遊就館に人間魚雷『回天』が展示されています。
回天とは、「九三式酸素魚雷」を改造して、頭部に爆薬を装填し、人が乗って操縦して敵艦に体当たりをするという文字通りの「人間魚雷」でした。 「回天」とは、「天を回らし、戦局を逆転する」という願いを込めた名前で、1944年に正式兵器として採用されました。
回天特攻隊は、兵学校、機関学校121名、予備士官(学徒兵)210名、現役下士官9名、予科練出身飛行科下士官(少年兵)1035名の、計1375名でしたが、、回天の製造が間に合わず実際に回天に乗って訓練したものは、その約半数、戦没者は106名、訓練中の事故死15名でした。
私の兄も、第1回天隊(白龍隊)搭乗員として沖縄出撃の途中、アメリカ潜水艦の雷撃で戦死、18歳でした。
特攻の思想は、神国思想「神風」と楠公思想「七生報国」がその背景にありました。蒙古襲来の時、「神風」が吹いて元船が転覆したと素朴に信じて、神国日本は神が守っているという思想です。
また、楠正成は湊川で討ち死しましたが、「七たび生まれて、逆賊を滅ぼし国に報いん」と語ったと伝えられています。いわゆる「忠君愛国」「滅私報国」「七世報国」の精神の源です。
回天特別攻撃隊は出撃のとき、「七世報国」の鉢巻きを締めていました。
この回天は、アメリカから還ったものを、生き残りの回天搭乗員たちが修理したものです。あるときこの周りに回天搭乗員が集まりました。その中に回天戦の作戦指導の中枢にあった元第6艦隊鳥巣参謀が居ました。鳥巣参謀は、「これが回天の実物ですか。こんな近くで見たのは初めてです。」といいました。
その場にいた、予科練出身の元搭乗員は烈火のごとく怒りました。
「俺たちの戦友はお前のような奴の作戦で殺されたのか」、「回天を遠くからしか眺めないで、何を指導していたのだ。こんな奴に死ねと命令されていたのだ」。怒った搭乗員たちは、元参謀を回天の中に放り込み閉じ込めました。
ここで鳥巣第六艦隊参謀の実像についての記述を紹介しましょう。
『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』小灘利春・片岡紀明 (光人社)
千早隊 伊44潜の戦闘 より
回天特別攻撃隊「千早隊」の「伊44潜」は第六艦隊命令「硫黄島周辺に遊弋中の敵有力艦船の補足攻撃」で、2月25日から28日の間に攻撃せよと指示された。
しかし硫黄島の周辺水域に、米軍は、対潜水艦戦闘を任務とする多数の護衛駆逐艦と護衛空母に搭載された対潜哨戒機とで緻密な防御システムを展開していた。
いったん彼ら対潜部隊に発見されれば、高性能のレーダー、ソナーを装備した対潜掃討の訓練を積んだ多数の対潜艦艇の執拗な追跡と攻撃にさらされる。
回天の発進可能な水域まで到達して回天を発進させることは、この戦場では到底無理であった。
ついに艦長は無念であっても不可能、との判断に至ったのである。
「伊44潜」は、3月9日、大津島港に帰着した。
「千早隊」の研究会が行われたが、それは実質的には「伊44潜」川口艦長の命令違反をお追求する査問会であった。
席上、川口艦長は、警戒厳重な敵洋上泊地に進入して、一度浮上した上で回天攻撃を決行するという計画自体に問題があり、潜水艦と回天に犬死を強いる無謀な作戦である」と意見を述べた。
その意見はきわめて正しいものであり、川口艦長は堂々と所信を述べたのであったのだが、第6艦隊の鳥巣参謀は、その川口艦長の向かって、
「卑怯未練!」と罵倒した。
これは武人に向かって発してはならない、最悪の侮辱の言葉である。
この鳥巣参謀という人は、「潜水艦は沈んで来りゃいいんだ。戦果は俺たちで作る」と放言したと伝えられる人である。
3月11日、 川口源兵衛艦長は、横須賀の桟橋に係留されたままの老朽潜水艦の艦長に異動、左遷された。
日本海軍としては異例なほど敏速な人事が行われた。
『特攻 最後の証言』特攻最後の証言政策委員会((株)アスペクト)
海軍水中特攻 回天 第2回天隊 小灘利春海軍大尉 より
「 ……私はアメリカ側の資料と突き合わせをやっていますが、それを見ると(回天を)とんでもない使い方をしているのがわかります。例えば、第六艦隊の潜水艦部隊で回天作戦を担当した水雷参謀、これが兵器を知らず、戦略眼もない」
