2010年3月30日火曜日

『少年兵』そしてシベリア・二つのインタビュー

思いつくままに
 戦場体験を語り継ぐ日々の中から
猪熊 得郎

№3 戦場体験・元兵士の一人としての,私の事

『少年兵』そしてシベリア
      二つのインタビュー ①

     =(このひとに インタビュー)=
(聞き手=ジャーナリスト・林克明)

 元少年兵として
 戦争体験を語り続ける
    猪熊 得郎さん

 ここ十数年、侵略戦争や軍国主義の犯罪を隠し、むしろ過去を美化するよ
うな風潮が形成されてきた。このような空気に抗っているのが、元少年兵の
猪熊得郎さん(80歳)だ。映画にもなり、本も出版されている学徒兵とは違
い「少年兵」の記録はほとんどない。歴史から消されようとされている少年
兵としての体験を猪熊さんは語り続ける。戦争体験を後世に伝える団体を結
ぶ「ブリッジ」としても活動する猪熊さんに聞いた。


      『少年兵の私がみた戦争とは
       無念さ、怒り、恨み、苦悩…』

――少年兵の実態は知られていませんね。

猪熊得郎さん 学徒兵の13万人に対し、14歳から19歳までの少年兵は42万
人、特攻隊の主力は少年兵でした。

しかし、記録が学徒兵などと比べて非常に少ない。それは手記を書くことが
できなかったこともあります。将校や学徒兵なら、まだ余裕があるが、少年
兵にはない。そんなものを書いていたらぶん殴られます。それに、まだ16歳、
17歳がですから、状況を認識し、自己を見つめるのは困難です。

1943年になると、少年兵の募集が急増します。技術系の下士官を短期に養成
するため陸軍特別幹部候補生(特幹)が創設され、私はこれに応募しました。

――家族の反応は。

 猪熊 親は反対しました。長兄は41年に召集され船舶兵で南方に、次兄は
学徒出陣、私より2つ上の三兄は海軍の予科練を志願し三重航空隊。その上
私が志願すると言ったのです。父は猛烈に反対しましたが、4日間の話し合い
の後とうとう諦めて受験を認めたときの父の寂しそうながっくりと肩を落とし
た父の姿は、今でも忘れられません。


◎最初の戦闘は16歳

 44年4月、15歳で水戸の航空通信学校に入りました。
 私の最初の戦闘は16歳。1945年2月17日と18日、アメリカ軍は関東一円の
飛行場を攻撃しました。私が配属されていた常陸飛行基地に米軍の艦載機数百
機が飛来し、銃撃と爆撃を繰り返しました。

 猛烈な機銃掃射で狙われたときには、瞬間的にいろんなことが頭をよぎりま
した。故郷のことを思い出したり、病気で早く母をなくしているから「俺の場
合は、お父さん、と言って死ぬのかな」と、修羅場なのに不思議といろんなこ
とが頭に中に浮かびました。

 米軍機操縦士の眼鏡がきらりと光り、5メートルほど先に小型爆弾を落とし
て急上昇しました。泥まみれになりましたが命拾いしました。機銃掃射が続い
ていたならば殺されていたと思います。助かったのか不思議です。

 米軍機が飛び去った後、基地内の送信所入口付近で、爆風で飛び散った遺
体をかき集めました。レシーバーをつけたままの頭からは脳が飛び出し、
モールス信号を打った腕、血まみれの胴体・・。バラバラになった身体各部
を集めて人数を数えました。11体で、16歳から20歳までの戦友でした。その
ときまで考えていた、武勲をたてよう、お国のためになどということは、こ
のとき吹っ飛びました。そんな甘いもんじゃない、戦争とは殺し合いだと。


◎従軍慰安婦の存在

――「従軍慰安婦」の存在など目のあたりにした光景は

猪熊 それから間もない1945年4月、満州の関東軍指揮下の第二航空軍第22
対空無線隊に転属。本隊は満州国の首都・新京(現在の長春)にありました。

 満州に来て最初の外出日のことでした。「突撃一番」(コンドーム)をも
たないと外出できないというのです。僕は「慰安婦のところに行かないと立
派な軍人にはなれないということですか」と言いました。すると「女も買え
ない奴に敵が殺されるか」と殴るけるの暴行を受け、血まみれになり、結局
外出禁止でした。

 内務班のすべての部屋の柱には、ノートがぶら下げてあり、慰安所の慰安
婦の源氏名が書かれ、何日に性病の検診を受けその結果が書いてありました。
日本ピーは将校を相手にする日本人慰安婦、鮮ピーは朝鮮人慰安婦で下士官
相手、満ピーは中国人の慰安婦で一般の兵隊が相手です。

