いつか来た道
日の丸・君が代の強制
猪熊 得郎
学校での日の丸・君が代の強制が強まっている。私には日の丸・君が代に鍛えられ、十五歳で少年兵を志願した戦中の少年時代の思い出が蘇ってくる。
戦前・戦中、四大節には各戸に日の丸の旗が掲げられた。四大節とは四方拝、紀元節、天長節、明治節である。
四方拝とは 一月一日の早朝に行われる皇室祭祀であり、神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方の神々を拝礼する。紀元節は、一八七二年(明治五)日本書紀の伝える神武天皇即位の日に基づいて制定された祝日で、二月十一日。一九四八年(昭和二三)廃止されたが、一九六一年(昭和四一)から「建国記念の日」として復活し、国民の祝日となった。天長節とは「天長地久」から天皇誕生日を祝った祝日であり、明治節とは明治天皇の誕生日に当たる十一月三日であった。
一九四一年四月に小学校は国民学校となったが「国民学校令施行規則」には、四大節のセレモニーには、次のように定めらていた。(それ以前に行われていたものを集大成規制化したものであろう。)
第四十七条 紀元節、天長節、明治節、及一月一日に於いては職員及児童学校に参集して左の式を行うべし
一 職員及び児童「君が代」を合唱す
二 職員及児童は
天皇陛下
皇后陛下の
御影に対し奉り最敬礼を行う
三 学校長は教育に関する勅語を奉読す
四 学校長は教育に関する勅語に基づき誓旨のあるところを誨告(かいこく)す
五 職員及児童はその祝日に相当する唱歌を合唱す
(注 君が代・紀元節・天長節・明治節・一月一日・勅語奉答歌・昭憲皇太后御歌・明治天皇御製な ど)
後略
一九四一年文部省が制定した「礼法要綱」を基にした「文部省制定 昭和の国民礼法」によればこれらのセレモニーは更に次のように規定されていた。
一 祝祭日には、国旗を掲げ、宮城を遙拝し、祝賀、敬粛の誠を表す。
二 紀元節・天長節・明治節及び一月一日における学校の儀式は次の順序・方式による。
天皇陛下・皇后陛下の御写真の覆いを撤する。
この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表す。
次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に対し奉り最敬礼を行う。
次に国歌をうたう
次に学校長教育に関する勅語を奉読する。
参列者は奉読の始まると同時に上体を前に傾けて拝聴し、奉読の終わったとき、敬礼して徐に元の姿勢 に復する。
次に学校長訓話を行う。
次に当日の儀式用唱歌をうたう。
次に天皇陛下・皇后陛下の御写真に覆いをする。
この際、一同上体を前に傾けて敬粛の意を表する。
以下略
【注意】
一、天皇陛下のお写真を式場の正面の正中に、皇后陛下のお写真は、天皇陛下のお写真の左(拝して 右)に奉戴する。
明治節の時には、明治天皇のお写真は天皇陛下の右(拝して左)に奉戴する。
二、勅語読本は箱より出し、小蓋または台に載せて式場の上座に置くを例とする。
三、勅語奉読に当たっては、奉読者は特に容儀・服装に注意し、予め手を清める。(フロックコート、 モーニングコート、及び和服の場合は手袋は着用しない。)
謄本は丁寧慎重に取り扱い、奉読の前後に押し頂く。
四、勅語奉答の歌をうたう場合は、学校長訓話の前にする。
五、勅語奉読・訓話等は、御写真を奉掲する場合は御前を避け、しからざる場合は正面の中央で行う。
六、皇后陛下御誕辰・皇太后陛下御誕辰を賀し奉る儀式を行う場合には、凡そ祝日における儀式に準じ て順序・方式を定める。
遙拝式・勅語奉読式・入学式・卒業式又は記念式等学校に於ける諸儀式に就いても亦同じ。
七、学校以外の団体の行事は、適宜前各項に準じて行う。
大分引用が長くなったが、六〇代後半以降の方は彷彿として戦前の四大節セレモニーを思い起こされたでし ょう。今日思えば馬鹿馬鹿しく仰々しい行事が、日本中で、「大まじめに」執り行われていたのである。
今日の日の丸・君が代の強制を見ていると、新しい装いで、どこまでこのような方向に近づくことかを危惧 せざるを得ない状況である。
そしてまた、このセレモニーのメインはまさに「教育勅語」の奉読であった
「勅語」とは「大辞林」によれば、「1天子の言葉。みことのり。2旧憲法下、天皇が直接に国民に下賜す るという形で発した意思表示」とあるが、天皇については、旧憲法では次のように規定している。
第一条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す
第三条 天皇は陸海軍を統帥す
第十一条 天皇は陸海軍を統率す
第十二条 天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む
第十三条 天皇は戦いを宣し和を講じ及諸般の条約を締結す
まさに天皇は絶対的権力を持って国民の上に君臨し、日本の運命と国民の生殺与奪の権能を持った存在で あっり、教育に関する勅語「教育勅語」は、国民を、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運 を扶翼」する「忠良な臣民」に仕立てるための、大日本帝国の教育の国是であった。
一八七九年(明治一二)の「教学大旨」には次のように書いてある。
仁義忠孝の心は、人みな、これ有り。しかれども、その幼少のはじめに、その脳髄に感覚せしめて、培養す るにあらざれば、他のもの事、すでに耳に入り先入主となるときは、のちいかんともなすべからず。故に、 当世小学校に絵図のもうけあるに準じ、古今の忠臣・義士・孝子・節婦の・画像・写真を掲げ、幼年生入校 の始めに先ずこの画像を示し、その行事の概略を説諭し、忠孝の大義を脳髄に感覚せしめんことを要す。し かるのちに、諸物の名状を知らしむれば、後来(将来)忠孝の性に養成し、博物の学(理科)において、本 末を誤ること無かるべし。
この伝統的君が代・日の丸付けの教育の中で、私たち当時の少年は、日出る国の天子の下「八紘一宇」 「大東亜共栄圏の確立」「国のため」、戦場に赴くことが祖国愛に充ち満ちた、男子本懐の道と信じる民草 に育てられていった。
四二万の少年兵が、親たちの反対を押し切って一五年戦争に参加した。
四七年一二月、一九歳で私はシベリアから復員した。
旧制中学三年を終え少年兵の道に歩んだ私は、復学を希望して母校を訪ねた。
応接したのは、当時教頭で、私たちを熱烈に送り出し、戦後、校長になった教師であった。
同級生は学徒動員で四年当時何も勉強をしていないが、戦時中の繰り上げにより四年で卒業した。君にも、 四年修了の免状をやるからどこか他所へ行ってくれ。シベリア帰りとは言わない方が良いよ。
私と同じように特幹、予科練など少年兵を志願したクラスメートたちの消息を聞いた。万歳、万歳、母校の 名誉と送り出した彼は、戦後の混乱で、彼らの消息は分からない、どうしていますかね…。それが彼の答え であった。
今、君が代・日の丸を強制している人たちは、いったいその結果にどこまで責任を取るのだろうか。た だ、野となれ山となれしか考えていないのであろうか。
2011年6月20日月曜日
2011年5月26日木曜日
兄と弟 二人の少年兵
兄と弟
二人の少年兵
猪 熊 得 郎
(「不戦」2000年2月121号)
一九四三年冬
二つ上の兄は
「国難ここにみる」と「元寇の歌」を歌って
「予科練」を志願した。
十五歳の弟も
必死で父を説得した。
「アッツもタラワも
そしてマキンも
みんな玉砕だ。
今行かなければ
大変なことになる。」
「特幹」を志願する。
「日の丸」の金縁の額と
白馬に跨った「大元帥陛下」の写真が
父と子を見下ろしていた。
