2010年5月12日水曜日

フイリッピン戦と私

『語らずに死ねるか』
戦場体験が消え去ろうとしています。
私は、元兵士たちに呼び掛けています。
「戦友(とも)よ
生きているうちに語ろう
語ってから死のう
語らないうちに死ぬのは止めよう」

『フイリッピン戦と私』
「運」に生命がもてあそばれる
 私は運が良いのです。
戦争では、兵隊の生命は自分で守ることはできません。「任地」や「任務」は「命令」で決まるのです。そこには自分の意思や希望を働かす余地は全くありません。それこそ「運」に恵まれるかどうかということだけで生命がもてあそばれます。

 後で考えると、運が良かった、あれで助かった、命を長らえたと思うことが何度もあります。

特幹の入隊試験
 その最初がこの入隊志願のときでした。特幹第一期の採用は航空と船舶の二つの兵科に限られ、航空は操縦・通信・整備で、船舶は船舶工兵、船舶通信、特殊艇要員、整備要員でした。

身体検査、口頭試問は昭和19年2月上旬。学科試験は中学3年2学期終了程度で課目は算数と作文、全国一斉2月16日、私の試験場は、早稲田中学でした。

学科試験には、こんな問題もありました。
『 爆弾積載時の速度毎時400キロ、投下後はその4分の1の速度を増す、重爆撃機が10時間の航続時間を有するとき、この機は何キロ遠き地まで爆撃し得るか。但し敵地上空において30分を費やし、その地に30分の余裕をおくべきものとす。』

また、志望兵科について、航空、船舶のどちらかの希望に○をつけるのでした。

 私の長兄は船舶兵で南方に転戦していました。戦地の兄から軍事郵便のはがきが着くと必ずどこか一カ所検閲で墨が塗ってあります。長兄は検閲を想定して地名をどこかに入れてあります。

姉が先ずその墨を丹念に拭き取ると、下からペン字の地名が現れてきます。「アツ、マニラだ」「アレ、セブ島だ。セブ島ってどこだろう。地図持ってきてよ」。すぐ上の兄と私が地図で調べます。「今度はアンボンだ。アンボンてどこだ、すごいな船舶兵は。あちこち飛び回って」。そんなことで何か船舶兵に憧れを持っていたのでした。

だから私は船舶兵志望に○をつけました。しかし「大空への憧れ」、大空を飛びたいという憧れを打ち消すことはできませんでした。試験を終わって退席の号令とともに、慌てて、船舶兵を×で消し、航空兵に○を書き、会場を飛びだしたのでした。
結局私は、航空通信兵として、命を長らえたのでした。

特幹船舶兵
 特幹一期の船舶兵は1890人でしたが昭和19年4月から小豆島で訓練し、9月には1718人が特攻隊として第一線に配置されました。未だ、入隊して、半年足らずの15歳から20歳の少年兵です。11月には、伍長に任官しました。特攻死の時には少尉に特進するためです。銃は持たず40年式軍刀に26年式拳銃です。いわゆる陸軍海上挺進隊です。

そして1年足らずの内にそのうち1185人が異境の土となり、または波浪の中に消えたのでした。

「彼らは、特別の秘密の隊で、十代で数階級も上がって少尉になるとか、新聞には大きく写真入りで『軍神』と書かれるなどの幻想を持たされ『悠久の大義』とか『生死一如』とかの辞に操られ、生と死の観念の境界を忘れさせられて出て行った。……
しかし、彼らが送られたルソンと沖縄の地で目の前にした現実は、ヒロイズムとは無縁な、弾がとび、血を流し、苦痛の中で迎える『戦場』であった。特攻の任務を果たす機会はなく、敗残兵となって戦場をさまよい、絶望的な中で父や母を想いながら、ふたたびは会う事がなかったのである。」(『陸軍水上特攻隊ルソン戦記・儀同保」光人社)

あの時、船舶兵に○のまま試験場を出ていたら、私も海上挺身隊として出動し、恐らく今の私はいなかったでしょう。ルソンか、沖縄か、海の藻屑か、草むす屍か、この投稿もなかったでしょう。

陸軍海上挺進隊
 陸軍海上挺進隊というのは、海軍の震洋特攻隊と同じです。特幹一期生を主力に創設された、陸軍の水上特攻隊でした。長さ5メートル、トヨタの60馬力ガソリンエンジンが付いたベニヤ板製で「連絡艇」通称レ艇(マルレ)に250キロの爆薬を付けて敵艦に体当たりするのです。

