2010年5月26日水曜日

靖国神社雑感4.人間機雷伏龍

遊就館には潜水服を着て、棒機雷を突き上げる『伏龍』特攻隊員の模型の像が展示してあります。
『伏龍』の訓練基地は、三浦半島の私の家から15分程の野比海岸にありました。夏に三浦海岸で海水浴をされる方も居るでしょう。海に向かって左の方、東京、横浜方面に久里浜東電の煙突と突堤が見えます。その手前左の砂浜、三浦海岸から4~7キロが野比海岸です。

予科練.少年兵と特攻兵器
「伏龍」.「土龍」.「神龍」三連続作戦

本土決戦に備え「伏龍」、「土龍」、「神龍」、三連続特攻作戦

 1945(昭和20)年、米軍の本土上陸作戦に備えて海軍では水中・水上特攻作戦の部隊の配備と訓練がすすめられていました。米軍の本土上陸の時期は10月ないし11月、予想地点は九州の志布志(しぶし)湾、宮崎海岸、四国の桂浜、関東の九十九里浜、相模湾とされていました。

 これに対応し連合軍上陸第一歩を洋上で迎え撃つために編成されたのが、人間魚雷「回天(かいてん)」、水中有翼小型潜航艇「海龍」、水中特攻「蛟龍」(こうりゅう)、水上特攻「震洋」(しんよう)による特攻攻撃戦隊です。

 さらに最後の特攻作戦として考え出されたのが「伏龍」、「土龍」、「神龍」の三連続作戦でした。   
 そしてこれら特攻部隊の主力はすでに乗るべき飛行機もなくなった十六歳から二十歳前の「予科練」の少年兵たちでした。

「人間機雷『伏龍』」

 水際特攻、人間機雷「伏龍」は、簡易潜水服に身をつつんで敵の上陸予想地点の海底に潜み、あらかじめ張りめぐらせた誘導索をたどって敵の停泊した艦船に近づき、あるいは上陸しようと沖から向かって来る敵上陸用舟艇に対して、「棒機雷」を船底めがけて突き上げて、これを爆破、撃沈しようというものでした。

伏龍の訓練

 伏龍隊員の主力は飛行予科練習生(少年兵)であり、その指揮官は予備学生出身(学徒兵)の士官でした。飛行兵を志望し、その訓練半ばの少年兵にとって、航空隊から伏龍隊への心の転換は容易でなかったでしょうが、飛行機も少ない、燃料も乏しい戦況下に、心身ともに堅実な飛行予科練習生がその主力隊員として選ばれたのでした。主に甲種予科練14期生、乙種予科練20期生が中心で、後に予科練採用中止に伴って5月に創設されたばかりの海軍特別幹部練習生も、伏龍隊要員に組み込まれ、その中には後の作家城山三郎もいたのでした。

 7月から各地で訓練が開始されました。
横須賀鎮守府では、第1特攻戦隊嵐部隊第71突撃隊として、7月上旬以降、順次3ケ大隊約1500名が横須賀の野比、対潜学校、工作学校に集められ、潜水訓練が行われていました。
 久里浜港から三崎に向かって千駄ケ崎のトンネルを出ると野比海岸です。トンネルを出てすぐ右手に大隊本部がありました。
 その先の海軍病院(現久里浜アルコール症センター-)から久里浜寄りが第一実習場、三浦寄りが第二実習場。兵舎は病院の先で近くの小学校の分教場(今の横須賀第一老人ホームのところ)の一部も兵舎とされていました。
 最初の十日間程の前期訓練は、久里浜の夫婦橋のたもとから伝馬船式潜水工作船に乗って平作川を下り海に出て右手に曲り、ペリー記念碑(1853年浦賀来航を前に上陸した米特使ペリーの上陸記念碑)沖での潜水訓練でした。

 野比海岸での後期訓練は、導索を使って歩いて海中を潜水する訓練で、なれてくると索なしでの海中歩行訓練が行われていました。 潜水衣を着け、鉛の靴を履き、背中に酸素ボンベと空気清浄罐を背負って海に潜ります。水中では鼻からボンベの酸素を吸い、口から息を吐く。吐き出した炭酸ガスは清浄罐のなかの苛性ソーダに吸収させ循環させるという仕組みです。

困難と犠牲

 しかしその訓練には多くの困難と犠牲が伴いました。
 伏龍特攻隊の戦闘は、簡易潜水服を身につけ約5メートルの竹竿の先につけた五式撃雷(通称棒機雷)を持った隊員が、海底5~7メートルに潜み、頭上を通過する敵の上陸用舟艇の船底めがけて体当たり攻撃をかけるというものです。

