2010年3月22日月曜日

(1)戦場体験・元兵士の一人として

戦場体験・元兵士というのはみんな80歳を過ぎた「高齢者」である。
最近は、「後期高齢者」と言う用語が使われ、用のない年寄りは、
医療にしても、福祉にしても税金の無駄遣いだから早く死んでくれと
せき立てられている。

御祖父さん・御爺さん(おじいさん)と言う言葉がある。広辞苑では、
①祖父を敬っていう語、
②男の老人を敬い、また親しんでいう語とある。

一方「じじい」という言葉がある。
「じじ」とは
①父母の父親
②老年の男子の称、
おきな。老人。じい。の事である。
そして「じじい」と言う言葉は、
「じじ」をののしっていう語のことである。

「じじい」というのは、露骨だから、
その前後に「お」と「さん」を着ける使い方も、
「後期高齢者」と同じようなニュアンスで使われ出したりしている
ような気もしてならない。やはり年よりの「ひがみ」なのだろうか。

「戦場体験放映保存の会」の「聞き取り対象」は、戦場体験をした、
元兵士である。

「戦場体験」とは、どういう事なのか、「戦場体験をした、元兵士」
とは、どういう人たちか、改めて考えてみることも必要なのではない
だろうか。

「戦場体験とは何か」については改めて書くつもりだが、ここでは、
戦場体験・元兵士の一人としての,私の事を少し書いてみることにする。


① 杖をつき老老介護

 映画「語らずに死ねるか」の冒頭、人間魚雷回天基地の調整場
(回天整備工場)から、「魚雷発射場」へのトンネルをコツコツと
杖をついて歩く「元兵士」が現れる。これが私である。DVDの表
紙も、ポスターも、何故か、杖をついた私をモチーフにしたデザイン
である。右奧の写真は、回天特攻隊白龍隊の出撃直前のもので、
前列左から2番目が当時18歳の私の兄である。

こうなった以上、わたし自身のことも書く必要があるのだろう。

杖をついているのは、「戦傷」などとは縁もゆかりもない。
「平衡感覚失調症」と言うことなのだ。

息子二人はもう既に40代、別居している。妻は「特別養護老人施設」で、
私は、「独居老人」暮らしで、週2日ヘルパーさんが来てくれる。

9年前餅がのどにつかえて救急車で運ばれた妻は、2分間程の呼吸停止の
状況の影響で、一命は取り留めたが脳梗塞歩行困難となってしまった。
当初は自宅介護、いわゆる「老老介護」である。

身心とも疲労困憊の時「健康診断」に行った。病院は、黴菌の巣窟である。
右耳から悪質ウイルスの侵入、10日後には、「ラムズハント症候群」
「髄膜炎の疑い」とやらで、妻を残して緊急入院。

2ヶ月で退院したが、「平衡感覚」が正常に戻らず、気圧の変動に弱い。
晴天続きの時は何ともないが、雨の日、低気圧の接近や不連続線の通過等
の前は、頭痛、めまい、身体のふらつき等が現れる。屋外では、どんなに
近くでも「杖」が手放せない。

私の退院と入れ違いに妻が入院した。
しかし病院で老人は、4ヶ月以上置いておかない。「医療点数」が下がり、
病院経営が悪化する。入退院を繰り返したあげく、「療養病棟」のある病院
に移った。
施設は整って環境も良いが、1ヶ月22万円。とてもたまらない。

4ヶ月で空きのある「老人保健施設」を探し当てた。
しかし、「老人保健施設」は、自宅介護が出来るようにリハビリ、訓練の
施設である。4ヶ月以上同一施設に滞留できない建前になっている。
入所した翌日から次の施設探しである。

「ケアマネージャー」の自宅介護に戻れるまで、回復するのは無理だ。老人
ホームに入れることを考えなさいの助言に、金婚式まで苦楽を共にした妻と
別れた生活を覚悟した。

