2010年2月7日日曜日

少年兵兄弟の無念-8

「少年兵の訓練・内務班」

 私は、1944年(昭和19年)4月6日、水戸市郊外の陸軍航空通信学校長岡教育隊に、陸軍特別幹部候補生として入隊をしました。父と姉が見送りに来てくれました。営門で別れの時、東京女子医専(現東京女子医大)に在学中で母代わりの姉が、服装を直しボタンをはめてくれました。手が震えていました。私は父の猛烈な反対を押し切って志願を「承諾」してもらったのですが、かなりの特幹同期生は親に反対され、親の目を「かすめて」判子を押し、願書を出していました。保護者の「承諾印」がないと入隊できません。

 三人に一人位はいたと思います。親にすればああいう時代でも当然子どもが少年兵を志願することに反対するし、子どもの方は、親の反対を押し切ってでも志願をするのです。親は、入隊通知が来て呆然としても、もう「入隊拒否」は出来ません。泣き泣き子どもを見送ると言うことになるのです。

 最初私は機上無線要員でしたが、体力検査があり、対空無線隊要員となりました。四月十日に入校式が行われましたが、襟に幹部候補生の座金、二つ星の一等兵、胸には航空兵の翼をあしらった胸章です。いよいよ軍人だ。立派な軍人になって、国のため、天皇のために戦うのだと、心に誓ったのでした。

 航空通信と言っても幾つかに別れます。爆撃機や偵察機に乗って地上や他の飛行機と通信するのが機上無線です。飛行場のピスト(戦闘指揮所)から飛行機と通信をするのが対空無線。特攻機との交信もここで行います。「敵艦発見」「戦艦○隻、駆逐艦○隻」、「われ突入す」、「ツー」、突入するとき電鍵を押します。音が途切れたときが激突の瞬間です。

 飛行場と飛行場、飛行場と司令部などと通信連絡をするのが通信連隊。航測通信は、方向探知機を操作し、電波をとらえて、方位を測定します。数カ所の探知所の測定交差点が飛行機の位置となります。

 情報無線は主として暗号電報の解読です。交信は、文字を五桁の数字にします。さらにそれを乱数表で組み替えて送受信します。乱数表は通例三ヶ月毎に更新されます。暗号通信の送受信、解読は、どの要員でもこなします。(対空無線隊が
飛行機と交信するときは通例暗号電報ではありません。無線電話の時は一応暗語と言うことになっていました。)情報無線要員は、司令部や本部などに配置されていました。また、このほかソ満国境では、国境地帯に二人づつ無線機と食糧を持って配置され、ソ連の動向を探っていました。

 通信整備は、無線機の整備、保守、修理等を任務とします。
 私たち対空無線隊要員の中隊の教育訓練は、午前中が講義、学科教育で、精神講話、軍人勅諭、典範令、数学、電気工学、物理、モールス信号の送受信訓練等でした。送受信は一分間百二十五字が目標でした。間違えたり、遅かったりするとぶん殴られたり、練兵場一週の駆け足です。

 午後は、体操、軍事教練、無線機の取り扱い、野外での送信所、受信所の設置訓練です。毎日、たるんでいる、動作がのろいと怒鳴られ、軍装して駆け足、全速力で突撃の訓練、時にはガス室でマスクを外す訓練でした。

 軍隊は入って見ると、入る前に想像していたのとは全く違うところでした。志願兵、徴兵の区別なく、最初は指導教官や古参兵からリンチを受けて大変な苦労をさせられます。軍隊こそ男の中の男の世界と信じて志願した少年兵にとってその落差は大変なものです。今でいえば高校生の年頃でしたが、自分の意志で志願した私たちにとって猛訓練も耐えることも出来ました。

 しかし、とても我慢がならなかったのは、軍人精神を叩き込むための内務班の生活でした。内務班というのは、兵営の中で兵士が寝起きする最小の単位です。営庭に面した側が「舎前」、洗濯場、厠(便所)のある裏側に面した側が「舎後」で二〇人ほどが寝起きします。まん中の廊下の両側には、銃架があって、各人の銃が立てかけてあります。廊下を挟んで板敷きの大部屋があり、まん中に長机、長椅子が置かれ、両側にわら布団のベットが並んでいます。ここが寝室であり、食堂であり、兵器手入れの場であり、休養室であります。

 「軍隊内務令」には「兵営は軍人の本義に基づき、死生苦楽を共にする軍人の家庭にして兵営生活の要は起居の間、軍人精神を涵養し軍紀に慣熟せしめ強固なる団結を完成するにある」とあります。

 先ず娑婆気を抜く、地方気分をたたき出すことから始まります。閉鎖社会の軍隊では兵営の外の世界(娑婆・しゃば)のことを「地方」と呼んでいました。軍隊が中心にあって、その周りはみな「地方」と言うことでしょうか。軍人・軍属以外は地方人で、例え総理大臣でも地方人となるのです。

 先ず入隊すると「地方服」を脱いで「軍服」に着替えます。初年兵は軍隊特有の言葉を先ず最初に叩き込まれます。身につけているものの呼び方も独特です。シャツは襦袢(じゅばん)、ズボン下は袴下(こした)。ズボンは袴(こ)、軍服は軍衣袴(ぐんいこ)、ポケットは物入れ、スリッパは上靴(じょうか)、軍靴は編上靴(へんじょうか)。ゲートルが巻脚絆、靴下が軍足(ぐんそく)。布団カバーが包布(ほうふ)ということです。西洋風の言葉は一切追放です。

