歳~十九歳中学三年.二学期終了程度の学力。<br /> 一期航空、船舶。二~四期航空、船舶、鉄道、技術、通信、戦車、高射、<br /> 重砲、山砲。船舶特幹一期フイリッピン戦線参加1190名 <br /> 戦死953名 沖縄戦参加340 名、戦死123名 <br /><br /> 少年兵合計42万名以上 以上<br /><br />どのくらいの少年が戦場に赴いたのか。<br /><br />同時代の少年の中での比率はどうなのであろうか。<br /><br />残念ながら、人口1億人(当時日本の植民地であった朝鮮、台湾を含む)<br />の戦争中の統計が手元にない。資料をお持ちの方がいれば幸いである。<br /><br />文部科学省の学校基本調査平成21年度の数字がある。 <br /><br /><br /> 男子 1学年 610892人<br /> 2学年 600835人<br /> 3学年 627412人 男子合計1839139人<br /><br />男子中学生の約23パーセントが少年兵を志願したことになる。<br /><br />しかも、42万のうち、2万5千が、1941年12月の米、英、蘭への開戦以前で、それ以後が約40万。さらにそのうち30万が戦局の悪化した1944年以降の採用であった。<br /><br />仮定の数字だが、44年45年の2年間弱で、中学2年、3年120万人から30万人、つまり4人に1人が戦場へという数字になる程の規模で少年が戦場に送られたと言うことになる。<br /><br />実際は、約5歳の幅で少年兵の対象となるのだが、それにしても戦局の悪化の中で、「仕方なしに」ではなく、「自発的意志」で、家族の反対を押し切り、志願をして、消耗品として戦場に送り出された少年兵がこれだけの数になると言うことは、当時の軍国主義教育と軍国主義的社会環境の恐ろしさを示すものである。<br /><br />しかも、このような少年兵についての問題が、語り継ぐことから欠落し、忘れ去られようとしていることは大変残念なことである。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-81849435107041783542010-07-25T12:42:00.003+09:002010-07-25T13:00:25.037+09:00帝国陸海軍の少年兵1「帝国陸海軍の少年兵」 (1)<br /> 猪熊得郎<br />はじめに<br /><br /> 序に代えてジャーナリスト増田れい子さんのエッセイを紹介します。<br /> なお、自衛隊の少年兵についついては、制度の変更もあり、現在の状況について、この連載の最後に掲載致します。<br /><br />風紋<br />言い残しておきたいこと<br />ジャーナリスト 増田れい子<br />……………………………<br /> ◇ ◇<br /> 59年前に戦場で、ヒロシマ、ナガサキ、また<br />沖縄本島、主要各都市を中心に三一〇万人のナマ身の人間が、あるいは爆死しあるいは飢えあるいは差し違えて死に果てた末、戦果は止んだ。<br /><br /> 戦場となったアジアの各地での非業の死者は、二〇〇〇万人を数える。<br /> もう少し戦争が長引いていたら、死者の数はもちろんさらに増えていたであろう。かくいう私自身も空襲か飢餓で、命を失っていたに違いない。敗戦時、私は16歳だった。 <br /><br /> 実は、この年齢で戦場に身をおいていた、いわゆる少年兵は決して少なくない。戦争末期海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に何と42万人もの少年が志願している。彼らはのちに特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装をほどこした水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力とされた。<br /><br /> 猪熊得郎さんはその少年兵の生き残りで、少年兵を通して日本の侵略戦争をはじめ平和について、憲法について考え発言を続けているひとりである。<br /><br /> 猪熊さんは、父の反対を押し切って一九四四年、<br />15歳で志願して陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊、水戸東飛行場に勤務(その間、米軍の艦載機による攻撃で11名の同期生を失う)、のち満州に送られ敗戦、17歳でソ連の捕虜となりシベリア抑留。ダモイ(帰還)したのは47年末、19歳のときだった。<br /> <br /> ダモイしてみると東京の家は空襲であとかたもなく、父はすでに亡く、2歳上で少年兵だった兄房蔵さんも戦死していた。房蔵さんは人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員(海軍2等飛行兵曹)として沖縄へ向け出撃、45年3月18日沖縄本島近くの粟国島北北西5㌔付近で米艦からの雷撃によって乗艦(第18号1等輸送艦)が沈没、回天もろとも青い海に果てた。時に18歳。<br /><br /> 実は兄戦死の正確な場所、日時をたしかめるまで得郎さんは何と50年をこえる歳月を費やしている。 <br /><br /> 国の記録が杜撰であり、度重なる調査依頼にも有効な回答が得られなかったこと、戦死者が多く有力な証言が少なかったことがその主な理由だが、得郎さんはあきらめなかった。<br /><br /> いや、あきらめることは不可能だった。自分も含めて、いったいあの志願は何であったのか戦争をはじめた国家とはいったい何なのか、考えれば考えるほど疑問がつのったからである。<br /> <br /> ◇ ◇<br /> 房蔵さんは2首の遺詠をしたためていた。<br /><br /> 益良夫の後見む心次々に<br /> うけつぎ来たりて<br /> 我もまた征く<br /> <br /> 身は一つ千々に砕きて醜千人<br /> 殺し殺すも<br /> なほあき足らじ<br /><br /> 得郎さんはある雑誌にこう書いている。<br /> 「小学1年の教科書から〃ススメ、ススメ、ヘイタイススメ〃と学び、〃ボクは軍人大好きよ〃と歌い、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸躍らせ、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと心から信じる少年に育てあげられた。<br /><br />(中略)私たち当時の少年は、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。そしてその戦争が〃大東亜戦争〃の美名の下、他国を侵略し、他国の民族を支配し、抑圧する戦争だったのだ。<br /><br />しかも少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び〃戦争をする国〃にしようとしている」<br /><br /> そうして、私もつい見落としていたのだが、実は少年兵はいまも再生産されている。少年自衛官とも言うべき陸海空「自衛隊生徒」(15歳以上17歳未満の中学卒業者から選ぶ)が毎年採用されている。平成15年度の合格者は六四六名(昨年度採用は四一一名)で増加傾向にある。<br /><br /> 応募者はここ数年1万人をこえ倍率は30倍に迫る。選択の自由はある。だが、同時に一人として戦場で死なせないための、戦争国家をつくらない選択の自由もあることをこの際明確にしておきたい。<br /> (国公労調査時報2004年9月号より)<br /><br /> つづく猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-54910449593843827782010-07-12T09:25:00.001+09:002010-07-12T09:27:35.648+09:007月7日盧溝橋事件猪熊です。<br /><br />今日は7月7日です。<br />ある国立大学の教授が、毎年新入生にアンケートを行ってきました。<br /><br />問い 次の日はどういう日ですか。<br />① 9月18日 ② 7月7日 ③12月8日 ④8月15日<br /><br />① 9月18日は、近頃はほんの数%、② 7月7日 も20%を切る。<br />③12月8日 も50%を切り ④8月15日 で60%との事でした。<br /><br />近代史教育の欠落ばかりでなく、戦争の記憶の消失に恐ろしくなりました。<br /><br />正しい歴史認識を身につけること。<br /><br />「日本」の戦争を学ぶこと。<br />「日本」の戦争がどうして起こったのか<br />「日本」の戦争はどんな経過をたどったのか。<br />「日本」の戦争で亡くあった310万の人々の想い、悲しみ、苦しみ、怒り、 から、戦争の惨禍と平和の尊さをしっかり学ぶこと。<br />「日本」の戦争で亡くなったアジアの人々、日本軍の侵略に犠牲となった アジアの3千万の人々の悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみをしっか り胸に刻みつけること。<br /><br /> 誠実な反省と謝罪の基礎にこそ、アジアの人々との真の友好と親 善を築く事が出来るのでしょう。真のか懸け橋となることが出来 るのでしょう。<br /><br />9月18日、柳条湖事件、15年戦争の始まり<br /><br />9月18日、足掛け15年にわたる「アジア・太平洋戦争」の始まった日です。<br />1931年9月18日中国東北地方奉天(現瀋陽)近郊柳条湖において、関東軍の手に依って南満州鉄道の線路が爆破されました。(柳条湖事件)<br />関東軍はこの事件を中国軍によるものとして軍事行動を開始し翌32年はじめまでに満州全土を占領しました。そうして、国際連盟からも脱退し、日本の傀儡国家「満州国」を樹立しました。<br /><br />7月7日 盧溝橋事件 日中全面戦争<br /><br />1937年7月7日に北平(ぺいぴん)現在の北京郊外の廬溝橋で日中両軍が衝突するという事件が起こりました。(盧溝橋事件)日本軍は、華北を分離し「第2の満州国」にしようとする野望を背景に、上海占領、南京進撃占領「南京大虐殺事件」の発生と「日中全面戦争」へと発展したのでした。<br /><br />日中戦争の泥沼化・三国同盟・南進政策<br /><br />日中戦争は、中国人民の抵抗によって泥沼化しました。<br />一方ドイツ・イタリアは、ヨーロッパでイギリス・フランス・オランダなどに侵攻し戦線を拡大していました。英・仏・蘭は、東南アジア植民地の宗主国です。英・仏・蘭三国が敗北すれば東南アジアの植民地はすべてドイツのものになっていしまいます。戦後の植民地再分割への発言権を確保することも大きな同期となってドイツとの同盟、日独伊三国同盟が結ばれました。<br /><br />独ソ開戦でアメリカは、英仏などの連合国に参戦しました。ドイツと同盟を結んだ日本は資源獲得のための南進路線を強めました。<br /><br />日本は、南進のためにはアメリカとの戦争も止むなしの決意のもと、南部仏印に進駐を開始しました。これに対しアメリカは日本に対する石油輸出の禁止を決定し、日本軍の中国かあの撤兵を要求しました。<br /><br />12月8日太平洋戦争の開始<br /><br />こうして1941年12月8日、日本軍は米・英に対する戦争を開始しました。シンガポール攻略を目指すマレー半島上陸、中立国タイへの進駐、ハワイ、フイリッピンへの空襲が強行されました。<br /><br />8月15日 敗戦<br /><br />1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏し、戦争が終わったのでした。<br /> 以上猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-21113324536118788002010-07-04T21:47:00.001+09:002010-07-04T21:54:45.614+09:0010年沖縄慰霊の日に寄せて<br />思い付くことあれこれ (1)<br /><br />沖縄慰霊の日は、沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終わった6月23日です。摩文仁の丘にある平和の礎には、朝早くから沖縄本島各地からの人々が、礎に花を供え、亡くなった人を偲び語り合っている。<br /><br />私も、1997年、回天搭乗員として沖縄出撃途中粟国島近海で戦死した、兄房蔵の礎追加刻銘以来、毎年6月23日にここを訪れ、花を捧げ、本島、及び離島での戦没地点調査・探索を1年も欠かさず続けてきた。<br /><br />今年は、残念ながら、体調不安で、また、ここ数年兄の戦没調査探索を支え介助してくれた若い仲間たちが、失業、転職等で来られないと云うことも重なり断念した。<br /><br />来年3月下旬と、6月には、誰か介助の仲間も見つけ、是非訪れる予定である。<br /><br />白龍隊輸送艦沈没地点<br /><br />去年は、2人の若い婦人の仲間に支えられ、慰霊の日の後、粟国島を訪れた。琉球新報の私への取材で、21日には、回天白龍隊の基地が、沖縄に設けられたこと、白龍隊がアメリカ潜水艦の攻撃で全員戦死したことが沖縄で初めて報じられた。続いて24日には、白龍隊と兄の戦没状況調査で私が訪れていることが報じられた。<br /><br />強風のため、粟国島1泊の予定であったが、5時間の滞在であった。<br />那覇南西60キロの粟国島は、3度目であった。強風のため、輸送艦沈没地点の海上での献花は出来なかったが、沈没地点至近の海岸で献花をした。さらに戦後64年ぶりに、ついに輸送艦沈没を目撃した人を発見した。払暁、放牛に出かけ、戦闘状況を目撃したのだった。<br /><br />7年前に2度目にここに来たとき、漁協の協力で遊漁船が海上を案内してくれ、船没地点で献花した。<br />その船長が、800人の島民に、白龍隊船没の話をふれ回った。アメリカ潜水艦の記録で伝えられた戦闘状況であるが、そう言えばあの時目撃したのは、この事だったのかと、今回、初めて日本人の目撃者が出たのである。<br /><br /><br /> さとうきびばたけ<br /><br />沖縄に来たら,是非さとうきび畑に佇み、風に吹かれ、65年前を偲んでもらいたい。<br /><br />さとうきび畑の歌は1964年、作曲家の寺島尚彦が、歌手石井好子の伴奏者として本土復帰前の沖縄を訪問した際、摩文仁の丘を観光して着想した作品である。沖縄戦で亡くなった人々が眠るさとうきび畑をざわわざわわと風の音が流れる。11連11分の歌であるが「ざわわ」が66回繰り返される。<br /><br />初めに森山良子がレコーデングしたが、上条恒彦がレコードデビュー第2作目として1971年にこの曲を出した。上条は新宿の歌声喫茶でアルバイトをしているとき、声が大きいから歌唱指導してみろと歌ったのが、この当時、沖縄返還運動の高まりとともに、歌声運動や、歌声喫茶でこの歌が良く歌われるようになった。<br /><br />ある集会で、いわさきちひろが上条のレコードを見つけた。いわさきちひろは、この頃がんの発症と闘いながら、「戦火のなかの子どもたち」を制作中だった。ちひろは、上条のさとうきび畑を聞きながら、ざわわざわわの風音に、戦火を想い、作品を仕上げたのだった。<br /><br />そのご、しばらく、11連での歌を聴くことがなかった。せいぜい3連か4連に省略して放送されていた、<br />しかし2001年鮫島有美子がこの歌を取り上げた。NHKも鮫島である。11連11分を超えるさとうきび畑が、テレビから流された。鮫島の素晴らしい歌唱力に誰もが心を打たれた。<br /><br />これを機に多くの歌手が歌い、森山良子も11連で歌うことが多くなり、大流行したのだった。<br /><br />今日はこれまで猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-19817843893218636822010-06-30T15:04:00.001+09:002010-06-30T15:13:13.601+09:0009年沖縄慰霊の日09年沖縄慰霊の日<br /> 猪熊得郎<br />6月23日は沖縄慰霊の日です。<br /> 摩文仁平和祈念公園の平和の礎には、今年新たに123人が刻銘され、総数が24万856人となりました。<br /><br />まだ薄暗い朝早くから遺族らが訪れ、平和の礎の名前を指でなぞったり、花を捧げ、手を合わせて、戦没者に語りかけていました。<br /><br />私も18歳で戦死した兄の記銘碑の名前をなぞり、花を捧げ、65年前の別れをを思い起こしました。<br /><br />44年8月の最後の日曜日、水戸の陸軍航空通信学校長岡教育隊の私に、父と兄が面会に来ました。別れの時、営門の前で黙って見つめ合いました。<br /><br />前日、回天特攻隊を志願し採用された17歳の海軍予科練の兄は肘を前に出す海軍式の、15歳の陸軍特幹の弟の私は肘を横に張る陸軍式の敬礼を交わし別れを惜しみました。<br /><br />父は黙って二人の少年兵の息子達を見つめていました。父と三人の最後の別れを思い起こし、碑の兄としばし語り合いました。<br /><br />保存の会沖縄支局宮城さんの紹介で琉球新報本社から取材申し込みがありました。短い応答の後、東京支社の取材、そして沖縄での取材と云うことになりました。<br /><br /><br />琉球新報6月21日の記事です。<br />人間魚雷「回天」輸送艦撃沈 事実、元隊員らが解明<br />〔神奈川〕人間魚雷回天隊員ら352人を乗せた旧日本海軍の第18号輸送艦が1945年3月18日に粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈されて全滅されていた史実が、元回天隊員らの調査で明らかになっていたことが分かった。国の資料で那覇到着直前に「行方不明」とされ、その後「喪失認定」とされた同艦の史実が当事者らの掘り起こしで明らかになった。<br /><br /> 遺族の中には国の戸籍謄本の訂正につなげた人もいる。回天搭乗員だった兄猪熊房蔵さん=当時(18歳)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=は、県内にあったとされる回天基地の所在を探すなど戦後64年を経た今も兄の痕跡を追い続ける。<br /><br /> 第18号輸送艦の軌跡を調査したのは、元回天隊員らでつくる全国回天会長を務めた故小灘利春さんと同会事務局長を努めた河崎春美さん=東京都江東区=ら。米海軍の記録「第二次大戦潜水艦作戦史」などの資料から突き止めた。<br /><br /> 河崎さんらは戦後、輸送艦乗員らの戦死の日や場所などが戸籍謄本などでまちまちなことに疑問を抱き、調査に着手した。「第18号輸送艦の搭乗者は、国の記録では死亡日が違っていたり、沖縄本島の陸上戦に参加していたりと、でたらめだった」と話す。<br /><br /> 米資料によると、第18号輸送艦は45年3月13日に、回天白龍隊員らを乗せ山口県にあった光基地を出港。那覇到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発、1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら225人と、第1回天隊の白龍隊127人が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員127人は、14にんの氏名などが判明している以外は不明のままだ。<br /><br /> 猪熊得郎さんの兄房蔵さんは、26年3月生まれ。44年8月に回天特攻隊に志願。」白龍隊搭乗員として、沖縄に赴く途次で死去した。だが、戦後の厚生省(当時)の記録(公報)や戸籍謄本では「荘河丸」で鹿児島を出発し東シナで死亡したと記録されていた。<br /><br /> 「東シナ海はあるが、東シナなんて場所はない」。得郎さんは、小灘さんや河崎さんらの史実の調査も踏まえ、国に戸籍原本の記録訂正を要求し、2000年3月に実現した。<br /><br /> 「回天の配備作戦は、司令官だけが知る秘密事項だったことが、後の記録が誤った原因の一つなのでしょう。本島中部に造られた回天の基地の所在ですら、今もって分からない」。兄の足跡をたどり何度も沖縄を訪れている得郎さんは今年も房蔵さんが追加刻銘された平和の礎を訪れ、兄を悼む。<br /><br /><br /> 平和の礎の兄の刻銘碑前で23日に現地取材を受けました。<br /> 琉球新報、24日の記事です。<br /> <br />兄の刻銘に決意新た<br /> 猪熊さん 回天隊員の最後調査<br /><br /> 旧日本海軍の大18号輸送艦に搭乗し戦死した人間魚雷・回天隊員の猪熊房蔵さん=当時(18)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=が23日、糸満市の「平和の礎」を訪れた。<br /><br /> 房蔵さんは44年8月に回天特攻隊に志願、白龍隊搭乗員として沖縄に赴く途中、戦死した。房蔵さんは1997年、礎に追加刻銘されたが、具体的な死亡場所や本島中部の回天基地の所在は不明で、房蔵さんの移動経路や任務の詳細も不明のままだ。<br /><br /> 追加刻銘の後、毎年礎を訪れている得郎さんは「わたしも少年兵だったから兄がどんな気持ちで訓練し特攻隊に志願したか分かる。兄は、家族、国のためにと真剣に考えていた」と思いやる。<br /><br />国が輸送艦を事実関係が不明のまま「喪失認定」としていることに対し得郎さんは「いつ、どこで兄が死んだのか分からないと言うのはあんまりだ。弟のわたしが少しでも調査し書き残さないといけない」と決意を新たにしていた。<br /><br /> 第18号輸送艦は米資料で、45年3月18日、粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈され全滅したことが明らかになっている。<br /><br /><br />粟国島へ<br /><br />第18号輸送艦沈没地点の粟国島行きを24日に予定していました。風浪が荒れて1日1便、片道2時間のフエリーは3日間欠航していました。<br />9人乗り1日2便の小型飛行機は今までの運行会社が4月で撤退し、6月から新しい会社で運行が再開されました。<br /><br />フエリー欠航で飛行機に旅客が殺到しました。那覇空港でキャンセル待ちをしたが駄目でした。<br /><br />私の体調を心配して、保存の会の若い女性ボランテイア2人が介添えで同行していました。諦めそうになる私を励ましてくれました。日帰りでもと25日の帰りの飛行便は確保しました。最後まで粘ることにしました。<br /><br />幸い25日にフエリーが出ることになりました。12時粟国港着、1時間停留、13時粟国港発ということでした。<br /><br />帰りの飛行機は運航するということです。12時から5時まで島にいることが出来ます。<br /><br />私は97年にこの島に訪れています。<br />その時は、島の議員も、教育委員会も、一切記録もなく、手がかりは何も得られませんでした。<br /><br />2001年に再びこの島を訪れました。民宿の女主人の努力で、私のために漁協が協議をして1艘の漁船を出してくれました。 <br /><br /> 第18号輸送艦沈没地点の海上で花を捧げることが出来たのです。島のすぐ目の前5キロの地点。しかし岸は断崖絶壁の岩場、1000メートルの海溝。回天隊員や輸送艦乗組員は、恐らく早い潮流に引き戻され、流され、また、鮫に襲われ一人も島にたどり着けなかったのでしょう。<br />現状を実際に見聞し兄や回天隊員の無念を思い知らされました。<br /><br />今回は残念ながら海が荒れて漁船を出すことが出来ません。船長の案内で沈没地点の真正面の海岸を訪れました。水平線の遙か手前、石を投げれば届きそうな場所が兄たちの沈没地点です。<br /><br />用意してきた花束を供え兄たちの無念を思い手を合わせました。 空も海も青く、兄が波の上に顔を出し、「得郎良く来たな」そう云って笑って手を振っているようでした。<br />介添え役の2人もまるで身内のように手を合わせてくれました。<br /><br />船長の話<br />「あの辺は鯛の猟場です。私も海の穏やかな日は、毎日あそこに船を留め一日猟をします。いつもエンジンの音が聞こえました。何処に船がいるのかなと思って見渡しても他の船を見かけませんでした。ところが、前に猪熊さんを案内して、あそこで花を捧げました。それ以来エンジンの音が聞こえなくなりました。弟さんの訪れに兄さんの心が安らぎ、エンジンの音が聞こえなくなったのでしょう」<br /><br />「前回の後、私の話から猪熊さんのこと、輸送艦の沈没のことが島の噂になりました。そうして、そういえばあれはそのことだったのか。明け方、牛の放牧にきた。海で船から火を噴いた。ジグザクに逃げていた。探照灯らしきものを照らしていた。大きな火柱を見た。船が沈むのを見た。」何人かの人から輸送艦沈没の状況を聞くようになったとのことでした。<br /><br />その話は、米側資料の状況を裏付けるものでした。戦後64年目の発見です。<br />再訪までにより詳しい聞き取りをお願いして夕方、島を離れたのでした。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-67116507878657259752010-06-20T18:57:00.001+09:002010-06-20T19:02:30.510+09:00「シベリア特措法」成立に思う」「シベリア特措法」が16日夜成立した。感無量である。<br /><br />舞鶴港に帰国した時、祖国日本の美しさに涙した感激を忘れられない。<br /><br />しかし、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の美名のもと、「聖戦」に命を捧げよと、私たち兵士を送り出した祖国日本の冷酷な仕打ちを、深く胸に刻みつけられた65年であった。<br /><br />地獄の淵を這いずり、やっと祖国に辿り着いたシベリア抑留元兵士たちは、「シベリア帰り」というただそれだけで日本社会から阻害され、職を求め、糧を得るのに必死の十数年であった。<br /><br />私は中学3年15歳で、父の猛烈な反対を押し切り少年兵を志願した。<br />敗戦を関東軍兵士として中国東北部、旧満州、公主嶺飛行場で迎え、ソ連に強制抑留、そして昭和22年12月、シベリアから祖国の土を踏んだのは19歳の年である。<br /><br />私の故郷東京の家は空襲で跡形もなく、私の帰国を誰よりも喜ぶはずの父は、度重なる空襲を生き延びつつも交通事故で前年になくなっていた。<br /><br />2歳上の兄は、人間魚雷回天搭乗員として、沖縄出撃途中戦死、18歳であった。幸い3人の兄姉が肩を寄せ合い私の帰国を喜んでくれた。<br /><br />母校の中学を訪れた。丁度、学制が、6.3.3.4制に変換するときであった。「復学」のためである。新制度の高校1年進学を申し出た。応接したのは校長で、私が少年兵を志願したとき、教頭として激励の挨拶をした。「祖国日本の難局に,学業途中で戦場に赴く、まさに日本男児の鏡、我が校の名誉この上ない」と万歳3唱の音頭を取ったのがこの人であった。<br /><br />懐かしさと期待に胸を膨らませた私に彼はこう言った。<br />「旧制中学4年終了の免状を上げるから他所へ行って下さい。残った君の級友たちも学徒動員で工場で働き勉強などしていなかった。当時の学制で、旧制中学4年終了卒業となったのです」「シベリア帰りとか、元少年兵など云わない方が良いですよ」<br /><br />「生きて還って良かった」などの喜びの言葉など一言もなかった。<br />迷惑げの「厄介払い」に、悲しさと口惜しさで胸は張り裂けるばかりであった。<br />あの時の惨めさ、空しさ、悲しさ、口惜しさは生涯消え去ることはない。