「戦後、この人は回天の本をたくさん書きましたが、自分の責任や失敗には一切触れていない。回天の搭乗員に死を命令する担当参謀でありながら、「俺は戦争中、回天を見たことがない」なんて平気で言っている。無責任で態度も傲慢な男です。
私は、大津島では一番古いクラスの搭乗員ですから、彼がやって来れば当然顔は知っているはずですが、私はこの男を見たことも名前を聞いたこともない。当時は優秀な参謀がどこかで一生懸命作戦を考えて指導していると信じていました。
壮行式で搭乗員が出て行くときは確かに見送りに来ています。記念写真が残っていますから、来ていたのでしょうが、それだけで、遠くから眺めていただけなんだと思います。
無限の性能がある兵器はないですから、使う側はどういう使い方をするべきか、少なくとも知っていないと。で、かっての下士官搭乗員の前でも『どんな兵器か見たこともない』と言ったもので、その場にいた者が怒りまして、靖国神社にある回天にこの参謀を押し込んで上からハッチをバタンと閉めたそうです。ハッチをロックできるわけではないんですが、しばらくそのままにしておいたと言っていました。」
小灘利春氏は海軍兵学校72期出身で、45年4月八丈島海軍警備隊・第二回天隊隊長として8月15日を迎え、海軍大尉・前全国回天会会長をつとめ2006年9月死去しました。
私は、これらの事実について、生前の小灘氏から口頭で話を聞いています。また、靖国神社の「回天」押し込め「事件」について、複数の予科練出身元回天搭乗員からも話を聞いています。
鳥巣第6艦隊参謀のような人物が回天作戦を指導していたのです。そればかりではありません。回天作戦を立案し、推し進め、多くの純真な若者を死に追いやった海軍軍令部の参謀たちは、未だに誰も頬被りで、その責任も、謝罪も、闇のままになっているのです。
回天の兵器としての裁可は昭和天皇でした。どう思っていたのでしょう。
続 同期の桜
前回この唄について「俺と お前は」と紹介しましたが、正調は海軍流の、「貴様と 俺とは」です。
この歌は戦争末期の昭和19年半ば頃から、悲壮な曲と歌詞で、口伝えに伝えられ、部隊名や地名を替え、歌詞も追加されるなどして、多くの兵士たちに歌われました。特に回天、神雷などの特攻隊では、先に出撃した戦友を偲ぶ思いを込めて歌われていました。
戦後、「戦前懐古」の風潮とともに、鶴田浩二が歌って爆発的に流行しました。特攻隊やこの歌を肯定、否定するに拘わらず、戦争末期の兵士の心情を知る上で一考を要する歌と私は考えています。
元歌 「二輪の桜」 西条八十作詞
一番
君と僕とは二輪の桜 同じ部隊の枝に咲く
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて別れ
られぬ
二番
君と僕とは二輪の桜 積んだ土嚢の蔭に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国の為
三番
君と僕とは二輪の桜 別れ別れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢で咲いて会う
「同期の桜」 作詞 帖佐 裕
一番
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為
二番
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて 別れられぬ
三番
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機
四番
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
あれ程誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか
五番
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう
私の兄たち回天白龍隊の出撃前夜、搭乗員の壮行会で,「同期の桜」が歌われました。兄は、どんな思いで歌ったのでしょうか。
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