 問題は長時間海底に潜むことです。酸素は呼吸、浮上、水中懸吊に使うので大量に使用します。このため、炭酸ガスの混ざった呼気は口から吐き出し清浄缶を通して苛性ソーダに炭酸ガスを吸収させ、再び吸気として還元使用する仕組みになっていました。
 しかし潜水中の鼻から吸い、口から出す呼吸法が難しく、3~4回間違え海中で気を失うこともあり、しばしば事故が起きました。清浄罐の破損や呼吸法を間違えて苛性ソーダ液を飲み込み、口中、食道、胃までただれてしまうのです。

 事故の度に病院から医師が呼ばれてきましたが、訓練も装備も極秘作戦準備中の軍事機密で医師たちは治療法がわからずなすすべもありませんでした。わずか一、二カ月で数十名をこえる犠牲者が出たと言われていますが、正確な実態はわかっていません。真夏の陽光の下で何体もの死体が砂浜に並べられることもあったとのことです。遺体はは戸板にのせ担いで、当時、最宝寺の近くにあった火葬場まで1キロ以上の道を運び、遺骨にしたとのことです。また、8月に久里浜沖で起こった事故では、数体の遺体が見付からず、未だに海中に残されたままです。

 伏龍を配備する地点は、敵の攻撃部隊の入泊が予想される海面付近が選定されました。待機する陣地は敵の砲弾に耐えることのできる地下施設でした。陣地から泊地に至る海底には、伏龍部隊を敵艦に誘導するに十分な誘導索を展張する予定でした。

 久里浜での訓練では、歩数によって、50メートル間隔で5~7メートルの海底に伏龍隊員が展開待機する訓練が行われました。しかし、干満で潮流の変化する歩きにくい海底で、歩数で予定された展開配備点に着くのは至難の業でした。

 五式撃雷の爆発安全圏は50メートルとされていました。しかし海底の困難な条件下で安全と言えるでしょうか。1発の爆発が、海水を伝播して、すべてが一挙に爆死することも十分考えられることでした。

 日本の敗戦で伏龍作戦は実施されませんでした。しかし「天皇のため、国のため」侵略戦争の特攻訓練に青春を捧げさせられた少年兵たちの無念を忘れてはならないでしょう。

「もぐら作戦『土龍』」

 もぐら作戦特攻「土龍」は、上陸した敵米軍の戦車を対象にして考えられた特攻作戦です。防衛すべき地域の外周に五メートル間隔に穴、いわゆる蛸壺を掘って、「急造地雷」といわれる四角な箱に詰められた火薬を背負い、この穴に潜み、時速三十キロくらいの速度で進んで来る敵戦車に葡匐(ほふく)前進で接近し、その戦車の腹に飛び込んで、これを爆破しようとする肉弾戦法でした。

武器としては、急造地雷のほかに「棒地雷」や「火炎瓶」などを使用することを考えていました。それに「蛸壺」との組み合わせで、文字通り肉弾突撃の戦法という以外にない悲壮なものでした。
 主な要員には、練習生教育が中止された後の乙飛第22期、23期、24期や甲飛15期、16期などが予定されていました。彼らはどんな気持ちでこの訓練をしていたのでしょうか。

 「滑空特攻機『神龍』」

 「神龍」は、内陸部に進入してきた戦車に突入する滑空特攻機です。山腹に潜ませていて、山間を進撃してくる米軍のM1型戦車などに音もなく襲いかかって、これに体当たり自爆しようというものでした。

 神龍は滑空機だから、もちろんエンジンはありません。飛行機に乗れなければせめて飛行服を着て戦いたい。少年兵たちの切ない願いです。神龍は空からのゲリラ特攻です。予科練は飛行兵だ。水に潜るのではなく、大空への夢に少しでも近づきたい、空を羽ばたくことが打ち砕かれた挫折感を、せめて空を滑空する兵器で戦う使命感で少年たちは訓練に励んだのでした。

 要員は、予備学生第15期(前期)、予備生徒第2期(前期)、予科練からは甲飛第14期、乙飛第20期、特乙第6期、それに丙飛が予定されていました。

 45年(昭和20)6月1日、三重空野辺山派遣隊が設置され、三重空において基礎訓練を終えた後、乙飛第20期などは滑空特攻要員として6月24日、長野県の野辺山に向かって出発しました。これら隊員の担当教員は、甲飛第12、13期、乙飛第18期、特乙第3、4期などでした。

○ どの展示にも勇戦奮闘の解説が表示されていますが、戦争への想像力を働かせ、軍命に従い、戦場に赴いた兵士たちの、悲しみ、苦しみ、怒り、無念さを偲び、戦争とは何か、是非考えて下さい。 
  私も健康に留意して長生きに努め、生きている限り、戦場体験を語続けます。                     

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