2010年5月19日水曜日

靖国神社雑感1・例大祭の思いで

靖国神社の春季例大祭は4月30日、秋季例大祭は10月23日
でした。

小学生の頃、私の家は新宿伊勢丹裏から市ヶ谷の陸軍士官学校の脇を通り市ヶ谷見附を経て靖国神社に至る『靖国通り』に面した『ロク薬局』でした。今の厚生年金会館の少し先になるでしょうか。

当時は4メートル通りで、牛込区市ヶ谷富久町、向かい側は四谷区花園町、100メートル程新宿よりは、淀橋区大久保でした。

その頃の子どもたちの行動範囲は広く、何処の神社、何処のお寺の境内では、何月何日に『店』が並ぶ。何処の商店街に夜店が並ぶのは何日と何日だと全部把握していてその情報をしっかり掴んでいるのが『ガキ大将』なのでした。

何処へでも出かけて行きました。戸山が原射撃場も、神宮外苑も、代々木練兵場も行動範囲で、その頃の横綱玉錦と双葉山の取り組みを『太宗寺』の境内で見物し、双葉山がタクシーに足をかけたらぐらっと傾いたのを覚えています。

靖国神社の例大祭には1時間以上かけて毎年、必ず遊びに行来ました。
九段坂の大鳥居のすぐ後ろに大村益次郎の銅像があります。
そこから神社に向かって左側は食べ物屋の店がずらりと並んでいます。

焼きそば、おでん、お好み焼き、パンかつ、お汁粉、綿菓子、べっこう飴等々子どもたちの食欲をそそる何でもありでした。

向かって右側は見世物小屋がずらりと並んでいます。
肝試しの化け物屋敷、娘さんのクビが伸びるロクロ首、オートバイの曲乗り、猿の曲芸、入り口には客寄せの口上師がだみ声を張り上げて口上をまくし立てています。

『さあさあお立ち会い、見ていかなければ一生の悔やみだよ。何見せるんだって、そりゃあ木戸銭払って中に入れば分かるよ。そこの坊やたち、小遣いもらってきたんだろ。見て、楽しんで、帰って土産話を親に話してやりな、それが親孝行ってもんだぜ。さあ入った入った。小遣いなんて手に握っていただけじゃ駄目だよ、使うときに使ってこそ小遣いだよ。それが江戸っ子ってもんだよ』

私の定番は、お化け屋敷に、オートバイの曲乗りでした。その後が、焼きそばに、お好み焼きに、綿菓子。

社殿でちょこんと頭を下げて当時その後ろにあった『国防館』、それから『遊就館』に回ります。何があったかメモは必ず取っておきます。家に帰って何を見てきたか親父に答えられるよう帰りの道すがら考えていくのです。答えの仕方によっては来年の小遣いの額に大きく響きます。

昭和20年正月、訓示の後『来年の正月はあると思うな、各人決意を述べよ』と班長の命令です。
私は16歳の陸軍特別幹部候補生、陸軍上等兵です。前年の暮れ、昭和19年12月29日に陸軍航空通信学校長岡教育隊で航空通信兵、対空無線隊要員として9ヶ月の教育課程を終え、第一線への転属待ちです。

『命を賭けて戦います。靖国神社で会いましょう』。『特幹の名誉にかけて任務を遂行します。靖国神社で待ってます』。『自分が靖国神社一番乗りです。』……

みんな立派なことを言ってます。『何言ってやんで、おべんちゃら、心にもない格好良いこと云いやがって』。順番が近づいてきます。何を言おうか考えているうち、『猪熊候補生、お前の決意は』……。班長の怖い顔が睨んでいます。みんながこちらを向いています。

私の靖国神社は、焼きそばに綿菓子、そしてお化け屋敷です。それしか浮かんで来ません。

とっさに答えました。
『最後の一兵になるまで戦い続けます。』
班長の罵声が飛んで来ました。『なに!貴様は靖国に行きたくないのか。』
私は答えました。『みんな死んだら、ワシントンのホワイトハウスに誰が日章旗を掲げるのでありますか。』

鉄拳でぶちのめされました。『みんな死のうと言ってるのに貴様ひとり一体、なんだ。』
私の16歳の正月の思い出です。

境内に佇むと2歳上の兄の姿が浮かんできます。
兄は、予科練甲種13期生で、土浦航空隊で人間魚雷回天特攻隊を志願し大津島回天基地を経て山口県光基地から出撃、昭和20年3月沖縄粟国島近海で戦死したのが18歳でした。

兄の生き様を調査しています。
兄の土浦、光基地での同期生の手記から昭和19年7月に、ここ靖国神社に来たことが分かりました。

土浦から2千名の予科練甲13期生が、7つボタンの白い制服で、軍楽隊を先頭に隊伍を組んで、上野駅から行進をはじめ、靖国神社と明治神宮に参拝したのです。
戦意高揚の大デモンストレーションでした。

兄は胸を張り意気揚々と行進をしたことでしょう。
兄の姿が浮かんできます。
それから半年余、兄は南の海に果てたのでした。
そして、正確な戦死日時も、戦没地点も、戦没状況も、未だに分からないまま、弟の調査が続いているのです。

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