<br /><br />15歳から19歳の経歴を作り,職を求め、時には、「経歴詐称」で首切りの口実になる。何のための「青春」だったのだろうか。<br /><br />私の軍人恩給は、「一時恩給」1万2千5百円、1回きり。5年間の軍歴は「公務員」でないから「年金」加算一切なし。そうしてシベリア抑留強制労働の労賃を支払えの要求には、戦後処理は終わったとの政府の対応。この65年でした。<br /><br />日本政府から天皇のため「国体護持」を条件に労働力としてお使い下さいと「棄兵棄民政策」で差し出され、国際法を無視したソ連スターリンによって、不法に「拉致」され、シベリアに抑留された関東軍兵士60万人。<br /><br />零下20~30度の酷寒、薄ぺらな黒パン一切れ、薄味の塩スープの食事の空腹、靴を削りかみしめ耐えた飢え、問答無用、前代未聞の奴隷労働。過酷な条件を加重する旧軍の階級支配の圧政に兵士の命を守るための前期民主運動(昭和22年まで)。階級章を獲ることは、ソ連軍管理の集団組織を破壊するものだとソ連軍からの弾圧、昭和23年頃からのソ連盲従の後期民主運動に日本人同士の対立と抗争。シベリアの凍土の眠る6万人の元兵士たち。<br /><br />給付金は25万円から150万円ということだが、圧倒的部分は35~25万円。青春を奪われた数十ヶ月に比べればほんの僅か。<br /><br />しかし金額の問題ではない。不十分にせよ政府が謝ったのだ。<br /><br /> 私たち抑留者は、長年の間だ、労働の対価が支払われなかったとして、補償を求めてきた。しかし、日本政府はこれまで「戦後処理は終わった」と応じてこなかった。 <br /><br />法案は議員立法。条文に「補償」という文言は盛り込まれなかったが、提案した佐藤泰介・参院総務委員長は国会での趣旨説明で<br /><br />「長期間にわたる強制労働にもかかわらず、その対価が支払われていない。問題解決に長い歳月がかかったことを社会全体として反省し、その労苦を慰謝することが必要だ」と述べ、給付金には補償・謝罪の趣旨が含まれていることを明言した。<br /><br /> のどに刺さった小骨が取れたようだ<br />しかし、課題は多く残っている。<br />シベリア抑留の真相解明だ。何故こんな事が起こったのか。<br />そして、実態を明らかにする。<br />一体何人が抑留され、何人が亡くなったのか。<br />遺骨の収集を早く。<br />韓国、朝鮮、台湾、中国もと抑留者への補償。<br />次世代への継承<br /><br />等々である。<br /><br />私も長生きして、痛苦の体験を語り継ぎ多少とも貢献できればと願っている。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-24865984720771567612010-05-26T15:29:00.003+09:002010-05-26T15:40:49.618+09:00靖国神社雑感4.人間機雷伏龍遊就館には潜水服を着て、棒機雷を突き上げる『伏龍』特攻隊員の模型の像が展示してあります。<br />『伏龍』の訓練基地は、三浦半島の私の家から15分程の野比海岸にありました。夏に三浦海岸で海水浴をされる方も居るでしょう。海に向かって左の方、東京、横浜方面に久里浜東電の煙突と突堤が見えます。その手前左の砂浜、三浦海岸から4~7キロが野比海岸です。<br /><br />予科練.少年兵と特攻兵器<br />「伏龍」.「土龍」.「神龍」三連続作戦<br /> <br />本土決戦に備え「伏龍」、「土龍」、「神龍」、三連続特攻作戦<br /><br /> 1945(昭和20)年、米軍の本土上陸作戦に備えて海軍では水中・水上特攻作戦の部隊の配備と訓練がすすめられていました。米軍の本土上陸の時期は10月ないし11月、予想地点は九州の志布志(しぶし)湾、宮崎海岸、四国の桂浜、関東の九十九里浜、相模湾とされていました。<br /><br /> これに対応し連合軍上陸第一歩を洋上で迎え撃つために編成されたのが、人間魚雷「回天(かいてん)」、水中有翼小型潜航艇「海龍」、水中特攻「蛟龍」(こうりゅう)、水上特攻「震洋」(しんよう)による特攻攻撃戦隊です。<br /><br /> さらに最後の特攻作戦として考え出されたのが「伏龍」、「土龍」、「神龍」の三連続作戦でした。 <br /> そしてこれら特攻部隊の主力はすでに乗るべき飛行機もなくなった十六歳から二十歳前の「予科練」の少年兵たちでした。<br /><br />「人間機雷『伏龍』」<br /><br /> 水際特攻、人間機雷「伏龍」は、簡易潜水服に身をつつんで敵の上陸予想地点の海底に潜み、あらかじめ張りめぐらせた誘導索をたどって敵の停泊した艦船に近づき、あるいは上陸しようと沖から向かって来る敵上陸用舟艇に対して、「棒機雷」を船底めがけて突き上げて、これを爆破、撃沈しようというものでした。<br /><br />伏龍の訓練<br /><br /> 伏龍隊員の主力は飛行予科練習生(少年兵)であり、その指揮官は予備学生出身(学徒兵)の士官でした。飛行兵を志望し、その訓練半ばの少年兵にとって、航空隊から伏龍隊への心の転換は容易でなかったでしょうが、飛行機も少ない、燃料も乏しい戦況下に、心身ともに堅実な飛行予科練習生がその主力隊員として選ばれたのでした。主に甲種予科練14期生、乙種予科練20期生が中心で、後に予科練採用中止に伴って5月に創設されたばかりの海軍特別幹部練習生も、伏龍隊要員に組み込まれ、その中には後の作家城山三郎もいたのでした。<br /><br /> 7月から各地で訓練が開始されました。<br />横須賀鎮守府では、第1特攻戦隊嵐部隊第71突撃隊として、7月上旬以降、順次3ケ大隊約1500名が横須賀の野比、対潜学校、工作学校に集められ、潜水訓練が行われていました。<br /> 久里浜港から三崎に向かって千駄ケ崎のトンネルを出ると野比海岸です。トンネルを出てすぐ右手に大隊本部がありました。<br /> その先の海軍病院(現久里浜アルコール症センター-)から久里浜寄りが第一実習場、三浦寄りが第二実習場。兵舎は病院の先で近くの小学校の分教場(今の横須賀第一老人ホームのところ)の一部も兵舎とされていました。<br /> 最初の十日間程の前期訓練は、久里浜の夫婦橋のたもとから伝馬船式潜水工作船に乗って平作川を下り海に出て右手に曲り、ペリー記念碑(1853年浦賀来航を前に上陸した米特使ペリーの上陸記念碑)沖での潜水訓練でした。<br /><br /> 野比海岸での後期訓練は、導索を使って歩いて海中を潜水する訓練で、なれてくると索なしでの海中歩行訓練が行われていました。 潜水衣を着け、鉛の靴を履き、背中に酸素ボンベと空気清浄罐を背負って海に潜ります。水中では鼻からボンベの酸素を吸い、口から息を吐く。吐き出した炭酸ガスは清浄罐のなかの苛性ソーダに吸収させ循環させるという仕組みです。<br /><br />困難と犠牲<br /><br /> しかしその訓練には多くの困難と犠牲が伴いました。<br /> 伏龍特攻隊の戦闘は、簡易潜水服を身につけ約5メートルの竹竿の先につけた五式撃雷(通称棒機雷)を持った隊員が、海底5~7メートルに潜み、頭上を通過する敵の上陸用舟艇の船底めがけて体当たり攻撃をかけるというものです。<br /><br /> 問題は長時間海底に潜むことです。酸素は呼吸、浮上、水中懸吊に使うので大量に使用します。このため、炭酸ガスの混ざった呼気は口から吐き出し清浄缶を通して苛性ソーダに炭酸ガスを吸収させ、再び吸気として還元使用する仕組みになっていました。<br /> しかし潜水中の鼻から吸い、口から出す呼吸法が難しく、3~4回間違え海中で気を失うこともあり、しばしば事故が起きました。清浄罐の破損や呼吸法を間違えて苛性ソーダ液を飲み込み、口中、食道、胃までただれてしまうのです。<br /><br /> 事故の度に病院から医師が呼ばれてきましたが、訓練も装備も極秘作戦準備中の軍事機密で医師たちは治療法がわからずなすすべもありませんでした。わずか一、二カ月で数十名をこえる犠牲者が出たと言われていますが、正確な実態はわかっていません。真夏の陽光の下で何体もの死体が砂浜に並べられることもあったとのことです。遺体はは戸板にのせ担いで、当時、最宝寺の近くにあった火葬場まで1キロ以上の道を運び、遺骨にしたとのことです。また、8月に久里浜沖で起こった事故では、数体の遺体が見付からず、未だに海中に残されたままです。<br /><br /> 伏龍を配備する地点は、敵の攻撃部隊の入泊が予想される海面付近が選定されました。待機する陣地は敵の砲弾に耐えることのできる地下施設でした。陣地から泊地に至る海底には、伏龍部隊を敵艦に誘導するに十分な誘導索を展張する予定でした。<br /><br /> 久里浜での訓練では、歩数によって、50メートル間隔で5~7メートルの海底に伏龍隊員が展開待機する訓練が行われました。しかし、干満で潮流の変化する歩きにくい海底で、歩数で予定された展開配備点に着くのは至難の業でした。<br /><br /> 五式撃雷の爆発安全圏は50メートルとされていました。しかし海底の困難な条件下で安全と言えるでしょうか。1発の爆発が、海水を伝播して、すべてが一挙に爆死することも十分考えられることでした。<br /><br /> 日本の敗戦で伏龍作戦は実施されませんでした。しかし「天皇のため、国のため」侵略戦争の特攻訓練に青春を捧げさせられた少年兵たちの無念を忘れてはならないでしょう。<br /><br />「もぐら作戦『土龍』」<br /><br /> もぐら作戦特攻「土龍」は、上陸した敵米軍の戦車を対象にして考えられた特攻作戦です。防衛すべき地域の外周に五メートル間隔に穴、いわゆる蛸壺を掘って、「急造地雷」といわれる四角な箱に詰められた火薬を背負い、この穴に潜み、時速三十キロくらいの速度で進んで来る敵戦車に葡匐(ほふく)前進で接近し、その戦車の腹に飛び込んで、これを爆破しようとする肉弾戦法でした。<br /> <br /> 武器としては、急造地雷のほかに「棒地雷」や「火炎瓶」などを使用することを考えていました。それに「蛸壺」との組み合わせで、文字通り肉弾突撃の戦法という以外にない悲壮なものでした。<br /> 主な要員には、練習生教育が中止された後の乙飛第22期、23期、24期や甲飛15期、16期などが予定されていました。彼らはどんな気持ちでこの訓練をしていたのでしょうか。<br /><br /> 「滑空特攻機『神龍』」<br /><br /> 「神龍」は、内陸部に進入してきた戦車に突入する滑空特攻機です。山腹に潜ませていて、山間を進撃してくる米軍のM1型戦車などに音もなく襲いかかって、これに体当たり自爆しようというものでした。<br /><br /> 神龍は滑空機だから、もちろんエンジンはありません。飛行機に乗れなければせめて飛行服を着て戦いたい。少年兵たちの切ない願いです。神龍は空からのゲリラ特攻です。予科練は飛行兵だ。水に潜るのではなく、大空への夢に少しでも近づきたい、空を羽ばたくことが打ち砕かれた挫折感を、せめて空を滑空する兵器で戦う使命感で少年たちは訓練に励んだのでした。<br /><br /> 要員は、予備学生第15期(前期)、予備生徒第2期(前期)、予科練からは甲飛第14期、乙飛第20期、特乙第6期、それに丙飛が予定されていました。<br /><br /> 45年(昭和20)6月1日、三重空野辺山派遣隊が設置され、三重空において基礎訓練を終えた後、乙飛第20期などは滑空特攻要員として6月24日、長野県の野辺山に向かって出発しました。これら隊員の担当教員は、甲飛第12、13期、乙飛第18期、特乙第3、4期などでした。<br /><br />○ どの展示にも勇戦奮闘の解説が表示されていますが、戦争への想像力を働かせ、軍命に従い、戦場に赴いた兵士たちの、悲しみ、苦しみ、怒り、無念さを偲び、戦争とは何か、是非考えて下さい。 <br /> 私も健康に留意して長生きに努め、生きている限り、戦場体験を語続けます。 猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-42648017568402667322010-05-24T09:26:00.003+09:002010-05-26T15:46:51.194+09:00靖国神社雑感3・回天の展示 遊就館に人間魚雷『回天』が展示されています。<br /> 回天とは、「九三式酸素魚雷」を改造して、頭部に爆薬を装填し、人が乗って操縦して敵艦に体当たりをするという文字通りの「人間魚雷」でした。 「回天」とは、「天を回らし、戦局を逆転する」という願いを込めた名前で、1944年に正式兵器として採用されました。<br /><br /> 回天特攻隊は、兵学校、機関学校121名、予備士官(学徒兵)210名、現役下士官9名、予科練出身飛行科下士官(少年兵)1035名の、計1375名でしたが、、回天の製造が間に合わず実際に回天に乗って訓練したものは、その約半数、戦没者は106名、訓練中の事故死15名でした。<br /><br />私の兄も、第1回天隊(白龍隊)搭乗員として沖縄出撃の途中、アメリカ潜水艦の雷撃で戦死、18歳でした。<br /><br /> 特攻の思想は、神国思想「神風」と楠公思想「七生報国」がその背景にありました。蒙古襲来の時、「神風」が吹いて元船が転覆したと素朴に信じて、神国日本は神が守っているという思想です。<br /> また、楠正成は湊川で討ち死しましたが、「七たび生まれて、逆賊を滅ぼし国に報いん」と語ったと伝えられています。いわゆる「忠君愛国」「滅私報国」「七世報国」の精神の源です。<br />回天特別攻撃隊は出撃のとき、「七世報国」の鉢巻きを締めていました。<br /><br />この回天は、アメリカから還ったものを、生き残りの回天搭乗員たちが修理したものです。あるときこの周りに回天搭乗員が集まりました。その中に回天戦の作戦指導の中枢にあった元第6艦隊鳥巣参謀が居ました。鳥巣参謀は、「これが回天の実物ですか。こんな近くで見たのは初めてです。」といいました。<br /><br />その場にいた、予科練出身の元搭乗員は烈火のごとく怒りました。<br />「俺たちの戦友はお前のような奴の作戦で殺されたのか」、「回天を遠くからしか眺めないで、何を指導していたのだ。こんな奴に死ねと命令されていたのだ」。怒った搭乗員たちは、元参謀を回天の中に放り込み閉じ込めました。<br /><br /> ここで鳥巣第六艦隊参謀の実像についての記述を紹介しましょう。<br />『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』小灘利春・片岡紀明 (光人社)<br /> 千早隊 伊44潜の戦闘 より<br /><br /> 回天特別攻撃隊「千早隊」の「伊44潜」は第六艦隊命令「硫黄島周辺に遊弋中の敵有力艦船の補足攻撃」で、2月25日から28日の間に攻撃せよと指示された。<br /> しかし硫黄島の周辺水域に、米軍は、対潜水艦戦闘を任務とする多数の護衛駆逐艦と護衛空母に搭載された対潜哨戒機とで緻密な防御システムを展開していた。<br /> いったん彼ら対潜部隊に発見されれば、高性能のレーダー、ソナーを装備した対潜掃討の訓練を積んだ多数の対潜艦艇の執拗な追跡と攻撃にさらされる。<br /><br /> 回天の発進可能な水域まで到達して回天を発進させることは、この戦場では到底無理であった。<br /> ついに艦長は無念であっても不可能、との判断に至ったのである。<br /> 「伊44潜」は、3月9日、大津島港に帰着した。<br /><br /> 「千早隊」の研究会が行われたが、それは実質的には「伊44潜」川口艦長の命令違反をお追求する査問会であった。<br /> 席上、川口艦長は、警戒厳重な敵洋上泊地に進入して、一度浮上した上で回天攻撃を決行するという計画自体に問題があり、潜水艦と回天に犬死を強いる無謀な作戦である」と意見を述べた。 <br /> その意見はきわめて正しいものであり、川口艦長は堂々と所信を述べたのであったのだが、第6艦隊の鳥巣参謀は、その川口艦長の向かって、<br /> 「卑怯未練!」と罵倒した。<br /> これは武人に向かって発してはならない、最悪の侮辱の言葉である。<br /> この鳥巣参謀という人は、「潜水艦は沈んで来りゃいいんだ。戦果は俺たちで作る」と放言したと伝えられる人である。<br /><br /> 3月11日、 川口源兵衛艦長は、横須賀の桟橋に係留されたままの老朽潜水艦の艦長に異動、左遷された。<br /> 日本海軍としては異例なほど敏速な人事が行われた。 <br /><br />『特攻 最後の証言』特攻最後の証言政策委員会((株)アスペクト)<br /> 海軍水中特攻 回天 第2回天隊 小灘利春海軍大尉 より<br /><br />「 ……私はアメリカ側の資料と突き合わせをやっていますが、それを見ると(回天を)とんでもない使い方をしているのがわかります。例えば、第六艦隊の潜水艦部隊で回天作戦を担当した水雷参謀、これが兵器を知らず、戦略眼もない」<br /><br />「戦後、この人は回天の本をたくさん書きましたが、自分の責任や失敗には一切触れていない。回天の搭乗員に死を命令する担当参謀でありながら、「俺は戦争中、回天を見たことがない」なんて平気で言っている。無責任で態度も傲慢な男です。<br /><br /> 私は、大津島では一番古いクラスの搭乗員ですから、彼がやって来れば当然顔は知っているはずですが、私はこの男を見たことも名前を聞いたこともない。当時は優秀な参謀がどこかで一生懸命作戦を考えて指導していると信じていました。<br />壮行式で搭乗員が出て行くときは確かに見送りに来ています。記念写真が残っていますから、来ていたのでしょうが、それだけで、遠くから眺めていただけなんだと思います。<br /><br /> 無限の性能がある兵器はないですから、使う側はどういう使い方をするべきか、少なくとも知っていないと。で、かっての下士官搭乗員の前でも『どんな兵器か見たこともない』と言ったもので、その場にいた者が怒りまして、靖国神社にある回天にこの参謀を押し込んで上からハッチをバタンと閉めたそうです。ハッチをロックできるわけではないんですが、しばらくそのままにしておいたと言っていました。」<br /><br /> 小灘利春氏は海軍兵学校72期出身で、45年4月八丈島海軍警備隊・第二回天隊隊長として8月15日を迎え、海軍大尉・前全国回天会会長をつとめ2006年9月死去しました。<br />私は、これらの事実について、生前の小灘氏から口頭で話を聞いています。また、靖国神社の「回天」押し込め「事件」について、複数の予科練出身元回天搭乗員からも話を聞いています。<br /> 鳥巣第6艦隊参謀のような人物が回天作戦を指導していたのです。そればかりではありません。回天作戦を立案し、推し進め、多くの純真な若者を死に追いやった海軍軍令部の参謀たちは、未だに誰も頬被りで、その責任も、謝罪も、闇のままになっているのです。<br /><br />回天の兵器としての裁可は昭和天皇でした。どう思っていたのでしょう。<br />続 同期の桜<br />前回この唄について「俺と お前は」と紹介しましたが、正調は海軍流の、「貴様と 俺とは」です。<br /><br />この歌は戦争末期の昭和19年半ば頃から、悲壮な曲と歌詞で、口伝えに伝えられ、部隊名や地名を替え、歌詞も追加されるなどして、多くの兵士たちに歌われました。特に回天、神雷などの特攻隊では、先に出撃した戦友を偲ぶ思いを込めて歌われていました。<br /><br />戦後、「戦前懐古」の風潮とともに、鶴田浩二が歌って爆発的に流行しました。特攻隊やこの歌を肯定、否定するに拘わらず、戦争末期の兵士の心情を知る上で一考を要する歌と私は考えています。<br /><br />元歌 「二輪の桜」 西条八十作詞<br /> 一番 <br />君と僕とは二輪の桜 同じ部隊の枝に咲く <br />血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて別れ<br />られぬ<br />二番 <br />君と僕とは二輪の桜 積んだ土嚢の蔭に咲く <br />どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国の為<br />三番 <br />君と僕とは二輪の桜 別れ別れに散ろうとも <br />花の都の靖国神社 春の梢で咲いて会う <br />「同期の桜」 作詞 帖佐 裕<br /><br />一番 <br />貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く <br />咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為<br /><br />二番 <br />貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く <br />血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて 別れられぬ<br /><br />三番 <br />貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く <br />仰いだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機<br /><br />四番 <br />貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く <br />あれ程誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか<br /><br />五番 <br />貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも <br />花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう<br /><br />私の兄たち回天白龍隊の出撃前夜、搭乗員の壮行会で,「同期の桜」が歌われました。兄は、どんな思いで歌ったのでしょうか。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-24680286228231351512010-05-23T10:46:00.004+09:002010-05-23T11:20:53.450+09:00靖国神社雑感2、靖国神社と同期の桜そして戦前の教科書靖国神社を意識するようになったのは,何時の頃からだったでしょ<br />うか。<br /><br />新宿始発の東京市電は、11番と12番です。<br /><br />11番は、四谷見附、半蔵門、三宅坂、桜田門、日比谷、銀座、築<br />地を経て勝鬨橋、築地です。<br /><br />12番は四谷見附、市ヶ谷見附、九段、神田、須田町から両国です。<br />11番は、桜田門付近に差し掛かると、車掌の声がかかります。<br />『宮前を通過します。みなさん、宮城に向かって下さい。ハイ、敬<br />礼!』<br />小学校後学年の頃から、このお辞儀を覚えています。<br /><br />1937年・昭和12年です。私が小学校3年の時に盧溝橋事件が<br />起こり、日中全面戦争となりました。<br /><br />「国民精神総動員要綱」が閣議で決定されて「八紘一宇」「大東亜共栄<br />圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」「滅私奉公」のスローガンの下、<br />毎月1日は「興亜奉公日で、梅干し一つの「日の丸弁当」、国旗掲<br />揚、神社仏閣への「必勝祈願」、防空訓練が行われるようになりまし<br />た。<br /><br />12番は、九段で靖国神社横を通過します。靖国神社に電車の中か<br />ら敬礼するのは、ずっと後のことです。日中戦争が長引き泥沼化し<br />て、「国の英霊」の帰還が目立つようになります。1941年・昭和<br />16年12月に太平洋戦争が始まります。私の中学1年の時です。<br />靖国神社へ電車の中からのお辞儀は、この頃からでしょう。<br /><br />15歳で私は少年兵を志願しました。「日本が危ない。今こそ戦場に<br />行き国のため,家族のため戦おう」と考えたのです。しかし、戦場で<br />戦うことと、「戦死」すること、「靖国神社」に祀られることは結びつ<br />いていせんでした。<br /><br />陸軍特別幹部候補生航空通信兵の教育課程は、当初、1年6ヶ月の<br />予定でしたが、戦局の激化に従って、9ヶ月に短縮され、翌年早々<br />には第1線で任務に就くと44年・昭和19年10月に告げられま<br />した。<br /><br />戦うことと死ぬことが,意識の中でまだ結びついていない私たち少<br />年兵は、戦場に赴く日が近づいたと喜び勇んだのでした。<br /><br />その頃、神風特別攻撃隊の体当たり攻撃が、はじめて報じられまし<br />た。「航空隊」です。情報は早く、どこからとなく伝わって来ます。<br />「志願して特攻隊員になるとその日から『今日からお前たちは神様だ』<br />といわれるそうだ」,「毎日白米を食べるんだそうだ」、「グライダーで<br />敵飛行場着陸する特攻隊も出来たそうだ」「航空隊員は、地上勤務者で<br />も、機関銃手とか爆撃手とか、特攻要員に指名されるそうだ」<br /><br />軍歌『同期の桜』が歌われ始めました。<br />この歌の原曲は『戦友の唄(二輪の桜)』という曲で昭和13年1月<br />の少女倶楽部に発表された西条八十の歌詞を元として、後に人間魚雷<br />回天の搭乗員となる帖佐裕海軍大尉がアレンジしたものです。なお、<br />この帖佐大尉は、私の兄が、回天搭乗員として山口県大津島に着任し<br />たときの最初の分隊長でした。<br /><br />1. 俺とお前は同期の桜 2.俺とお前は同期の桜<br /> 同じ兵学校の庭に咲く 同じ兵学校の庭に咲く<br /> 咲いた花なら散るのは覚悟 血肉分けたる 仲ではないか<br /> 見事散りましょ 国のため 何故か気が合うて 別れられぬ<br /> <br />3. 俺とお前は同期の桜 4.俺とお前は同期の桜<br /> 同じ航空隊の庭に咲く 同じ航空隊の庭に咲く<br /> 仰いだ夕焼け 南の空に 花の都の 靖国神社<br /> 未だ帰らぬ 一番機 春の梢に 咲いて会おう<br /><br />近づく戦場への思いと重なり、少年兵たちは、夕暮れの練兵場で、兵<br />舎の陰で、営舎の窓辺で、声を合わせて良く歌ったものでした。ゆっ<br />くりとしたテンポで、唄の情景と、私たちの行方を重ね合わせ、繰り<br />返し繰り返し涙を流しながら歌ったものでした。<br /><br />『戦場』と『死』と『靖国神社』は、それでもまだ『遠い』唄の中の<br />ものでした。<br /><br />それが現実のものとして『戦場』と『死』と『靖国神社』が結びつい<br />て『戦争とは、人と人の殺し合いだ』と心に刻みつけたのは、翌年2<br />月に常陸飛行部隊での初めての戦闘体験で、同期生の死と向き合った<br />時だったのでした。<br /><br />それにしても、ここに辿り着く心の底には、何よりも小学校時代から<br />蓄積された軍国主義教育があったと言えるでしょう。<br /><br />『靖国神社』は、小学校4年で教えられました。<br /><br />戦前の教科書の靖国神社<br />尋常小学終身書 巻4<br />第3 靖国神社<br /><br />東京の九段坂の上に、大きな青銅の鳥居が高く立っています。其の奧<br />にりっぱな社が見えます。それが靖国神社です。<br /><br />靖国神社には、君のため国のためにつくして死んだ、たくさんの忠義<br />な人々がおまつりしてあります。毎年、春4月30日と秋10月23<br />日には例大祭があって、勅使が立ちます。又、忠義な人々をあらたに<br />合わせまつる時には、臨時大祭が行われます。其の日には天皇・皇后<br />両陛下の行幸啓がございます。