帝国陸海軍の少年兵3
少年兵制度の誕生
『大空への憧れと少年兵
そして軍人に 』
すでに述べたように、足掛け15年にわたるアジア・太平洋戦争の下で、帝国陸海軍の少年兵は42万名を超えたが、それは1930年(昭和5)の海軍飛行予科練習生の創設で始でまった。
戦前の横須賀軍港は、大日本帝国海軍のアジア侵略の最大の拠点であったが、同時に「少年兵」の象徴ともいうべき海軍飛行予科練習生「予科練」の誕生の地でもあった。東京湾に接した横須賀市貝山緑地の坂を登ると右に「横須賀航空隊跡地」の碑、左の海を見下ろす林の中に「予科練誕生の地」の碑がある。
碑には、「……昭和5年6月1日横須賀海軍航空隊の一隅に、海軍少年航空兵の教育機関として、横須賀海軍航空隊予科練習部が誕生し、やがて予科錬と、愛称されるようになった。志願者の年齢は15歳から17歳、修業年数は3ヶ年、……全国5千9百余名の志願者から厳選された79名が第一期生として入隊した。」とある。
当時の日本海軍は、ロンドン海軍軍縮条約(1930)によって軍備の拡張を制限され艦艇建造に技術力を結集する一方、条約に拘束されない航空軍備の拡充に力を入れ始めていた。また1929年10月には、ニューヨーク・ウォール街での株式の大暴落から経済恐慌が世界を駆け巡った。東京帝国大学卒業生の就職率でさえ30パーセントという就職難の時代である。
海軍は経済的な理由で進学できない少年に目をつけ、優秀な人材を確保するために1930年、予科練を発足させた。少年たちは、軍人になるということよりも、「公費」で大空に羽ばたくことができるという夢を膨らませ、希望に燃えて志願をしたのだった。
予科練第一期の採用試験には、大空への憧れを抱く若者たちが殺到し、志願者は実に5807名にも及んだ。そのうち合格者はわずかに79名、実に73.5倍の倍率であった。ちなみに1934年2月の陸軍少年飛行兵第1期生170名採用の倍率は約30倍でった。
大日本帝国海軍最大の根拠地横須賀は、少年兵の養成に絶好の環境にあった。軍人になるということよりも「大空に憧れて」集まってきた少年兵が目にしたのは、沖に停泊した航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など軍艦の「勇姿」だ。また航空隊の隊内の海岸沿いには格納庫がならび戦闘機、偵察機、複葉練習機など様々な飛行機が翼を休め、いっそうの「夢」をかきたてた。
そして「大空への夢」で胸をときめかした少年たちもやがて軍隊の実態を知り、「空を飛ぶこと」が帝国軍人として「戦場に赴くこと」と肝に銘じるようになっていくのであった。
この間の事情につて下平忠彦氏は次のうに述べいる。(海の若鷲「予科練の徹底徹研究」―光人社)
「夢多き少年期の者が、当時大空にあこがれを持つのはきわて自然のことであった。そして、実にその要求を満たしうる〝少年兵募集〟ポスターを目にしたとき、矢も盾もたまらぬ気持ちになるのもまた当然のことである。
しかし、少年航空兵を志願するとうことは、軍人になるということであるくらいは頭の中ではわかっていても、軍人や軍隊がいかなるものであるのか、その実態についてはほとんど理解していなかったといって良い。入隊して軍隊の実態に触れて、とまどった者も多かったと思う。
それでも、大空への夢の大きさに比べれば、厳格な規律も訓練の辛さも物の数ではなかった。一年たち二年たち、大空への夢を実現させる前に、すでに一角(ひとかど)の軍人としてまず成長するのでる。それが大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)開戦前に志願した少年たちの大方であった。」
そうして、この1期生79名のうち49名が戦没したのであった。
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