とは言っても「有料老人ホーム」は、入居金1千万、入居費1ヶ月25万円
などが普通だ。とても無理だ。
6ヵ所の「特別養護老人ホーム」に申し込んだ。どこも順番待ち4年は待た
なければならない。
幸い「老健」から今の「特養」に移って、4年になる。毎月約7万円が入所
経費だ。

② なんとしても長生きをしたい

猛烈な腹痛に襲われた。7転8倒、いろいろ検査した結果「総胆管結石の
疑い」と言うことだ。要するに肝臓から十二指腸に流れる胆汁が結石して、
管が詰まっていると言うことだ。

未だ10年は、呆けずに戦場体験を語り続けるつもりだ。そのために、体力
のあるうちに、早い時期に入院して、「処置」をするつもりだ。十数年欠か
したことのない今年の兄たち「回天戦没者追悼式」は欠席することにした。

ここ数ヶ月で友人、知人、戦友等せいたしかった昔からの仲間が5人も死ん
でしまった。
そんなことが時折思い出すせいか、いつ何が起こるかなど考えるようなこと
もある。
会合などで会った親しい人などには、帰りに際必ず声をかけるようにしてい
る。もう会えないということもあるからだ。

最近こんな事があった。会議とぶつかったのでヘルパーさんの来る日を
キャンセルした。ところがヘルパーセンターが日を間違えてしまった。
ヘルパーさんが来て、玄関が閉まったままベルを鳴らしても返事がない。
玄関と家の中の豆電球がついている。「斃れているのか」。驚いたヘル
パーさんは、「センター」と「大家」さんに連絡した。大家さんが合い鍵を
持って飛んできた。家にはいって、「留守」だと分かり安堵したが、一時大
騒ぎとなった。

センターは私の携帯を鳴らした。生憎電車の「車内」だった。五回程鳴らし
たが出ない。長男の職場に連絡した。長男からの携帯がかかってきた。幸い
丁度、電車を降りホームに出た所であった。そこで、私の「無事」が確認さ
れ一見落着したひと幕であった。

③ 学徒出陣と少年兵

11日から13日の昨日まで寝込んでしまった。
10日に少し熱があったが無理をしたためだ。11月の明治大学学園祭の
企画で、「学徒出陣」前後の学生や青年たちの体験ビデを収録をするのだ。
学生たちにどうしても語り遺したい。体験者の責務だ。少〃の発熱は我慢し
た。

依頼のあった「わだつみ」会から2名の出演である。、学徒出陣で特攻隊出
撃直前に敗戦を迎えた、わだつみ会会長と元少年兵の私である。

私のインタビューは次のように始まった。
「猪熊さんは今の大学生と同じ年代、18歳・19歳の頃、何処で何をして
いたのでしょうか。?」

「私は、18歳の時には、シベリアで零下三十度の酷寒、一日300グラム
の黒パンのひもじさ、森林の伐採、製材、貨車積み込みの重労働で日本軍兵士
の10人に一人が死ぬ捕虜生活を送っていました。」

「どうしてそんなことになったのでしょうか。」
「私は、15歳で少年兵になりました。今でいうと高校1年入学の時です。
少年兵とは14歳から19歳まで、徴兵前の少年たちを短期間の教育訓練で
第一線に送り出すという制度です。

太平洋戦争までは2万5千人、約70%が戦死しています。
1941年12月のアメリカ・イギリスなどに宣戦布告した以後で40万を
超える少年が戦場に赴きました。

一口に40万といいますがどんな規模でしょうか。1年から3年まで合計
500名の中学校があります。これが800校の生徒全員が戦場に駆り出され
たのです。この明治大学なら学生数2万人、20校ぶんです。

学徒出陣で徴兵適齢期の若者を根こそぎ戦場に駆り出しました。そして次に
少年を大量に駆り出したのです。特に1943年12月の学徒出陣の後が
ヒドイ。当時の旧制中学4年・5年です。今の高校1・2年の年代ですね。
少年兵でない者は授業を止めて軍需工場で軍事物資の生産です。
(付け加えるならば、農村では口減らし、14歳から志願する海軍特別年少兵、
あるいは満蒙開拓団青少年義勇軍です。)