<br /><br />お祭りの日には陸海軍人はもとより、一般の人々も、ここにおまつり<br />した人々の忠義の心をしたって参拝する者が引きもきらず、さしもに<br />廣いけいだいも、すき間のないまでになります。<br /><br />君のため国のためにつくして死んだ人々をかうして神社にまつり、又<br />ていねいなお祭りをするのは、天皇陛下のおぼしめしによるのでござ<br />います。私たちは、陛下の御めぐみの深いことを思ひ、ここにまつっ<br />てある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりませ<br />ん。<br /><br />(注 君とは、天皇のこと。天皇は現人神ーあらひとがみーであり<br />一般庶民は、臣民でした。)<br /><br />尋常小学唱歌 第4学年用<br />4、靖国神社<br /><br />1.花は桜木、人は武士。<br /> その桜木に圍(かこ)まるる<br /> 世を靖国の御社(みやしろ)よ。<br /> 御国(みくに)の為に、いさぎよく<br /> 花と散りにし人々の<br /> 魂(たま)は、ここにぞ鎮(しづ)まれる。<br /><br />2.命は軽く、義は重し。<br /> その義を践みて大君に<br /> 命をささげし大丈夫(ますらお)よ。<br /> 銅(かね)の鳥居の奧ふかく<br /> 神垣高くまつられて、<br /> 譽は世世に残るなり。<br /> <br />注<br />臣民の命は大君への「忠義」に比べたら鴻毛(鳥の羽)よりも軽<br />かった。しかし、貧乏人の子どもでも、「戦死」したら「神様」に<br />なって「靖国神社に祀られる。そうして、畏くも「現人神」の天子<br />様が頭を下げてお詣りして下さる。有難いことだ、子々孫々ま<br />で語り伝える名誉なことだ、そんな時代であったのです。 猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-141743393295159712010-05-19T12:55:00.002+09:002010-05-19T13:01:50.342+09:00靖国神社雑感1・例大祭の思いで靖国神社の春季例大祭は4月30日、秋季例大祭は10月23日<br />でした。<br /><br />小学生の頃、私の家は新宿伊勢丹裏から市ヶ谷の陸軍士官学校の脇を通り市ヶ谷見附を経て靖国神社に至る『靖国通り』に面した『ロク薬局』でした。今の厚生年金会館の少し先になるでしょうか。<br /><br />当時は4メートル通りで、牛込区市ヶ谷富久町、向かい側は四谷区花園町、100メートル程新宿よりは、淀橋区大久保でした。<br /><br />その頃の子どもたちの行動範囲は広く、何処の神社、何処のお寺の境内では、何月何日に『店』が並ぶ。何処の商店街に夜店が並ぶのは何日と何日だと全部把握していてその情報をしっかり掴んでいるのが『ガキ大将』なのでした。<br /><br />何処へでも出かけて行きました。戸山が原射撃場も、神宮外苑も、代々木練兵場も行動範囲で、その頃の横綱玉錦と双葉山の取り組みを『太宗寺』の境内で見物し、双葉山がタクシーに足をかけたらぐらっと傾いたのを覚えています。<br /><br />靖国神社の例大祭には1時間以上かけて毎年、必ず遊びに行来ました。<br />九段坂の大鳥居のすぐ後ろに大村益次郎の銅像があります。<br />そこから神社に向かって左側は食べ物屋の店がずらりと並んでいます。<br /><br />焼きそば、おでん、お好み焼き、パンかつ、お汁粉、綿菓子、べっこう飴等々子どもたちの食欲をそそる何でもありでした。<br /><br />向かって右側は見世物小屋がずらりと並んでいます。<br />肝試しの化け物屋敷、娘さんのクビが伸びるロクロ首、オートバイの曲乗り、猿の曲芸、入り口には客寄せの口上師がだみ声を張り上げて口上をまくし立てています。<br /><br />『さあさあお立ち会い、見ていかなければ一生の悔やみだよ。何見せるんだって、そりゃあ木戸銭払って中に入れば分かるよ。そこの坊やたち、小遣いもらってきたんだろ。見て、楽しんで、帰って土産話を親に話してやりな、それが親孝行ってもんだぜ。さあ入った入った。小遣いなんて手に握っていただけじゃ駄目だよ、使うときに使ってこそ小遣いだよ。それが江戸っ子ってもんだよ』<br /><br />私の定番は、お化け屋敷に、オートバイの曲乗りでした。その後が、焼きそばに、お好み焼きに、綿菓子。<br /><br />社殿でちょこんと頭を下げて当時その後ろにあった『国防館』、それから『遊就館』に回ります。何があったかメモは必ず取っておきます。家に帰って何を見てきたか親父に答えられるよう帰りの道すがら考えていくのです。答えの仕方によっては来年の小遣いの額に大きく響きます。<br /><br />昭和20年正月、訓示の後『来年の正月はあると思うな、各人決意を述べよ』と班長の命令です。<br />私は16歳の陸軍特別幹部候補生、陸軍上等兵です。前年の暮れ、昭和19年12月29日に陸軍航空通信学校長岡教育隊で航空通信兵、対空無線隊要員として9ヶ月の教育課程を終え、第一線への転属待ちです。<br /><br />『命を賭けて戦います。靖国神社で会いましょう』。『特幹の名誉にかけて任務を遂行します。靖国神社で待ってます』。『自分が靖国神社一番乗りです。』……<br /><br />みんな立派なことを言ってます。『何言ってやんで、おべんちゃら、心にもない格好良いこと云いやがって』。順番が近づいてきます。何を言おうか考えているうち、『猪熊候補生、お前の決意は』……。班長の怖い顔が睨んでいます。みんながこちらを向いています。<br /><br />私の靖国神社は、焼きそばに綿菓子、そしてお化け屋敷です。それしか浮かんで来ません。<br /><br /> とっさに答えました。<br />『最後の一兵になるまで戦い続けます。』<br />班長の罵声が飛んで来ました。『なに!貴様は靖国に行きたくないのか。』<br />私は答えました。『みんな死んだら、ワシントンのホワイトハウスに誰が日章旗を掲げるのでありますか。』<br /><br /> 鉄拳でぶちのめされました。『みんな死のうと言ってるのに貴様ひとり一体、なんだ。』<br />私の16歳の正月の思い出です。<br /><br /> 境内に佇むと2歳上の兄の姿が浮かんできます。<br />兄は、予科練甲種13期生で、土浦航空隊で人間魚雷回天特攻隊を志願し大津島回天基地を経て山口県光基地から出撃、昭和20年3月沖縄粟国島近海で戦死したのが18歳でした。<br /><br />兄の生き様を調査しています。<br />兄の土浦、光基地での同期生の手記から昭和19年7月に、ここ靖国神社に来たことが分かりました。<br /><br />土浦から2千名の予科練甲13期生が、7つボタンの白い制服で、軍楽隊を先頭に隊伍を組んで、上野駅から行進をはじめ、靖国神社と明治神宮に参拝したのです。<br />戦意高揚の大デモンストレーションでした。<br /><br />兄は胸を張り意気揚々と行進をしたことでしょう。<br />兄の姿が浮かんできます。<br />それから半年余、兄は南の海に果てたのでした。<br />そして、正確な戦死日時も、戦没地点も、戦没状況も、未だに分からないまま、弟の調査が続いているのです。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-51592665435735907832010-05-12T09:11:00.002+09:002010-05-12T09:29:58.987+09:00フイリッピン戦と私『語らずに死ねるか』<br />戦場体験が消え去ろうとしています。<br />私は、元兵士たちに呼び掛けています。<br />「戦友(とも)よ<br />生きているうちに語ろう<br />語ってから死のう<br />語らないうちに死ぬのは止めよう」<br /><br />『フイリッピン戦と私』<br />「運」に生命がもてあそばれる<br /> 私は運が良いのです。<br /> 戦争では、兵隊の生命は自分で守ることはできません。「任地」や「任務」は「命令」で決まるのです。そこには自分の意思や希望を働かす余地は全くありません。それこそ「運」に恵まれるかどうかということだけで生命がもてあそばれます。<br /><br /> 後で考えると、運が良かった、あれで助かった、命を長らえたと思うことが何度もあります。<br /><br />特幹の入隊試験<br /> その最初がこの入隊志願のときでした。特幹第一期の採用は航空と船舶の二つの兵科に限られ、航空は操縦・通信・整備で、船舶は船舶工兵、船舶通信、特殊艇要員、整備要員でした。<br /><br />身体検査、口頭試問は昭和19年2月上旬。学科試験は中学3年2学期終了程度で課目は算数と作文、全国一斉2月16日、私の試験場は、早稲田中学でした。<br /><br />学科試験には、こんな問題もありました。<br />『 爆弾積載時の速度毎時400キロ、投下後はその4分の1の速度を増す、重爆撃機が10時間の航続時間を有するとき、この機は何キロ遠き地まで爆撃し得るか。但し敵地上空において30分を費やし、その地に30分の余裕をおくべきものとす。』<br /><br />また、志望兵科について、航空、船舶のどちらかの希望に○をつけるのでした。<br /><br /> 私の長兄は船舶兵で南方に転戦していました。戦地の兄から軍事郵便のはがきが着くと必ずどこか一カ所検閲で墨が塗ってあります。長兄は検閲を想定して地名をどこかに入れてあります。<br /><br />姉が先ずその墨を丹念に拭き取ると、下からペン字の地名が現れてきます。「アツ、マニラだ」「アレ、セブ島だ。セブ島ってどこだろう。地図持ってきてよ」。すぐ上の兄と私が地図で調べます。「今度はアンボンだ。アンボンてどこだ、すごいな船舶兵は。あちこち飛び回って」。そんなことで何か船舶兵に憧れを持っていたのでした。<br /><br />だから私は船舶兵志望に○をつけました。しかし「大空への憧れ」、大空を飛びたいという憧れを打ち消すことはできませんでした。試験を終わって退席の号令とともに、慌てて、船舶兵を×で消し、航空兵に○を書き、会場を飛びだしたのでした。<br />結局私は、航空通信兵として、命を長らえたのでした。<br /><br />特幹船舶兵<br /> 特幹一期の船舶兵は1890人でしたが昭和19年4月から小豆島で訓練し、9月には1718人が特攻隊として第一線に配置されました。未だ、入隊して、半年足らずの15歳から20歳の少年兵です。11月には、伍長に任官しました。特攻死の時には少尉に特進するためです。銃は持たず40年式軍刀に26年式拳銃です。いわゆる陸軍海上挺進隊です。<br /><br />そして1年足らずの内にそのうち1185人が異境の土となり、または波浪の中に消えたのでした。<br /><br />「彼らは、特別の秘密の隊で、十代で数階級も上がって少尉になるとか、新聞には大きく写真入りで『軍神』と書かれるなどの幻想を持たされ『悠久の大義』とか『生死一如』とかの辞に操られ、生と死の観念の境界を忘れさせられて出て行った。……<br />しかし、彼らが送られたルソンと沖縄の地で目の前にした現実は、ヒロイズムとは無縁な、弾がとび、血を流し、苦痛の中で迎える『戦場』であった。特攻の任務を果たす機会はなく、敗残兵となって戦場をさまよい、絶望的な中で父や母を想いながら、ふたたびは会う事がなかったのである。」(『陸軍水上特攻隊ルソン戦記・儀同保」光人社)<br /><br />あの時、船舶兵に○のまま試験場を出ていたら、私も海上挺身隊として出動し、恐らく今の私はいなかったでしょう。ルソンか、沖縄か、海の藻屑か、草むす屍か、この投稿もなかったでしょう。<br /><br />陸軍海上挺進隊<br /> 陸軍海上挺進隊というのは、海軍の震洋特攻隊と同じです。特幹一期生を主力に創設された、陸軍の水上特攻隊でした。長さ5メートル、トヨタの60馬力ガソリンエンジンが付いたベニヤ板製で「連絡艇」通称レ艇(マルレ)に250キロの爆薬を付けて敵艦に体当たりするのです。<br /><br />海軍の震洋は頭からぶつかります。陸軍のレ艇は海面下で爆発させるため、衝突直前に艇を反転し爆薬を投下します。攻撃は三隻~九隻一体になって夜中に行われます。米艦は攻撃を避けるため、夜は港外に避難しています。そのため米艦に近づけず引き返してくることも度々ありました。<br /><br />「斬り込み隊」<br /> ルソン島では米軍の進撃が早く、出撃基地を追われ、再度の出撃もならず、陸上部隊と地上戦闘に参加となります。すると「お前たちは特攻隊の生き残りだ。斬り込み隊で死んでこい」と命令されるのです。敵の見えるところまで進むと援護部隊はそこから一歩も出ずに、斬り込み隊の少年兵たちに「さあ、お前たち行け!」と突撃させられるわけです。<br />少年兵は、6発装填の拳銃と軍刀を振りかざし、米軍に向かって突撃をするのです。<br />生き残ると死ぬまで「斬り込み隊」です。ひどい話です。<br /><br />靖国神社の遊就館にも、その「英雄的」戦闘が紹介されていますが、20歳前の少年兵たちが、どれほどの苦難と怒り、悲しみと空しさを背負ってその生涯を終えたことか、是非、思い浮かべて下さい。<br /><br />南方行き「少年兵」の大量戦死<br />私たち航空通信特幹一期生の教育課程は、アメリカ軍の急速な反攻に1年6ヶ月から9ヶ月の半分に短縮されましたが、転属先も戦線の後退で当初の予定が大幅に変更になりました。フイリッピン、シンガポール方面など南方行きが出来なくなったのです。<br /><br /> 昭和19年11月5日、少年兵学校の一斉繰り上げ卒業が行われました。<br /><br /> 南方総軍派遣要員のとして少年工科兵(200名)、少年戦車兵(256名)、少年通信兵(600名)、少年重砲兵(15名)、少年野砲兵(70名)、少年高射兵(205名)が乗り組んだ輸送船団はフイリッピンに向かいましたが、11月15日から17日にかけて済州島沖および五島列島沖で米潜水艦の攻撃を受け乗艦が沈没、その大部分が戦死したのでした。この時、特幹」1期中心の海上挺身隊第18戦隊、第19戦隊約200名も便乗し、その多くが戦死しています。<br />生き残った少年兵たちも、その殆どが、フイリッピン戦で戦死したのでした。<br /><br /> リンガエン湾<br /> 昭和20年1月9日には、フイリッピン、ルソン島リンガエン湾に米軍が上陸しました。<br /><br /> ニミッツの「太平洋戦史」(恒文社)に、海上挺身隊の記述があります。「その晩(1月9日)リンガエン湾では日本軍の空襲を避けるため、艦船は煙幕を張り姿をかくしていた。<br /><br />そのとき日本兵を配置し爆薬を積みこんだ約70隻の木造合板製発動機が米水上部隊に突進してきた。大部分は砲火により撃退されたが、そのうちの数隻は艦船の舷側に爆薬を放つことに成功して待避した。この水上特攻によって歩兵揚陸艇1隻が沈没し、輸送船と歩兵揚陸艇各1隻および戦車揚陸艇4隻が損害を受けた」としている。<br /><br />なおこの戦闘には、第12戦隊約70隻が出撃し、生き残ったのは2名のみであり、戦死者の殆どが特幹船舶1期生の少年兵でした。<br /><br />また私は命拾い<br /> シンガポールに司令部のある第三航空軍関係には、輸送船が次々に撃沈されて行くことが出来ません。第四航空軍は、富永司令官がフイリッピンのマニラから台湾に逃げ帰り、昭和20年2月に消滅しました。航空部隊は、地上部隊に併合されました。<br /><br />私たち特幹1期生のフイリッピン行きは中止になりました。<br />ここでまた私は命拾いしたのでした。<br /><br />真の平和と謝罪<br />フイリッピン戦でも私と同期の特幹1期生をはじめ沢山の少年兵がその青春を散らせました。<br />「少年兵」たちは、「軍命で仕方なく」ではなく、「祖国のため」「東洋平和のため」「愛する家族のため」と信じ、自らの意志で志願し、戦場に赴いたのでした。<br /><br />しかしその戦争は、「大東亜共栄圏の建設」のための「聖戦」の美名の下、他民族を抑圧し、他民族を苦しめ、他民族を支配する侵略戦争でした。<br />こんな口惜しいことがあるでしょうか。<br />憲法9条を揺るぎないものにすること。真の平和を築き上げること。アジアの人々に心からの謝罪をすること。そうしてこそ亡くなった少年兵への鎮魂でもあるでしょう。彼らの心が安らぐのでしょう。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-50638839422669642722010-05-10T09:44:00.002+09:002010-05-10T10:09:47.241+09:00『戦争のための青春でなく 平和のための青春を』 『戦争のための青春でなく<br /> 平和のための青春を』<br /><br /> 不戦兵士・市民の会代表理事<br /> 猪熊 得郎<br /><br /> ○ 戦争体験の生き証人<br /><br /> 日本軍国主義の中国侵略で始まったアジア・太平洋戦争は、230万人の日本国民と、2千数百万人のアジアの人々の死と、数え切れない財貨と環境の破滅をもたらした。<br /><br /> 1988年1月、この戦争で銃をとり、戦場の悲惨さを身を以て体験した元兵士たちが集まり、我が国の憲法第九条を守り世界の平和を希求することを理念とし、「生き証人」として戦争の惨禍を語り伝えることを行動の柱とする「不戦兵士の会」を結成した。<br /><br />しかし戦後65年、元兵士の会員は高齢による死亡で減少しつつあり、また、14歳で少年兵として入隊、教育、訓練中に敗戦を迎えた最年少者でも78歳であり、元兵士の多くは加齢と病気と闘いつつ、憲法を踏みにじる有事立法の制定、海外への自衛隊の派兵等々の情勢に「このままでは死んでも死にきれない」と老骨に鞭打ち「不戦・平和」を訴えている。<br /><br /> 他民族抑圧のため日本国民を根こそぎ動員した戦争体験は、加害・被害・戦場・銃後等々広く深く体験した人の数だけある。元兵士となる過程も、職業軍人・徴兵による現役兵・予備役からの召集による応召兵・学徒兵・志願による少年兵等々一人一人みな異なりその想いも様々である。従って私は、自分自身の戦争体験に基づき「不戦・平和」の想いをここに述べることとする。<br /> <br /> ○15歳で航空兵<br /><br /> 私は1928年(昭和3)に生まれ、44年(昭19)陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊したのは15歳、今で言えば高校1年になる年だ。 <br /><br /> 教育課程を終え45年(昭20)2月、水戸東飛行場に配置されていたが、米空母からの艦載機による攻撃で初めての血なまぐさい戦闘を経験し、11名の同期生を失った。<br /><br />4月、第2航空軍第22対空無線隊に転属し旧満州・公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。高級将校たちの逃亡、八路軍ゲリラの決起、満州軍(日本軍の傀儡)の反乱、中国民衆の襲撃、ソ連機の機銃掃射、ソ連軍の侵入等混乱の中、9月、17歳の誕生日にアムール川を渡りソ連の捕虜となった。<br /><br />「聖戦」に駆り出された旧関東軍60万の兵士たちは、天皇と「国体護持」のための盾としての棄兵・棄民政策で満州平野に放り出され、ソ連・スターリンの国際法を無視した覇権主義で、「労働力」として抑留され6万余の生命がシベリアの土と消えた。<br /><br />若かった私は零下30度の冬にも耐え日本に帰って来たのは47年(昭22)12月、19歳だった。<br /><br /> 私が少年時代を過ごした市ヶ谷富久町の家も、戦場に旅立った日本橋浜町の家も、東京の度重なる空襲で跡形もなかった。 私は幼くして母を亡くし、父の手で育てられたのだが、その父も死んでいた。2歳上の兄も、人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員として戦死していた。18歳だった。<br /> <br /> 「身は一つ 千々に砕きて醜(しこ)千人 <br /> 殺し殺すも なおあき足らじ」<br /><br /> 兄が出撃直前に遺した遺詠である。当時の予科練出身回天搭乗員の間では、戦艦なら3千名の米兵が乗っている。回天特攻隊員一人がアメリカ兵1千人宛倒せば祖国を守り家族を守ることが出来る。そこに回天隊員の使命があると話し合われていた。<br /><br /> ○学徒兵との違い<br /><br /> 徴兵猶予停止のため、止むをえずペンを銃に変えた「学徒出陣」と違い、当時の少年たちは自分の意志で、競って少年兵を志願した。<br /> 予科練を志願した兄は、入隊前夜の壮行会で「国難ここに見る」と「元寇」の歌を唄った。<br /><br /> 私は、中学3年の冬、特幹の「志願」を父に訴えた。「アッツ島もマキンもタラワも玉砕(全滅)した。このままでは日本は大変なことになる。今こそ日本男児はみんな戦場に赴いて、国を守るため、東洋平和のために戦わなければならない」と。<br /><br />父は猛烈に反対した。長兄は関特演の召集で満州から南方に、次兄は学徒出陣、三兄は予科練、そして残った末弟の私だ。私の頑強さに父は「それなら士官学校に行け。軍人としてお国のために役立つことに代わりはない。士官になれば、兵隊よりもっと大切な任務に就く事になる」と渋々論調を変えた。<br /><br />「それではもう間に合わない。3年、4年先では日本はどうなっているか判らない。どうしても今志願したいのだ」<br /> 三日間論争し私は口もきかなくなった。根負けした父は四日目「それなら征け、しかし、命だけは大切にな」と許してくれた。<br /><br /> 今でもはっきり覚えているが、がっくりと肩を落とし許してくれた父の後ろの壁には「大元帥陛下」たる天皇の白馬に乗った写真と「日の丸」の額が掲げられていた。<br /><br /> ○少年兵・学徒動員世代<br /><br /> 1926年頃から1929年頃までに生まれた世代を「少年兵・学徒動員世代」と言える。物心が付いた頃には、満州事変、日中全面戦争、そしてアジア太平洋戦争の展開と「戦争しか知らない子供」として成長した少年たちは、少年兵を志願するか、学徒動員で軍需工場で働くか、その選択を真剣に考え、それぞれの道を歩んだ。<br /><br />小学一年の教科書から「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」「ヒノマルノハタ、バンザイ、バンザイ」と学び、「ボクは軍人大好きよ」と歌い「木口小兵は死んでもラッパを離しませんでした」と教わり、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸踊らせ、白い羽毛を軍帽に飾り、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと、心から信じる少年に育てあげられた。<br /><br /> ○東洋平和のため<br /><br /> 当時の少年たちは、天皇絶対の社会体制、軍国主義一色の社会風潮、幼い頃からの軍国主義教育、権力に迎合した新聞・ラジオ・映画などマスコミによる戦争賛美の宣伝扇動の影響の下で、「国のため」「天皇のため」「東洋平和のため」「家族のため」と心から信じ、親や家族の反対を押し切り、少年兵を志願したのだった。<br /><br /> 海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に42万の少年たちが志願した。<br /><br /> 戦争末期には、飛行機特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装した水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力はみな二十歳前の少年兵たちであった。そして沢山の若い青春が平和の時代を知ることなく大空に海原に消えていった。<br /> <br /> ○平和のための青春を<br /><br /> 私たち当時の少年は、かけがえのない青春を、あの戦争に捧げた。生涯の中でもっとも美しく輝くたった一度の青春が、戦争のための青春だった。そしてその戦争が、「大東亜戦争」の美名の下、他国を侵略し、他国の民衆を支配し、抑圧する戦争だったのだ。<br /><br /> しかも、少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び「戦争をする国」にしようとしている。日の丸・君が代が大手を振り、「愛国心」を押しつけようとしている。<br /><br /> 若者たちを再び戦場に送り出してはならない。<br /> 若者たちの青春が、 みなさん<br /> 戦争のための青春でなく<br /> 平和のための<br /> 美しく豊かな青春であることを<br />私は心から願って止まない。<br /><br />(月刊ゆたかなくらしー03年9月号掲載のものを補正・加筆)猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-46683115810282931752010-04-09T17:25:00.003+09:002010-04-09T17:33:41.760+09:00ナンバー4 戦場体験。元兵士のひとりとして、私の事 戦友会の解散私は、陸軍特別幹部候補生(特幹)第1期の航空通信兵として、今から66年前の1944年(昭和19年)4月に陸軍航空通信学校長岡教育隊(水戸市郊外)に入隊した。陸軍特別幹部候補生、陸軍1等兵、襟に座金、胸に翼の航空胸賞の正式軍装をした入校式は10日であった。同期生は12ヶ中隊2500名である。<br /><br /> 当時15歳から19歳の紅顔の美少年たちも年輪には逆らえない。2009年(平成21年)11月28日、伊香保温泉で特幹第1期長岡会のの解散総会が開かれた。頭を高く上げているが髪は薄く、ほとんどが櫛を使わない。胸を張るが、杖をつくものもいる。<br />それでも33名が集まった。北海道からも飛んできた。<br /><br />伊香保町長を3期務めた代表幹事、上野、日本橋、銀座、新宿などに寿司店を経営し今度7件目を台北に開業したという元全国料飲店組合会長、横浜中華街大幹部、毎年新製品を開発しているというk製菓株式会社会長等そうそうたるメンバーだ。<br /><br />私の自己紹介に、俺もシベリア帰りだとカザフスタン抑留を語る戦友もいた。ずいぶん暖かかっただろうというと、それでもマイナス25度まで下がったよとのこと。私のアムール州シワキはマイナス35度だから、10度も暖かったんだなと話が弾む。<br /><br />彼は台湾出身の熱血漢だった。爆撃機の通信士。特攻滑空挺身隊のグライダーを曳航して敵飛行場に運ぶのが任務だった。敗戦で脱走し、朝鮮国境38度線近くを歩いているときソ連兵に捕まり、朝鮮北東岸興南港から、ソ連沿海州、ボシエットへ。そしてシベリア鉄道を貨車で28日かけてカザフスタンに送られた。<br />「シベリア抑留などあまり思い出したくない」という。<br /><br />会長・元伊香保町長の彼は、帯広で新司偵通信士として敗戦を迎え、郷里の伊香保町で町役場の職員となり、定年前は、町長を3期務めた。<br />彼は、戦友たちの消息を追い求め、また、群馬県の特攻戦没者の遺族をくまなく訪ね、慰霊碑の建立を昨年成し遂げた。<br /><br />「猪熊さん。こんなの見つけました、陸軍少年飛行兵双六です。」拡げた、色刷りの双六を指しながら、「こんなんで、われわれ少年たちが釣り上げられたんですね。」「たくさん増し刷りして、宣伝しましょうよ」<br /><br />握手して別れた彼は、1週間後、突如、急逝してしまった。<br /><br />同期生戦死者の内38名が沖縄戦である。<br />名簿を見ると昭和20.6.18摩文仁艦砲射撃、5/17首里.5.29南風原、6.22山城付近、5.17名護湾上空、5.24伊江島西方海上、5.4南西諸島洋上、3.28慶良間洋上等々とある。