三日後、とうとう父は諦めた。
「行きなさい、
でも、生命(いのち)は大切にな」。
一九四四年夏
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた
兄と弟は
水戸陸軍航空通信学校の営門で
最後の別れをした。
陸軍特別幹部候補生
陸軍一等兵の弟は
十五歳十一ヶ月
海軍飛行予科練習生
海軍飛行兵長の兄は
十八歳五ヶ月
二人の父は
いつまでも敬礼し見つめ合う息子たちを
黙ってじっと見つめていた。
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた息子たちと
父はもう会うことが出来なかった。
兄は数日後
土浦海軍航空隊から
特攻隊員として
瀬戸内海大津島(おおづしま)の
人間魚雷「回天」基地に
旅だって行った。
一九四五年早春
兄は沖縄に向かった。
回天特攻隊を乗せた輸送艦は
待ちかまえた
アメリカ潜水艦の雷撃で沈没
回天もろとも、全員戦死した。
一九四五年夏
弟は旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。
「日の丸と君が代」の下
死ぬことを教えた
高級将校たちは
いち早く日本へ飛び去った。
脱走、略奪、殺し合い、
混乱の中で戦友は
「天皇のため、祖国再建のため
歩いて日本に帰るのだ」
そう云って飛行場を離れた
彼らは未だ還っていない。
天皇の兵士たちは
シベリアへ送られ
飢えと寒さと重労働に
次々と倒れ
六万人が零下三〇度の異国に葬られ
祖国の土を踏むことがなかった。
「皇居遙拝
将校を父と思え
下士官を兄と思え
天皇のため苦しみに耐えよ」
今日も戦友が死んだ。
「みそ汁が飲みたい。お母さん。」
一九四七年冬
弟は祖国の土を踏んだ。
故郷は東京大空襲で跡形もなく
水戸で別れた父も兄ももういなかった。
そして云われた。
「シベリア帰りとは云うなよ」
生きるため国土復興のため
一生懸命働いた弟が
やがてお年寄りと呼ばれる頃
高齢者が多いから国が貧しい
福祉・医療費の切り下げ切り捨て。
「老人は 死んで下さい 国のため」
「日の丸・君が代」が
我がもの顔に嘯(うそぶ)いている。
「日の丸・君が代」に育てられた君たちよ
「日の丸・君が代」のため今度こそ死んだらどうだ。
初心忘れるな。
それが愛国心。
冗談じゃあない
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」で鍛えられ
地獄の入り口を
はいまわった俺たち。
そう簡単に死んでたまるか。
俺たちは侵略戦争に
青春を捧げた生証人。
生きること、語ること、
それが、それこそが
「日の丸・君が代」と俺達の闘いだ。
おわり
二人の少年兵
猪 熊 得 郎
(「不戦」2000年2月121号)
一九四三年冬
二つ上の兄は
「国難ここにみる」と「元寇の歌」を歌って
「予科練」を志願した。
十五歳の弟も
必死で父を説得した。
「アッツもタラワも
そしてマキンも
みんな玉砕だ。
今行かなければ
大変なことになる。」
「特幹」を志願する。
「日の丸」の金縁の額と
白馬に跨った「大元帥陛下」の写真が
父と子を見下ろしていた。
三日後、とうとう父は諦めた。
「行きなさい、
でも、生命(いのち)は大切にな」。
一九四四年夏
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた
兄と弟は
水戸陸軍航空通信学校の営門で
最後の別れをした。
陸軍特別幹部候補生
陸軍一等兵の弟は
十五歳十一ヶ月
海軍飛行予科練習生
海軍飛行兵長の兄は
十八歳五ヶ月
二人の父は
いつまでも敬礼し見つめ合う息子たちを
黙ってじっと見つめていた。
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた息子たちと
父はもう会うことが出来なかった。
兄は数日後
土浦海軍航空隊から
特攻隊員として
瀬戸内海大津島(おおづしま)の
人間魚雷「回天」基地に
旅だって行った。
一九四五年早春
兄は沖縄に向かった。
回天特攻隊を乗せた輸送艦は
待ちかまえた
アメリカ潜水艦の雷撃で沈没
回天もろとも、全員戦死した。
一九四五年夏
弟は旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。
「日の丸と君が代」の下
死ぬことを教えた
高級将校たちは
いち早く日本へ飛び去った。
脱走、略奪、殺し合い、
混乱の中で戦友は
「天皇のため、祖国再建のため
歩いて日本に帰るのだ」
そう云って飛行場を離れた
彼らは未だ還っていない。
天皇の兵士たちは
シベリアへ送られ
飢えと寒さと重労働に
次々と倒れ
六万人が零下三〇度の異国に葬られ
祖国の土を踏むことがなかった。
「皇居遙拝
将校を父と思え
下士官を兄と思え
天皇のため苦しみに耐えよ」
今日も戦友が死んだ。
「みそ汁が飲みたい。お母さん。」
一九四七年冬
弟は祖国の土を踏んだ。
故郷は東京大空襲で跡形もなく
水戸で別れた父も兄ももういなかった。
そして云われた。
「シベリア帰りとは云うなよ」
生きるため国土復興のため
一生懸命働いた弟が
やがてお年寄りと呼ばれる頃
高齢者が多いから国が貧しい
福祉・医療費の切り下げ切り捨て。
「老人は 死んで下さい 国のため」
「日の丸・君が代」が
我がもの顔に嘯(うそぶ)いている。
「日の丸・君が代」に育てられた君たちよ
「日の丸・君が代」のため今度こそ死んだらどうだ。
初心忘れるな。
それが愛国心。
冗談じゃあない
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」で鍛えられ
地獄の入り口を
はいまわった俺たち。
そう簡単に死んでたまるか。
俺たちは侵略戦争に
青春を捧げた生証人。
生きること、語ること、
それが、それこそが
「日の丸・君が代」と俺達の闘いだ。
おわり
2010年7月30日金曜日
帝国陸海軍の少年兵4
海 軍 の少年兵 1
海軍飛行予科練習生(予科練―少兵の代名詞)
1930年(昭和5年)6月、前年末の海軍省令第11号による海軍志願令規則の改正により、横須賀海軍航空隊に、「予科練習部」が出来たのが始りである。
創設時は15歳から17歳を対象として、修業年限は3年、全国5千9百余名の志願者から79名が一期生とて入隊した。
その後当初から採用時高等小学校2年卒業程度のものを乙種とし、中学4年1学期終了程度(創設当初)のもので修業年限を短くしたものを甲種とした。
[表1]
(表1) 予科練・入隊者・戦没者数
創設 入隊者数 戦没者数
乙 種 1930年 87550 4900
甲 種 1937年 139720 6778
丙 種 1940年 7298 5509
乙 特 1943年 6715 1348
合 計 241238 62635
乙種
予科練は、将来の航空特務士官を養成するための制度であり、それに必要な高度の知識と特殊な技能、指揮能力を持った人材の養成を目的にしたものであった。
第1期生から第7期生までが「予科練習生」と呼ばれ、その後、「乙種飛行予科練習生」と変更になった。
1期から7期までの入隊が合計1105名、そのうち717名が戦死、戦没率68.9%であった。
甲種
1年に200名足らずの入隊、訓練で、3年間も掛けて養成する「予科練習生」の制度では、どう考えても航空戦力充実の要請に応えることが出来ない。それで予科練習生の教育機関を短くする制度が考えられた。
採用の学力を高くし、学力を(旧姓)中学4年1学期終了程度とし、修業年限を半減させた「甲種飛行予科練習生」を発足させ、従来の制度の8期生からを「乙種飛行予科練習生」とした。
