2010年6月20日日曜日

「シベリア特措法」成立に思う」

「シベリア特措法」が16日夜成立した。感無量である。

舞鶴港に帰国した時、祖国日本の美しさに涙した感激を忘れられない。

しかし、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の美名のもと、「聖戦」に命を捧げよと、私たち兵士を送り出した祖国日本の冷酷な仕打ちを、深く胸に刻みつけられた65年であった。

地獄の淵を這いずり、やっと祖国に辿り着いたシベリア抑留元兵士たちは、「シベリア帰り」というただそれだけで日本社会から阻害され、職を求め、糧を得るのに必死の十数年であった。

私は中学3年15歳で、父の猛烈な反対を押し切り少年兵を志願した。
敗戦を関東軍兵士として中国東北部、旧満州、公主嶺飛行場で迎え、ソ連に強制抑留、そして昭和22年12月、シベリアから祖国の土を踏んだのは19歳の年である。

私の故郷東京の家は空襲で跡形もなく、私の帰国を誰よりも喜ぶはずの父は、度重なる空襲を生き延びつつも交通事故で前年になくなっていた。

2歳上の兄は、人間魚雷回天搭乗員として、沖縄出撃途中戦死、18歳であった。幸い3人の兄姉が肩を寄せ合い私の帰国を喜んでくれた。

母校の中学を訪れた。丁度、学制が、6.3.3.4制に変換するときであった。「復学」のためである。新制度の高校1年進学を申し出た。応接したのは校長で、私が少年兵を志願したとき、教頭として激励の挨拶をした。「祖国日本の難局に,学業途中で戦場に赴く、まさに日本男児の鏡、我が校の名誉この上ない」と万歳3唱の音頭を取ったのがこの人であった。

懐かしさと期待に胸を膨らませた私に彼はこう言った。
「旧制中学4年終了の免状を上げるから他所へ行って下さい。残った君の級友たちも学徒動員で工場で働き勉強などしていなかった。当時の学制で、旧制中学4年終了卒業となったのです」「シベリア帰りとか、元少年兵など云わない方が良いですよ」

「生きて還って良かった」などの喜びの言葉など一言もなかった。
迷惑げの「厄介払い」に、悲しさと口惜しさで胸は張り裂けるばかりであった。
あの時の惨めさ、空しさ、悲しさ、口惜しさは生涯消え去ることはない。

15歳から19歳の経歴を作り,職を求め、時には、「経歴詐称」で首切りの口実になる。何のための「青春」だったのだろうか。

私の軍人恩給は、「一時恩給」1万2千5百円、1回きり。5年間の軍歴は「公務員」でないから「年金」加算一切なし。そうしてシベリア抑留強制労働の労賃を支払えの要求には、戦後処理は終わったとの政府の対応。この65年でした。

日本政府から天皇のため「国体護持」を条件に労働力としてお使い下さいと「棄兵棄民政策」で差し出され、国際法を無視したソ連スターリンによって、不法に「拉致」され、シベリアに抑留された関東軍兵士60万人。

零下20~30度の酷寒、薄ぺらな黒パン一切れ、薄味の塩スープの食事の空腹、靴を削りかみしめ耐えた飢え、問答無用、前代未聞の奴隷労働。過酷な条件を加重する旧軍の階級支配の圧政に兵士の命を守るための前期民主運動(昭和22年まで)。階級章を獲ることは、ソ連軍管理の集団組織を破壊するものだとソ連軍からの弾圧、昭和23年頃からのソ連盲従の後期民主運動に日本人同士の対立と抗争。シベリアの凍土の眠る6万人の元兵士たち。

給付金は25万円から150万円ということだが、圧倒的部分は35~25万円。青春を奪われた数十ヶ月に比べればほんの僅か。

しかし金額の問題ではない。不十分にせよ政府が謝ったのだ。

私たち抑留者は、長年の間だ、労働の対価が支払われなかったとして、補償を求めてきた。しかし、日本政府はこれまで「戦後処理は終わった」と応じてこなかった。 

法案は議員立法。条文に「補償」という文言は盛り込まれなかったが、提案した佐藤泰介・参院総務委員長は国会での趣旨説明で

「長期間にわたる強制労働にもかかわらず、その対価が支払われていない。問題解決に長い歳月がかかったことを社会全体として反省し、その労苦を慰謝することが必要だ」と述べ、給付金には補償・謝罪の趣旨が含まれていることを明言した。

のどに刺さった小骨が取れたようだ
しかし、課題は多く残っている。
シベリア抑留の真相解明だ。何故こんな事が起こったのか。
そして、実態を明らかにする。
一体何人が抑留され、何人が亡くなったのか。
遺骨の収集を早く。
韓国、朝鮮、台湾、中国もと抑留者への補償。
次世代への継承

等々である。

私も長生きして、痛苦の体験を語り継ぎ多少とも貢献できればと願っている。

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