だから従軍慰安婦に軍が関与していないなどと言う理屈はまったく通らない。
王道楽土だの五族協和だのは口先だけだという実態をこの目で見てしまったの
です。だんだん疑問がわいてきました。

――敗戦のシベリア抑留の体験を教えて下さい。

猪熊 8月15日の降伏を受け、現地で戦闘停止命令が出たのは8月17日でし
た。飛行場にいると、将校が「最後の一兵まで戦う」と言って飛行機に乗り
込み、上空を3回旋回し、われわれは下から帽子を振りました。すると飛行
機は、ソ連の方ではなく、日本の方向へ向かって飛び去ったのです。(こり
ゃ、ダメだ)つくづく思いました。

兵舎内では、撃ち合いが始まりました。「俺の仲間をリンチし自殺に追い
やったのをどうしてくれる」と古参兵に銃を向けるなどの事態が起きたので
す。また、自決した古参下士官たちの死体を中庭に運びガソリンをかけて焼
いていました。

 結局、17歳の誕生日に僕はソ連に抑留されました。
政府も総司令部、大本営も、国体護持(天皇制護持)だけのために、兵士や
居留民を捕虜として差し出してもかまわないという態度でした。それを知った
スターリンは8月23日、捕虜をソ連に移送し働かせることを指令しました。日
本政府は、まさに「棄兵」と「棄民」を行ったのです。60万の関東軍兵士が
「拉致」され、6万の兵士が、零下30度の異国の土となりました。

◎職場転々とする生活


私は47年12月に生きて帰れましたが中学に戻ろうとしても、戦中は「バンザ
イ、バンザイ」と少年兵を送り出した校長に「中学4年の修了証書をやるから
他にいってくれ」と言われました。特攻崩れや少年兵崩れは排除されていた
のです。

おまけに、シベリア帰りだと「アカ」と言われて排除され、ガスや水道の配
管をやりながら、13か所の職場を転々とし、8回解雇されました。
少年兵であったことを隠してきた人が多いです。(強制だった)学徒出陣の
場合とちがって自分の場合は志願し、侵略戦争の片棒を担いだということは、
自分の青春を否定することになるのです。

 しかし自分にできるのは戦場体験を語り続けることだと思うようになりま」
した。そういう兵士の怒り、苦しみ、怨み、苦悩を伝えたいのです。それが私
の使命だと思います。


○あゆみ○

いのくま とくろう 1928年東京生まれ。旧制中学三年時に陸軍特別幹部候
補生の第一期生に。45年4月満州へ転属。敗戦後はソ連の捕虜になりシベリ
ア抑留、47年12月帰国。ガス配管や水道配管などの仕事に従事。朝鮮戦争中
は「戦争反対」で占領政策違反で逮捕される。67歳で不戦兵士市民の会に入
会し、戦場体験を語り継ぐ活動に参加。現在同会代表理事、わだつみ会常任
理事などを務めている。


ーメモー

戦場体験放映保存の会
「無色・無名・無償」の三原則のもとに2004年に創立された団体で、猪熊得
郎さんが幹事を務める。戦場体験を語り継ぎ、受け継ぐさまざまな団体があ
るなかで、同会は元兵士の証言をビデオ撮影し、その映像を資料館に保存す
ることを当初から主眼に置いている。もちろん活字資料や遺品も収集する。

(2009年8月19日社会新報)


『少年兵』そしてシベリア
      二つのインタビュー ②

  私は15歳で少年兵を志願した
猪熊 得郎さん(不戦兵士・市民の会代表理事)
     =(このひとに インタビュー)=
(聞き手=河崎俊夫)
(2008年8月15ビスト第52号全労済たばこ共済機関誌)
 

軍人は国を護る。国民は守らない。
 『少年兵の無念』を私は語る。
 戦争の本質は変わらない。

――少年兵は非常に大勢いたんですね。

猪熊 約42万人です。私が調べた数字で、間違いありません。特攻の主力は少
年兵です。『少年兵』というのは徴兵適齢期以前で、14歳から19歳までを対象
にした志願兵です。

 海軍飛行予科練習生(予科練)、海軍特別年少兵、海軍特別練習生、陸軍少
年通信兵、陸軍少年飛行兵、陸軍少年戦車兵、陸軍少年工科兵、陸軍少年野砲
兵、陸軍少年重砲兵、陸軍少年高射砲兵、陸軍特別幹部候補生(特幹)などが
ありました。少年兵は将校にはなれません。『兵隊』のままで終わる志願兵で
す。