甲種飛行予科練習生は、1937(昭12)年9月1日、2874名から選ばれた250名が第1期生として入隊した。
丙種
日本海軍が,士官を中心とした操縦講習員の養成を始めたのは、1926(大正元)年であった。これまであった、「操縦練習生」「偵察練習生」などを一本化して、1940(昭15)年10月、「丙種飛行予科練習生」が生まれた。
「丙種飛行予科練習生」は、既に海軍軍人としての勤務実績を持つ人々を、他の各科から選抜して搭乗員として養成しようとするものであった。
予科練としての就業期間は極めて短く6ヶ月と定められたが、実際には、1ヶ月から4ヶ月で卒業したものも多い。
1940(昭15)年10月1日に第1期生が入隊して、この期が閉じられる1943(昭18)年3月31日までに、7732名が入隊して、戦没者5905名、戦没率71%である。
特乙
米軍の大反攻作戦によって、日本の航空作戦は逼迫し、1942(昭17)年度に乙種飛行予科練習生の第二次試験に合格したままになっていた者から、年齢16歳6ヶ月以上で短期教育に適する者を特乙として採用した。
特乙は、1943(昭18)年、第1期生1585名が岩国空に入隊してから、1944(昭19)年10月1日、第10期生が高野山空に入隊するまでの間、合計6845名が採用され,1348名が戦没、戦没率は約20%である。
甲、乙、丙
夢多き、純真な少年兵制度に、甲、乙、丙などの名称を着けるなどの無理解、無頓着、無粋で、無神経な呼称は、やがて練習生相互の間に、反目と対立を生むこととなった。
戦前の小学校成績表、いわゆる「通信簿」の成績評価は甲、乙、丙の三段階絶対評価であった。甲、乙、丙は当時の人々にとって、歴然たる評価の基準であった。
乙種にすれば収まらない。後から出来た制度が甲種。しかも1年も先に入隊して猛訓練に耐えている。ところが後から来て、青白いのが、階級も、数ヶ月もすれば追い抜いて行く。我慢がならない。甲乙が混在した航空隊では衝突が絶えない。すれ違えば部隊ごとの殴り合いである。
1944(昭和19)年3月には、ついに、三重航空隊の甲種は土浦航空隊に移動。土浦航空隊の乙種は三重航空隊に移動した。それ以後、土浦航空隊は甲種予科練、三重航空隊は乙種予科練の教育訓練の場となった程である。
七つボタンの誕生
1937(昭和12)年に甲飛の制度が出来たのであるが、当初、海軍は、この制度を海軍士官養成の海軍兵学校に準じるような制度であるように宣伝して中学生を募集していた。
入隊して「ジョンベラ」の水平服を着せられた初期の甲飛生の不平、不満、屈辱感は燃え上がった。
第3期生の中には、「水兵服」を恥じ、屈辱感から、折角の休暇に故郷に帰らぬ者も出た。
「われわれは軍人として入籍した以上帰ることはできない。しかし後輩が甲飛に来ることは阻止しなければならない」と出身中学へ甲飛受験を止めるように指示する文書を送る動きが出始めたのである。
おどろいた当局は厳重な調査をしたが、3期生の団結は固く、「修正」の名をかりた暴力の制裁にも屈せず、ついに煽動者を見つけ出すことが出来なかった。当局は懐柔ににあたることになった。
甲種予科練3期生は、将来の処遇、現在の教育内容の改善、七つボタンに短剣やウイングマークをつけた制服などの要求を提出した。
この結果、服装面では短剣が割引されて、1942(昭17)年11月1日に「七つボタン」の制服が誕生して、甲飛は第8期生からこれを着用するようになった。
これが予科練の代名詞ともある七つボタン誕生のいきさつである。
搭乗員の消耗の激しくなった1943(昭18)年以後は大量採用が行われ、終戦までの僅か2年半で20万4千名が採用された。(表2)
(表2) 予科練43年以降の採用数
甲種 乙種 計
1943年 7310 31203 38513
1944年 33140 78027 11167
1945年 29280 25035 54315
合計 69730 134263 203995
海軍航空特攻(神風特攻隊)2225名のうち予科練は1728名(68%)。 桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)震洋(ベニヤ製水上特攻艇)、海竜(中有翼小型潜行艇)、蛟竜(水中特攻)伏龍(人間機雷)、土竜(もぐら特攻)神竜(滑空特攻機)等の特攻は全て予科練を主力として編成された。
(予科練と特攻については後述する)
燃料不足、機材不足、戰況逼迫のため搭乗員教育は45(昭20)年1月1日で中止。予科練教育は45(昭20)年6月で中止。以後本土決戦を前にして、予科練教育末程了者は基地整備、修了者は総員特攻、水上水中特攻要員とされた。
海軍飛行予科練習生(予科練―少兵の代名詞)
1930年(昭和5年)6月、前年末の海軍省令第11号による海軍志願令規則の改正により、横須賀海軍航空隊に、「予科練習部」が出来たのが始りである。
創設時は15歳から17歳を対象として、修業年限は3年、全国5千9百余名の志願者から79名が一期生とて入隊した。
その後当初から採用時高等小学校2年卒業程度のものを乙種とし、中学4年1学期終了程度(創設当初)のもので修業年限を短くしたものを甲種とした。
[表1]
(表1) 予科練・入隊者・戦没者数
創設 入隊者数 戦没者数
乙 種 1930年 87550 4900
甲 種 1937年 139720 6778
丙 種 1940年 7298 5509
乙 特 1943年 6715 1348
合 計 241238 62635
乙種
予科練は、将来の航空特務士官を養成するための制度であり、それに必要な高度の知識と特殊な技能、指揮能力を持った人材の養成を目的にしたものであった。
第1期生から第7期生までが「予科練習生」と呼ばれ、その後、「乙種飛行予科練習生」と変更になった。
1期から7期までの入隊が合計1105名、そのうち717名が戦死、戦没率68.9%であった。
甲種
1年に200名足らずの入隊、訓練で、3年間も掛けて養成する「予科練習生」の制度では、どう考えても航空戦力充実の要請に応えることが出来ない。それで予科練習生の教育機関を短くする制度が考えられた。
採用の学力を高くし、学力を(旧姓)中学4年1学期終了程度とし、修業年限を半減させた「甲種飛行予科練習生」を発足させ、従来の制度の8期生からを「乙種飛行予科練習生」とした。
甲種飛行予科練習生は、1937(昭12)年9月1日、2874名から選ばれた250名が第1期生として入隊した。
丙種
日本海軍が,士官を中心とした操縦講習員の養成を始めたのは、1926(大正元)年であった。これまであった、「操縦練習生」「偵察練習生」などを一本化して、1940(昭15)年10月、「丙種飛行予科練習生」が生まれた。
「丙種飛行予科練習生」は、既に海軍軍人としての勤務実績を持つ人々を、他の各科から選抜して搭乗員として養成しようとするものであった。
予科練としての就業期間は極めて短く6ヶ月と定められたが、実際には、1ヶ月から4ヶ月で卒業したものも多い。
1940(昭15)年10月1日に第1期生が入隊して、この期が閉じられる1943(昭18)年3月31日までに、7732名が入隊して、戦没者5905名、戦没率71%である。
特乙
米軍の大反攻作戦によって、日本の航空作戦は逼迫し、1942(昭17)年度に乙種飛行予科練習生の第二次試験に合格したままになっていた者から、年齢16歳6ヶ月以上で短期教育に適する者を特乙として採用した。
特乙は、1943(昭18)年、第1期生1585名が岩国空に入隊してから、1944(昭19)年10月1日、第10期生が高野山空に入隊するまでの間、合計6845名が採用され,1348名が戦没、戦没率は約20%である。
甲、乙、丙