ですから私は、1926年頃から1929年頃の世代を「少年兵・学徒動員世代」
とよんでいます。

学徒出陣と少年兵は一連のものです。若者たちを消耗品として戦場に送り出す一
貫した軍部の政策だったのです。………」



④ 兄と弟二人の少年兵
           猪熊 得郎
一九四三年冬
二つ上の兄は
「国難ここにみる」と『元寇』を歌って
「予科練」を志願した。
十五歳の弟も
必死で父を説得した。

アッツもタラワも
そしてマキンも
みんな玉砕だ。
今行かなければ
大変なことになる。
「特幹」を志願する。

「日の丸」の金縁の額と
白馬に跨った「大元帥陛下」の写真が
父と子を見下ろしていた。
四日後、とうとう父は諦めた。
「行きなさい
でも、生命(いのち)は大切にな」。

一九四四年夏
日の丸に育てられ
日の丸に鍛えられた兄と弟は
水戸陸軍航空通信学校の営門で
最後の別れをした。

陸軍特別幹部候補生
 陸軍一等兵の弟は
 十五歳十一ヶ月
 海軍飛行予科練習生
 海軍飛行兵長の兄は
 十八歳五ヶ月

 二人の父は
 いつまでも敬礼し見つめ合う息子たちを
 黙ってじっと見つめていた。
 日の丸に育てられ
 日の丸に鍛えられた息子たちと
 父はもう会うことが出来なかった。

 兄は数日後
 土浦海軍航空隊から特攻隊員として
 瀬戸内海大津島(おおづしま)の
 人間魚雷「回天」基地に
 旅だって行った。

 一九四五年早春
 兄は沖縄に向かった。
 回天特攻隊を乗せた輸送艦は
 待ちかまえた
 アメリカ潜水艦の雷撃で沈没
 回天もろとも、全員戦死した。

一九四五年夏
弟は旧満州公主嶺飛行場で敗戦を迎えた。
日の丸と君が代の下
死ぬことを教えた
高級将校たちは
いち早く日本へ飛び去った。

脱走、略奪、殺し合い、
混乱の中で戦友は
天皇のため、祖国再建のため
歩いて日本に帰るのだ、
そう言って飛行場を離れた
彼らは未だ還っていない。


天皇の兵士たちは
シベリアへ送られ
飢えと寒さと重労働に
次々と倒れ
六万人が零下三〇度の異国に葬られ
祖国の土を踏むことがなかった。

皇居遙拝
将校を父と思え
下士官を兄と思え
天皇のため苦しみに耐えよ
今日も戦友が死んだ。
「みそ汁が飲みたい。お母さん。」

一九四七年冬
弟は祖国の土を踏んだ。
故郷は東京大空襲で跡形もなく
水戸で別れた父も兄ももういなかった。

そして言われた。
 「シベリア帰りとは言うなよ」

  生きるため国土復興のため
  一生懸命働いた弟が
  やがてお年寄りと呼ばれる頃
  高齢者が多いから国が貧しい
  福祉・医療費の切り下げ切り捨て。
 「老人は 死んで下さい 国のため」

  日の丸・君が代が
  我がもの顔に嘯(うそぶ)いている。
 日の丸・君が代に育てられた君たちよ
  日の丸・君が代のため今度こそ死んだら
  どうだ。
  初心忘れるな。
  それが愛国心。

  冗談じゃあない
  日の丸・君が代に育てられ
  日の丸・君が代で鍛えられ
  地獄の入り口を
  這いまわった俺たち。

  そう簡単に死んでたまるか。
  俺たちは侵略戦争に
  青春を捧げた生証人。
  生きること、語ること、
  それが、それこそが
  日の丸・君が代押しつけとの
  俺達の闘いだ。

  (2000年2月 ~「不戦誌」№121号より)

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