 当時、陸軍士官学校、陸軍幼年学校、海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経
理学校がありましたが、これらは帝国陸海軍の中堅幹部将校・職業軍人を養
成する学校なので『少年兵』に入れておりません。

――学徒兵は13万人

猪熊  私はいわゆる「学徒出陣」(注1)学徒兵と違って、兵隊になりた
くて陸軍特別幹部候補生へ志願して入り、対空無線隊員になりました。

 1928年生まれで、小学生の時から『ボクハ グンジン ダイスキヨ』とい
う学校教育を受けて、大日本帝国は天皇を中心にした神の国で、その天皇を
中心にした『八紘一宇』(注2)の『大東亜共栄圏建設』(注3)『鬼畜米
英のアジア支配から脱却』という当時の教育を心底から正しいと信じていた
のです。それが全部ウソで騙された。私はそれが悔しい。無念でたまらない。

 そこが学徒兵と異なるところです。学徒兵は自分の進路を決めたり、徴兵
免除があるので大学へ入った人も多い。だから学徒出陣となったとき、反戦
意識が明確でなくても、軍や政府には批判力も、厭戦の気分もあった。少年
兵は違います。命を天皇と国に捧げると、一途に思い込んでいました。

――志願なさったのは、中学3年生、15歳のときですね。

母は私が中学一年のときに亡くなっていました。長兄は、招集され、南方を
転戦していました。次兄は学徒出陣で鉾田飛行場で軽爆撃機や特攻機の整備
をしていました。三兄は予科練に入隊していました。残ったただ一人の男が
私です。ほかには姉がいるだけです。

 「玉砕(注4)が続いている。日本の戦局は悪い」だから志願したいと言
ったら、父は猛反対でした。3日間、非常に激しい議論をしました。私は父と
口をきかなくなり、飯も食べなくなりました、4日目、父はついに、「征きな
さい」と言いました。そのときのがっくりと肩を落とした父の姿は、忘れられ
ません。私は「やったーっ」と意気軒昂でした。

 親の反対は私の父だけではありません。入隊してからかなりの大勢が、志
願に反対する親の目をかすめ『保護者の印を自分で押して入隊していまし
た。』

――入隊したら…。

猪熊 リンチです。罵倒され、殴られ、蹴飛ばされるのは普通です。航空隊
なので『急降下爆撃』というのもありました。長机の上に逆立ちさせられるん
です。真っ逆さまに落ちます。だから『急降下爆撃』。帯革(たいかく)ビン
タ。これは革のベルトで殴ること。同期同士お向き合わせてお互いにビンタを
張らせるのもありました。力を抜いたら大変です。

 そういうことをされると私たちは「天皇の大御心(おおみこころ)を途中
でねじ曲げている奴がいる。俺は偉くなってそういう奴をやっつける」と考
えました。歳が上の応召兵は別だったようですが、私たち少年兵はそうでし
た。

――水戸東飛行場で…。

猪熊 まさに『雲霞(うんか)の如き』米機に機銃掃射。爆弾を受けて180人
死にました。腕や足が電線にぶら下がっていたり、飛んだ首から脳みそが出て
いたり、その顔から目玉がだらりと飛び出したり…。そのとき初めて戦争のほ
んとうの姿を見たと思います。無惨です。


――そのあと、当時の「満州」へ転属になったんですね。

猪熊 新京(現・長春)へ行きました。古兵の多い関東軍のリンチは内地よ
りもひどいものでした。「お前たちを殴っても、まだ下士官でないから、上
官暴行罪にならないんだ」と激しくやられました。

 私たちは満州に『五族共和』の『王道楽土』(注5)が実現していると
思っていました。とんでもないことで、私たちは一度、武装して中国人部落
へ入りましたが、子どもたちからさえ石を投げられましたが、怖かったです。

――敗戦の頃のお話しを…。

猪熊 「ザバイカル方面のソ連戦車を撃退する」という高級将校を乗せた飛
行機をみんなで帽子を振って見送ったら、飛行機は旋回して日本へ逃げてい
ってしまいました。

 混乱で収拾がつかなくなって部隊長は「自分の身は自分で処せ」と命令し
ました。半分くらい脱走しましたが、ソ連軍やゲリラや中国人に襲撃されて、
大半が帰ってきました。帰ってこない人もいました。それで部隊長は、「一
丸となって帰り、祖国再建につくす」とまた命令しました。

――そしてソ連の捕虜に…。

猪熊 そうです。食料がありません。食料を糧秣倉庫から盗んでくるのです。
「若い少年兵は先頭に立ってやれ」…。

 それからシベリアのシワキ収容所へ連れていかれました。伐採した材木を
貨車に積み込む仕事でした。零下40度。最初の冬に大勢死にました。シベリ
アの平均は10人に一人死んだと言われていますが、シワキでは6人に一人死
にました。