夢多き、純真な少年兵制度に、甲、乙、丙などの名称を着けるなどの無理解、無頓着、無粋で、無神経な呼称は、やがて練習生相互の間に、反目と対立を生むこととなった。
戦前の小学校成績表、いわゆる「通信簿」の成績評価は甲、乙、丙の三段階絶対評価であった。甲、乙、丙は当時の人々にとって、歴然たる評価の基準であった。
乙種にすれば収まらない。後から出来た制度が甲種。しかも1年も先に入隊して猛訓練に耐えている。ところが後から来て、青白いのが、階級も、数ヶ月もすれば追い抜いて行く。我慢がならない。甲乙が混在した航空隊では衝突が絶えない。すれ違えば部隊ごとの殴り合いである。
1944(昭和19)年3月には、ついに、三重航空隊の甲種は土浦航空隊に移動。土浦航空隊の乙種は三重航空隊に移動した。それ以後、土浦航空隊は甲種予科練、三重航空隊は乙種予科練の教育訓練の場となった程である。
七つボタンの誕生
1937(昭和12)年に甲飛の制度が出来たのであるが、当初、海軍は、この制度を海軍士官養成の海軍兵学校に準じるような制度であるように宣伝して中学生を募集していた。
入隊して「ジョンベラ」の水平服を着せられた初期の甲飛生の不平、不満、屈辱感は燃え上がった。
第3期生の中には、「水兵服」を恥じ、屈辱感から、折角の休暇に故郷に帰らぬ者も出た。
「われわれは軍人として入籍した以上帰ることはできない。しかし後輩が甲飛に来ることは阻止しなければならない」と出身中学へ甲飛受験を止めるように指示する文書を送る動きが出始めたのである。
おどろいた当局は厳重な調査をしたが、3期生の団結は固く、「修正」の名をかりた暴力の制裁にも屈せず、ついに煽動者を見つけ出すことが出来なかった。当局は懐柔ににあたることになった。
甲種予科練3期生は、将来の処遇、現在の教育内容の改善、七つボタンに短剣やウイングマークをつけた制服などの要求を提出した。
この結果、服装面では短剣が割引されて、1942(昭17)年11月1日に「七つボタン」の制服が誕生して、甲飛は第8期生からこれを着用するようになった。
これが予科練の代名詞ともある七つボタン誕生のいきさつである。
搭乗員の消耗の激しくなった1943(昭18)年以後は大量採用が行われ、終戦までの僅か2年半で20万4千名が採用された。(表2)
(表2) 予科練43年以降の採用数
甲種 乙種 計
1943年 7310 31203 38513
1944年 33140 78027 11167
1945年 29280 25035 54315
合計 69730 134263 203995
海軍航空特攻(神風特攻隊)2225名のうち予科練は1728名(68%)。 桜花(人間爆弾)、回天(人間魚雷)震洋(ベニヤ製水上特攻艇)、海竜(中有翼小型潜行艇)、蛟竜(水中特攻)伏龍(人間機雷)、土竜(もぐら特攻)神竜(滑空特攻機)等の特攻は全て予科練を主力として編成された。
(予科練と特攻については後述する)
燃料不足、機材不足、戰況逼迫のため搭乗員教育は45(昭20)年1月1日で中止。予科練教育は45(昭20)年6月で中止。以後本土決戦を前にして、予科練教育末程了者は基地整備、修了者は総員特攻、水上水中特攻要員とされた。
2010年7月28日水曜日
帝国陸海軍の少年兵3
帝国陸海軍の少年兵3
少年兵制度の誕生
『大空への憧れと少年兵
そして軍人に 』
すでに述べたように、足掛け15年にわたるアジア・太平洋戦争の下で、帝国陸海軍の少年兵は42万名を超えたが、それは1930年(昭和5)の海軍飛行予科練習生の創設で始でまった。
戦前の横須賀軍港は、大日本帝国海軍のアジア侵略の最大の拠点であったが、同時に「少年兵」の象徴ともいうべき海軍飛行予科練習生「予科練」の誕生の地でもあった。東京湾に接した横須賀市貝山緑地の坂を登ると右に「横須賀航空隊跡地」の碑、左の海を見下ろす林の中に「予科練誕生の地」の碑がある。
碑には、「……昭和5年6月1日横須賀海軍航空隊の一隅に、海軍少年航空兵の教育機関として、横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し、やがて予科錬と、愛称されるようになった。志願者の年齢は15歳から17歳、修業年数は3ヶ年、……全国5千9百余名の志願者から厳選された79名が第一期生として入隊した。」とある。
当時の日本海軍は、ロンドン海軍軍縮条約(1930)によって軍備の拡張を制限され艦艇建造に技術力を結集する一方、条約に拘束されない航空軍備の拡充に力を入れ始めていた。また1929年10月には、ニューヨーク・ウォール街での株式の大暴落から経済恐慌が世界を駆け巡った。東京帝国大学卒業生の就職率でさえ30パーセントという就職難の時代である。
海軍は経済的な理由で進学できない少年に目をつけ、優秀な人材を確保するために1930年、予科練を発足させた。少年たちは、軍人になるということよりも、「公費」で大空に羽ばたくことができるという夢を膨らませ、希望に燃えて志願をしたのだった。
予科練第一期の採用試験には、大空への憧れを抱く若者たちが殺到し、志願者は実に5807名にも及んだ。そのうち合格者はわずかに79名、実に73.5倍の倍率であった。ちなみに1934年2月の陸軍少年飛行兵第1期生170名採用の倍率は約30倍でった。
大日本帝国海軍最大の根拠地横須賀は、少年兵の養成に絶好の環境にあった。軍人になるということよりも「大空に憧れて」集まってきた少年兵が目にしたのは、沖に停泊した航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など軍艦の「勇姿」だ。また航空隊の隊内の海岸沿いには格納庫がならび戦闘機、偵察機、複葉練習機など様々な飛行機が翼を休め、いっそうの「夢」をかきたてた。
そして「大空への夢」で胸をときめかした少年たちもやがて軍隊の実態を知り、「空を飛ぶこと」が帝国軍人として「戦場に赴くこと」と肝に銘じるようになっていくのであった。
この間の事情につて下平忠彦氏は次のうに述べいる。(海の若鷲「予科練の徹底徹研究」―光人社)
「夢多き少年期の者が、当時大空にあこがれを持つのはきわて自然のことであった。そして、実にその要求を満たしうる〝少年兵募集〟ポスターを目にしたとき、矢も盾もたまらぬ気持ちになるのもまた当然のことである。
しかし、少年航空兵を志願するとうことは、軍人になるということであるくらいは頭の中ではわかっていても、軍人や軍隊がいかなるものであるのか、その実態についてはほとんど理解していなかったといって良い。入隊して軍隊の実態に触れて、とまどった者も多かったと思う。
それでも、大空への夢の大きさに比べれば、厳格な規律も訓練の辛さも物の数ではなかった。一年たち二年たち、大空への夢を実現させる前に、すでに一角(ひとかど)の軍人としてまず成長するのでる。それが大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)開戦前に志願した少年たちの大方であった。」
そうして、この1期生79名のうち49名が戦没したのであった。
少年兵制度の誕生
『大空への憧れと少年兵
そして軍人に 』
すでに述べたように、足掛け15年にわたるアジア・太平洋戦争の下で、帝国陸海軍の少年兵は42万名を超えたが、それは1930年(昭和5)の海軍飛行予科練習生の創設で始でまった。
戦前の横須賀軍港は、大日本帝国海軍のアジア侵略の最大の拠点であったが、同時に「少年兵」の象徴ともいうべき海軍飛行予科練習生「予科練」の誕生の地でもあった。東京湾に接した横須賀市貝山緑地の坂を登ると右に「横須賀航空隊跡地」の碑、左の海を見下ろす林の中に「予科練誕生の地」の碑がある。