機上通信士、機上無線機修理、通信大隊、対空無線隊が任務であった。生きて帰ったものは殆ど語ろうとしない。<br /><br /><br /><br />少年兵・学徒動員世代<br /><br />軍隊に入って、現地部隊に行くと古兵たちが「志願をしてくる馬鹿がいる。」と私たちを囃したてた。<br /><br />もうみんな80歳を超えた「元少年兵」たちはどうして、「志願」までして戦場に赴いたのだろうか。<br /><br />私は、1925年(大正14年)生まれ頃から29年(昭和4年)生まれ頃までの世代を「少年兵・学徒動員」世代とよんでいる。<br /><br /> 志願して少年兵になるか、そうでなければ、学校は休校で軍需工場へ動員され、軍事物資の生産に明け暮れた世代である。<br /><br />私たちは、子どもの頃から軍人になることを夢見ていた。<br />小学校1年の国語教科書で<br />「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と学び、<br />唱歌の時間には<br />「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったなら 勲章着けて 剣下げてお馬に乗って ハイドウドウ」と歌っていた、<br /><br />日中全面戦争が始まった1937年(昭和12年)には「国民精神総動員要綱」が閣議で決定され、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンのもと、毎月一日は「興亜奉公日」(後に8日が大詔奉戴日)で梅干し一つの「日の丸弁当」、国旗掲揚、神社仏閣への必勝祈願、そしてバケツリレーの防空訓練である。<br /><br />「欲しがりません勝つまでは」、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」、「贅沢は敵だ」、「パーマネントはやめましょう」、「月、月、火、水、木、金、金」などのスローガンも作られていた。<br /><br />新聞、ラジオ、少年少女雑誌では、「広瀬中佐」、「橘中佐」、「乃木大将」、「東郷元帥」などの軍国美談がたっぷりと繰り広げられていた。<br /><br />3月10日の陸軍記念日は明治37・8年の日露戦争の奉天大会戦で日本陸軍が大勝利した日だ。子どもたちは講堂に集められ、陸軍の軍人から奉天大会戦の話や、旅順攻略戦の話だ。<br /><br />5月27日は海軍記念日である。海軍軍人の日本海大海戦でロシア、バルチック艦隊を撃滅した話だ。戦艦三笠を先頭に「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ。本日天気晴朗なれど波高し」というz旗上がるの話に血湧き肉躍らされた。<br /><br /> 中国戦線の拡大と共に出征兵士を送ることが毎月のようになった。日の丸の旗を振りながら、「天に代わりて不義を撃つ 忠勇無双の我が兵は…」と軍歌を歌って行進した。上海陥落、南京陥落など日本軍の大勝利が伝えられると旗行列、提灯行列で街中大騒ぎだ。子どもたちも一緒に万歳万歳と歩き回った。<br /><br />そうして、日本民族は優秀な民族だが、中国人は、支那人、チャンコロ、朝鮮人は、鮮公、バタ屋、南方の人たちは土人とさげすみ、彼らは劣った民族だから、白人に侵略されるのだ。<br /><br />「我々は日出ずる国の天子の下、アジアの平和のため大東亜戦争に征くんだ」と、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」と言う言葉を子ども心に信じていた。<br /><br /> 八紘とは広い地の果て、天下という意味、一宇とは一つの家と言うことである。八紘一宇とは、日出ずる国の天子、すなはち日本の天子の意向のもとに全世界を一体化しようという意味で日本の対外膨張を正当化するために用いられたスローガンである。<br /><br />高等小学校卒業後16歳で海軍に志願して戦艦武蔵に乗り組み、マリアナ、レイテ沖海戦に参加。武蔵撃沈の際に脱出して奇跡的に生還。戦後わだつみ会事務局長として活躍した渡辺清は、『少年兵における戦後史の落丁』で次のように書いている。<br /><br />「僕は小学校3.4年頃から、将来自分は必ず兵隊になろう。兵隊で一生過ごそう、と固く心に決め込んでいた。当時の心境を今、動機論的に一応要約してみると、<br />『俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃ偉くなれるんだ』(出世意識)<br />『国を守り天皇陛下に尽くせるのは兵隊だけなんだ』(忠誠意識)<br />そして『その兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる靖国神社の神様になれるんだ』(価値意識)ということになろうか。<br /><br />こうして僕は幼時から『国家の規格品』として身ぐるみ兵隊につくられていったのだ。つまり、生まれ落ちてから一本調子に戦争の末端に組み込まれていたのである」<br /><br />こうして少年たちは当時の天皇絶対の社会体制、軍国主義一色の社会風潮。幼い頃からの軍国主義教育、権力に迎合した新聞・雑誌・ラジオ・映画などのマスコミによる戦争賛美の宣伝煽動のもと、<br /><br /> 「天皇陛下のため」<br /> 「東洋平和のため」<br /> 「家族の幸せのため」<br /> 「祖国のため」<br /><br />と心から信じ、戦場に赴くことを栄誉と考えるようになっていたのだった。<br /><br />昭和17年5月のミッドウエー海戦の敗退と,同年8月7日のガダルカナルへの米軍の侵攻を機に戦局は大きく転換し、日本は守勢に立たされるようになっていた。<br /><br />昭和18年に始まった連合軍の反抗は、ソロモン群島を次々と攻撃しに北上していった。<br /><br />アッツ島守備隊の「玉砕」が報道された。昭和18年5月31日付け朝日新聞は大見出して報道した。<br /><br />アッツ島に皇軍の神髄<br />山崎部隊長ら全将兵<br />壮絶夜襲を敢行玉砕<br />敵2万・損害6千下らず<br /><br />1兵も増援求めず<br />烈々戦陣訓を実践<br /><br /> 戦陣訓には 生きて虜囚の辱めを受けず 死して悠久の大義に生きよ とある。<br /><br />次いで11月22日ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊の玉砕が報じられた。<br /><br />旧制中学在校生を対象とした、海軍の甲種飛行予科錬の募集は、昭和18年前半の12期生が3200名、18年後半の13期生が一挙に28000名。<br /><br />「七つボタンは桜に碇」の「霧島昇」「若鷲の歌」とともに「少年」は皆海軍に持って行かれてしまう。<br /><br />戦局の悪化、下級幹部、下士官の不足と共に陸軍の危機感が「旧制中学在学」の少年を対象とした、陸軍特別幹部候補生の制度を発足させたのだった。<br /><br />「藤原義江」が「特幹の歌」を歌い、「灰田勝彦」が「特幹兄は征く」で次いだ。<br />瀬戸内海で全国から中学生を集め、陸軍船舶部隊の大演習が行われた。<br /><br />ちなみに特幹1期は航空と船舶。船舶特幹1期は、1900名。内1700名が、ベニヤ製モーターボートに爆装して敵船舶に体当たりをする特攻海上挺身隊。そのうち1200名が、フイリッピンルソン島、沖縄、台湾沖で16歳から20歳の青春を散らしたのであった。<br /><br />私が特幹志望を父に話したのがマキン。タラワの玉砕が報じられた数日後、1943(昭和18年)年11月25日である。私の中学3年2学期である。<br /><br />陸軍の特幹は1期から4期まで約8万名、同時期の海軍の甲種予科練とほぼ同数の少年を確保したのであった。<br /><br />志願入隊の時、3人に一人は、家族の反対で、保護者の印鑑を盗み出し捺印した。合格通知が来て初めて親は子どもの受験強行を知りやむなく承知した。<br /><br />戦友たちとは戦後の生き方も,考え方も、思想も、信条もそれぞれ10人10色様々である。<br /><br />しかし、<br />私たちのような想いをもう若い者にはさせてはならない。<br />生涯の中で最も美しいたった一度の青春が、<br />戦争の片棒を担いだ青春だった、<br />こんな口惜しいことがあるだろうか、<br /><br />若者たちの青春が戦争のための青春でないよう<br />戦争の真実を、戦場体験を語り残こそうではないか<br />の呼びかけには、強弱はあれ、全員うなずき、考え、握手を交わす心地よい戦友会解散であった。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-74129719410401268292010-03-30T15:53:00.005+09:002010-05-23T11:26:10.208+09:00『少年兵』そしてシベリア・二つのインタビュー思いつくままに<br /> 戦場体験を語り継ぐ日々の中から<br /> 猪熊 得郎<br /><br />№3 戦場体験・元兵士の一人としての,私の事<br /><br /> 『少年兵』そしてシベリア<br /> 二つのインタビュー ①<br /><br /> =(このひとに インタビュー)=<br /> (聞き手=ジャーナリスト・林克明)<br /> <br /> 元少年兵として<br /> 戦争体験を語り続ける<br /> 猪熊 得郎さん<br /><br /> ここ十数年、侵略戦争や軍国主義の犯罪を隠し、むしろ過去を美化するよ<br />うな風潮が形成されてきた。このような空気に抗っているのが、元少年兵の<br />猪熊得郎さん(80歳)だ。映画にもなり、本も出版されている学徒兵とは違<br />い「少年兵」の記録はほとんどない。歴史から消されようとされている少年<br />兵としての体験を猪熊さんは語り続ける。戦争体験を後世に伝える団体を結<br />ぶ「ブリッジ」としても活動する猪熊さんに聞いた。<br /><br /><br /> 『少年兵の私がみた戦争とは<br /> 無念さ、怒り、恨み、苦悩…』<br /><br />――少年兵の実態は知られていませんね。<br /><br />猪熊得郎さん 学徒兵の13万人に対し、14歳から19歳までの少年兵は42万<br />人、特攻隊の主力は少年兵でした。<br /><br />しかし、記録が学徒兵などと比べて非常に少ない。それは手記を書くことが<br />できなかったこともあります。将校や学徒兵なら、まだ余裕があるが、少年<br />兵にはない。そんなものを書いていたらぶん殴られます。それに、まだ16歳、<br />17歳がですから、状況を認識し、自己を見つめるのは困難です。<br /><br />1943年になると、少年兵の募集が急増します。技術系の下士官を短期に養成<br />するため陸軍特別幹部候補生(特幹)が創設され、私はこれに応募しました。<br /><br />――家族の反応は。<br /><br /> 猪熊 親は反対しました。長兄は41年に召集され船舶兵で南方に、次兄は<br />学徒出陣、私より2つ上の三兄は海軍の予科練を志願し三重航空隊。その上<br />私が志願すると言ったのです。父は猛烈に反対しましたが、4日間の話し合い<br />の後とうとう諦めて受験を認めたときの父の寂しそうながっくりと肩を落とし<br />た父の姿は、今でも忘れられません。<br /><br /><br />◎最初の戦闘は16歳<br /><br /> 44年4月、15歳で水戸の航空通信学校に入りました。<br /> 私の最初の戦闘は16歳。1945年2月17日と18日、アメリカ軍は関東一円の<br />飛行場を攻撃しました。私が配属されていた常陸飛行基地に米軍の艦載機数百<br />機が飛来し、銃撃と爆撃を繰り返しました。<br /><br /> 猛烈な機銃掃射で狙われたときには、瞬間的にいろんなことが頭をよぎりま<br />した。故郷のことを思い出したり、病気で早く母をなくしているから「俺の場<br />合は、お父さん、と言って死ぬのかな」と、修羅場なのに不思議といろんなこ<br />とが頭に中に浮かびました。<br /><br /> 米軍機操縦士の眼鏡がきらりと光り、5メートルほど先に小型爆弾を落とし<br />て急上昇しました。泥まみれになりましたが命拾いしました。機銃掃射が続い<br />ていたならば殺されていたと思います。助かったのか不思議です。<br /><br /> 米軍機が飛び去った後、基地内の送信所入口付近で、爆風で飛び散った遺<br />体をかき集めました。レシーバーをつけたままの頭からは脳が飛び出し、<br />モールス信号を打った腕、血まみれの胴体・・。バラバラになった身体各部<br />を集めて人数を数えました。11体で、16歳から20歳までの戦友でした。その<br />ときまで考えていた、武勲をたてよう、お国のためになどということは、こ<br />のとき吹っ飛びました。そんな甘いもんじゃない、戦争とは殺し合いだと。<br /><br /><br />◎従軍慰安婦の存在<br /> <br />――「従軍慰安婦」の存在など目のあたりにした光景は<br /><br />猪熊 それから間もない1945年4月、満州の関東軍指揮下の第二航空軍第22<br />対空無線隊に転属。本隊は満州国の首都・新京(現在の長春)にありました。<br /><br /> 満州に来て最初の外出日のことでした。「突撃一番」(コンドーム)をも<br />たないと外出できないというのです。僕は「慰安婦のところに行かないと立<br />派な軍人にはなれないということですか」と言いました。すると「女も買え<br />ない奴に敵が殺されるか」と殴るけるの暴行を受け、血まみれになり、結局<br />外出禁止でした。<br /><br /> 内務班のすべての部屋の柱には、ノートがぶら下げてあり、慰安所の慰安<br />婦の源氏名が書かれ、何日に性病の検診を受けその結果が書いてありました。<br />日本ピーは将校を相手にする日本人慰安婦、鮮ピーは朝鮮人慰安婦で下士官<br />相手、満ピーは中国人の慰安婦で一般の兵隊が相手です。<br /><br />だから従軍慰安婦に軍が関与していないなどと言う理屈はまったく通らない。<br />王道楽土だの五族協和だのは口先だけだという実態をこの目で見てしまったの<br />です。だんだん疑問がわいてきました。<br /><br />――敗戦のシベリア抑留の体験を教えて下さい。<br /><br />猪熊 8月15日の降伏を受け、現地で戦闘停止命令が出たのは8月17日でし<br />た。飛行場にいると、将校が「最後の一兵まで戦う」と言って飛行機に乗り<br />込み、上空を3回旋回し、われわれは下から帽子を振りました。すると飛行<br />機は、ソ連の方ではなく、日本の方向へ向かって飛び去ったのです。(こり<br />ゃ、ダメだ)つくづく思いました。<br /><br />兵舎内では、撃ち合いが始まりました。「俺の仲間をリンチし自殺に追い<br />やったのをどうしてくれる」と古参兵に銃を向けるなどの事態が起きたので<br />す。また、自決した古参下士官たちの死体を中庭に運びガソリンをかけて焼<br />いていました。<br /><br /> 結局、17歳の誕生日に僕はソ連に抑留されました。<br />政府も総司令部、大本営も、国体護持(天皇制護持)だけのために、兵士や<br />居留民を捕虜として差し出してもかまわないという態度でした。それを知った<br />スターリンは8月23日、捕虜をソ連に移送し働かせることを指令しました。日<br />本政府は、まさに「棄兵」と「棄民」を行ったのです。60万の関東軍兵士が<br />「拉致」され、6万の兵士が、零下30度の異国の土となりました。<br /><br />◎職場転々とする生活<br /><br /><br />私は47年12月に生きて帰れましたが中学に戻ろうとしても、戦中は「バンザ<br />イ、バンザイ」と少年兵を送り出した校長に「中学4年の修了証書をやるから<br />他にいってくれ」と言われました。特攻崩れや少年兵崩れは排除されていた<br />のです。<br /><br />おまけに、シベリア帰りだと「アカ」と言われて排除され、ガスや水道の配<br />管をやりながら、13か所の職場を転々とし、8回解雇されました。<br />少年兵であったことを隠してきた人が多いです。(強制だった)学徒出陣の<br />場合とちがって自分の場合は志願し、侵略戦争の片棒を担いだということは、<br />自分の青春を否定することになるのです。<br /><br /> しかし自分にできるのは戦場体験を語り続けることだと思うようになりま」<br />した。そういう兵士の怒り、苦しみ、怨み、苦悩を伝えたいのです。それが私<br />の使命だと思います。<br /><br /><br />○あゆみ○<br /><br />いのくま とくろう 1928年東京生まれ。旧制中学三年時に陸軍特別幹部候<br />補生の第一期生に。45年4月満州へ転属。敗戦後はソ連の捕虜になりシベリ<br />ア抑留、47年12月帰国。ガス配管や水道配管などの仕事に従事。朝鮮戦争中<br />は「戦争反対」で占領政策違反で逮捕される。67歳で不戦兵士市民の会に入<br />会し、戦場体験を語り継ぐ活動に参加。現在同会代表理事、わだつみ会常任<br />理事などを務めている。<br /><br /><br />ーメモー<br /><br />戦場体験放映保存の会<br />「無色・無名・無償」の三原則のもとに2004年に創立された団体で、猪熊得<br />郎さんが幹事を務める。戦場体験を語り継ぎ、受け継ぐさまざまな団体があ<br />るなかで、同会は元兵士の証言をビデオ撮影し、その映像を資料館に保存す<br />ることを当初から主眼に置いている。もちろん活字資料や遺品も収集する。<br /><br /> (2009年8月19日社会新報)<br /><br /><br /> 『少年兵』そしてシベリア<br /> 二つのインタビュー ②<br /><br /> 私は15歳で少年兵を志願した<br /> 猪熊 得郎さん(不戦兵士・市民の会代表理事)<br /> =(このひとに インタビュー)=<br /> (聞き手=河崎俊夫)<br /> (2008年8月15ビスト第52号全労済たばこ共済機関誌) <br /> <br /><br />軍人は国を護る。国民は守らない。<br /> 『少年兵の無念』を私は語る。<br /> 戦争の本質は変わらない。<br /><br />――少年兵は非常に大勢いたんですね。<br /><br />猪熊 約42万人です。私が調べた数字で、間違いありません。特攻の主力は少<br />年兵です。『少年兵』というのは徴兵適齢期以前で、14歳から19歳までを対象<br />にした志願兵です。<br /><br /> 海軍飛行予科練習生(予科練)、海軍特別年少兵、海軍特別練習生、陸軍少<br />年通信兵、陸軍少年飛行兵、陸軍少年戦車兵、陸軍少年工科兵、陸軍少年野砲<br />兵、陸軍少年重砲兵、陸軍少年高射砲兵、陸軍特別幹部候補生(特幹)などが<br />ありました。少年兵は将校にはなれません。『兵隊』のままで終わる志願兵で<br />す。<br /><br /> 当時、陸軍士官学校、陸軍幼年学校、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経<br />理学校がありましたが、これらは帝国陸海軍の中堅幹部将校・職業軍人を養<br />成する学校なので『少年兵』に入れておりません。<br /><br />――学徒兵は13万人<br /><br />猪熊 私はいわゆる「学徒出陣」(注1)学徒兵と違って、兵隊になりた<br />くて陸軍特別幹部候補生へ志願して入り、対空無線隊員になりました。<br /><br /> 1928年生まれで、小学生の時から『ボクハ グンジン ダイスキヨ』とい<br />う学校教育を受けて、大日本帝国は天皇を中心にした神の国で、その天皇を<br />中心にした『八紘一宇』(注2)の『大東亜共栄圏建設』(注3)『鬼畜米<br />英のアジア支配から脱却』という当時の教育を心底から正しいと信じていた<br />のです。それが全部ウソで騙された。私はそれが悔しい。無念でたまらない。<br /><br /> そこが学徒兵と異なるところです。学徒兵は自分の進路を決めたり、徴兵<br />免除があるので大学へ入った人も多い。だから学徒出陣となったとき、反戦<br />意識が明確でなくても、軍や政府には批判力も、厭戦の気分もあった。少年<br />兵は違います。命を天皇と国に捧げると、一途に思い込んでいました。<br /><br />――志願なさったのは、中学3年生、15歳のときですね。<br /><br />母は私が中学一年のときに亡くなっていました。長兄は、招集され、南方を<br />転戦していました。次兄は学徒出陣で鉾田飛行場で軽爆撃機や特攻機の整備<br />をしていました。三兄は予科練に入隊していました。残ったただ一人の男が<br />私です。ほかには姉がいるだけです。<br /><br /> 「玉砕(注4)が続いている。日本の戦局は悪い」だから志願したいと言<br />ったら、父は猛反対でした。3日間、非常に激しい議論をしました。私は父と<br />口をきかなくなり、飯も食べなくなりました、4日目、父はついに、「征きな<br />さい」と言いました。そのときのがっくりと肩を落とした父の姿は、忘れられ<br />ません。私は「やったーっ」と意気軒昂でした。<br /><br /> 親の反対は私の父だけではありません。入隊してからかなりの大勢が、志<br />願に反対する親の目をかすめ『保護者の印を自分で押して入隊していまし<br />た。』<br /><br />――入隊したら…。<br /><br />猪熊 リンチです。罵倒され、殴られ、蹴飛ばされるのは普通です。航空隊<br />なので『急降下爆撃』というのもありました。長机の上に逆立ちさせられるん<br />です。真っ逆さまに落ちます。だから『急降下爆撃』。帯革(たいかく)ビン<br />タ。これは革のベルトで殴ること。同期同士お向き合わせてお互いにビンタを<br />張らせるのもありました。力を抜いたら大変です。<br /><br /> そういうことをされると私たちは「天皇の大御心(おおみこころ)を途中<br />でねじ曲げている奴がいる。俺は偉くなってそういう奴をやっつける」と考<br />えました。歳が上の応召兵は別だったようですが、私たち少年兵はそうでし<br />た。<br /><br />――水戸東飛行場で…。<br /><br />猪熊 まさに『雲霞(うんか)の如き』米機に機銃掃射。爆弾を受けて180人<br />死にました。腕や足が電線にぶら下がっていたり、飛んだ首から脳みそが出て<br />いたり、その顔から目玉がだらりと飛び出したり…。そのとき初めて戦争のほ<br />んとうの姿を見たと思います。無惨です。<br /><br /> <br />――そのあと、当時の「満州」へ転属になったんですね。<br /><br />猪熊 新京(現・長春)へ行きました。古兵の多い関東軍のリンチは内地よ<br />りもひどいものでした。「お前たちを殴っても、まだ下士官でないから、上<br />官暴行罪にならないんだ」と激しくやられました。<br /><br /> 私たちは満州に『五族共和』の『王道楽土』(注5)が実現していると<br />思っていました。とんでもないことで、私たちは一度、武装して中国人部落<br />へ入りましたが、子どもたちからさえ石を投げられましたが、怖かったです。<br /><br />――敗戦の頃のお話しを…。<br /><br />猪熊 「ザバイカル方面のソ連戦車を撃退する」という高級将校を乗せた飛<br />行機をみんなで帽子を振って見送ったら、飛行機は旋回して日本へ逃げてい<br />ってしまいました。<br /><br /> 混乱で収拾がつかなくなって部隊長は「自分の身は自分で処せ」と命令し<br />ました。半分くらい脱走しましたが、ソ連軍やゲリラや中国人に襲撃されて、<br />大半が帰ってきました。帰ってこない人もいました。それで部隊長は、「一<br />丸となって帰り、祖国再建につくす」とまた命令しました。<br /><br />――そしてソ連の捕虜に…。<br /><br />猪熊 そうです。食料がありません。食料を糧秣倉庫から盗んでくるのです。<br />「若い少年兵は先頭に立ってやれ」…。<br /><br /> それからシベリアのシワキ収容所へ連れていかれました。伐採した材木を<br />貨車に積み込む仕事でした。零下40度。最初の冬に大勢死にました。シベリ<br />アの平均は10人に一人死んだと言われていますが、シワキでは6人に一人死<br />にました。<br /><br /> 食料は軍単位に来ます。軍には階級が生きていて、まず、将校が飯盒一杯、<br />下士官が飯盒半分、古参兵が4分、兵隊は飯盒の蓋に僅かです。寒さ、栄養失<br />調病気、絶望で死にました。衣類も兵隊にはボロだけです。死んだのは兵隊だ<br />けです。<br /><br />私は父に不幸をした。どんなことがあっても帰国して親孝行をしたい…その気<br />持ちが私の生きる力になりました。<br /><br /> 隣の戦友が下痢をすると嬉しいんです。「ヤツの飯が食える」。死体が屋外<br />に並ぶと、翌朝までにはパンツもない丸裸です。衣服は日本人が奪って、パン<br />やスープと取り換えるんです。<br /><br /> それで「階級章をとれ」という民主化運動が起こりました。準備も秘密で必<br />死です。成功したんですが、ソ連軍に弾圧されました。しかし何度もやって成<br />功させました。後の民主化運動は『スターリン万歳』ですが初期の民主化運動<br />は、もしこれがなかったら、もっと多くの人が死んでいたと思います。<br /><br />――帰国は…。<br /><br />猪熊 19歳でした。ナホトカには浜辺があります。列車で着くとみんな海辺<br />に駆け出します。海へ手を突っ込みます。「この海は祖国へ続いている」…。<br /><br /> 品川で長兄と会って兄の家へ行きました。父は事故死で仏壇の中でした。す<br />ぐ上の兄は特攻で戦死、18歳でした。<br /><br /> 私は復学して勉強をしたかった。学校へ行ったら「万歳万歳」で送り出した<br />担任が校長をしていました。私は邪魔なんでしょうね。「君は中学3年で軍隊<br />へ行ったが4年修了の卒業免状を出す。もう学校へ来るな」。<br /><br /> 私は、シベリア帰りの要注意人物にされ、学歴もない…でも飯を食わなけれ<br />ばいけない…水道衛生工、電気工、自動車修理工、ガス配管工…転々としまし<br />た。みんな中小零細企業です。<br /><br /> 1949年に私はガス配管工でした。そのとき会社の事務所に働いていた妻<br />と会いまして1951年に結婚しました。どこへ勤めてもすぐクビになるので<br />妻には、ほんとうに、大変な苦労をかけました。<br /><br /> 私は戦中・戦後のことは話したくないと思っていました。しかし65,6歳<br />頃から、こういうことはどこかに残しておかなければいけないと思い、語り始<br />めました。<br /><br /> いま自衛隊にも「少年自衛官」ともいうべき陸・海・空の「自衛隊生徒」と<br />いうのがあります。これは中学卒業者を対象にした制度です。入隊と同時に高<br />等学校の単位取得と自衛隊の生徒教育課程3年の勉強をして卒業になります。<br /><br /> 私は若い人に考えてほしいと思います。戦争を始めるとき、国の指導者は決<br />して、人を殺して他国を占領する悪いことだとは言いません。いいこと…いま<br />は「自由、人道のため」と言っています。<br /><br /> しかし、殺し合いであるという戦争の本質は変わりません。戦争はボタンを<br />押すだけでもありません。