2010年3月24日水曜日

お爺ちゃんの一代記

思いつくままに
 戦場体験を語り継ぐ日々の中から
猪熊 得郎

№2 戦場体験・元兵士の一人としての,私の事
おじいちゃんの一代記


「トーキョー グラフテイー」という若者向け写真雑誌がある。
昨年(2008年)2月号に、何を好んでか、私の「一代記」なるものが、
30葉の写真とともに、4ページにわたって掲載された。
こんな生き方をしたおじいちゃんもいると言うことだ。
写真説明もつなぎながら、加筆補正して紹介する。


TOKYO Graffiti
 New Generation Magazine
             第42号 2008年1/25
 
    おじちゃんの一代記
           猪熊 得郎
           東京都日本橋区(現中央区)出身
           神奈川県横須賀市在住

    1928年、
 猪熊家の7人兄弟、
6番目、4男として
     生まれる。

○ 大人になったら軍人になる

生まれは日本橋浜町。祖母が派出看護婦会を経営していた。隅田川、新大橋の袂で蟹を捕って遊んだ。

小学、中学時代は牛込市ヶ谷富久町、靖国通りに面して浅草千束町生まれで薬剤師の父が経営するロク薬局。母は小学校入学前に入院し、中学一年の時に亡くなった。五男二女の四男だが、日本橋浜町、市ヶ谷富久町、養子で神戸行きの弟と兄弟ばらばらだった。

毎日、家の前を、鉄砲担いだ兵隊が通るのを眺めて育ち、小学 1年で「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ、」と学び、子供心に「大人になったら、軍人になって国のために尽くすのだ」と一途に思っていた。

○ 15歳で少年兵を志願・シベリア抑留

父の猛反対を押し切り中学三年を終え1944年4月、志願して水戸市郊外の陸軍航空通信学校に入隊した。

○ 軍隊生活 15歳・16歳

支給される野菜一杯入った雑炊を食べるのが何よりも楽しみだった。
軍隊生活で、趣味どころではなく、趣味なんて言ったら殴られる感じだった。
とにかくモールス信号を覚えることで精一杯であった。

「動作が鈍い」とぶん殴られ、「声が小さい」と蹴飛ばされる毎日だが、「立派な軍人になるぞ」と思って訓練に励んでいた、
「絶対に日本は勝つ」と思っていた、

○シベリアで捕虜生活 17歳 18歳

1945年8月、第22対空無線隊員として、旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。国際法を無視したソ連の捕虜として17歳の誕生日にアムール川を渡り、シベリア鉄道沿線シワキ収容所で重労働。凍傷、栄養失調、発疹チフスなどで、6人に1人が死んだ。

森林の伐採、製材作業、貨車積み込み作業、鉄道工事など。零下30度を超える寒さに次々戦友たちは倒れ、生きることに精一杯だった。

「汽車が出る、帰るんだ、味噌汁が飲める、お母さん。」そう言ってバタッと死んだ戦友の声が耳に残っている。

日本にいつ帰れるのか、帰れるのかさえも分からなかった。楽しいことは何もなく、ただ、生きることだけが望みだった。

○ 日本に帰国 19歳
1947年12月舞鶴に上陸、復員、19歳。祖国日本は美しかった。

○ 中小零細企業を転々、生きることに精一杯。

日本橋の家も、富久町の家も空襲で跡形もない。父も死んでいて、親不孝のまま。2歳上の兄は、特攻隊員として18歳で戦死。「故郷の歌」を聴くと涙が出てくる。

母校へ行ったら万歳、万歳と送り出した校長は、4年終了の免状をやるから他所へ行けと冷たくあしらわれ口惜しかった。

学歴も、技術もないシベリア帰り、少年兵帰りに世間の風は冷たい。生きるために精一杯。ガス配管工、水道衛生工、化学工、電機工、自動車修理工など労働基準法など通用しない中小零細企業を転々として働いたが、1951年23歳の時妻と出会い結婚した。

○ 社会の矛盾 下積みの悲哀

肉体労働はきつかったが、シベリア時代を思うと乗り切れた。先輩の後ろから見つめて技術を盗み、みんなが帰った後、一人で実習をした。

腹が空いて仕方がないので、給料をもらうと先ず米と味噌と醤油を買い、ヤミの食券を探した。銀座で下水道工事をして穴を掘っていた。5時過ぎると、同年輩のサラリーマン男女が着飾って、はしゃいで通り過ぎる。口惜しく、悲しく涙して仕事をした。
社会の矛盾、下積みの悲哀が骨身に染みた。通信教育で勉強をした。平和運動や市民運動に参加するようになった。