碑には、「……昭和5年6月1日横須賀海軍航空隊の一隅に、海軍少年航空兵の教育機関として、横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し、やがて予科錬と、愛称されるようになった。志願者の年齢は15歳から17歳、修業年数は3ヶ年、……全国5千9百余名の志願者から厳選された79名が第一期生として入隊した。」とある。
当時の日本海軍は、ロンドン海軍軍縮条約(1930)によって軍備の拡張を制限され艦艇建造に技術力を結集する一方、条約に拘束されない航空軍備の拡充に力を入れ始めていた。また1929年10月には、ニューヨーク・ウォール街での株式の大暴落から経済恐慌が世界を駆け巡った。東京帝国大学卒業生の就職率でさえ30パーセントという就職難の時代である。
海軍は経済的な理由で進学できない少年に目をつけ、優秀な人材を確保するために1930年、予科練を発足させた。少年たちは、軍人になるということよりも、「公費」で大空に羽ばたくことができるという夢を膨らませ、希望に燃えて志願をしたのだった。
予科練第一期の採用試験には、大空への憧れを抱く若者たちが殺到し、志願者は実に5807名にも及んだ。そのうち合格者はわずかに79名、実に73.5倍の倍率であった。ちなみに1934年2月の陸軍少年飛行兵第1期生170名採用の倍率は約30倍でった。
大日本帝国海軍最大の根拠地横須賀は、少年兵の養成に絶好の環境にあった。軍人になるということよりも「大空に憧れて」集まってきた少年兵が目にしたのは、沖に停泊した航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など軍艦の「勇姿」だ。また航空隊の隊内の海岸沿いには格納庫がならび戦闘機、偵察機、複葉練習機など様々な飛行機が翼を休め、いっそうの「夢」をかきたてた。
そして「大空への夢」で胸をときめかした少年たちもやがて軍隊の実態を知り、「空を飛ぶこと」が帝国軍人として「戦場に赴くこと」と肝に銘じるようになっていくのであった。
この間の事情につて下平忠彦氏は次のうに述べいる。(海の若鷲「予科練の徹底徹研究」―光人社)
「夢多き少年期の者が、当時大空にあこがれを持つのはきわて自然のことであった。そして、実にその要求を満たしうる〝少年兵募集〟ポスターを目にしたとき、矢も盾もたまらぬ気持ちになるのもまた当然のことである。
しかし、少年航空兵を志願するとうことは、軍人になるということであるくらいは頭の中ではわかっていても、軍人や軍隊がいかなるものであるのか、その実態についてはほとんど理解していなかったといって良い。入隊して軍隊の実態に触れて、とまどった者も多かったと思う。
それでも、大空への夢の大きさに比べれば、厳格な規律も訓練の辛さも物の数ではなかった。一年たち二年たち、大空への夢を実現させる前に、すでに一角(ひとかど)の軍人としてまず成長するのでる。それが大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)開戦前に志願した少年たちの大方であった。」
そうして、この1期生79名のうち49名が戦没したのであった。
2010年7月27日火曜日
帝国陸海軍の少年兵2
「帝国陸海軍の少年兵」 (2)
猪熊 得郎
少年兵42万以上
先のアジア・太平洋戦争では、教育の可能性に富み、心身ともに柔軟
で、五感も鋭敏な少年時代から教育訓練をして、近現代戦の戦力を充実
させ、さらには急速に大量動員して戦力を補充するため、日本帝国陸海
軍は42万名以上の少年兵を動員した。
そしてこの内約40万名が米英蘭への開戦以後、とりわけ約30万名は戦局の悪化した1944年(昭和19)以後の採用であり、まさに、航空、水上、水中の特攻補充要員であり、さらにまた、国体護持のための本土決戦要員として準備されていたのである。
少年兵とは何か。
○ 徴兵適齢期以前、14歳~19歳の少年を対象として志願による採用。
○ 短期間での下級幹部(下士官)の養成。 大量充足を目的とする。
○ 陸軍士官学校、幼年学校、海軍兵学校、 海軍機関学校等は、帝国陸 海軍中核幹部の職業軍人を養成するもの であり、 徴兵適齢期 以前の入隊であるが、当然、「少年兵」ではない。
○1930年(昭和8)の予科練創設以来約42万人以上の少年兵がアジア ・太平洋戦争に参加した。
○1942年(昭和17)頃以前の少年兵(予科練)の戦没率は60%以上 であり、それ以後の少年兵の戦没率 は大きく減少するが、その多く は本土防衛要員としての配置、あるいは特攻隊要員としての訓練中に 敗戦を迎えた。
少年兵の概略は次の通りであるが、それぞれについての詳細は後述する。
名称 創設 採用数
海軍飛行予科練習生(予科練) 1930年6月 241283 名
予科練は少年兵の代名詞であり、「七つ釦は桜に碇」の歌とともに少年たちの憧れの的であった。
15~19歳、甲種中三,乙種高小二年卒程度の学力対象。
海軍特攻【神風特攻隊】2525名のうち予科練は1728名ー68%
桜花、回天、震洋、海竜、蛟竜、伏龍、土竜、神竜等の特攻はすべて予科練を中心に編成されていた。
創設 採用数
海軍特別年少兵 (特年兵) 1942年9月 18160名
映画「男たちの大和」に出てくる年齢十四歳以上十六歳未満を対象、
この制度が出来た頃から少年の陸海軍への青田刈り競争が激しくなり、
陸軍に対する秘密保持上ごく限られた関係者にしかこの制度は知られていなかった。約5千名が戦死。戦艦武蔵、大和などにも多数乗艦していた。
創設 採用数
海軍特別幹部練習生 1945年5月 15540名
飛行機もなく予科練募集中止の後、少年兵確保のため創設、主として
人間機雷伏龍特攻要員としての訓練中に敗戦を迎える。短期間で敗戦のため詳細不明。城山三郎も入隊。
創設 採用数
陸軍少年通信兵 1933年12月 586名
陸軍最初の少年兵、師団・航空・戦車・固定・船舶・船舶固定・特殊
情報
創設 採用数
陸軍少年飛行兵 1934年2月 58460名
映画「ホタル」や「月光の夏」に出てくる少年兵。
陸軍航空の中核。 操縦、通信、整備
創設 採用数
陸軍少年戦車兵 1939年12月 3780名
陸軍地上部隊の中で花形的存在。ノモンハン事件で日本軍が、
ソ連の戦車を中心とする機工兵団により壊滅的打撃を受けた
ことを背景として創設。
創設 採用数
陸軍少年工科兵 1940年12月 5955名
火工科、技工科、銃工科、鍛工科、木工科、機工科、 電工科、火薬、皮革具、銃、軍刀、火砲、木工測量、
発動機、電機通信機器
創設 採用数
陸軍少年野砲兵 1942年12月 610名
主としてサイパン、ビルマ、フイリッピンの各戦線に配置
された。
創設 採用数
陸軍少年重砲兵 1942年12月 615名
14歳~18歳。主として水中聴測要員として養成、要塞、
船舶情報連隊に配置。
創設 採用数
陸軍少年高射兵 1942年12月約 1400名
測高、聴測、電測が重視される中で創設、十八歳未満、学歴不問
創設 採用数
陸軍特別幹部候補生 (特幹) 1944年4月 約8万名以上
軍部の書類焼却で正確な数字は不明・米軍の反抗による戦局の
急迫、大量の下級技術系幹部の充足、海軍の予科練大量募集に対 抗して創設、十五歳~十九歳中学三年.二学期終了程度の学力。
一期航空、船舶。二~四期航空、船舶、鉄道、技術、通信、戦車、高射、
重砲、山砲。船舶特幹一期フイリッピン戦線参加1190名
戦死953名 沖縄戦参加340 名、戦死123名
少年兵合計42万名以上 以上
どのくらいの少年が戦場に赴いたのか。
同時代の少年の中での比率はどうなのであろうか。
残念ながら、人口1億人(当時日本の植民地であった朝鮮、台湾を含む)