海軍の震洋は頭からぶつかります。陸軍のレ艇は海面下で爆発させるため、衝突直前に艇を反転し爆薬を投下します。攻撃は三隻~九隻一体になって夜中に行われます。米艦は攻撃を避けるため、夜は港外に避難しています。そのため米艦に近づけず引き返してくることも度々ありました。

「斬り込み隊」
 ルソン島では米軍の進撃が早く、出撃基地を追われ、再度の出撃もならず、陸上部隊と地上戦闘に参加となります。すると「お前たちは特攻隊の生き残りだ。斬り込み隊で死んでこい」と命令されるのです。敵の見えるところまで進むと援護部隊はそこから一歩も出ずに、斬り込み隊の少年兵たちに「さあ、お前たち行け!」と突撃させられるわけです。
少年兵は、6発装填の拳銃と軍刀を振りかざし、米軍に向かって突撃をするのです。
生き残ると死ぬまで「斬り込み隊」です。ひどい話です。

靖国神社の遊就館にも、その「英雄的」戦闘が紹介されていますが、20歳前の少年兵たちが、どれほどの苦難と怒り、悲しみと空しさを背負ってその生涯を終えたことか、是非、思い浮かべて下さい。

南方行き「少年兵」の大量戦死
私たち航空通信特幹一期生の教育課程は、アメリカ軍の急速な反攻に1年6ヶ月から9ヶ月の半分に短縮されましたが、転属先も戦線の後退で当初の予定が大幅に変更になりました。フイリッピン、シンガポール方面など南方行きが出来なくなったのです。

 昭和19年11月5日、少年兵学校の一斉繰り上げ卒業が行われました。

 南方総軍派遣要員のとして少年工科兵(200名)、少年戦車兵(256名)、少年通信兵(600名)、少年重砲兵(15名)、少年野砲兵(70名)、少年高射兵(205名)が乗り組んだ輸送船団はフイリッピンに向かいましたが、11月15日から17日にかけて済州島沖および五島列島沖で米潜水艦の攻撃を受け乗艦が沈没、その大部分が戦死したのでした。この時、特幹」1期中心の海上挺身隊第18戦隊、第19戦隊約200名も便乗し、その多くが戦死しています。
生き残った少年兵たちも、その殆どが、フイリッピン戦で戦死したのでした。

 リンガエン湾
 昭和20年1月9日には、フイリッピン、ルソン島リンガエン湾に米軍が上陸しました。

ニミッツの「太平洋戦史」(恒文社)に、海上挺身隊の記述があります。「その晩(1月9日)リンガエン湾では日本軍の空襲を避けるため、艦船は煙幕を張り姿をかくしていた。

そのとき日本兵を配置し爆薬を積みこんだ約70隻の木造合板製発動機が米水上部隊に突進してきた。大部分は砲火により撃退されたが、そのうちの数隻は艦船の舷側に爆薬を放つことに成功して待避した。この水上特攻によって歩兵揚陸艇1隻が沈没し、輸送船と歩兵揚陸艇各1隻および戦車揚陸艇4隻が損害を受けた」としている。

なおこの戦闘には、第12戦隊約70隻が出撃し、生き残ったのは2名のみであり、戦死者の殆どが特幹船舶1期生の少年兵でした。

また私は命拾い
 シンガポールに司令部のある第三航空軍関係には、輸送船が次々に撃沈されて行くことが出来ません。第四航空軍は、富永司令官がフイリッピンのマニラから台湾に逃げ帰り、昭和20年2月に消滅しました。航空部隊は、地上部隊に併合されました。

私たち特幹1期生のフイリッピン行きは中止になりました。
ここでまた私は命拾いしたのでした。

真の平和と謝罪
フイリッピン戦でも私と同期の特幹1期生をはじめ沢山の少年兵がその青春を散らせました。
「少年兵」たちは、「軍命で仕方なく」ではなく、「祖国のため」「東洋平和のため」「愛する家族のため」と信じ、自らの意志で志願し、戦場に赴いたのでした。

しかしその戦争は、「大東亜共栄圏の建設」のための「聖戦」の美名の下、他民族を抑圧し、他民族を苦しめ、他民族を支配する侵略戦争でした。
こんな口惜しいことがあるでしょうか。
憲法9条を揺るぎないものにすること。真の平和を築き上げること。アジアの人々に心からの謝罪をすること。そうしてこそ亡くなった少年兵への鎮魂でもあるでしょう。彼らの心が安らぐのでしょう。

0 件のコメント:

コメントを投稿