○ 朝鮮戦争

1950年6月に朝鮮戦争が始まった。
船に乗ってお金を貯めることを考えた。船も出航日も決まっていたが、直前に「戦争」が始まった。
「畳の上で死にたい」、「あたたかい家庭が欲しい」、無性にそんなことを考え、船乗りを止めた。
その船は、朝鮮戦争に徴用されたらしい。どうなったのだろうか。その後の消息を聞かない。

東日本重工(三菱下丸子)で自動車修理、さんこピン(日給310円)の直傭工
だった。
工場は、アメリカ軍直轄の軍事工場だった。銃を持ったアメリカ兵の監視の下、朝鮮戦線で壊れたジープ、トラックなどをオーバーホール、修理再生、送り返すのが仕事だ。

「朝鮮戦争反対」「日本の労働者は朝鮮人民と戦わない」と「サボタージュ・おシャカ闘争」の抵抗グループがいくつも出来た。

1952年4月30日、
「朝鮮戦争」に反対の活動をしたと言う理由で解雇された後、「占領政策違反」政令302号で私は逮捕された。

講和条約発効は4月28日、占領政策違反の名目が立たず、私は15日で釈放された。

警察は口惜しくて7月、今度は、「朝鮮戦争反対」の200名の無届けデモを指
揮したと「公安条例違反」で逮捕された。
私は完全黙秘で23日で釈放された。

この間妻は住む家もなく、知人の家を転々とした。おなかの子どもは、九ヶ月で死産した。
私の長女だ。

若い娘さんを見るたびに、生きていたらどんな娘に成長しただろうと思った。
いま、生きていたら50歳台半ばだ。

あの娘やその孫娘と一緒に平和の道を歩めたらどんなに楽しかっただろうかなどと思うことがある。

○ 新島闘争

1963年から64年の伊豆七島、新島でのミサイル試射場設置反対闘争では、何回も延べ半年位、オルグで島の生活をした。

冬2月は西風で船が着岸できない。小舟に乗り換え、舳先にロープを結び、島の人が何十人も引っ張って砂浜に乗り上げる。

オルグの仕事は、反対同盟の家を回って励ますことだ。
三度三度、どこかの家で食事が出ないようではオルグとして失格だ。
毎食「くさや」のおかず、これも合格条件だ。

どこかの家を訊ねると、たちまち近所の「いんじー」「おんばー」たちが、話をしに来るようになって、一人前のオルグだ。

闘争の収束時は、平和団体の私と、y大の二人のオルグだけだった。
先日、「戦争体験を如何に語り継ぐか」のある団体の集会があり、私は、パネラーの一人として招かれた。
ところが、その集会の司会は某大学名誉教授M氏、45年前の新島y大オルグであった。

お互い黒髪ふさふさとした若者であったが、45年の歳月を忘れて固い握手をした。長いこと歩き続けると、こんな嬉しい再会にも恵まれる。

○ 朝の来ない夜はない

1949年の松川事件では、はじめの頃署名に行くと、列車転覆の犯人をかばうのかと塩を振りかけられた。それでも粘り強く運動を続けた。1963年、14年目に最高裁で無罪判決が出た。
真実を守ることは大変なことだが、朝の来ない夜はないと私は信じている。

○1960年の安保闘争。

はじめの3年間、署名は集まらない。集会で人が来ない。それでも一生懸命、細々としたデモや集会を繰り返し、署名運動にも取り組んでいた。国民的大運動になったのは、59年の暮れからだ。

60年になると毎日、安保安保でデモに明け暮れていた。
渋谷や新宿の駅前で「声なき声の会」の旗を立てしばらくして歩き出す。
国会への「請願行動」だ。歩きはじめは、20名か.30名が、国会に着く頃には2000名を超える人が付いてくる。労働組合などに関係なく、何処の組織も持たない人たち、主婦などもたくさん参加してくるのだ。