の戦争中の統計が手元にない。資料をお持ちの方がいれば幸いである。
文部科学省の学校基本調査平成21年度の数字がある。
男子 1学年 610892人
2学年 600835人
3学年 627412人 男子合計1839139人
男子中学生の約23パーセントが少年兵を志願したことになる。
しかも、42万のうち、2万5千が、1941年12月の米、英、蘭への開戦以前で、それ以後が約40万。さらにそのうち30万が戦局の悪化した1944年以降の採用であった。
仮定の数字だが、44年45年の2年間弱で、中学2年、3年120万人から30万人、つまり4人に1人が戦場へという数字になる程の規模で少年が戦場に送られたと言うことになる。
実際は、約5歳の幅で少年兵の対象となるのだが、それにしても戦局の悪化の中で、「仕方なしに」ではなく、「自発的意志」で、家族の反対を押し切り、志願をして、消耗品として戦場に送り出された少年兵がこれだけの数になると言うことは、当時の軍国主義教育と軍国主義的社会環境の恐ろしさを示すものである。
しかも、このような少年兵についての問題が、語り継ぐことから欠落し、忘れ去られようとしていることは大変残念なことである。
猪熊 得郎
少年兵42万以上
先のアジア・太平洋戦争では、教育の可能性に富み、心身ともに柔軟
で、五感も鋭敏な少年時代から教育訓練をして、近現代戦の戦力を充実
させ、さらには急速に大量動員して戦力を補充するため、日本帝国陸海
軍は42万名以上の少年兵を動員した。
そしてこの内約40万名が米英蘭への開戦以後、とりわけ約30万名は戦局の悪化した1944年(昭和19)以後の採用であり、まさに、航空、水上、水中の特攻補充要員であり、さらにまた、国体護持のための本土決戦要員として準備されていたのである。
少年兵とは何か。
○ 徴兵適齢期以前、14歳~19歳の少年を対象として志願による採用。
○ 短期間での下級幹部(下士官)の養成。 大量充足を目的とする。
○ 陸軍士官学校、幼年学校、海軍兵学校、 海軍機関学校等は、帝国陸 海軍中核幹部の職業軍人を養成するもの であり、 徴兵適齢期 以前の入隊であるが、当然、「少年兵」ではない。
○1930年(昭和8)の予科練創設以来約42万人以上の少年兵がアジア ・太平洋戦争に参加した。
○1942年(昭和17)頃以前の少年兵(予科練)の戦没率は60%以上 であり、それ以後の少年兵の戦没率 は大きく減少するが、その多く は本土防衛要員としての配置、あるいは特攻隊要員としての訓練中に 敗戦を迎えた。
少年兵の概略は次の通りであるが、それぞれについての詳細は後述する。
名称 創設 採用数
海軍飛行予科練習生(予科練) 1930年6月 241283 名
予科練は少年兵の代名詞であり、「七つ釦は桜に碇」の歌とともに少年たちの憧れの的であった。
15~19歳、甲種中三,乙種高小二年卒程度の学力対象。
海軍特攻【神風特攻隊】2525名のうち予科練は1728名ー68%
桜花、回天、震洋、海竜、蛟竜、伏龍、土竜、神竜等の特攻はすべて予科練を中心に編成されていた。
創設 採用数
海軍特別年少兵 (特年兵) 1942年9月 18160名
映画「男たちの大和」に出てくる年齢十四歳以上十六歳未満を対象、
この制度が出来た頃から少年の陸海軍への青田刈り競争が激しくなり、
陸軍に対する秘密保持上ごく限られた関係者にしかこの制度は知られていなかった。約5千名が戦死。戦艦武蔵、大和などにも多数乗艦していた。
創設 採用数
海軍特別幹部練習生 1945年5月 15540名
飛行機もなく予科練募集中止の後、少年兵確保のため創設、主として
人間機雷伏龍特攻要員としての訓練中に敗戦を迎える。短期間で敗戦のため詳細不明。城山三郎も入隊。
創設 採用数
陸軍少年通信兵 1933年12月 586名
陸軍最初の少年兵、師団・航空・戦車・固定・船舶・船舶固定・特殊
情報
創設 採用数
陸軍少年飛行兵 1934年2月 58460名
映画「ホタル」や「月光の夏」に出てくる少年兵。
陸軍航空の中核。 操縦、通信、整備
創設 採用数
陸軍少年戦車兵 1939年12月 3780名
陸軍地上部隊の中で花形的存在。ノモンハン事件で日本軍が、
ソ連の戦車を中心とする機工兵団により壊滅的打撃を受けた
ことを背景として創設。
創設 採用数
陸軍少年工科兵 1940年12月 5955名
火工科、技工科、銃工科、鍛工科、木工科、機工科、 電工科、火薬、皮革具、銃、軍刀、火砲、木工測量、
発動機、電機通信機器
創設 採用数
陸軍少年野砲兵 1942年12月 610名
主としてサイパン、ビルマ、フイリッピンの各戦線に配置
された。
創設 採用数
陸軍少年重砲兵 1942年12月 615名
14歳~18歳。主として水中聴測要員として養成、要塞、
船舶情報連隊に配置。
創設 採用数
陸軍少年高射兵 1942年12月約 1400名
測高、聴測、電測が重視される中で創設、十八歳未満、学歴不問
創設 採用数
陸軍特別幹部候補生 (特幹) 1944年4月 約8万名以上
軍部の書類焼却で正確な数字は不明・米軍の反抗による戦局の
急迫、大量の下級技術系幹部の充足、海軍の予科練大量募集に対 抗して創設、十五歳~十九歳中学三年.二学期終了程度の学力。
一期航空、船舶。二~四期航空、船舶、鉄道、技術、通信、戦車、高射、
重砲、山砲。船舶特幹一期フイリッピン戦線参加1190名
戦死953名 沖縄戦参加340 名、戦死123名
少年兵合計42万名以上 以上
どのくらいの少年が戦場に赴いたのか。
同時代の少年の中での比率はどうなのであろうか。
残念ながら、人口1億人(当時日本の植民地であった朝鮮、台湾を含む)
の戦争中の統計が手元にない。資料をお持ちの方がいれば幸いである。
文部科学省の学校基本調査平成21年度の数字がある。
男子 1学年 610892人
2学年 600835人
3学年 627412人 男子合計1839139人
男子中学生の約23パーセントが少年兵を志願したことになる。
しかも、42万のうち、2万5千が、1941年12月の米、英、蘭への開戦以前で、それ以後が約40万。さらにそのうち30万が戦局の悪化した1944年以降の採用であった。
仮定の数字だが、44年45年の2年間弱で、中学2年、3年120万人から30万人、つまり4人に1人が戦場へという数字になる程の規模で少年が戦場に送られたと言うことになる。
実際は、約5歳の幅で少年兵の対象となるのだが、それにしても戦局の悪化の中で、「仕方なしに」ではなく、「自発的意志」で、家族の反対を押し切り、志願をして、消耗品として戦場に送り出された少年兵がこれだけの数になると言うことは、当時の軍国主義教育と軍国主義的社会環境の恐ろしさを示すものである。
しかも、このような少年兵についての問題が、語り継ぐことから欠落し、忘れ去られようとしていることは大変残念なことである。
2010年7月25日日曜日
帝国陸海軍の少年兵1
「帝国陸海軍の少年兵」 (1)
猪熊得郎
はじめに
序に代えてジャーナリスト増田れい子さんのエッセイを紹介します。
なお、自衛隊の少年兵についついては、制度の変更もあり、現在の状況について、この連載の最後に掲載致します。
風紋
言い残しておきたいこと
ジャーナリスト 増田れい子
……………………………
◇ ◇
59年前に戦場で、ヒロシマ、ナガサキ、また
沖縄本島、主要各都市を中心に三一〇万人のナマ身の人間が、あるいは爆死しあるいは飢えあるいは差し違えて死に果てた末、戦果は止んだ。
戦場となったアジアの各地での非業の死者は、二〇〇〇万人を数える。
もう少し戦争が長引いていたら、死者の数はもちろんさらに増えていたであろう。かくいう私自身も空襲か飢餓で、命を失っていたに違いない。敗戦時、私は16歳だった。