 食料は軍単位に来ます。軍には階級が生きていて、まず、将校が飯盒一杯、
下士官が飯盒半分、古参兵が4分、兵隊は飯盒の蓋に僅かです。寒さ、栄養失
調病気、絶望で死にました。衣類も兵隊にはボロだけです。死んだのは兵隊だ
けです。

私は父に不幸をした。どんなことがあっても帰国して親孝行をしたい…その気
持ちが私の生きる力になりました。

 隣の戦友が下痢をすると嬉しいんです。「ヤツの飯が食える」。死体が屋外
に並ぶと、翌朝までにはパンツもない丸裸です。衣服は日本人が奪って、パン
やスープと取り換えるんです。

 それで「階級章をとれ」という民主化運動が起こりました。準備も秘密で必
死です。成功したんですが、ソ連軍に弾圧されました。しかし何度もやって成
功させました。後の民主化運動は『スターリン万歳』ですが初期の民主化運動
は、もしこれがなかったら、もっと多くの人が死んでいたと思います。

――帰国は…。

猪熊 19歳でした。ナホトカには浜辺があります。列車で着くとみんな海辺
に駆け出します。海へ手を突っ込みます。「この海は祖国へ続いている」…。

 品川で長兄と会って兄の家へ行きました。父は事故死で仏壇の中でした。す
ぐ上の兄は特攻で戦死、18歳でした。

 私は復学して勉強をしたかった。学校へ行ったら「万歳万歳」で送り出した
担任が校長をしていました。私は邪魔なんでしょうね。「君は中学3年で軍隊
へ行ったが4年修了の卒業免状を出す。もう学校へ来るな」。

 私は、シベリア帰りの要注意人物にされ、学歴もない…でも飯を食わなけれ
ばいけない…水道衛生工、電気工、自動車修理工、ガス配管工…転々としまし
た。みんな中小零細企業です。

 1949年に私はガス配管工でした。そのとき会社の事務所に働いていた妻
と会いまして1951年に結婚しました。どこへ勤めてもすぐクビになるので
妻には、ほんとうに、大変な苦労をかけました。

 私は戦中・戦後のことは話したくないと思っていました。しかし65,6歳
頃から、こういうことはどこかに残しておかなければいけないと思い、語り始
めました。

 いま自衛隊にも「少年自衛官」ともいうべき陸・海・空の「自衛隊生徒」と
いうのがあります。これは中学卒業者を対象にした制度です。入隊と同時に高
等学校の単位取得と自衛隊の生徒教育課程3年の勉強をして卒業になります。

 私は若い人に考えてほしいと思います。戦争を始めるとき、国の指導者は決
して、人を殺して他国を占領する悪いことだとは言いません。いいこと…いま
は「自由、人道のため」と言っています。

 しかし、殺し合いであるという戦争の本質は変わりません。戦争はボタンを
押すだけでもありません。

 軍人は国を護る武力集団であって、国民を守るものではありません。

――ありがとうございました・

言葉の解説

(注1)学徒出陣

学徒出陣とは1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍
する20歳以上の文化系(および農学部農業経済学かなどの一部の理系学部の)
学生を在学途中で徴兵し出生させたことである。

兵役法などの規程により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学
生は26歳まで徴兵を猶予されていた。
しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。

1941年10月、大学、専門学校などの修業年限を1ヶ月短縮することを定め同年
の卒業生を対象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌1942年2月に入隊
させた。さらに1942年には、予科と高等学校も対象として6ヶ月間短縮し、9月
卒業。10月入隊の措置をとった。

そして、さらなる戦局悪化により下級将校の不足も顕著になったため翌1943年
10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を
公布した。

これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期
措置を撤廃するものである[3]。この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時
徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40号)が定められ、同年10月と11月に徴兵
検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させること
とした。

この第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場
では文部省主催による出陣学徒壮行会が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相ら
の出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。

なお、1943年10月には教育に関する戦時非常措置方策が閣議決定され、文科
系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例な
ども定められた。さらに翌1944年(昭和19年)10月には徴兵適齢が20歳から
19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。

1943年の徴兵対象者拡大の際、学徒出陣の対象となったのは主に帝国大学令
及び大学令による大学(旧制大学)・高等学校令による高等学校(旧制高等
学校)・専門学校令による専門学校(旧制専門学校)などの高等教育機関に
在籍する文科系学生であった。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、
徴兵検査を受け入隊した。