<br /><br /> 軍人は国を護る武力集団であって、国民を守るものではありません。<br /><br />――ありがとうございました・<br /><br /> 言葉の解説<br /><br />(注1)学徒出陣<br /><br />学徒出陣とは1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍<br />する20歳以上の文化系(および農学部農業経済学かなどの一部の理系学部の)<br />学生を在学途中で徴兵し出生させたことである。<br /><br />兵役法などの規程により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学<br />生は26歳まで徴兵を猶予されていた。<br />しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。<br /><br />1941年10月、大学、専門学校などの修業年限を1ヶ月短縮することを定め同年<br />の卒業生を対象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌1942年2月に入隊<br />させた。さらに1942年には、予科と高等学校も対象として6ヶ月間短縮し、9月<br />卒業。10月入隊の措置をとった。<br /><br />そして、さらなる戦局悪化により下級将校の不足も顕著になったため翌1943年<br />10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を<br />公布した。<br /><br />これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期<br />措置を撤廃するものである[3]。この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時<br />徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ、同年10月と11月に徴兵<br />検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させること<br />とした。<br /><br />この第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場<br />では文部省主催による出陣学徒壮行会が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相ら<br />の出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。<br /><br />なお、1943年10月には教育に関する戦時非常措置方策が閣議決定され、文科<br />系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例な<br />ども定められた。さらに翌1944年(昭和19年)10月には徴兵適齢が20歳から<br />19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。<br /><br />1943年の徴兵対象者拡大の際、学徒出陣の対象となったのは主に帝国大学令<br />及び大学令による大学(旧制大学)・高等学校令による高等学校(旧制高等<br />学校)・専門学校令による専門学校(旧制専門学校)などの高等教育機関に<br />在籍する文科系学生であった。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、<br />徴兵検査を受け入隊した。<br /><br />これに対して理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶<br />予が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。ただし、農学<br />部の一部学科(農業経済学科など)は「文系」とみなされて徴兵対象とな<br />った[4]。しかし、末期には医学部をのぞく理系学生も徴兵された。<br /><br />また、教員養成系大学(師範大学)の理系学科(数学、理科)に在籍する<br />者も猶予の制度が継続された。<br /> 明治神宮外苑、国立競技場近くに『出陣学徒壮行の地』の碑がある<br /> 碑 文<br /><br />昭和十八年十月二日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国<br />の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。<br />この非常措置により同年十二月、約十万の学徒がペンを捨てて剣を執り、<br />戦場へ赴くことになった。世に言う「学徒出陣」である。<br /><br />全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年十月二十一日、ここ元・<br />明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺七十七校が<br />参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。<br /><br />折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋め尽くした<br />後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動<br />に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってその実況を報道した。<br /><br />翌十九年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子およ<br />び女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶<br />えた。<br /><br />時流れて半世紀。今、学徒出陣五十周年を迎えるに当たり、学業半ばに<br />して陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我<br />ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若<br />き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。<br /><br />(注2)八紘一宇<br /><br />八紘一宇(はっこういちう)とは、本来は「人類皆兄弟/人間皆家族」<br />の考えから「世界は一つの家である」という意味の語だが、戦前、日本<br />の軍部に「日本を中心に、人類を統合すること」の意味に便用され、戦<br />争遂行スローガンとなった。<br /><br />1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱を策<br />定、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。基本国策要綱の根本方針で、<br />「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招<br />来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根<br />幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことであると定められた。<br /><br />八紘一宇の説明として、三省堂の大辞林では、「第二次大戦中、日本の<br />海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、としている。<br /><br />また、世界大百科事典では、「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・<br />併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・<br />正統化する思想・運動である超国家主義の典型」と説明されている。<br /><br />(注3)大東亜共栄圏<br /><br /> 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、欧米諸国(特にイ<br />ギリス・アメリカ)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、<br />東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を<br />建設しようという、大東亜<br />戦争(太平洋戦争・十五年戦争)において日本が掲げたスローガンである。<br /><br /> 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)[ 日本大百科全書(小学館)] <br />中国や東南アジア諸国を欧米帝国主義国の支配から解放し、日本を盟主に共<br />存共栄の広域経済圏をつくりあげるという主張。太平洋戦争期に日本の対ア<br />ジア侵略戦争を合理化するために唱えられたスローガンである。<br /><br />(注4)玉砕<br /><br />玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争(大東亜戦争)において、外地で日本軍<br />守備<br />隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用いられた語である。<br /><br />明治維新の頃、藩閥政府が天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようになったが、<br />それによって天皇のイメージに威厳や崇高さ、潔さなどが付け加えられると<br />いう効果があった。そのため明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く<br />死ぬことです」というイメージが生まれた。<br /><br />1886年発表の軍歌「敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)にも<br /><br />敗れて逃ぐるは國の恥 進みて死ぬるは身のほまれ<br />瓦となりて殘るより 玉となりつつ砕けよや<br />畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず<br /><br />と歌われている。<br /><br />玉砕といっても、全員が死亡した例はきわめて少ない。部隊としての降伏は<br />希だったが、投降した兵や重傷捕虜が必ず発生している。投降を試みた兵士<br />が相手側(米軍)に射殺された例もいくつか指摘されている。<br /><br /> 「玉砕」の始まり <br />第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列<br />島アッツ島の日本軍守備隊約2,600名が全滅した時である。「全滅」という<br />言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに清く砕け散った”と<br />印象付けようと、大本営によって生み出された、ただしこの時も、実際には<br />全員が死に絶えた訳ではなく、守備隊2650人のうち、29人が捕虜になって<br />いる。<br /><br />大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵<br />よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対<br />し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻<br />撃を敢行せり。爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にし<br />て攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。<br /><br /> 主な玉砕戦 <br />1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕 <br />1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕 <br />1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕 <br />1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕 <br />1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕 <br />1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕 <br />1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕 <br />1944年8月11日:グァム守備隊玉砕 <br />1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕 <br />1944年9月13日:騰越守備隊玉砕 <br />1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕 <br />1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕 <br />1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕 <br />1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了) <br /> <br />本土決戦と一億玉砕 <br />大戦後期、連合国軍が日本本土に迫ると、軍部は「本土決戦」の準備を開始<br />するとともに、「一億国民[3]の全てが軍民一体となって玉砕する事で連合<br />国軍は恐怖を感じて撤退するだろうし、たとえ全滅したとしても日本民族の<br />美名は永遠に歴史に残るだろう」と主張し国民の士気を鼓舞し総力戦体制の<br />維持を試みたが、1945年8月に入ると原子爆弾の投下やソ連対日参戦など、<br />軍部の思惑を裏切る事態が次々に発生し、遂に日本はポツダム宣言を受諾し<br />て降伏(玉音放送)をしたため、本土決戦は行われることは無かった。<br /><br />(注5)五族共和・王道楽土<br /><br />満州国は、1932年から1945年の間、満州(南満洲:現在の中国東北部)に<br />存在した、事実上日本の傀儡政権、つまり実質的な植民地とされている国家<br />である愛新覚羅溥儀満洲国皇帝は国家理念として、満州民族と漢民族、モン<br />ゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国<br />に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古<br />人)を掲げた国民国家であることを宣言した。<br /><br />王道楽土(おうどうらくど)は、1932年、満州国建国の際の理念。 アジア<br />的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統<br />治(王道)で造るという意味が込められている。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-75645249687834885692010-03-24T18:57:00.002+09:002010-03-24T19:02:21.997+09:00お爺ちゃんの一代記思いつくままに<br /> 戦場体験を語り継ぐ日々の中から<br /> 猪熊 得郎<br /><br />№2 戦場体験・元兵士の一人としての,私の事<br /> おじいちゃんの一代記<br /><br /><br />「トーキョー グラフテイー」という若者向け写真雑誌がある。<br />昨年(2008年)2月号に、何を好んでか、私の「一代記」なるものが、<br />30葉の写真とともに、4ページにわたって掲載された。<br />こんな生き方をしたおじいちゃんもいると言うことだ。<br />写真説明もつなぎながら、加筆補正して紹介する。<br /><br /><br />TOKYO Graffiti<br /> New Generation Magazine<br /> 第42号 2008年1/25<br /> <br /> おじちゃんの一代記<br /> 猪熊 得郎<br /> 東京都日本橋区(現中央区)出身<br /> 神奈川県横須賀市在住<br /><br /> 1928年、<br /> 猪熊家の7人兄弟、<br />6番目、4男として<br /> 生まれる。<br /><br />○ 大人になったら軍人になる<br /><br />生まれは日本橋浜町。祖母が派出看護婦会を経営していた。隅田川、新大橋の袂で蟹を捕って遊んだ。<br /><br />小学、中学時代は牛込市ヶ谷富久町、靖国通りに面して浅草千束町生まれで薬剤師の父が経営するロク薬局。母は小学校入学前に入院し、中学一年の時に亡くなった。五男二女の四男だが、日本橋浜町、市ヶ谷富久町、養子で神戸行きの弟と兄弟ばらばらだった。<br /><br />毎日、家の前を、鉄砲担いだ兵隊が通るのを眺めて育ち、小学 1年で「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ、」と学び、子供心に「大人になったら、軍人になって国のために尽くすのだ」と一途に思っていた。<br /><br />○ 15歳で少年兵を志願・シベリア抑留<br /><br />父の猛反対を押し切り中学三年を終え1944年4月、志願して水戸市郊外の陸軍航空通信学校に入隊した。<br /><br />○ 軍隊生活 15歳・16歳<br /><br />支給される野菜一杯入った雑炊を食べるのが何よりも楽しみだった。<br />軍隊生活で、趣味どころではなく、趣味なんて言ったら殴られる感じだった。<br />とにかくモールス信号を覚えることで精一杯であった。<br /><br />「動作が鈍い」とぶん殴られ、「声が小さい」と蹴飛ばされる毎日だが、「立派な軍人になるぞ」と思って訓練に励んでいた、<br />「絶対に日本は勝つ」と思っていた、<br /><br />○シベリアで捕虜生活 17歳 18歳<br /><br />1945年8月、第22対空無線隊員として、旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。国際法を無視したソ連の捕虜として17歳の誕生日にアムール川を渡り、シベリア鉄道沿線シワキ収容所で重労働。凍傷、栄養失調、発疹チフスなどで、6人に1人が死んだ。<br /><br />森林の伐採、製材作業、貨車積み込み作業、鉄道工事など。零下30度を超える寒さに次々戦友たちは倒れ、生きることに精一杯だった。<br /><br />「汽車が出る、帰るんだ、味噌汁が飲める、お母さん。」そう言ってバタッと死んだ戦友の声が耳に残っている。<br /><br />日本にいつ帰れるのか、帰れるのかさえも分からなかった。楽しいことは何もなく、ただ、生きることだけが望みだった。<br /><br />○ 日本に帰国 19歳<br />1947年12月舞鶴に上陸、復員、19歳。祖国日本は美しかった。<br /><br />○ 中小零細企業を転々、生きることに精一杯。<br /><br />日本橋の家も、富久町の家も空襲で跡形もない。父も死んでいて、親不孝のまま。2歳上の兄は、特攻隊員として18歳で戦死。「故郷の歌」を聴くと涙が出てくる。<br /><br />母校へ行ったら万歳、万歳と送り出した校長は、4年終了の免状をやるから他所へ行けと冷たくあしらわれ口惜しかった。<br /><br />学歴も、技術もないシベリア帰り、少年兵帰りに世間の風は冷たい。生きるために精一杯。ガス配管工、水道衛生工、化学工、電機工、自動車修理工など労働基準法など通用しない中小零細企業を転々として働いたが、1951年23歳の時妻と出会い結婚した。<br /><br />○ 社会の矛盾 下積みの悲哀<br /><br />肉体労働はきつかったが、シベリア時代を思うと乗り切れた。先輩の後ろから見つめて技術を盗み、みんなが帰った後、一人で実習をした。<br /><br />腹が空いて仕方がないので、給料をもらうと先ず米と味噌と醤油を買い、ヤミの食券を探した。銀座で下水道工事をして穴を掘っていた。5時過ぎると、同年輩のサラリーマン男女が着飾って、はしゃいで通り過ぎる。口惜しく、悲しく涙して仕事をした。<br />社会の矛盾、下積みの悲哀が骨身に染みた。通信教育で勉強をした。平和運動や市民運動に参加するようになった。<br /><br />○ 朝鮮戦争<br /><br />1950年6月に朝鮮戦争が始まった。<br />船に乗ってお金を貯めることを考えた。船も出航日も決まっていたが、直前に「戦争」が始まった。<br />「畳の上で死にたい」、「あたたかい家庭が欲しい」、無性にそんなことを考え、船乗りを止めた。<br />その船は、朝鮮戦争に徴用されたらしい。どうなったのだろうか。その後の消息を聞かない。<br /><br />東日本重工(三菱下丸子)で自動車修理、さんこピン(日給310円)の直傭工<br />だった。<br />工場は、アメリカ軍直轄の軍事工場だった。銃を持ったアメリカ兵の監視の下、朝鮮戦線で壊れたジープ、トラックなどをオーバーホール、修理再生、送り返すのが仕事だ。<br /><br />「朝鮮戦争反対」「日本の労働者は朝鮮人民と戦わない」と「サボタージュ・おシャカ闘争」の抵抗グループがいくつも出来た。<br /><br />1952年4月30日、<br />「朝鮮戦争」に反対の活動をしたと言う理由で解雇された後、「占領政策違反」政令302号で私は逮捕された。<br /><br />講和条約発効は4月28日、占領政策違反の名目が立たず、私は15日で釈放された。<br /><br />警察は口惜しくて7月、今度は、「朝鮮戦争反対」の200名の無届けデモを指<br />揮したと「公安条例違反」で逮捕された。<br />私は完全黙秘で23日で釈放された。<br /><br />この間妻は住む家もなく、知人の家を転々とした。おなかの子どもは、九ヶ月で死産した。<br />私の長女だ。<br /><br />若い娘さんを見るたびに、生きていたらどんな娘に成長しただろうと思った。<br />いま、生きていたら50歳台半ばだ。<br /><br />あの娘やその孫娘と一緒に平和の道を歩めたらどんなに楽しかっただろうかなどと思うことがある。<br /><br />○ 新島闘争<br /><br />1963年から64年の伊豆七島、新島でのミサイル試射場設置反対闘争では、何回も延べ半年位、オルグで島の生活をした。<br /><br />冬2月は西風で船が着岸できない。小舟に乗り換え、舳先にロープを結び、島の人が何十人も引っ張って砂浜に乗り上げる。<br /><br />オルグの仕事は、反対同盟の家を回って励ますことだ。<br />三度三度、どこかの家で食事が出ないようではオルグとして失格だ。<br />毎食「くさや」のおかず、これも合格条件だ。<br /><br />どこかの家を訊ねると、たちまち近所の「いんじー」「おんばー」たちが、話をしに来るようになって、一人前のオルグだ。<br /><br />闘争の収束時は、平和団体の私と、y大の二人のオルグだけだった。<br />先日、「戦争体験を如何に語り継ぐか」のある団体の集会があり、私は、パネラーの一人として招かれた。<br />ところが、その集会の司会は某大学名誉教授M氏、45年前の新島y大オルグであった。<br /><br />お互い黒髪ふさふさとした若者であったが、45年の歳月を忘れて固い握手をした。長いこと歩き続けると、こんな嬉しい再会にも恵まれる。<br /><br />○ 朝の来ない夜はない<br /><br />1949年の松川事件では、はじめの頃署名に行くと、列車転覆の犯人をかばうのかと塩を振りかけられた。それでも粘り強く運動を続けた。1963年、14年目に最高裁で無罪判決が出た。<br />真実を守ることは大変なことだが、朝の来ない夜はないと私は信じている。<br /><br />○1960年の安保闘争。<br /><br />はじめの3年間、署名は集まらない。集会で人が来ない。それでも一生懸命、細々としたデモや集会を繰り返し、署名運動にも取り組んでいた。国民的大運動になったのは、59年の暮れからだ。<br /><br />60年になると毎日、安保安保でデモに明け暮れていた。<br />渋谷や新宿の駅前で「声なき声の会」の旗を立てしばらくして歩き出す。<br />国会への「請願行動」だ。歩きはじめは、20名か.30名が、国会に着く頃には2000名を超える人が付いてくる。労働組合などに関係なく、何処の組織も持たない人たち、主婦などもたくさん参加してくるのだ。<br /><br />6月に入ってからのデモはフランスデモだ。<br />30列、40列の横隊。新橋の道路など道一杯に横隊を組み堂々とデモをする。<br />そんな盛り上がりだった。、<br /><br />○ 幸せな結婚生活と転職<br /><br />幸せとはなんだろうか<br />とにかく勉強したくていろいろ学んでいた。<br />「社会の土台は経済だ。経済の仕組みを体系立って学ぼう。」と各通信教育の案内書を取り寄せた。<br /><br />法政大学の大内兵衛総長が「単位取りでなく、真理のための学問を学ぼう」と書いていたのに背中を押され法政の通信教育を始めた。<br /><br />当時は、「教員」「自治体職員」で、大卒の資格を取る目的の学生が多かった。3年間通信教育学生会の会長で、「入学式」や「卒業式」には、通信教育部長教授の後、学生を代表して挨拶をした。9年間在籍をした。<br />「通信教育」学生会長のおかげで、「特幹」教育隊時代の戦友とも再会した。<br />その後、大学教授になったり、「市民派」弁護士になったりのたくさんの友人が出来た。<br /><br />経理簿記の資格などもとり、農業関係の新聞記者、医療生協の運動で診療所建設、事務長、専務理事。中小業者の経営を守る運動などいろいろな運動に取り組んだ。<br /><br />○ 苦労をかけた家族<br /><br />妻と息子二人に次男の嫁と孫。こんな父親だから家族には随分苦労をかけた。「運動」をする時間、商売か金儲けになることをしていたらもっと生活も楽だっただろう。お金のないということは辛いものだ。未だに借家住まい。<br /><br />でも後悔はしていない。まっすぐ、頭を上げ、胸を張って歩いてきた誇りがある。<br />家族も、そんな父親の生き方を認めてくれるようになった。こんな嬉しいことはない。<br /><br />少しずつ、家族とハイキング、妻との旅行、カメラやパソコンなど楽しみを持つ時間を見つけるようにした。息子二人はそれぞれ生き方を持ち、自分の生活を歩んでいる。