実は、この年齢で戦場に身をおいていた、いわゆる少年兵は決して少なくない。戦争末期海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に何と42万人もの少年が志願している。彼らはのちに特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装をほどこした水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力とされた。
猪熊得郎さんはその少年兵の生き残りで、少年兵を通して日本の侵略戦争をはじめ平和について、憲法について考え発言を続けているひとりである。
猪熊さんは、父の反対を押し切って一九四四年、
15歳で志願して陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊、水戸東飛行場に勤務(その間、米軍の艦載機による攻撃で11名の同期生を失う)、のち満州に送られ敗戦、17歳でソ連の捕虜となりシベリア抑留。ダモイ(帰還)したのは47年末、19歳のときだった。
ダモイしてみると東京の家は空襲であとかたもなく、父はすでに亡く、2歳上で少年兵だった兄房蔵さんも戦死していた。房蔵さんは人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員(海軍2等飛行兵曹)として沖縄へ向け出撃、45年3月18日沖縄本島近くの粟国島北北西5㌔付近で米艦からの雷撃によって乗艦(第18号1等輸送艦)が沈没、回天もろとも青い海に果てた。時に18歳。
実は兄戦死の正確な場所、日時をたしかめるまで得郎さんは何と50年をこえる歳月を費やしている。
国の記録が杜撰であり、度重なる調査依頼にも有効な回答が得られなかったこと、戦死者が多く有力な証言が少なかったことがその主な理由だが、得郎さんはあきらめなかった。
いや、あきらめることは不可能だった。自分も含めて、いったいあの志願は何であったのか戦争をはじめた国家とはいったい何なのか、考えれば考えるほど疑問がつのったからである。
◇ ◇
房蔵さんは2首の遺詠をしたためていた。
益良夫の後見む心次々に
うけつぎ来たりて
我もまた征く
身は一つ千々に砕きて醜千人
殺し殺すも
なほあき足らじ
得郎さんはある雑誌にこう書いている。
「小学1年の教科書から〃ススメ、ススメ、ヘイタイススメ〃と学び、〃ボクは軍人大好きよ〃と歌い、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸躍らせ、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと心から信じる少年に育てあげられた。
(中略)私たち当時の少年は、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。そしてその戦争が〃大東亜戦争〃の美名の下、他国を侵略し、他国の民族を支配し、抑圧する戦争だったのだ。
しかも少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び〃戦争をする国〃にしようとしている」
そうして、私もつい見落としていたのだが、実は少年兵はいまも再生産されている。少年自衛官とも言うべき陸海空「自衛隊生徒」(15歳以上17歳未満の中学卒業者から選ぶ)が毎年採用されている。平成15年度の合格者は六四六名(昨年度採用は四一一名)で増加傾向にある。
応募者はここ数年1万人をこえ倍率は30倍に迫る。選択の自由はある。だが、同時に一人として戦場で死なせないための、戦争国家をつくらない選択の自由もあることをこの際明確にしておきたい。
(国公労調査時報2004年9月号より)
つづく
猪熊得郎
はじめに
序に代えてジャーナリスト増田れい子さんのエッセイを紹介します。
なお、自衛隊の少年兵についついては、制度の変更もあり、現在の状況について、この連載の最後に掲載致します。
風紋
言い残しておきたいこと
ジャーナリスト 増田れい子
……………………………
◇ ◇
59年前に戦場で、ヒロシマ、ナガサキ、また
沖縄本島、主要各都市を中心に三一〇万人のナマ身の人間が、あるいは爆死しあるいは飢えあるいは差し違えて死に果てた末、戦果は止んだ。
戦場となったアジアの各地での非業の死者は、二〇〇〇万人を数える。
もう少し戦争が長引いていたら、死者の数はもちろんさらに増えていたであろう。かくいう私自身も空襲か飢餓で、命を失っていたに違いない。敗戦時、私は16歳だった。
実は、この年齢で戦場に身をおいていた、いわゆる少年兵は決して少なくない。戦争末期海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に何と42万人もの少年が志願している。彼らはのちに特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装をほどこした水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力とされた。
猪熊得郎さんはその少年兵の生き残りで、少年兵を通して日本の侵略戦争をはじめ平和について、憲法について考え発言を続けているひとりである。
猪熊さんは、父の反対を押し切って一九四四年、
15歳で志願して陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊、水戸東飛行場に勤務(その間、米軍の艦載機による攻撃で11名の同期生を失う)、のち満州に送られ敗戦、17歳でソ連の捕虜となりシベリア抑留。ダモイ(帰還)したのは47年末、19歳のときだった。
ダモイしてみると東京の家は空襲であとかたもなく、父はすでに亡く、2歳上で少年兵だった兄房蔵さんも戦死していた。房蔵さんは人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員(海軍2等飛行兵曹)として沖縄へ向け出撃、45年3月18日沖縄本島近くの粟国島北北西5㌔付近で米艦からの雷撃によって乗艦(第18号1等輸送艦)が沈没、回天もろとも青い海に果てた。時に18歳。
実は兄戦死の正確な場所、日時をたしかめるまで得郎さんは何と50年をこえる歳月を費やしている。
国の記録が杜撰であり、度重なる調査依頼にも有効な回答が得られなかったこと、戦死者が多く有力な証言が少なかったことがその主な理由だが、得郎さんはあきらめなかった。
いや、あきらめることは不可能だった。自分も含めて、いったいあの志願は何であったのか戦争をはじめた国家とはいったい何なのか、考えれば考えるほど疑問がつのったからである。
◇ ◇
房蔵さんは2首の遺詠をしたためていた。
益良夫の後見む心次々に
うけつぎ来たりて
我もまた征く
身は一つ千々に砕きて醜千人
殺し殺すも
なほあき足らじ
得郎さんはある雑誌にこう書いている。
「小学1年の教科書から〃ススメ、ススメ、ヘイタイススメ〃と学び、〃ボクは軍人大好きよ〃と歌い、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸躍らせ、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと心から信じる少年に育てあげられた。
(中略)私たち当時の少年は、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。そしてその戦争が〃大東亜戦争〃の美名の下、他国を侵略し、他国の民族を支配し、抑圧する戦争だったのだ。
