2010年5月10日月曜日

『戦争のための青春でなく 平和のための青春を』

   『戦争のための青春でなく
          平和のための青春を』

不戦兵士・市民の会代表理事
                      猪熊 得郎

  ○ 戦争体験の生き証人

 日本軍国主義の中国侵略で始まったアジア・太平洋戦争は、230万人の日本国民と、2千数百万人のアジアの人々の死と、数え切れない財貨と環境の破滅をもたらした。

1988年1月、この戦争で銃をとり、戦場の悲惨さを身を以て体験した元兵士たちが集まり、我が国の憲法第九条を守り世界の平和を希求することを理念とし、「生き証人」として戦争の惨禍を語り伝えることを行動の柱とする「不戦兵士の会」を結成した。

しかし戦後65年、元兵士の会員は高齢による死亡で減少しつつあり、また、14歳で少年兵として入隊、教育、訓練中に敗戦を迎えた最年少者でも78歳であり、元兵士の多くは加齢と病気と闘いつつ、憲法を踏みにじる有事立法の制定、海外への自衛隊の派兵等々の情勢に「このままでは死んでも死にきれない」と老骨に鞭打ち「不戦・平和」を訴えている。

 他民族抑圧のため日本国民を根こそぎ動員した戦争体験は、加害・被害・戦場・銃後等々広く深く体験した人の数だけある。元兵士となる過程も、職業軍人・徴兵による現役兵・予備役からの召集による応召兵・学徒兵・志願による少年兵等々一人一人みな異なりその想いも様々である。従って私は、自分自身の戦争体験に基づき「不戦・平和」の想いをここに述べることとする。

   ○15歳で航空兵

 私は1928年(昭和3)に生まれ、44年(昭19)陸軍特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊したのは15歳、今で言えば高校1年になる年だ。 

教育課程を終え45年(昭20)2月、水戸東飛行場に配置されていたが、米空母からの艦載機による攻撃で初めての血なまぐさい戦闘を経験し、11名の同期生を失った。

4月、第2航空軍第22対空無線隊に転属し旧満州・公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。高級将校たちの逃亡、八路軍ゲリラの決起、満州軍(日本軍の傀儡)の反乱、中国民衆の襲撃、ソ連機の機銃掃射、ソ連軍の侵入等混乱の中、9月、17歳の誕生日にアムール川を渡りソ連の捕虜となった。

「聖戦」に駆り出された旧関東軍60万の兵士たちは、天皇と「国体護持」のための盾としての棄兵・棄民政策で満州平野に放り出され、ソ連・スターリンの国際法を無視した覇権主義で、「労働力」として抑留され6万余の生命がシベリアの土と消えた。

若かった私は零下30度の冬にも耐え日本に帰って来たのは47年(昭22)12月、19歳だった。

 私が少年時代を過ごした市ヶ谷富久町の家も、戦場に旅立った日本橋浜町の家も、東京の度重なる空襲で跡形もなかった。 私は幼くして母を亡くし、父の手で育てられたのだが、その父も死んでいた。2歳上の兄も、人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員として戦死していた。18歳だった。

「身は一つ 千々に砕きて醜(しこ)千人 
     殺し殺すも なおあき足らじ」

兄が出撃直前に遺した遺詠である。当時の予科練出身回天搭乗員の間では、戦艦なら3千名の米兵が乗っている。回天特攻隊員一人がアメリカ兵1千人宛倒せば祖国を守り家族を守ることが出来る。そこに回天隊員の使命があると話し合われていた。

○学徒兵との違い

 徴兵猶予停止のため、止むをえずペンを銃に変えた「学徒出陣」と違い、当時の少年たちは自分の意志で、競って少年兵を志願した。
予科練を志願した兄は、入隊前夜の壮行会で「国難ここに見る」と「元寇」の歌を唄った。

私は、中学3年の冬、特幹の「志願」を父に訴えた。「アッツ島もマキンもタラワも玉砕(全滅)した。このままでは日本は大変なことになる。今こそ日本男児はみんな戦場に赴いて、国を守るため、東洋平和のために戦わなければならない」と。

父は猛烈に反対した。長兄は関特演の召集で満州から南方に、次兄は学徒出陣、三兄は予科練、そして残った末弟の私だ。私の頑強さに父は「それなら士官学校に行け。軍人としてお国のために役立つことに代わりはない。士官になれば、兵隊よりもっと大切な任務に就く事になる」と渋々論調を変えた。

「それではもう間に合わない。3年、4年先では日本はどうなっているか判らない。どうしても今志願したいのだ」
 三日間論争し私は口もきかなくなった。根負けした父は四日目「それなら征け、しかし、命だけは大切にな」と許してくれた。

今でもはっきり覚えているが、がっくりと肩を落とし許してくれた父の後ろの壁には「大元帥陛下」たる天皇の白馬に乗った写真と「日の丸」の額が掲げられていた。

  ○少年兵・学徒動員世代

 1926年頃から1929年頃までに生まれた世代を「少年兵・学徒動員世代」と言える。物心が付いた頃には、満州事変、日中全面戦争、そしてアジア太平洋戦争の展開と「戦争しか知らない子供」として成長した少年たちは、少年兵を志願するか、学徒動員で軍需工場で働くか、その選択を真剣に考え、それぞれの道を歩んだ。

小学一年の教科書から「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」「ヒノマルノハタ、バンザイ、バンザイ」と学び、「ボクは軍人大好きよ」と歌い「木口小兵は死んでもラッパを離しませんでした」と教わり、奉天大会戦や日本海海戦の大勝利の話に胸踊らせ、白い羽毛を軍帽に飾り、白馬に跨った大元帥天皇の姿に感激し、日本民族は優秀な民族であり、日出ずる国の天子の下、大東亜共栄圏を樹立するため聖なる戦いを進めるのだと、心から信じる少年に育てあげられた。

○東洋平和のため

 当時の少年たちは、天皇絶対の社会体制、軍国主義一色の社会風潮、幼い頃からの軍国主義教育、権力に迎合した新聞・ラジオ・映画などマスコミによる戦争賛美の宣伝扇動の影響の下で、「国のため」「天皇のため」「東洋平和のため」「家族のため」と心から信じ、親や家族の反対を押し切り、少年兵を志願したのだった。

 海軍の飛行予科練習生(予科練)、陸軍の少年飛行兵、特別幹部候補生(特幹)などの少年兵に42万の少年たちが志願した。

 戦争末期には、飛行機特攻神風、人間爆弾桜花、人間魚雷回天、ベニヤ製モーターボートに爆装した水上特攻震洋、海上挺身隊、水中特攻海竜、蛟竜、人間機雷伏龍などの主力はみな二十歳前の少年兵たちであった。そして沢山の若い青春が平和の時代を知ることなく大空に海原に消えていった。

  ○平和のための青春を

私たち当時の少年は、かけがえのない青春を、あの戦争に捧げた。生涯の中でもっとも美しく輝くたった一度の青春が、戦争のための青春だった。そしてその戦争が、「大東亜戦争」の美名の下、他国を侵略し、他国の民衆を支配し、抑圧する戦争だったのだ。

 しかも、少年兵を戦場に駆り出したものたちや、その後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、平和憲法を踏みにじり日本を再び「戦争をする国」にしようとしている。日の丸・君が代が大手を振り、「愛国心」を押しつけようとしている。

若者たちを再び戦場に送り出してはならない。
 若者たちの青春が、 みなさん
 戦争のための青春でなく
 平和のための
 美しく豊かな青春であることを
私は心から願って止まない。

(月刊ゆたかなくらしー03年9月号掲載のものを補正・加筆)

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