これに対して理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶
予が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。ただし、農学
部の一部学科(農業経済学科など)は「文系」とみなされて徴兵対象とな
った[4]。しかし、末期には医学部をのぞく理系学生も徴兵された。

また、教員養成系大学(師範大学)の理系学科(数学、理科)に在籍する
者も猶予の制度が継続された。
 明治神宮外苑、国立競技場近くに『出陣学徒壮行の地』の碑がある
         碑 文

昭和十八年十月二日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国
の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。
この非常措置により同年十二月、約十万の学徒がペンを捨てて剣を執り、
戦場へ赴くことになった。世に言う「学徒出陣」である。

全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年十月二十一日、ここ元・
明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺七十七校が
参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。

折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋め尽くした
後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動
に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってその実況を報道した。

翌十九年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子およ
び女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶
えた。

時流れて半世紀。今、学徒出陣五十周年を迎えるに当たり、学業半ばに
して陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我
ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若
き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。

(注2)八紘一宇

八紘一宇(はっこういちう)とは、本来は「人類皆兄弟/人間皆家族」
の考えから「世界は一つの家である」という意味の語だが、戦前、日本
の軍部に「日本を中心に、人類を統合すること」の意味に便用され、戦
争遂行スローガンとなった。

1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱を策
定、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。基本国策要綱の根本方針で、
「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招
来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根
幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことであると定められた。

八紘一宇の説明として、三省堂の大辞林では、「第二次大戦中、日本の
海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、としている。

また、世界大百科事典では、「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・
併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・
正統化する思想・運動である超国家主義の典型」と説明されている。

(注3)大東亜共栄圏

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、欧米諸国(特にイ
ギリス・アメリカ)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、
東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を
建設しようという、大東亜
戦争(太平洋戦争・十五年戦争)において日本が掲げたスローガンである。

大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)[ 日本大百科全書(小学館)]
中国や東南アジア諸国を欧米帝国主義国の支配から解放し、日本を盟主に共
存共栄の広域経済圏をつくりあげるという主張。太平洋戦争期に日本の対ア
ジア侵略戦争を合理化するために唱えられたスローガンである。

(注4)玉砕

玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争(大東亜戦争)において、外地で日本軍
守備
隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用いられた語である。

明治維新の頃、藩閥政府が天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようになったが、
それによって天皇のイメージに威厳や崇高さ、潔さなどが付け加えられると
いう効果があった。そのため明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く
死ぬことです」というイメージが生まれた。

1886年発表の軍歌「敵は幾萬」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)にも

敗れて逃ぐるは國の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて殘るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず

と歌われている。

玉砕といっても、全員が死亡した例はきわめて少ない。部隊としての降伏は
希だったが、投降した兵や重傷捕虜が必ず発生している。投降を試みた兵士
が相手側(米軍)に射殺された例もいくつか指摘されている。

「玉砕」の始まり
第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列
島アッツ島の日本軍守備隊約2,600名が全滅した時である。「全滅」という
言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに清く砕け散った”と
印象付けようと、大本営によって生み出された、ただしこの時も、実際には
全員が死に絶えた訳ではなく、守備隊2650人のうち、29人が捕虜になって
いる。

大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵
よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対
し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻
撃を敢行せり。爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にし
て攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。

主な玉砕戦
1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕
1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕
1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕
1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕
1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕
1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
1944年8月11日:グァム守備隊玉砕
1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕
1944年9月13日:騰越守備隊玉砕
1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕
1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了)

本土決戦と一億玉砕
大戦後期、連合国軍が日本本土に迫ると、軍部は「本土決戦」の準備を開始
するとともに、「一億国民[3]の全てが軍民一体となって玉砕する事で連合
国軍は恐怖を感じて撤退するだろうし、たとえ全滅したとしても日本民族の
美名は永遠に歴史に残るだろう」と主張し国民の士気を鼓舞し総力戦体制の
維持を試みたが、1945年8月に入ると原子爆弾の投下やソ連対日参戦など、
軍部の思惑を裏切る事態が次々に発生し、遂に日本はポツダム宣言を受諾し
て降伏(玉音放送)をしたため、本土決戦は行われることは無かった。

(注5)五族共和・王道楽土

満州国は、1932年から1945年の間、満州(南満洲:現在の中国東北部)に
存在した、事実上日本の傀儡政権、つまり実質的な植民地とされている国家
である愛新覚羅溥儀満洲国皇帝は国家理念として、満州民族と漢民族、モン
ゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国
に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古
人)を掲げた国民国家であることを宣言した。

王道楽土(おうどうらくど)は、1932年、満州国建国の際の理念。 アジア
的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統
治(王道)で造るという意味が込められている。

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