<br /><br />○ 妻との夫婦旅行<br /><br />年金がもらえる一年前、社会保険事務所で記録を調べた。年限が足りないという。職業歴は虫食いの空白だらけ。1年がかりで空白の部分の会社名と住所を探し、そこの社会保険事務所へ行き記録を調べた。厚生年金未加入の会社もあったが空白を埋め、年金がもらえた。<br /><br />しかし生活するには足りない。年金を貰いながら働いた。妻に大変苦労をかけたので若い時に出来なかった夫婦旅行を始めた。<br /><br />初めての一泊旅行は結婚して40年目の箱根、妻が修学旅行を欠席した奥日光、春、秋の京都、金婚式は松島。そして戦死した兄の戦没状況の探索、足跡を求め、三重、土浦航空隊跡、毎年の大津島回天慰霊祭、沖縄平和の礎追悼の旅等々。<br /><br />○ 沖縄平和の礎<br /><br />人間魚雷回天特攻隊で戦死した兄の追加刻銘で、1997年6月23日の沖縄慰霊の日以来、摩文仁の丘平和祈念公園で兄の記念碑に毎年献花している。<br /><br />18歳で戦死した兄は、愛する人を守るため、国のために戦死した。ところが、厚生省(現厚生労働省)の記録が間違っていて、戦死した場所も、戦死した日時も明確になっていない。<br /><br />一生懸命戦死した兄がこのまま忘れられてはかわいそうだと思う。厚生省の記録は4年かかって改訂させたが、まだ正確な戦没場所はわかっていない。そのため、毎年沖縄に行って兄の足跡を探している。<br /><br />○ 現在 <br /> 生涯の仕事、戦場体験を語り継ぐ<br /><br />妻は脳梗塞から寝たきり、特別養護老人ホームで生活。毎週1度、部屋の花を替えに行く。<br />私は、病気後の後遺症で平衡感覚が正常でない。ふらつきで杖が離せないが、リハビリを兼ねて出来るだけ歩く。<br /><br />私たち元少年兵は、国のため、平和のためと信じ精一杯、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。<br />ところがその戦争は間違った戦争だった。青春を繰り返すことは出来ない。こんな口惜しいことはない。<br />これを私は「少年兵の無念」という。<br /><br />若者たちの青春が戦争のための青春でなく、<br />平和のための豊かな青春であることを心から願っている。<br /><br />「少年兵の無念」を語ること<br />戦場体験放映保存の会をはじめ戦場体験を語り継ぐ運動を強め、拡めること、<br />42万の少年兵の調査研究、<br />18歳で戦死した、兄の戦没状況の調査、<br />それが私の生涯の仕事である。<br /><br /> おわり猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com1tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-52524439877824013552010-03-22T09:08:00.003+09:002010-03-22T09:32:11.555+09:00(1)戦場体験・元兵士の一人として戦場体験・元兵士というのはみんな80歳を過ぎた「高齢者」である。<br />最近は、「後期高齢者」と言う用語が使われ、用のない年寄りは、<br />医療にしても、福祉にしても税金の無駄遣いだから早く死んでくれと<br />せき立てられている。<br /><br />御祖父さん・御爺さん(おじいさん)と言う言葉がある。広辞苑では、<br />①祖父を敬っていう語、<br />②男の老人を敬い、また親しんでいう語とある。<br /><br />一方「じじい」という言葉がある。<br />「じじ」とは<br />①父母の父親<br />②老年の男子の称、<br />おきな。老人。じい。の事である。<br />そして「じじい」と言う言葉は、<br />「じじ」をののしっていう語のことである。<br /><br />「じじい」というのは、露骨だから、<br />その前後に「お」と「さん」を着ける使い方も、<br />「後期高齢者」と同じようなニュアンスで使われ出したりしている<br />ような気もしてならない。やはり年よりの「ひがみ」なのだろうか。<br /><br />「戦場体験放映保存の会」の「聞き取り対象」は、戦場体験をした、<br />元兵士である。<br /><br />「戦場体験」とは、どういう事なのか、「戦場体験をした、元兵士」<br />とは、どういう人たちか、改めて考えてみることも必要なのではない<br />だろうか。<br /><br />「戦場体験とは何か」については改めて書くつもりだが、ここでは、<br />戦場体験・元兵士の一人としての,私の事を少し書いてみることにする。<br /><br /><br />① 杖をつき老老介護<br /><br /> 映画「語らずに死ねるか」の冒頭、人間魚雷回天基地の調整場<br />(回天整備工場)から、「魚雷発射場」へのトンネルをコツコツと<br />杖をついて歩く「元兵士」が現れる。これが私である。DVDの表<br />紙も、ポスターも、何故か、杖をついた私をモチーフにしたデザイン<br />である。右奧の写真は、回天特攻隊白龍隊の出撃直前のもので、<br />前列左から2番目が当時18歳の私の兄である。<br /><br />こうなった以上、わたし自身のことも書く必要があるのだろう。<br /><br />杖をついているのは、「戦傷」などとは縁もゆかりもない。<br />「平衡感覚失調症」と言うことなのだ。<br /><br />息子二人はもう既に40代、別居している。妻は「特別養護老人施設」で、<br />私は、「独居老人」暮らしで、週2日ヘルパーさんが来てくれる。<br /><br />9年前餅がのどにつかえて救急車で運ばれた妻は、2分間程の呼吸停止の<br />状況の影響で、一命は取り留めたが脳梗塞歩行困難となってしまった。<br />当初は自宅介護、いわゆる「老老介護」である。<br /><br />身心とも疲労困憊の時「健康診断」に行った。病院は、黴菌の巣窟である。<br />右耳から悪質ウイルスの侵入、10日後には、「ラムズハント症候群」<br />「髄膜炎の疑い」とやらで、妻を残して緊急入院。<br /><br />2ヶ月で退院したが、「平衡感覚」が正常に戻らず、気圧の変動に弱い。<br />晴天続きの時は何ともないが、雨の日、低気圧の接近や不連続線の通過等<br />の前は、頭痛、めまい、身体のふらつき等が現れる。屋外では、どんなに<br />近くでも「杖」が手放せない。<br /><br />私の退院と入れ違いに妻が入院した。<br />しかし病院で老人は、4ヶ月以上置いておかない。「医療点数」が下がり、<br />病院経営が悪化する。入退院を繰り返したあげく、「療養病棟」のある病院<br />に移った。<br />施設は整って環境も良いが、1ヶ月22万円。とてもたまらない。<br /><br />4ヶ月で空きのある「老人保健施設」を探し当てた。<br />しかし、「老人保健施設」は、自宅介護が出来るようにリハビリ、訓練の<br />施設である。4ヶ月以上同一施設に滞留できない建前になっている。<br />入所した翌日から次の施設探しである。<br /><br />「ケアマネージャー」の自宅介護に戻れるまで、回復するのは無理だ。老人<br />ホームに入れることを考えなさいの助言に、金婚式まで苦楽を共にした妻と<br />別れた生活を覚悟した。<br /><br />とは言っても「有料老人ホーム」は、入居金1千万、入居費1ヶ月25万円<br />などが普通だ。とても無理だ。<br />6ヵ所の「特別養護老人ホーム」に申し込んだ。どこも順番待ち4年は待た<br />なければならない。<br />幸い「老健」から今の「特養」に移って、4年になる。毎月約7万円が入所<br />経費だ。<br /><br />② なんとしても長生きをしたい<br /> <br /> 猛烈な腹痛に襲われた。7転8倒、いろいろ検査した結果「総胆管結石の<br />疑い」と言うことだ。要するに肝臓から十二指腸に流れる胆汁が結石して、<br />管が詰まっていると言うことだ。<br /><br />未だ10年は、呆けずに戦場体験を語り続けるつもりだ。そのために、体力<br />のあるうちに、早い時期に入院して、「処置」をするつもりだ。十数年欠か<br />したことのない今年の兄たち「回天戦没者追悼式」は欠席することにした。<br /><br />ここ数ヶ月で友人、知人、戦友等せいたしかった昔からの仲間が5人も死ん<br />でしまった。<br />そんなことが時折思い出すせいか、いつ何が起こるかなど考えるようなこと<br />もある。<br />会合などで会った親しい人などには、帰りに際必ず声をかけるようにしてい<br />る。もう会えないということもあるからだ。<br /><br />最近こんな事があった。会議とぶつかったのでヘルパーさんの来る日を<br />キャンセルした。ところがヘルパーセンターが日を間違えてしまった。<br />ヘルパーさんが来て、玄関が閉まったままベルを鳴らしても返事がない。<br />玄関と家の中の豆電球がついている。「斃れているのか」。驚いたヘル<br />パーさんは、「センター」と「大家」さんに連絡した。大家さんが合い鍵を<br />持って飛んできた。家にはいって、「留守」だと分かり安堵したが、一時大<br />騒ぎとなった。<br /><br />センターは私の携帯を鳴らした。生憎電車の「車内」だった。五回程鳴らし<br />たが出ない。長男の職場に連絡した。長男からの携帯がかかってきた。幸い<br />丁度、電車を降りホームに出た所であった。そこで、私の「無事」が確認さ<br />れ一見落着したひと幕であった。<br /><br />③ 学徒出陣と少年兵<br /><br />11日から13日の昨日まで寝込んでしまった。<br />10日に少し熱があったが無理をしたためだ。11月の明治大学学園祭の<br />企画で、「学徒出陣」前後の学生や青年たちの体験ビデを収録をするのだ。<br />学生たちにどうしても語り遺したい。体験者の責務だ。少〃の発熱は我慢し<br />た。<br /><br />依頼のあった「わだつみ」会から2名の出演である。、学徒出陣で特攻隊出<br />撃直前に敗戦を迎えた、わだつみ会会長と元少年兵の私である。<br /><br />私のインタビューは次のように始まった。<br />「猪熊さんは今の大学生と同じ年代、18歳・19歳の頃、何処で何をして<br />いたのでしょうか。?」<br /><br />「私は、18歳の時には、シベリアで零下三十度の酷寒、一日300グラム<br />の黒パンのひもじさ、森林の伐採、製材、貨車積み込みの重労働で日本軍兵士<br />の10人に一人が死ぬ捕虜生活を送っていました。」<br /><br />「どうしてそんなことになったのでしょうか。」<br />「私は、15歳で少年兵になりました。今でいうと高校1年入学の時です。<br />少年兵とは14歳から19歳まで、徴兵前の少年たちを短期間の教育訓練で<br />第一線に送り出すという制度です。<br /><br />太平洋戦争までは2万5千人、約70%が戦死しています。<br />1941年12月のアメリカ・イギリスなどに宣戦布告した以後で40万を<br />超える少年が戦場に赴きました。<br /><br />一口に40万といいますがどんな規模でしょうか。1年から3年まで合計<br />500名の中学校があります。これが800校の生徒全員が戦場に駆り出され<br />たのです。この明治大学なら学生数2万人、20校ぶんです。<br /><br />学徒出陣で徴兵適齢期の若者を根こそぎ戦場に駆り出しました。そして次に<br />少年を大量に駆り出したのです。特に1943年12月の学徒出陣の後が<br />ヒドイ。当時の旧制中学4年・5年です。今の高校1・2年の年代ですね。<br />少年兵でない者は授業を止めて軍需工場で軍事物資の生産です。<br />(付け加えるならば、農村では口減らし、14歳から志願する海軍特別年少兵、<br />あるいは満蒙開拓団青少年義勇軍です。)<br /><br />ですから私は、1926年頃から1929年頃の世代を「少年兵・学徒動員世代」<br />とよんでいます。<br /><br />学徒出陣と少年兵は一連のものです。若者たちを消耗品として戦場に送り出す一<br />貫した軍部の政策だったのです。………」<br /><br /><br /><br />④ 兄と弟二人の少年兵<br /> 猪熊 得郎<br /> 一九四三年冬<br />二つ上の兄は<br />「国難ここにみる」と『元寇』を歌って<br />「予科練」を志願した。<br />十五歳の弟も<br />必死で父を説得した。<br /><br />アッツもタラワも<br />そしてマキンも<br />みんな玉砕だ。<br />今行かなければ<br />大変なことになる。<br />「特幹」を志願する。<br /><br />「日の丸」の金縁の額と<br />白馬に跨った「大元帥陛下」の写真が<br />父と子を見下ろしていた。<br />四日後、とうとう父は諦めた。<br />「行きなさい<br />でも、生命(いのち)は大切にな」。<br /><br />一九四四年夏<br />日の丸に育てられ<br />日の丸に鍛えられた兄と弟は<br />水戸陸軍航空通信学校の営門で<br />最後の別れをした。<br /><br /> 陸軍特別幹部候補生<br /> 陸軍一等兵の弟は<br /> 十五歳十一ヶ月<br /> 海軍飛行予科練習生<br /> 海軍飛行兵長の兄は<br /> 十八歳五ヶ月<br /><br /> 二人の父は<br /> いつまでも敬礼し見つめ合う息子たちを<br /> 黙ってじっと見つめていた。<br /> 日の丸に育てられ<br /> 日の丸に鍛えられた息子たちと<br /> 父はもう会うことが出来なかった。<br /><br /> 兄は数日後<br /> 土浦海軍航空隊から特攻隊員として<br /> 瀬戸内海大津島(おおづしま)の <br /> 人間魚雷「回天」基地に<br /> 旅だって行った。<br /><br /> 一九四五年早春<br /> 兄は沖縄に向かった。<br /> 回天特攻隊を乗せた輸送艦は<br /> 待ちかまえた<br /> アメリカ潜水艦の雷撃で沈没<br /> 回天もろとも、全員戦死した。<br /><br /> 一九四五年夏<br />弟は旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。<br />日の丸と君が代の下<br />死ぬことを教えた<br />高級将校たちは<br />いち早く日本へ飛び去った。<br /><br />脱走、略奪、殺し合い、<br />混乱の中で戦友は<br />天皇のため、祖国再建のため<br />歩いて日本に帰るのだ、<br />そう言って飛行場を離れた<br />彼らは未だ還っていない。<br /><br /><br />天皇の兵士たちは<br />シベリアへ送られ<br />飢えと寒さと重労働に<br />次々と倒れ<br />六万人が零下三〇度の異国に葬られ<br />祖国の土を踏むことがなかった。<br /><br />皇居遙拝<br />将校を父と思え<br />下士官を兄と思え<br />天皇のため苦しみに耐えよ<br />今日も戦友が死んだ。<br />「みそ汁が飲みたい。お母さん。」<br /><br />一九四七年冬<br />弟は祖国の土を踏んだ。<br />故郷は東京大空襲で跡形もなく<br />水戸で別れた父も兄ももういなかった。<br /><br />そして言われた。<br /> 「シベリア帰りとは言うなよ」<br /><br /> 生きるため国土復興のため<br /> 一生懸命働いた弟が<br /> やがてお年寄りと呼ばれる頃<br /> 高齢者が多いから国が貧しい<br /> 福祉・医療費の切り下げ切り捨て。<br /> 「老人は 死んで下さい 国のため」<br /><br /> 日の丸・君が代が<br /> 我がもの顔に嘯(うそぶ)いている。<br /> 日の丸・君が代に育てられた君たちよ<br /> 日の丸・君が代のため今度こそ死んだら<br /> どうだ。<br /> 初心忘れるな。<br /> それが愛国心。<br /><br /> 冗談じゃあない<br /> 日の丸・君が代に育てられ<br /> 日の丸・君が代で鍛えられ<br /> 地獄の入り口を<br /> 這いまわった俺たち。<br /><br /> そう簡単に死んでたまるか。<br /> 俺たちは侵略戦争に<br /> 青春を捧げた生証人。<br /> 生きること、語ること、<br /> それが、それこそが<br /> 日の丸・君が代押しつけとの<br /> 俺達の闘いだ。<br /><br /> (2000年2月 ~「不戦誌」№121号より)猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-36682054392290602602010-03-08T16:46:00.002+09:002010-03-08T16:59:27.921+09:00立教大学生の感想『 立教大学生の感想 』<br /> 猪熊得郎<br />一昨年秋、渋谷にあった「戦場体験放映保存の会」の事務所に4人の立教大学<br />の学生がやってきました。<br /><br />ゼミの研究課題で、「戦争体験が、その人の人生にどう影響したか」ということ<br />に取り組むということで、元兵士を紹介してもらいたいということでした。<br />学生たちが、真面目で、熱心であるので、事務局は、4人の元兵士を紹介する<br />ことになりました。<br /><br />学生たちは、分担して元兵士たちからの聞き取りを行い集団討議を繰り返し、<br />それぞれ研究論文を作り上げたのでした。<br /><br />そして、昨年9月の「語らずに死ねるか」の日比谷集会には、ボランテイアとし<br />て、司会補助など集会の成功のための活動に参加をしたのでした。<br /><br />彼ら、彼女らは、大学を卒業し、4月から新しい人生の出発点に立っています。<br />その感想文から、「戦場体験を語り継ぐ活動」に参加する一人ひとりが、それぞ<br />れに、何かを学び取ることが出来たら幸いに思います。<br /><br /><br /> 【戦場体験を語り継ぐ活動に触れ、感じたことや感想等】<br /><br />Q1ああいう活動に触れた感想<br />Q2戦争の体験、記憶、知識がなく、学校でも近現代史が学べない若者たちの<br /> 感覚<br /><br /><br />○ Mさん (A1・A2混合で回答)<br />まず現在の若者世代も戦争の経験、知識に接する機会は皆無ではないと思い<br />ます。例えば各メディアからの情報(TVドラマやニュース報道、新聞・雑誌<br />の戦争特集等)や学校における歴史教育等です。<br /><br /> 若者は受動的にそれらの情報を受け取ることによって「戦争は悲惨だ」、「戦<br />争は二度と起こしてはならない」といった考えを持つようになります。それ自<br />体はもちろんいいことだと思いますが、受け取る情報があくまで「表面的な情<br />報」であり「リアルな体験」ではないため、戦争というテーマを考える際には<br />「まあとりあえず戦争はいけないことだよね」としか答えることしかできない<br />のも事実であり、それが一般的な若者の戦争に対する感覚に最も近いものだと<br />思います。僕もそうでした。<br /><br /> 重要なのは「戦争反対という立場の中で具体的にどのような行動を起こすか」<br />であると思います。その意味で自分で言うのもおかしいですが、一昨年主体的<br />に戦場体験をテーマに選択し、戦場体験者の方々への聞き取りを行い、何かし<br />らの結論を書こうとしたことは貴重な経験だったと思っています(論文の内容<br />の質とはもちろん別問題ですが)。<br /> <br /> また若者の戦争に対する感覚に関してもう一つ重要なのは「なぜ戦争反対な<br />のかという主張に対して自分で思考する機会を与えうる、リアルな戦争体験に<br />触れる機会が増えること」だと思います。<br /><br /> 戦場場体験放映保存の会をはじめ、体験者やボランティアの方々が様々な<br />世代に向けて戦場体験を語り継いでいらっしゃることは、その意味で社会的<br />に重要なことだと思います。<br /> <br /> しかし先日の日比谷公会堂でのイベントに参加させていただいた時も感じた<br />ことですが、そのような貴重な場に若者の姿がまだまだ少ないことはやはり問<br />題だと思います。この点に関しては、これまでのような広報に加え、リアルな<br />体験を先に触れた者たち(私達ももちろん含む)が同世代にその体験から考え<br />たこと、そのような機会があることを広めていくことが大事だと思います。<br /><br /> そして重要なこととして先に挙げた二つを総合的に考えると、「リアルな戦<br />争体験に触れる機会を学校教育と絡めて増やすこと」が理想だと思います(こ<br />の点に関して具体的な提案をするのは現時点では難しいですが)。<br /><br />生意気に聞こえてしまったら大変申し訳ないですが、以上が僕の感想です。<br /><br /><br />○ Sさん<br />A1…<br />私にとって、皆さんの活動に触れたことはとても新しい経験でした。<br /><br /> まず2008年の秋にインタビューをさせていただくまでは、自分の中で論文<br />の問いに対して「知りたい」「聞いてみたい」という気持ちが大きかったと思<br />います。しかし実際にお話を伺ったり活動に触れることで、皆さんの「伝えた<br />い」「後世に残したい」というお気持ちをわずかではあっても一緒に感じるこ<br />とができたのではないかと感じています。<br /><br /> また、私たちの書いた論文の先により広い世界が広がっていたこと、それに<br />関われたことを単純に嬉しく思いました。貴重な体験をさせていただきました。<br /><br />A2…<br />私たちの世代が、戦争というものにリアリティを感じることが難しいのは確<br />かなことだと思います。それは猪熊さんがおっしゃるように私たちには戦争の<br />体験はもちろん、知識も充分にはありませんし、何といってもこの平和な日本<br />に生まれ育ったことからきているのだと思います。また猪熊さんのように「本<br />当の戦争」の話をしてくれる人も身近に少ないということもあり、それ故、戦<br />争やあるいはそれに関することについて想像力が乏しく「お話」「教科書」の<br />中の出来事だと感じてしまうのかもしれません。<br /><br /> ただ、その想像力についてあまりに自然に無関心である若者がいると同時<br />に、それについて不安を感じている若者も少なくないと私は思ったりしてい<br />ます。<br /> 猪熊さん、皆さんの活動がそんな若者に伝わればと思います。<br /><br />○ Aさん<br />A1…<br /> 率直に良かったと思います。普通に生活していたらわからないことってたく<br />さんあると思いました。 <br /><br /> 自分たちが今、当たり前に平和に生活できているのは、歴史の中に戦争を繰<br />り返してきた日本があるからであり、それにより犠牲になってきた、日本の戦<br />士たちがいることを私たちは忘れてはいけないと感じました。日本人の考え方<br />やモノ、そして新しい文化などたくさんのことがものすごいスピードで変わり<br />ゆく今の時代の流れのなかで、今の私たちがある、礎を築いてくださった方々<br />がいること、そしてその意志をこれから引き継いでいくのは私たち若い世代で<br />あり、これから先、後世代へも伝えていかなければならないと、感じさせてく<br />れた 貴重な時間だったと思いました。<br /><br />A2…<br /> 感覚なんてものじたい、そもそもありません。なぜなら体験、記憶、知識が<br />ないからです。だからこそ戦争経験者の方からのお話を聞くことで、その知識<br />の部分や情景を聞くことで、初めて現実味を帯びてくるものと私は感じていま<br />す。<br /><br /><br />○ Uさん(A1とA2の記述の順番を逆にして記述)<br />A2…<br /> 私の考えでは、今の若者世代(戦争に直に触れたことのない世代)の大半<br />が、戦争に対し「戦争は悲惨なものであるし二度と起こしてはいけないもの<br />である」という認識や考えを持っていると思います。<br /><br /> しかし、その認識は学校で(戦争を直接知らない)先生から教えられたもの、<br />主にTVなどのメディアからすり込まれたものだと私は思います。「戦争は悲<br />惨なものであるし二度と起こしてはいけないものである」という認識や考えを<br />多くの人が持っていることは確かですが、それは実体験やそこから感じ考え生<br />み出された認識ではなく、ただ表面的に形成されているだけのものであるので<br />はないでしょうか。<br /><br /> 私は卒業論文の題材として宗教を取り上げたのですが、その所以は「なん<br />となく知っているけれどわからない」「自分と地続きにも思えるが、どこか<br />真実味がない」というもやもやとした想いが大きくあったからです。このよ<br />うに私が宗教に対して抱いていた思いと同じ思いや感覚を、現代の若者は戦<br />争に対して抱いていると感じています。<br /> <br /> 戦争に対し、もっと知りたいし知らなきゃいけないという想いを持つ人は<br />非常に多くいるのではないでしょうか。しかし、「戦争」というものを、真<br />実味を持ち、ただ知るということを越えた「経験」や「体験」とできるよう<br />なツールや環境が無いのだと思います。<br /><br />ですから、又聞きの情報ではなく、経験当事者から話を聞くと言うことほど<br />真実味をもって戦争を「知る」「捉える」ことができることは無いと思いま<br />す。<br /><br />A1…<br /> 一言で言うと、あのような活動に触れる機会に出会え、本当に良かったな<br />としみじみと思っています。<br /><br /> A2でも記述した通り、あれ程までに私たちが日々の生活や今までの人生で<br />“真実味をもって”感じることの出来ない「戦争」に直接触れることのでき<br />る経験はなかなかできないと感じています。<br /><br /> 私たちの力量の無さのもとにできあがった拙い報告書ではありましたが、<br />それであっても私たちが感じたようにもっと多くの若者にインタビューを読<br />んで欲しいと思いましたし、一度でいいから直接体験者の話を聞く場を皆が<br />持てたらどんなにいいかとも思いました。<br /> <br /> ただ体験を語ってくださること、それだけでも世にとって非常にありがた<br />い存在だと思います。しかし、語り継ぐ活動に参加されている人々の中でも、<br />猪熊さんのようにただ語ってくださるだけではなく、「どのようにしたら伝<br />わるか」「聞き手が理解しやすいようにいかに語るか」と聞く立場のことま<br />で配慮し尽力してくださる方はなかなかいらっしゃらないでしょう。<br /><br /> 私たちの感想がどの程度お役に立てるかはわかりませんが、猪熊さんの、<br />そして戦争を語り継ぐ活動をしている方々の参考に少しでもなればと思って<br />います。<br /> 猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-75506584661220709242010-03-08T12:37:00.006+09:002010-03-10T12:11:20.075+09:00兄猪熊房蔵と白龍隊の出撃 <br /><br />1945年3月13日、今から65年前、人間魚雷回天特攻隊白龍隊員として、私の兄房蔵が沖縄へ向け山口県光基地を出撃をした日であります。