しかも少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び〃戦争をする国〃にしようとしている」
そうして、私もつい見落としていたのだが、実は少年兵はいまも再生産されている。少年自衛官とも言うべき陸海空「自衛隊生徒」(15歳以上17歳未満の中学卒業者から選ぶ)が毎年採用されている。平成15年度の合格者は六四六名(昨年度採用は四一一名)で増加傾向にある。
応募者はここ数年1万人をこえ倍率は30倍に迫る。選択の自由はある。だが、同時に一人として戦場で死なせないための、戦争国家をつくらない選択の自由もあることをこの際明確にしておきたい。
(国公労調査時報2004年9月号より)
つづく
2010年7月12日月曜日
7月7日盧溝橋事件
猪熊です。
今日は7月7日です。
ある国立大学の教授が、毎年新入生にアンケートを行ってきました。
問い 次の日はどういう日ですか。
① 9月18日 ② 7月7日 ③12月8日 ④8月15日
① 9月18日は、近頃はほんの数%、② 7月7日 も20%を切る。
③12月8日 も50%を切り ④8月15日 で60%との事でした。
近代史教育の欠落ばかりでなく、戦争の記憶の消失に恐ろしくなりました。
正しい歴史認識を身につけること。
「日本」の戦争を学ぶこと。
「日本」の戦争がどうして起こったのか
「日本」の戦争はどんな経過をたどったのか。
「日本」の戦争で亡くあった310万の人々の想い、悲しみ、苦しみ、怒り、 から、戦争の惨禍と平和の尊さをしっかり学ぶこと。
「日本」の戦争で亡くなったアジアの人々、日本軍の侵略に犠牲となった アジアの3千万の人々の悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみをしっか り胸に刻みつけること。
誠実な反省と謝罪の基礎にこそ、アジアの人々との真の友好と親 善を築く事が出来るのでしょう。真のか懸け橋となることが出来 るのでしょう。
9月18日、柳条湖事件、15年戦争の始まり
9月18日、足掛け15年にわたる「アジア・太平洋戦争」の始まった日です。
1931年9月18日中国東北地方奉天(現瀋陽)近郊柳条湖において、関東軍の手に依って南満州鉄道の線路が爆破されました。(柳条湖事件)
関東軍はこの事件を中国軍によるものとして軍事行動を開始し翌32年はじめまでに満州全土を占領しました。そうして、国際連盟からも脱退し、日本の傀儡国家「満州国」を樹立しました。
7月7日 盧溝橋事件 日中全面戦争
1937年7月7日に北平(ぺいぴん)現在の北京郊外の廬溝橋で日中両軍が衝突するという事件が起こりました。(盧溝橋事件)日本軍は、華北を分離し「第2の満州国」にしようとする野望を背景に、上海占領、南京進撃占領「南京大虐殺事件」の発生と「日中全面戦争」へと発展したのでした。
日中戦争の泥沼化・三国同盟・南進政策
日中戦争は、中国人民の抵抗によって泥沼化しました。
一方ドイツ・イタリアは、ヨーロッパでイギリス・フランス・オランダなどに侵攻し戦線を拡大していました。英・仏・蘭は、東南アジア植民地の宗主国です。英・仏・蘭三国が敗北すれば東南アジアの植民地はすべてドイツのものになっていしまいます。戦後の植民地再分割への発言権を確保することも大きな同期となってドイツとの同盟、日独伊三国同盟が結ばれました。
独ソ開戦でアメリカは、英仏などの連合国に参戦しました。ドイツと同盟を結んだ日本は資源獲得のための南進路線を強めました。
日本は、南進のためにはアメリカとの戦争も止むなしの決意のもと、南部仏印に進駐を開始しました。これに対しアメリカは日本に対する石油輸出の禁止を決定し、日本軍の中国かあの撤兵を要求しました。
12月8日太平洋戦争の開始
こうして1941年12月8日、日本軍は米・英に対する戦争を開始しました。シンガポール攻略を目指すマレー半島上陸、中立国タイへの進駐、ハワイ、フイリッピンへの空襲が強行されました。
8月15日 敗戦
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏し、戦争が終わったのでした。
以上
今日は7月7日です。
ある国立大学の教授が、毎年新入生にアンケートを行ってきました。
問い 次の日はどういう日ですか。
① 9月18日 ② 7月7日 ③12月8日 ④8月15日
① 9月18日は、近頃はほんの数%、② 7月7日 も20%を切る。
③12月8日 も50%を切り ④8月15日 で60%との事でした。
近代史教育の欠落ばかりでなく、戦争の記憶の消失に恐ろしくなりました。
正しい歴史認識を身につけること。
「日本」の戦争を学ぶこと。
「日本」の戦争がどうして起こったのか
「日本」の戦争はどんな経過をたどったのか。
「日本」の戦争で亡くあった310万の人々の想い、悲しみ、苦しみ、怒り、 から、戦争の惨禍と平和の尊さをしっかり学ぶこと。
「日本」の戦争で亡くなったアジアの人々、日本軍の侵略に犠牲となった アジアの3千万の人々の悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみをしっか り胸に刻みつけること。
誠実な反省と謝罪の基礎にこそ、アジアの人々との真の友好と親 善を築く事が出来るのでしょう。真のか懸け橋となることが出来 るのでしょう。
9月18日、柳条湖事件、15年戦争の始まり
9月18日、足掛け15年にわたる「アジア・太平洋戦争」の始まった日です。
1931年9月18日中国東北地方奉天(現瀋陽)近郊柳条湖において、関東軍の手に依って南満州鉄道の線路が爆破されました。(柳条湖事件)
関東軍はこの事件を中国軍によるものとして軍事行動を開始し翌32年はじめまでに満州全土を占領しました。そうして、国際連盟からも脱退し、日本の傀儡国家「満州国」を樹立しました。
7月7日 盧溝橋事件 日中全面戦争
1937年7月7日に北平(ぺいぴん)現在の北京郊外の廬溝橋で日中両軍が衝突するという事件が起こりました。(盧溝橋事件)日本軍は、華北を分離し「第2の満州国」にしようとする野望を背景に、上海占領、南京進撃占領「南京大虐殺事件」の発生と「日中全面戦争」へと発展したのでした。
日中戦争の泥沼化・三国同盟・南進政策
日中戦争は、中国人民の抵抗によって泥沼化しました。
一方ドイツ・イタリアは、ヨーロッパでイギリス・フランス・オランダなどに侵攻し戦線を拡大していました。英・仏・蘭は、東南アジア植民地の宗主国です。英・仏・蘭三国が敗北すれば東南アジアの植民地はすべてドイツのものになっていしまいます。戦後の植民地再分割への発言権を確保することも大きな同期となってドイツとの同盟、日独伊三国同盟が結ばれました。
独ソ開戦でアメリカは、英仏などの連合国に参戦しました。ドイツと同盟を結んだ日本は資源獲得のための南進路線を強めました。
日本は、南進のためにはアメリカとの戦争も止むなしの決意のもと、南部仏印に進駐を開始しました。これに対しアメリカは日本に対する石油輸出の禁止を決定し、日本軍の中国かあの撤兵を要求しました。
12月8日太平洋戦争の開始
こうして1941年12月8日、日本軍は米・英に対する戦争を開始しました。シンガポール攻略を目指すマレー半島上陸、中立国タイへの進駐、ハワイ、フイリッピンへの空襲が強行されました。
8月15日 敗戦
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏し、戦争が終わったのでした。
以上
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