 日本の軍隊では「員数」が大変重要なことでした。員は兵員の、数は兵器や被服・弾薬・食糧の数量を表します。戦争や軍隊は、兵力と武器、装備の戦いです。数量がものをいいます。ですから数量管理が徹底しています。 朝晩二回の点呼や、内務検査、兵器検査などで員数が合うかどうかテックします。

 員数が合うかどうかは大変重大な要件です。「畏くも天皇陛下からお預かりした」武器であり、被服です。ですから足りないときはあらゆる手段で「員数合わせ」をします。襦袢や袴下が足りなければ、他中隊の物干し場に行って着て来ます。営内靴がなければ風呂場に行って履いてきます。敷布が足りなければ一つの物を裂いて二つにします。これが軍隊と言うところなのです。「員数を合わせる」「員数をつける」と言うことで、海軍では、「銀蠅」(ぎんばい)と呼ぶそうです。

 「僕」「君」などの地方語を使えばそれこそ鉄拳制裁の対象です。「地方の言葉を使うな」、「地方気分を出すな、弛んでいる」。一般社会の常識はここでは通用しません。俗社会から隔絶された特異な「軍隊」の鋳型にはめ込まれ、問答無用で、どんな命令でも従順に行動する兵隊に仕上げられるのです。

 日本軍隊が、「地方気分」や「地方語」を忌み嫌ったのは、「地方」「娑婆」での職業や地位や身分の違いから出てくる優越感や劣等感が軍隊教育の妨げになるからでしょう。軍隊で中級や下級の「上官」となる職業軍人は、主として士官学校出の将校や、兵隊からたたき上げの下士官です。彼らは一般的な社会生活を知らず、その知識水準や知識の範囲も極めて限られた狭いものです。

 しかし軍隊では、この「上官」たちが「偉い」人、「立派な」「模範的」「見習うべき」軍人という建前になっています。この「建前」「秩序」を守るためには兵隊は馬鹿でなければなりません。兵隊が「上官」を尊敬しなければなりません。例え「内心」でも、「上官」を見下したり、軽蔑したりするようなことがあってはならないのです。だから「兵隊」という軍隊での最下層の人間から「地方」に関係のある一切のものをことごとく叩き出し、空っぽの頭で、無条件に「上官」の命に従い戦闘に参加する兵隊を作り上げるのです。
 
 六時起床です。起床ラッパが鳴って、三分以内に毛布をたたみ、服装を整え、営庭に整列出来ないと竹刀で叩きのめされます。下士官が竹刀を持って出入り口に待ちかまえています。背中であろうが、頭であろうが容赦しません。演習から帰り内務班に帰ると、整頓が悪いといって持ち物がひっくり返されています。これを「地震」と言います。ビンタならまだましです。持ち物をひっくり返した木銃で突き倒されます。

 銃の手入れが悪い、銃の菊の紋章に埃がついていたといって逆さに銃を持った捧げつつ一時間です。気分が悪くなって倒れるときは必死に銃を身体の内側に抱え背中から倒れます。返事が悪い、声が小さい、要領が悪い、たるんでいると二列に並び向かい合って殴り合う「切磋琢磨」、革のベルトで殴られる「帯革ビンタ」、机の端に逆立ちをする「急降下爆撃」等々、文字通り問答無用の私的制裁の毎日です。

 せめてもの抵抗は、「ツバキ汁」に「ふけ飯」です。「ツバキ汁」は味噌汁にツバを吐きかき混ぜます。「ふけ飯」は、ご飯に頭のふけをかきむしりかき混ぜます。当番がうやうやしくお膳を捧げて「上官」に差し出します。食後、食べ残しなく空になった食器が帰ってくるとみんなで万歳を叫びます。

 ある時、寝ている時にたたき起こされました。上靴が、寝台の下にきちんと揃えていなかったというのです。寝台の上に正座です。上靴を目の前に捧げて言わされました。「お上靴様、お上靴様。筑波下ろしの空っ風にボーッと致しました。お上靴様、貴方様を粗末に致しまして真に申し訳ありません。今後このようなことを致しません。お大事に扱わせていただきます。お許し下さい」。その晩、上靴を胸に抱いて寝ることになりました。あの屈辱と口惜しさを忘れることはありません。

 夜、消灯ラッパが聞こえると、あちこちの寝台からすすり泣きが聞こえてきます。一途な純情で入隊した少年の私は、当然、軍隊のもつ様々な矛盾とぶつかりました。「何故、こんなにぶん殴られ痛めつけられないと一人前の軍人になれないのだろうか。何かが間違っている。これはきっと、天皇陛下の大御心を途中でひん曲げる奴がいるからこうなるのだ。そいつ等をいつか叩き直してやろう。」そんな風に思ったのでした。

1 件のコメント:

  1. 軍隊なんて人間の行くところじゃないですよ

    と、今は亡き親戚のおじさんがよく言っていました
    そのおじさんも徴兵経験者でした
    こんなひどい内務班の上に成り立つ組織だった、ということは語り継ぐ必要がありますね。

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