<br /><br />その1週間後、回天8基、回天搭乗員7名、基地要員120名乗組員225名を載せた第18号輸送艦はアメリカ潜水艦の雷撃で船没、18歳の兄も戦死しました。<br /><br />しかし兄の正確な戦死日も、戦没地点も未だに分かっていません。白龍隊のめざした沖縄基地も場所不明のままなのです。<br /><br />「特攻隊」とか、「人間魚雷回天」とか、「英霊・烈士」と騒ぎ立てますが、用済み廃棄の「特攻隊」の消息など、元軍部も政府も関心はないのでしょう。<br /><br />私は、毎年、沖縄を訪れ、兄と白龍隊の消息を追い続けています。<br /><br /><br /> 『 兄房蔵出撃の記録 』 <br /> 第一回天隊白龍隊猪熊房蔵弟 <br /> 猪熊 得郎 <br /><br /> 「予科練・別れ」 <br /><br /> 私の二歳上の兄房蔵は昭和十八年十二月、海軍甲種飛行予科練習生(予科練)第十三期生として三重海軍航空隊に入隊しました。兄は、送別会で「元寇」を歌いました。蒙古軍襲来に民族挙げて戦おうという歌で、「国難ここにみる」と歌った兄の歌声は、今でも私の耳に残っています。<br /><br /> 当時の少年たちは、米軍の反攻、戦局の悪化に今戦場に行かなければ日本は大変なことになる。家族のため、故郷のため、祖国のため、自分の生涯を捧げようと真剣に考え、親たちの反対を押し切って少年兵を志願したのでした。<br /><br /> 兄が予科練を志願した四ヶ月後、私は陸軍の特別幹部候補生(特幹)を志願しました。<br /><br /> 昭和十九年八月二十七日のことです。水戸の陸軍航空通信学校に、突然、父と兄が面会にきました。十九年三月、三重航空隊から転隊した土浦航空隊で「回天」搭乗員を志願した兄は、「回天」基地への移動を前にして、たまたま、土浦を訪れた父と外出を許されました。<br /><br />私も特別外出を許され、営外の食堂で親子三人、語り合いました。あまりの嬉しさに時のたつのを忘れました。やがて兄は財布を取り出し、有り金全部はたいて、「おいこれ使えよ」と渡されたお札が、当時のお金で五円ありました。言外に別れを告げたのでしょう。<br /><br /> 営門の前で、別れの時がきました。<br /> 海軍飛行予科練習生海軍飛行兵長の兄房蔵は、肘を前に出す海軍の敬礼で、陸軍特別幹部候補生陸軍1等兵の私は肘を横に張る陸軍の敬礼で、お互いを見つめ別れを惜しみました。兄が十八歳五ヶ月。弟が十五歳十一ヶ月でした。<br /><br /> かたはらで、父は黙って二人の息子たちの別れを見つめていました。どんな思いだったのでしょうか。<br /><br /><br /> 「回天搭乗員募集」<br /> <br /> 兄はその数日後土浦航空隊を後にしました。<br /> 回天特攻隊志願と、予科練卒業、出発の模様を第七回天隊23突撃隊で高知県浦戸で出撃待機した菊池清吾さんは私書版「人間魚雷回天昭和之若者たち」にこう書いています。<br /><br />「待望の卒業式も間近に迫った八月下旬、課業始めの時間に突然スピーカーが入り、聞き慣れない声が流れた。『十三期生、総員直ちに格納庫に集合せよ!』<br /><br /> 全員集合の指令であったが、操縦分隊は除外されていた。<br /> 土浦航空隊司令渡辺大佐が話し出した。<br /><br /> 『彼我の物量の差は理解し難い程、多大であり諸子の先輩搭乗員達の勇戦奮闘にもかかわらず、その損失は増大し、強大な国力を誇る米国の軍事力は、さらに増強されつつある。<br /><br /> 今ここに、総力挙げての反撃は、まさに焦眉の急である。この秋(とき)、諸子の卒業を迎える事は、全国民の大きな喜びであり、全軍の、諸子に対する期待は絶大なものがある。<br /><br /> 時を同じくして、退勢を一挙に挽回せんとする新兵器が登場した。今こそ、驕れる米軍に対して、一大反撃の好機が到来した。忠君愛国に燃える若く強靱な諸子の中からその搭乗員を募る。この新兵器は飛行機ではない。又、生還は期し難い。選抜された隊員は直ちに訓練に入り、同期の先陣を切り、三ヶ月ないし、六ヶ月後には戦闘に参加する。<br /><br /> 後刻、用紙を配るから、分隊名、班名を書き、<br /> 一、乗員を希望するものは二重丸。<br /> 二、命令に従うものは一重丸。<br /> 三、飛行機以外は希望しないものは白紙。<br /> 以上、良く考えて、後刻分隊長に提出する事。』<br /><br /> 人生、一生のうち。二度とはないと思われる決断の秋(とき)は、まさに今なのだ。予科練を志願した時の決断とは天と地・ほどの違いがある。<br /><br />入隊するまでは『死』と云うものはあまり身近には感じられず、軍人なら当然戦死もあり得るが、それよりもまだ華やかな海軍航空士官、とか将来の栄達の方が、夢多い少年達の心の中に占める割合は遙かに大きい。<br /><br /> それが一気に、戦地も靖国神社も、目の前に迫っているのだ。<br />しかも、本来 我々が乗るべき航空機にあらずして〝特殊兵器〟とは … <br />あまりにも重大、あまりにも短兵急。肌に粟が生じ、戦慄が全身を走る。頭の中は、火のついたように燃え立っている。飛行機乗りの夢はもう目の前だと思っていたのに。<br /><br />同じ死ぬなら華やかに大空で散りたい。通信も航空術も 何の為に今まで頑張ってきたのか!<br /><br />〝必死必殺〟の新兵器とはいったい何なのだ! 飛行機では無くても、必ず敵を倒せるのか! 想いは千々に乱れ胸はただ高鳴る。<br /><br /> 混乱の極の頭に、ふと 故郷の山河と父母たちの事が浮かんだ。と、思った途端全身を襲う身震いと 共に決断出来た。(これでもう、故郷ともさらばだ、…父や母にも逢えないな…)と、思ったが、次の瞬間、迷わず用紙に書き出した。おおきく、二重丸を書いたが頭の中はもう空っぽになっていた。<br /><br /> 土浦航空隊の甲十三期後期生は総員約四千名。 内、約半数の二千名が、偵察分隊員である。その中から選抜隊員は百名だった。<br /><br /> この特殊兵器の搭乗員は、今後の戦局に大きな影響を及ぼすと思われるので、優秀な練習生の中から選ぶ必要あり、との要旨で、次の条件を選考の基準にしたとの事。<br /><br /> 一、身体強健で意思強固なる者。<br /> 一、攻撃精神旺盛にして、責任感の強い者。<br /> 一、家族構成に後顧の憂い少なき者。<br /><br /> 従って、長男、一人息子は極力避けられた。<br /> 尚、年齢は十七歳以上。船に強く、水泳不能者は除くとある。<br /> <br /><br /> 卒業式と、○○方面行き出発の日が来た。<br /> 晴れた暑い日だった。選抜隊員百名だけが朝礼台前に整列し、司令官より卒業式の式辞と訓辞があり、簡素ながらも厳粛な式は終わる。<br /><br /> その後、土浦航空隊の練習生全員が練兵場から隊門まで整列して見送る中を、四列縦隊で挙手の礼をしながら隊門に向かう同期生も後輩も見送る練習生全員が、″特攻隊員″の出発ということを知っている。<br /><br /> 各分隊共、自分の分隊の隊員が通ると、皆一斉に声をかけてくる。『〝おい″○○しっかり頼む!』『〝俺は選にもれたが後からきっと行くぞ!″』彼の顔、この顔、仲の良かった奴も、喧嘩した奴も、皆、顔中を口にして叫んでいる。<br /><br /> (ああ、もう彼らにも逢えなくなるな…)<br /> 感傷が胸に迫るが、隊員は皆笑顔で飛び交う声にうなずきながら進む。<br /> 往く者より送る方がより感傷的になるのか、中には涙を流しながら手を握ってくる者。<br /><br /> いつしか整列も乱れ隊門まで来て一斉に(″帽振れ!)をして送ってくれた。」<br /><br /><br /><br /> 「第一回天隊・白龍隊」<br /><br /> 兄は最初に開設された回天基地大津島に着任した後、十九年十一月に、新しく開設された光基地に移動しました。そして十九年十二月半ばに第一回天隊(白龍隊)搭乗員八名のの編成が行われ、光と大津島をめまぐるしく移動し、基地から出撃する「回天」隊の先駆けとしての訓練を重ねていました。<br /><br /> 「回天」とは全長一四・七五メートル重さ八・三トンの魚雷の頭部に一・五トンの爆薬を装填し、人間が操縦して敵艦に体当たりをする、文字通りの人間魚雷でした。<br /><br /> 「回天」はもともと潜水艦から出て行く兵器でしたが、大型潜水艦の消耗激しく、「回天」を搭載する潜水艦が少なくなりました。また戦場が本土周辺におよぶ戦局の急迫に、敵の上陸予想地点に近い海岸に「回天」を配備する「基地回天隊」が編成されることになったのです。<br /><br />「回天」を格納庫に納めて秘匿して、その中で整備しながら敵部隊の近づくのを待ち、敵艦船が近づくや、陸上洞窟陣地から「回天」を発進して敵を撃滅する「回天隊」であります。<br /><br /> 「第一回天隊」通称「白龍隊」は沖縄向けて出発することになっていました。<br /><br /> 沖縄回天特攻部隊戦則案によれば第一回天隊は十八基の回天での編成が予定され、<br /> <br /> 「回天戦闘の伝統は必死必殺大義に殉ずるに在り<br /> 基地における隠密秘匿を厳重にし敵艦隊又は輸送船団入泊前後昼夜を問はず攻撃撃滅するを最上とす<br /><br /> 回天の襲撃は隠密肉弾強襲により必死必中克く大艦を轟沈せしむるを以て生命とす」<br /><br />とありました。<br /><br /> 多聞隊366潜で出撃、八月十一日パラオ北方五〇浬で発進戦死した佐野元(はじめ)一等飛行兵曹は出撃日誌(まるろくだより第十号)の中で次のように書いていました。<br /><br />「基礎訓練は二月十一日、紀元節の日をもって終了。その後出撃命令を待つのみであった。この間、白龍隊の赤近、伊東、猪熊等と親しく交際す。実に彼らは万人の範たる人物なりき。如何に航行艦襲撃を学び、習得し、来たるを待ち在りしや。」 <br /><br /> 出撃を前にした兄について、第五回天隊33突撃隊で宮崎県南郷栄松に戦闘配備され八月十五日を迎えた多賀谷虎雄さんは、私への手紙の中でこう書いています。<br /><br />「名前から受ける感じとは全然異なり、一見貴公子然とした坊ちゃんタイプで、東京の出身だった。洗練された振舞いからは育ちの良さとでもいったものさえもうかがわれた。<br /><br /> 口数が少なく、つねに多くを語ろうとしなかったが、回天に関する研究問題になると、赤近兄らとしばしば激論を闘わせていたのを覚えている。<br /><br />外柔内剛というのか、外見は温容ながら、その底には燃えたぎるような闘志を秘めている感じだったが、すでに死生を達観したもののごとく、私などが足許にも寄れないような、老成した心境をのぞかせて、思わずその顔を見直させるような場面が、ままあった。<br /><br />『おれは字が下手だし、こうしたものは大の苦手なんだが……』<br />ー何か面はゆげに微笑みながら、私の乞いにまかせて、そっと掌(てのひら)の上にのせてくれたのが次の色紙である。<br /><br />まだ童顔のぬけきらぬその面影は、澄徹(すみとお)った心境をほのぼのとたたえて、みじんの揺らぎも見せていなかった。悠々淡々としたその表情は、今も私の胸に生きて、何事かを語りかけて止まない。<br /><br /><br /><br /> 「遺詠」<br /><br /> 辞世 海軍二等飛行兵曹 猪熊房蔵<br /><br /> 益荒男の あと見む心 つぎつぎに<br /> うけつぎ来たりて 我もまた征く<br /><br /> 十八歳の兄のもう一つの辞世が光突撃隊の遺墨集に書き残されていました。<br /><br /> 海軍二等飛行兵曹 猪熊房蔵<br /><br /> 身は一つ 千々に砕きて 醜(しこ)千人<br /> 殺し殺すも なほあき足らじ<br /><br /><br /> <br /> 沖縄へ出撃<br /><br /> 轟隊、多聞隊と二度出撃し、奇跡的に生きて帰ることの出来た石橋輝好さんは白龍隊の出撃の模様をこう語っていました。<br /><br />「昭和二十年三月十三日白龍隊は第18号輸送艦乗船のため、大勢の基地隊員、整備員、勤務員たちの見送りの激励の中を庁舎前の広場から桟橋に向かいました。 <br /><br /> 出撃する白龍隊の隊列の先頭は、河合隊長をはじめとする回天搭乗員たちでした。隊長の河合中尉、予備学生出身の堀田少尉、新野・田中の二人の二等兵曹、そして予科練土浦航空隊出身の赤近・猪熊・伊東二等飛行兵曹の三隊員で、七人の搭乗員がいました。<br /><br /> 搭乗員たちは見送りの人たちの激励に応えて、手に持った桜の小枝を頭の上にかざして、振っていました。出撃の時、白龍隊搭乗員たちの持っていた、あの桜の小枝が印象深く、今でも鮮やかに思い出されます。」<br /><br /> 光基地で軍医として勤務した田中重照さんも出撃の模様をこう描いています。(『回想軍医中尉島田昌』佐賀県昭和医専戸塚一期生会誌『海ゆかば』より)<br /><br /><br /> 「 ある日、彼は、基地隊軍医長に『回天隊と一緒に沖縄方面への出撃命令』を伝達された。<br /> ……<br />突然、外から威勢のよい回天節が聞こえてきた。それは、明日出撃する回天特攻隊の壮行会が回天搭乗員宿舎(食堂)で行われていたからである。<br /><br /> 沖の白帆の揺らぐを見れば<br /> 男心は湧きに湧く<br /> 国の守りの太平洋に<br /> やがて枕めんこの命<br /><br /> 壮行会が終わった後、杯を交わしつつ夜の更けるのも忘れ、故郷のことなど、あれやこれや雑談に花を咲かせしゃべり通した。そして彼は。故郷の山河や、慈しみ育てて下さった父や母、愛する弟達の事などに想いを馳せながら床に就いたのであった。<br /><br /> いよいよ出陣の朝が来た。基地隊内部はいつもと違った緊迫した空気が漲っていた。出撃者として回天搭乗員七名、他に整備員数名がおり、彼らはお互いに今日ある日を待っていたかのような顔付きをしていた。<br /><br />その中には、未だあどけない童顔の予科練出身の搭乗員三名が混じっていた。果たして選ばれた彼らの胸中は、本当のところはどうだったのであろうか。<br /><br /> 別れの杯に紅潮した回天搭乗員の若武者どもは、菊水の旗印を真ん中に、七生報国と墨書された白鉢巻きも凛々しく、第三種軍装に身を固め、搭乗靴を履き、手には聯合艦隊司令長官から送られたという錦の袋に入っている短刀一降りを固く握りしめ、二列横隊に並んだ戦友の間を、しっかりとした足並みで大地を一歩一歩ふみしめながら、別れの挨拶が始まった。誰が手折ったのであろうか、彼岸桜がそっと無言のまま搭乗員に手渡される場面を散見した。<br /><br /> 『いろいろお世話になりました。お先に行きます』<br /> 『しっかり頼むぞ』<br /><br /> と朋友の一人一人と固い握手、互いに炎の様にぶつかり合う瞳は、血湧き肉躍る一瞬であった。送る者、送られる者、万感無量、無限の感慨と悲壮を感ぜずには居られなかったのである。<br /><br /> やがて出撃一団は内火艇で、すぐ前に浮かんでいる第18号輸送艦に乗り移った。間もなく『出港用意』のラッパが若人の幸先を祈るかの様に一際高く鳴り響くと、錨は上がり艦は静かに動き始めた。<br /><br /> 『帽振れ』の号令と共に基地隊員の振り絞る声援に送られ乍ら、永遠に母国日本の土と別れていった。上甲板上にワイヤーで固定された回天の上に仁王立ちに立ち、抜刀して静かに軍刀を左右に打ち振るう搭乗員の姿が朝日に照り映えた海上にくっきりと浮かんでいた姿は非常に印象的であった。」<br /><br /> ……<br /> それから間もなくして、島田君の戦死の報を受け愕然とした。すなわち島田君は、太田実海軍中将の率いる沖縄方面根拠地隊に配属せられていて、沖縄攻防戦の戦局が我に利あらず、昭和二十年六月十三日、全将兵と共に切り込みに参加して壮烈な戦死を遂げたのであった、」<br />(注島田中尉は、佐世保から隊と別れ、飛行機で沖縄に先行したと伝えられています。)<br /><br /><br /> 米軍が沖縄に来襲する直前の昭和二十年三月十三日、陸上から発進する最初の部隊「第一回天隊」白竜隊は、山口県光基地を出撃しました。その頃、米機動部隊は既にウルシー泊地を出発し南西諸島に近づいていました。<br /><br /><br /> 「交戦・戦没」<br /> <br /> 回天八基、搭乗員七名、(最初八名で編成されたが、最後の訓練で一名が岸壁に衝突して重傷を負い七名となった)基地要員百二十名、輸送艦乗組員二百二十五名を載せた第18号一等輸送艦は途中佐世保に寄港した後、之の字運動を繰り返しながら沖縄本島に向かいました。<br /><br />しかし到着を目前にした十八日未明、護衛艦怒和島、済州と分離した輸送艦は米国潜水艦スプリンガーと遭遇し、三度にわたって魚雷計八本の攻撃を受け四発が命中、一時間もの交戦の後、遂に午前四時那覇北西約六〇キロの粟国島近海で沈みました。<br /><br />沈没地点は北緯二六度三九分、東経一二七度一三分、沖縄本島那覇市北西三三浬(粟国島北北西三・五浬《約五キロ》)でした。<br /><br /> 第一回天隊員、輸送艦乗組員の殆ど全員がこのとき戦死したと見られています。<br /><br /> しかし、「公報」では一部の隊員が沖縄本島を目指し、慶良間基地付近および本島の海軍司令部付近の陸上戦闘で戦死したとされ戦死日も異なっています。<br /><br /> 搭乗員は、三月十八日田中兵曹、伊東飛行兵曹沈没時戦死、二十四日猪熊飛行兵曹進出途次戦死、三十日堀田少尉進出途次戦死、同日河合中尉慶良間基地付近で戦死、六月十三日赤近飛行兵曹沖縄本島陸上戦闘で戦死、十四日新野兵曹陸上戦闘で戦死となっています。(飛行兵曹は予科練出身搭乗員)<br /><br /> また、基地要員は、一名が進出途次、一名が輸送艦沈没時、五名が陸上戦闘で戦死とされています。その他百十三名の氏名が不明です。さらに準備されていた洞窟出撃基地の場所も未だにわかっていません。沖縄戦史のどれにも「白龍隊」のことは触れられていません。<br /><br /><br /> 「粟国島」<br /><br /> 昨年(01年)六月、私は沖縄の那覇北西六十キロの粟国島を訪れました。45年6月9日、人口僅か九百・周囲一二粁の島を米艦が包囲し艦砲射撃、そして戦車を先頭に米軍四万が上陸。だから村に記録は何も残っていません。<br /><br /> 漁協が遊漁船一隻を出してくれました。6月の沖縄はもう三〇度を超え真夏の太陽が照り輝き空も碧く海も蒼い。船は粟国港から30分、第18号輸送艦沈没地点でエンジンを停めました。粟国島はすぐ前方にみえます。<br /><br /> 「海軍の兵隊さんなら島まで泳げます。だがここは水深1000米以上の海溝の入口、潮の流れも速い。3月はとりわけ西南久米島の方に向かってこの船の速度くらいの潮流(時速約12粁)波高3~5米の波、恐らくみんな流されたでしょう。<br /><br /> やっと島に辿り着いたとしても断崖絶壁の岩場、疲れ切って荒波に引き戻されたのでは」。船長の話に涙が止めどなく溢れその時の情景が目に浮かんで来ます。波間を漂い、声を掛け励まし合いながら一人また一人と沈んで行く。兄は此処だったのだろうか。それとももっと離れた所では……。<br /><br /> 一八歳の兄は死を目前にして何を考えたのでしょうか。きっと故郷の事、家族の事を思い、故郷の歌、赤トンボの歌を歌いながら波間に隠れたのでしょう。<br /><br />もっともっと生きたかったただろうに。花束が揺れて見えなくなりました。粟国島にうち寄せる波しぶきがきらきら輝いていました。遠くに久米島と渡名喜島が霞んでいました。<br /><br /> 私は兄の生きた証を探し求め、その思いを語り継ぐこと。それは兄と同じ時代を生き、そして平和の時代を生きることの出来た、遺された弟の生涯の仕事です。<br /><br /> それが兄への何よりのはなむけと信じています。<br /> (02年2月記)<br /><br /><br /> 追記<br /> 昨年、2009年6月、11度目の沖縄探訪を行いました。<br /> 粟国島は3回目でした。<br /> 第18号輸送艦の沈没は、これまで、回天元搭乗員による調査の米潜水艦 戦闘記録によるものでした。<br /> 今回の調査で、粟国島島民数名が、黒煙を吹き、照明弾を上げ沈没する 輸送艦の状況を目撃したことが確 認されました。戦後64年ぶりです。<br /> <br /> 粟国島行きは海上が荒れ、往きは連絡船、帰りは9人乗り飛行機の四時間の滞在でした。<br /><br /> 海から船での18号輸送艦沈没地点献花が出来ず、船長の自動車で、沈没地点に最も近い海岸に行きました。沈没地点は水平線から三分の一程手前、すごそばに見えます。<br /><br /> 七年前に遊漁船で私の献花を案内してくれた船長はこう語ってくれました。<br /><br />「あの地点は海溝で水深千メートル、鯛の漁場です。私も良く漁をします。時々、エンジンの音か、呼び掛ける声が聞こえ、辺りを見回しても何も見えません。そんなことが何度かありました。 <br /><br /> 七年前、あそこで献花をしました。それ以来、そのエンジンも声も聞こえなくなりました。『霊』が呼び掛けていたのでしょう。『献花』でみなさん落ち着いたのでしょうか。<br /><br /> あの地点は潮の流れが速く、島に近寄ることはとても無理でしょう。この海岸に向かって船を座礁させれば助かった人もいたでしょう。<br /> 「献花の話を島の人たちに話しました。島の人たちの中で輸送艦の沈没をみた人が見つかりました。<br /><br /> こへん一帯、島の西北部は誰も住んでいません。早朝牛の放牧にやってきた当時の青年、数人が見たのです。……」<br /><br /> 杖をついた私の介添えの「戦場体験放映保存の会」の若い婦人二人と、花束を捧げました。<br /> 沈没地点はすぐ目の前です。空は何処までも青く澄んでいます。蒼い海に潮の流れがキラキラと光っています。<br /><br /> 光の中で、18歳の兄が、手を振っているようでした。<br /> ここで亡くなったの…。それとも大発艇でどこか他所で…。<br /> やがて兄の姿は見えなくなりました。<br /><br /> 兄と白龍隊の調査は、私の生きている限り続けられます。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-62175524937622307702010-03-03T11:10:00.005+09:002010-05-23T11:34:17.377+09:00『 国体護持と・棄兵・棄民 』ー天皇の軍隊は、国民を守らないー1945年初め頃の日本側の対ソ判断は、「ソ連は本春中立条約の破棄を<br />通告する公算が相当大きいが、依然対日中立関係を維持するであろう……」<br />(2月22日最高戦争指導会議決定の世界情勢判断)ということでありまし<br />た。 <br /><br />1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次<br />のような趣旨のものでした。 <br /><br /> その地域で玉砕させる<br /> 「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯<br />で行いこのための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその<br />地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻<br />止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、<br />日本全般の戦争指導を有利にする。」 <br /><br /> 4月25日大本営陸軍部策定の「世界情勢判断(案)でようやく、本年<br />初秋以降厳に警戒を要す」と判断し、大本営は、5月30日、関東軍の態<br />勢転換を認める形で「対ソ作戦準備」及び「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を<br />発令しました。 <br />関東軍は7月5日、ようやく作戦計画を策定したのです。ソ連軍が侵攻し<br />てきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦に持ち込むと<br />いう戦術でありました。 <br /><br /> 関東軍総司令部は後退移転<br /> 関東軍総司令部も新京(長春)を捨てて南満の通化に移る。そして、主<br />力は戦いつつ後退し、全満の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、<br />朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保し、最後の抗戦を通化<br />を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては<br />日本本土を防衛する。この作戦準備完了の目途を九月末までとする、という<br />ものでした。 <br /><br /> 根こそぎ動員<br /> そうして、7月10日には、青年義勇隊を含めた在満の適齢の男子(19<br />歳から45歳)約40万のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員15万人<br />ほどをのぞいた残り25万人の根こそぎ動員をかけたのです。これが後に在<br />留日本人の悲劇を大きくしたのでした。街や開拓団には男は老人と子供だけ<br />となりました。ソ連の侵攻になすすべもありません。男はシベリア、女性は<br />残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。 <br /><br />この根こそぎ動員によって、関東軍の対ソ戦時の兵力は次のようになりまし<br />た。 <br />師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1、等を基幹とする兵<br />員75万、火砲約1000門、戦車約200両、戦闘可能な飛行機200機<br />でありました。 <br />しかし、真の戦力となると、装備は極めて貧弱、訓練も半数はこれからとい<br />う状況でした。特に根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が10<br />万人はいたということで、野砲も400門不足していました。 <br /><br /> 関東軍は盤石 長谷川宇一大佐<br /> 新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包<br />丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。ビール瓶はノモンハ<br />ン事件での戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。ところが、8月2日、<br />関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送<br />しました。「関東軍は盤石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は<br />安んじて、生産に励むがよろしい……」 <br /><br />「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘<br />らず、開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのでした。 <br /><br /> 一方ソ連軍は、狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、<br />戦車旅団40、等を基幹とする兵員約174万、火砲約30000門、戦車<br />5300両、飛行機5200機という圧倒的な戦力でした。 <br /><br /> 日本政府和平交渉 労力提供 <br /> 政府やソ連の動向を、兵士たちは知るよしもありませんでした。政府は、<br />近衛特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼しようとしてい<br />ました。7月13日にソ連に申し入れましたが、ソ連は特使受け入れを拒否<br />するでもなく回答を引き延ばしていました。 その「和平交渉の要綱」の中<br />に、「国体護持」を絶対条件として「賠償として一部の労力を提供すること<br />には同意す」(四の{イ})との一項があり、日本政府は役務賠償という政<br />策を持っていました。 <br /><br /> ヤルタ協定<br /> 7月5日に完成した関東軍作戦計画では、作戦準備の概成目標を九月末と<br />していました。7月26日ポツダム宣言が発表されましたが、翌27日の宮<br />崎周一参謀本部作戦部長の日誌によると「ソ連は八,九月対日開戦の公算大<br />だが、決定的にはなお余裕あり」と記されていました。 <br /><br /> 一方、2月11日ヤルタにおいて米英ソ三国の間に締結された協定により、<br />ソ連はドイツ降伏2~3ヶ月後に対日参戦することを正式に約束していまし<br />た。ソ連軍最高司令部は、1945年早春から満州侵攻の作戦計画を検討し<br />ていました。<br /><br />ソ連軍部は、日本軍と戦ったノモンハン事件(昭和14年夏)での教訓を生<br />かし、日本軍をこう観察していました。 <br /><br />『日本軍の下士官は狂信的に頑強であり勇敢であるとの認識に立っている。<br />その上に、日本の兵士たちは服従心が極端に強く、命令完遂の観念は強烈こ<br />の上ない。かれらは天皇のために戦場に斃れることを名誉と考えている。か<br />つ、ソ連軍に対する敵愾心は非常に旺盛である。 戦術面でいえば攻撃を最<br />高に重視しているが、不利な防御戦となっても頑強堅忍そのもの。夜襲の白<br />兵攻撃を得意とし、小部隊の急襲に長じている。 <br /><br /> しかし、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとはせず、支那事変の戦訓を極度<br />に自負し、いぜんとして〝皇軍不敗〟という根拠なき確信を抱いている。軍<br />隊指揮能力は脆弱であり、創意ならびに自主性が欠如している。 戦車やロ<br />ケット砲など高性能の近代兵器にたいし、将兵ともに恐怖心を強く持ってい<br />る。それはみずからの兵器や装備がかなり遅れているためである。師団その<br />ものの編成も人馬数が多いばかりで、火力装備に欠け、機動力は相当に劣っ<br />ている。』 (ソ連が満州に侵攻した夏・半藤一利・文藝春秋社) <br /><br /> ソ連の侵攻<br /> 5月7日ドイツが連合国に無条件降伏をしました。 ソ連軍最高総司令部<br />は6月27日、対日戦略基本構想を決定しました。攻撃開始時期は8月20<br />日~25日と予定されていました。 8月6日広島に原爆が投下されました。<br />8月7日午後4時30分、ソ連軍最高総司令部は極東ソ連軍最高総司令官に<br />対し、8月9日朝の攻撃開始を命令していました。国境線には、後方部隊を<br />含めてソ連軍将兵157万7千225名、大砲および迫撃砲2万6千137<br />門、戦車・装甲車・自走砲5千556台、戦闘機および爆撃機3千446機<br />が勢揃いしていました。 <br />そして8月9日早朝、ソ連機の侵攻が始まりました。<br /><br /> ポツダム宣言<br /> トルーマン、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳は、7月17日か<br />らベルリン郊外のポツダムで会談をひらき、7月26日に米英中三国の名で<br />ポツダム宣言を発表し、日本に即時無条件降伏するよう要求しました。連合<br />国が日本にもとめた降伏条件は、軍国主義の除去、領土の制限、軍隊の武装<br />解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義復活強化、経済の非軍事、および以上の<br />目的が達成されるまでの占領などでした。 <br /><br /> 政府・関東軍の動向 <br /> 7月28日、軍部の圧力におされた鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を<br />「黙殺」し、戦争を継続するとの談話を発表しました。8月6日、アメリカ<br />は鈴木声明などを口実に広島へ原爆を投下し、ついで9日には長崎へも原爆<br />を投下しました。<br />8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、翌9日からソ連軍は、南樺太・満州<br />・朝鮮へ進撃したのでした。 <br /><br /> この事態に、「国体護持」を唯一絶対の旗印とする日本政府は、天皇の国<br />法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を10日朝行っ<br />ていました。一方大本営は、「国体護持」のため「対ソ全面作戦」を発動し<br />「朝鮮保衛」が関東軍の主任務とされる命令を、関東軍総司令部に下達しま<br />した。 <br /><br /> 大本営の企図は対米主作戦の完遂を期すると共にソ連邦の非望破壊の為新<br />たに全面的作戦を開始してソ軍を撃破し以て国体を護持皇土を保衛するに在<br />り 関東軍総司令官は主作戦を対ソ作戦に指向し来攻する敵を随所に撃破して<br />朝鮮を保衛すべし…… <br /><br /> こうして「満州国の放棄」、「皇土朝鮮防衛」の戦略のもと、11日には<br />「総司令部を通化に移転する。各部隊はそれぞれの戦闘を継続し、最善を尽<br />くすべし」の命令を発し、関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行わ<br />れました。移転と云うより各部隊は戦闘せよ、総司令部は退却すると云うこ<br />とでしょう。総司令部は新京を捨てて小型飛行機で通化へ飛んでいったので<br />した。 <br /><br /> 一般居留民置き去り軍人家族の新京脱出<br /> また同じ11日に、関東軍総司令部は満州国政府を通して「政府および一<br />般人の新京よりの離脱を許さず。ただし応召留守家族のみは避難を予想し家<br />庭において待機すべし」の命令を発しつつ軍部とその家族、満鉄社員とその<br />家族優先の南下輸送を始めました。第一列車が新京を出発したのは11日1<br />時40分で、正午までに18本の列車が運行され、当時、新京に残留してい<br />た居留民14万人のうち3万8千人が新京を脱出しました。 <br /><br /> 3万8千人の内訳です。 <br />軍人関係家族 2万0310人 <br />大使館関係家族 750人 <br />満鉄関係家族 1万6700人 <br />民間人家族 240人 <br /><br /> このとき、列車での軍人家族脱出組の指揮をとったのは関東軍総参謀長秦<br />彦三郎夫人であり、また、この一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人<br />と従者たち一行は、さらに朝鮮の平壌から飛行機を使い8月18日には無事<br />東京に帰り着いています。 <br /><br /> また、牡丹江に居留していた なかにし礼氏は、避難しようとする民間人<br />が駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロ離<br />れた地点から特別列車を編成して脱出したと証言しています。 <br /><br />これより先、満州北部を放棄し、南部に後退する関東軍の作戦が決定され、<br />開戦の危機が高まった時、関東軍では開拓団など居留民の措置を検討しまし<br />た。しかし、居留民を内地へ移動させるには、輸送のための船舶を用意する<br />ことは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動するにしても、結局米ソ両軍の<br />上陸によって戦場となる、輸送に必要な食料もめどが立たない、実行不可能<br />の結論になりました。 <br /><br /> それでも老若婦女子や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引<br />き上げさせることが提議されましたが、総司令部第一課(作戦)は、居留民<br />の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひ<br />いてはソ連侵攻の誘い水になる恐れがあるとした、「対ソ静謐保持」を理由<br />にこの提議は却下されています。 <br /><br /> 居留民の悲劇<br /> 開戦するや、急激なソ連軍の侵攻に、国境周辺の居留民の殆どは、逃げる<br />いとまもなく、第一線部隊とともに最期を遂げる事態が続出しました。また、<br />「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っていた、家族、村落、地域では、ソ<br />連軍兵士による暴行・略奪・虐殺が相次ぎ集団自決の悲惨な事例も各地で繰<br />り広げられました。また、辛うじて第一戦から逃れることができた居留民も、<br />飢餓、疫病、疲労で多くの人々が途上で生き別れ、脱落することになり、多<br />くの子どもたちが死亡し、また、残留孤児となり、置き去りにされ、残留婦<br />人となった人もいたのです。<br /><br />こうして、開拓団約27万人の三人に一人強、7万8千5百人が死んだので<br />した。<br /><br /> 棄兵・棄民 <br /> しかも日本政府と大本営はポツダム宣言の受諾、「国体護持」の条件の明<br />確化などの対応に紛れて、無条件降伏に伴う関東軍の収束、在満居留民の保<br />護などの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのです。<br />日本の軍隊は国体護持軍であり、まさに天皇の軍隊にほかならず、国民のた<br />めの軍隊ではないことを如実に示していたのです。猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-65487228703328562342010-03-02T20:23:00.007+09:002010-05-23T11:36:34.483+09:002009年6月シベリアデー 追悼の辞6月23日は、スターリンがシベリア抑留の秘密指令を出した日です。<br /><br />60万の関東軍兵士が抑留され、6万の兵士がシベリアの土となりました。<br /><br />正確な数字は未だに不明のままですが、数万の遺骨が未だに放置された<br />ままとなっています。<br /><br />2009年6月23日午後、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で「シベリア・モンゴル抑留<br />犠牲者追悼の集い」が行われました。<br /><br />私も「追悼の辞」を述べ、献花してきました。 <br /><br /> <strong>追悼の辞</strong><br /><br />私は、十七歳の誕生日にアムール川を渉り、<br />シベリア鉄道沿線、アムール州シワキ収容所で重労働に従事しました。<br /><br />一九四六年二月のある日、栄養失調の隣の戦友が、突然起き上がりました。<br /><br />「汽車が出るんだ。帰れるんだ。牡丹餅が食える。<br /> 味噌汁が飲める。お母さん。」<br /><br /> そして、彼は倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。<br /> その声を、今でも、はっきりと覚えています。忘れることはできません。<br /><br />私たちは、関東軍の兵士だったというだけで、ただそれだけの理由で、<br />何のいわれもなく、日本政府から、国体護持のために、<br />労働力として差し出され、スターリンによってソ連に拉致されたのでした。<br /><br />私たちは、敵と戦うこと、敵を殺すこと、天皇のため、<br />国のために死ぬことだけを教えられていました。<br /><br />戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられ、<br />捕虜となることは最大の恥辱、<br />捕虜になるくらいなら死んでしまえと、<br />骨身にしみて叩き込まれていました。<br /><br />その、畜生以下の、捕虜になったのでした、<br />生きるよりどころは、何もなくなりました。<br /><br />なんとしても生きて故郷にたどり着くこと。<br />生きて人間に戻り、家族と暮らすこと。<br />生きるためにはなりふり構わず、居場所を守り、<br />パンにありつくこと。<br /><br />戦争と、シベリア抑留は、兵士たちから人間性を奪い、<br />畜生以下であろうと、何としても、どんなことをしてでも<br />生き抜くことが、日々の暮らしの規範になったのでした。<br /><br />隣の戦友が下痢をおこすと嬉しくなりました。<br />「ああこいつの分まで飯が食える。」<br /><br />医務室の前に並べられた凍った死体は、<br />朝までにみんな裸になっていました。<br />衣服はパンに換えられるのです。<br /><br />危篤を伝えられた戦友が、快復し部屋に帰ると、骨箱が置かれ、<br />形見分けで持ち物は何もなくなっていました。<br /><br />それでも、地獄の淵を這いつくばり、生きて帰れた者は幸せです。<br /><br /> シベリア抑留者は多くを語りません。<br /> 口惜しいのです。悲しいのです。空しいのです。情けないのです。<br /><br /> 誰がこんなことに追い込んだのでしょうか。激しい怒りを禁じ得ません。<br /><br /> 私は現在、戦争を知らない若いボランテイアと、無名の元兵士が一体と<br /> なった、戦場体験放映保存の会の運動に取り組んでいます。<br /><br /> 戦場体験の記憶も、シベリア抑留の話も、今、消え去ろうとしています。<br /><br /> 敗戦の時の初年兵が八十三才、十五歳で志願した元少年兵の私でも八十才、<br /> シベリア抑留者の平均年齢は八十七才。<br /><br /> 戦場の姿、シベリア抑留の事実を、後生に語り継がなければなりません。<br /> これまでの収録は約二千名、うちシベリア抑留体験者は二百名です。<br /><br /> 生きている戦友に訴えます。<br /> 亡くなった戦友は語ることが出来ません。<br /> 戦友よ 語らずに死ぬことは 止めよう<br /> 戦友よ 語ってから死のう<br /><br />シベリア抑留で亡くなられた方々を心から哀悼し、私の追悼の辞と致しします。<br /><br /> 二〇〇九年八月二十三日<br /><br /> 戦場体験放映保存の会<br /> 元兵士の会 幹事<br /> 猪熊 得郎、猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3367974042097916944.post-41056055406870172862010-02-24T14:32:00.001+09:002010-02-24T14:32:37.781+09:00少年兵兄弟の無念-20 製材の貨車積載<br /> 私たちの中隊の主な作業は、製材された材木の貨車積載です。<br />6~8人で一つの作業班です。製材所からの斜面をトロッコに載って材木が下りてきます。厚板、薄板、雑材、鉄道枕木等様々な工場で製材された材木です。次々と下ってきたトロッコが、斜面から平地に移りスピードが落ちたところで、班ごとにトロッコに飛びつきます。<br /><br /> 貨物列車の引き込み線には、線路がいくつにも別れ、木製の長いプラットホームが何本もあります。トロッコを押してプラットホーム脇の材木置き場に、製材の種類ごとに、いつ貨車が入ってきても積み込めるように並べて積み上げます。<br /><br /> 長板は担いだときも、横に二人で投げるときも、板のしなりを上手く利用しないと、ひっくり返ったり、板の跳ね返りで大怪我をします。重いものを担いだり、板扱いしたことのないすべての捕虜たちが、トロッコを押し、板を担ぎ、「木場」の職人のように板を扱って、作業をするのです。<br /><br /> 鉄道の枕木や、十分乾燥のしていない松の板を担ぐときなど、腰をしっかり入れないと、担ぎ上げることも、歩くこともできません。材木の下敷きになって大怪我をしたり、死んだ兵隊もいました。<br /><br /> 貨車が入って積み込みの時などはさらに大変です。貨物列車が引き込み線に入っててくると、一斉に積み込みです。無蓋貨車に敷き板を敷き、四隅に丸太を立てて貨車の幅一杯に並べて積み上げていくのです。<br /><br /> 地面の上の材木置き場から、人の肩ほどある貨車の床に持ち上げたり、板材の上を滑らせて貨車の中に運び込むのですが、積み込みが進むほど段差が高くなります。積み込み作業は午前中に始まるのが通例ですが、終わるまでは、何時になっても昼食は食べられません。<br />作業は雨が降っても、雪が降っても休みはありません。<br /><br /> 前回8時整列と書きましたが、訂正します。7時半作業整列・点呼。出発。<br />8時作業開始、12時昼食・休憩。13時作業再開、17時作業終了、帰舎。<br />労働は週6日制で、休日は日曜の他、メーデーや革命記念日などソ連で定められた祭日が休みでした。<br /><br /> シワキ収容所では6人に1人が死ぬ<br /> シベリアでは10人に1人が死んだのですが、シワキ収容所では6人に1人が死にました。死ぬと遺体は医務室の前に置かれているのですが、朝までの間にみんな裸になっています。着ている物を掻っ払うのです。パンツさえ盗りました。もちろん盗るのは我々日本兵で、盗った衣服をソ連の民間人の所に持ち込み、パンと取換えるのです。<br /><br /> 製材工場がありますから木材は山ほどあります。。あらかじめ棺桶を作っておきました。しかし、遺体が棺桶より大きい場合は入りません。タポール(斧)のみねで脚を叩くのです。凍っていますから脚はポキッと折れます。それで遺体を棺桶に収めることができるのです。<br /><br /> 遺体は土葬するのですが凍土です。土が1メートル以上も凍っています。なかなか掘れません。火を焚き、凍土を少しずつ融かし、鉄の棒で突き掻き、1日かかって40センチか50センチ、棺のかくれる程度でやっとです。浅いまま土をかぶせるのですから、春になると山犬か何かに掘り返されているのです。シベリアの山野に埋められた日本兵の遺体は、その後どうなっているのでしょうか。<br /><br /> 空腹<br /> 捕虜たちの死因は栄養失調、発疹チフス、凍傷、作業中の事故死などです。極東・シベリア地方での捕虜の食糧は一応パン350グラム、粉、穀物(小麦、燕麦、大豆、大麦、こうりゃん、粟、稗、きびなど)400グラム、魚150グラム、生野菜または塩漬け野菜800グラム、砂糖18グラム、塩20グラムという基準、建前があったと言うことですが、実際はそんなにありません。とにかく食べ物が少ない。重労働に空腹です。<br /><br /> 最初の冬は大変でした。8分の1斤ほどの大きさの黒パンは1日分。それに赤いこうりゃんや大豆のカーシャ(おじやのような物)、あるいはトマトが一切れの薄い塩スープが飯盒の蓋に八分目ほど。馬鈴薯でも付いていれば最高です。その頃ソ連も飢饉で食糧不足だったようです。野菜など殆どありませんでした。<br /><br /> 黒パンを分配するときは大変です。当番が切るのをみんな殺気立ち、目を皿のようにして見つめています。ついには天秤秤を作って足したり減らしたりして分けていました。<br /><br /> 腹が空いて仕方がありません。松の虫食い穴に針金を突っ込みマツムシを釣り上げて食べました。ビタミン不足の鳥目などにはよく効きました。それに靴のかかとを削りました。牛、豚の皮です。チューインガムのように噛んで唾液を出し、多少でも空腹感を抑えました。黒パンをお湯で溶かし、量を増やして満腹感にひたった者もいましたが、彼らはみんな胃を壊してしまいました。下痢をすると、松ヤニをかじったり、木炭を粉にして「クスリ」にしました。<br /><br /> 寒さ<br />零下30度を超えると作業休止ですが、零下29度なら作業に出ます。一度作業を開始したならば途中で休止になることはありません。風が吹けば風速1メートルごとに体感温度は1度宛下がります。<br /><br /> 零下20度から30度の酷寒での屋外作業です。まつげが凍って真っ白になります。吐く息が凍ってすぐ顔にまとわりつきます。素手で裸の金物などを掴んだりすると、すぐ凍り付いて皮がむけてしまいます。<br /><br /> 時々、お互いに顔を見て、白くなっていないか確かめます。白くなったら凍傷の前兆です。すぐマッサージです。手や足は、さすったり足踏みをして血行をよくしてから暖をとらないと凍傷にかかります。<br /><br /> 私も凍傷になりました。あまりの寒さに、部屋に入るとペチカの上に登って靴を履いたまま身体を暖めました。てきめんです。左足の親指が腐り始めました。幸い早く気が付きました。放っていれば肉が腐り、どんどん内部に進み骨まで達します。<br /><br /> 戦友に体を押さえてもらい、針金で作ったピンセットで患部をつまみ、ハサミで腐った部分の内側、まだ大丈夫なところに沿って腐った肉を切り取りました。本人は痛みと気張りで頑張ったのですが、見ていた戦友が気絶しました。一ヶ月ほど作業を休みました。その後しばらくは、靴が履けませんので、左足には大手袋を巻き付けて作業に出ました。私の左足親指は先が短くなっています。シベリア土産です。<br /><br /> シラミ<br /> 風呂はありません。汚れた衣服に垢だらけの体です。シラミが発生します。上衣の襟など裏返すと霜降りの服のようです。シラミがたかっています。<br /><br /> 一度入浴列車が来ましたが、それ以外入浴はしたことがありません。入浴列車というのは、最初の車両で衣類を脱いで裸になります。次の車両で衣類を差し出します。衣服の蒸気消毒です。次が蒸し風呂の車両です。床に煉瓦で仕切って焼けた石が並べてあります。水をかけます。猛烈に蒸気が立ちこめます。<br /><br /> 段になった高いところに座り、汗が吹き出します。汗をたらたら流しながら、榊の葉っぱで体を叩き、指でこすって垢を落とすのです。列車を降りるときは、蒸気消毒をした別の衣服を着て出てくるという仕組みになっています。シラミの大量発生が発疹チフスや伝染病の原因でした。<br /><br /> いつ帰れるのか。 <br />防寒具は一応もらえますが、極寒の屋外作業には慣れていません。食糧も少ない。いつも空腹。そして、いつ日本に帰れるかもわからない。先の見えない希望のない毎日です。誰でも参ってしまいます。最後の踏ん張りがきかないのです。<br /><br /> とりわけ下級兵士たちがばたばたと倒れていきました。死ぬ間際にはたいてい脳症になり、譫言(うわごと)を言います。夜中にパット起き上がって「汽車が出ますね。帰るんですね、日本に帰れるんだ。味噌汁が飲める。お母さん」、そういって死んだ戦友のことが、いまでも忘れられません。<br /><br /> 私は、少年兵を志願しをしたとき、許しをくれた父のがっくりとした姿を思い浮かべ、なんとしても生きて還り、親孝行をしようと苦難に耐えたのでした。<br /><br />人間として最低の所に落ちて<br />私たちは、ただ自分だけが生きればいいとしか思っていませんでした。隣の戦友が下痢をします。いたわるのではありません。嬉しくなるのです。「ああ、これで隣の奴の飯が食える」、そう思うのです。<br /><br /> こんなこともありました。ある兵士が病気にかかり、医務室に連れて行かれ、病床に伏したまま危篤になりました。それを聞いてその班では、まだ死んでいないのに骨箱を作りました。小指を入れて持ち帰ろうというのです。所持品はみんなで形見分けをしました。<br /><br /> ところが、本人が危篤を脱して生きて帰ってきました。自分の骨箱があって、持ち物は何もありません。けれども、彼の所持品を、誰も返しませんでした。本人も生きて帰れただけでも良かったと考えて、黙って我慢するより仕方ありませんでした。<br /><br /> こんな話はあまりしたくはありません。しかし本当の話なのです。まだまだ似たような話も沢山あります。人間として一番最低の所に落ちたのです。過酷な状況がそうさせたのですが、日本人同士が助け合えなかったのです。お互いが、お互いを、生き延びるために踏みつけるようにすることが多かったのです。<br /><br /> シベリアで抑留された人たちは、「寒かった」「ひもじかった」「重労働が辛かった」までは話しますが、それ以上の体験は話さないのです。特に家族や遺族には話せません。<br /><br /> 「隣の奴が下痢したら、ああ良かったと思ってその人の分まで食べました。死体の衣服を剥がし盗ってパンと換えました。危篤の奴の形見分けをして、生き残っても、知らん顔をして返しませんでした。お宅のお父さんも同じでした 」など言えません。鉄砲の弾丸に当たって死んだのならともかく……。<br /><br /> だからなかなか本当のことを話さないし、口が重く、何も話さない人もいるのです。戦争中には弾丸に当たらず生き延びてきたのに、戦争が終わって捕虜にされて……。いや捕虜ではありません。拉致です。<br /><br /> スターリンのソ連は「ポツダム宣言」を踏みにじって日本軍捕虜をシベリアに連れて行き、重労働を強制しました。六〇数万の日本軍将兵がソ連に抑留されて六万数千人が死亡したとされていますが、未だに正確な数字はわかりません。まさに戦後最大の拉致問題なのです。<br /><br /> そういうなかで、戦争が終わったというのに、惨めに、家族にも知られずに死んでいった。しかも、もう助け合いなどなくて、お互いに自分だけが生きることに必死の中で死んでいったのです。遺骨の多くも、まだシベリアの地にさらされたままなのです。 <br /><br /> しかしそういう中でも、鈍重に人間性を貫いた人がいたり、一方で、兵隊前の社会では立派な肩書きを持っていた人がくるっと変わってしまったり、そういう両極を私は見てきました。20歳前の少年兵でしたから、強烈な印象となって記憶に残っています。日本に帰ったときには一種の人間不信に陥りました。「この野郎、上手いこと言ったって、いざというときになったら、おかしくなるんじゃないのか」そういうことが度々でした。<br /><br /> ですから、もともと所属していた部隊が、戦後になって戦友会を作ると言うことができても、シベリアで同じ収容所にいた人たちが、戦後になって集まるというのはなかなか難しかったのです。ただ、シベリアに抑留されている間は、幾つかの収容所で合流したり、別れたりしていますから、帰国直前の最後の収容所で一緒になって、途中では醜い面をお互いに知らない場合には、グループを作ることも可能だったと思います。<br /><br />(次回は収容所の中の民主運動) 猪熊得郎http://www.blogger.com/profile/12204323961112316641noreply@blogger.com0