6月に入ってからのデモはフランスデモだ。
30列、40列の横隊。新橋の道路など道一杯に横隊を組み堂々とデモをする。
そんな盛り上がりだった。、

○ 幸せな結婚生活と転職

幸せとはなんだろうか
とにかく勉強したくていろいろ学んでいた。
「社会の土台は経済だ。経済の仕組みを体系立って学ぼう。」と各通信教育の案内書を取り寄せた。

法政大学の大内兵衛総長が「単位取りでなく、真理のための学問を学ぼう」と書いていたのに背中を押され法政の通信教育を始めた。

当時は、「教員」「自治体職員」で、大卒の資格を取る目的の学生が多かった。3年間通信教育学生会の会長で、「入学式」や「卒業式」には、通信教育部長教授の後、学生を代表して挨拶をした。9年間在籍をした。
「通信教育」学生会長のおかげで、「特幹」教育隊時代の戦友とも再会した。
その後、大学教授になったり、「市民派」弁護士になったりのたくさんの友人が出来た。

経理簿記の資格などもとり、農業関係の新聞記者、医療生協の運動で診療所建設、事務長、専務理事。中小業者の経営を守る運動などいろいろな運動に取り組んだ。

○ 苦労をかけた家族

妻と息子二人に次男の嫁と孫。こんな父親だから家族には随分苦労をかけた。「運動」をする時間、商売か金儲けになることをしていたらもっと生活も楽だっただろう。お金のないということは辛いものだ。未だに借家住まい。

でも後悔はしていない。まっすぐ、頭を上げ、胸を張って歩いてきた誇りがある。
家族も、そんな父親の生き方を認めてくれるようになった。こんな嬉しいことはない。

少しずつ、家族とハイキング、妻との旅行、カメラやパソコンなど楽しみを持つ時間を見つけるようにした。息子二人はそれぞれ生き方を持ち、自分の生活を歩んでいる。

○ 妻との夫婦旅行

年金がもらえる一年前、社会保険事務所で記録を調べた。年限が足りないという。職業歴は虫食いの空白だらけ。1年がかりで空白の部分の会社名と住所を探し、そこの社会保険事務所へ行き記録を調べた。厚生年金未加入の会社もあったが空白を埋め、年金がもらえた。

しかし生活するには足りない。年金を貰いながら働いた。妻に大変苦労をかけたので若い時に出来なかった夫婦旅行を始めた。

初めての一泊旅行は結婚して40年目の箱根、妻が修学旅行を欠席した奥日光、春、秋の京都、金婚式は松島。そして戦死した兄の戦没状況の探索、足跡を求め、三重、土浦航空隊跡、毎年の大津島回天慰霊祭、沖縄平和の礎追悼の旅等々。

○ 沖縄平和の礎

人間魚雷回天特攻隊で戦死した兄の追加刻銘で、1997年6月23日の沖縄慰霊の日以来、摩文仁の丘平和祈念公園で兄の記念碑に毎年献花している。

18歳で戦死した兄は、愛する人を守るため、国のために戦死した。ところが、厚生省(現厚生労働省)の記録が間違っていて、戦死した場所も、戦死した日時も明確になっていない。

一生懸命戦死した兄がこのまま忘れられてはかわいそうだと思う。厚生省の記録は4年かかって改訂させたが、まだ正確な戦没場所はわかっていない。そのため、毎年沖縄に行って兄の足跡を探している。

○ 現在 
  生涯の仕事、戦場体験を語り継ぐ

妻は脳梗塞から寝たきり、特別養護老人ホームで生活。毎週1度、部屋の花を替えに行く。
私は、病気後の後遺症で平衡感覚が正常でない。ふらつきで杖が離せないが、リハビリを兼ねて出来るだけ歩く。

私たち元少年兵は、国のため、平和のためと信じ精一杯、かけがえのない青春をあの戦争に捧げた。
ところがその戦争は間違った戦争だった。青春を繰り返すことは出来ない。こんな口惜しいことはない。
これを私は「少年兵の無念」という。

若者たちの青春が戦争のための青春でなく、
平和のための豊かな青春であることを心から願っている。

「少年兵の無念」を語ること
戦場体験放映保存の会をはじめ戦場体験を語り継ぐ運動を強め、拡めること、
42万の少年兵の調査研究、
18歳で戦死した、兄の戦没状況の調査、
それが私の生涯の仕事である。

                                    おわり

1 件のコメント:

  1. 世代も経験も違いますが、読んでいて生きる力、勇気をもらいました。どうもありがとう。

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