兄と弟
二人の少年兵
猪 熊 得 郎
(「不戦」2000年2月121号)
一九四三年冬
二つ上の兄は
「国難ここにみる」と「元寇の歌」を歌って
「予科練」を志願した。
十五歳の弟も
必死で父を説得した。
「アッツもタラワも
そしてマキンも
みんな玉砕だ。
今行かなければ
大変なことになる。」
「特幹」を志願する。
「日の丸」の金縁の額と
白馬に跨った「大元帥陛下」の写真が
父と子を見下ろしていた。
三日後、とうとう父は諦めた。
「行きなさい、
でも、生命(いのち)は大切にな」。
一九四四年夏
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた
兄と弟は
水戸陸軍航空通信学校の営門で
最後の別れをした。
陸軍特別幹部候補生
陸軍一等兵の弟は
十五歳十一ヶ月
海軍飛行予科練習生
海軍飛行兵長の兄は
十八歳五ヶ月
二人の父は
いつまでも敬礼し見つめ合う息子たちを
黙ってじっと見つめていた。
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」に鍛えられた息子たちと
父はもう会うことが出来なかった。
兄は数日後
土浦海軍航空隊から
特攻隊員として
瀬戸内海大津島(おおづしま)の
人間魚雷「回天」基地に
旅だって行った。
一九四五年早春
兄は沖縄に向かった。
回天特攻隊を乗せた輸送艦は
待ちかまえた
アメリカ潜水艦の雷撃で沈没
回天もろとも、全員戦死した。
一九四五年夏
弟は旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。
「日の丸と君が代」の下
死ぬことを教えた
高級将校たちは
いち早く日本へ飛び去った。
脱走、略奪、殺し合い、
混乱の中で戦友は
「天皇のため、祖国再建のため
歩いて日本に帰るのだ」
そう云って飛行場を離れた
彼らは未だ還っていない。
天皇の兵士たちは
シベリアへ送られ
飢えと寒さと重労働に
次々と倒れ
六万人が零下三〇度の異国に葬られ
祖国の土を踏むことがなかった。
「皇居遙拝
将校を父と思え
下士官を兄と思え
天皇のため苦しみに耐えよ」
今日も戦友が死んだ。
「みそ汁が飲みたい。お母さん。」
一九四七年冬
弟は祖国の土を踏んだ。
故郷は東京大空襲で跡形もなく
水戸で別れた父も兄ももういなかった。
そして云われた。
「シベリア帰りとは云うなよ」
生きるため国土復興のため
一生懸命働いた弟が
やがてお年寄りと呼ばれる頃
高齢者が多いから国が貧しい
福祉・医療費の切り下げ切り捨て。
「老人は 死んで下さい 国のため」
「日の丸・君が代」が
我がもの顔に嘯(うそぶ)いている。
「日の丸・君が代」に育てられた君たちよ
「日の丸・君が代」のため今度こそ死んだらどうだ。
初心忘れるな。
それが愛国心。
冗談じゃあない
「日の丸・君が代」に育てられ
「日の丸・君が代」で鍛えられ
地獄の入り口を
はいまわった俺たち。
そう簡単に死んでたまるか。
俺たちは侵略戦争に
青春を捧げた生証人。
生きること、語ること、
それが、それこそが
「日の丸・君が代」と俺達の闘いだ。
おわり
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