2010年3月8日月曜日

兄猪熊房蔵と白龍隊の出撃

    

1945年3月13日、今から65年前、人間魚雷回天特攻隊白龍隊員として、私の兄房蔵が沖縄へ向け山口県光基地を出撃をした日であります。

その1週間後、回天8基、回天搭乗員7名、基地要員120名乗組員225名を載せた第18号輸送艦はアメリカ潜水艦の雷撃で船没、18歳の兄も戦死しました。

しかし兄の正確な戦死日も、戦没地点も未だに分かっていません。白龍隊のめざした沖縄基地も場所不明のままなのです。

「特攻隊」とか、「人間魚雷回天」とか、「英霊・烈士」と騒ぎ立てますが、用済み廃棄の「特攻隊」の消息など、元軍部も政府も関心はないのでしょう。

私は、毎年、沖縄を訪れ、兄と白龍隊の消息を追い続けています。


    『 兄房蔵出撃の記録 』         
                第一回天隊白龍隊猪熊房蔵弟                                          
                        猪熊 得郎 

        「予科練・別れ」  

 私の二歳上の兄房蔵は昭和十八年十二月、海軍甲種飛行予科練習生(予科練)第十三期生として三重海軍航空隊に入隊しました。兄は、送別会で「元寇」を歌いました。蒙古軍襲来に民族挙げて戦おうという歌で、「国難ここにみる」と歌った兄の歌声は、今でも私の耳に残っています。

 当時の少年たちは、米軍の反攻、戦局の悪化に今戦場に行かなければ日本は大変なことになる。家族のため、故郷のため、祖国のため、自分の生涯を捧げようと真剣に考え、親たちの反対を押し切って少年兵を志願したのでした。

 兄が予科練を志願した四ヶ月後、私は陸軍の特別幹部候補生(特幹)を志願しました。

 昭和十九年八月二十七日のことです。水戸の陸軍航空通信学校に、突然、父と兄が面会にきました。十九年三月、三重航空隊から転隊した土浦航空隊で「回天」搭乗員を志願した兄は、「回天」基地への移動を前にして、たまたま、土浦を訪れた父と外出を許されました。

私も特別外出を許され、営外の食堂で親子三人、語り合いました。あまりの嬉しさに時のたつのを忘れました。やがて兄は財布を取り出し、有り金全部はたいて、「おいこれ使えよ」と渡されたお札が、当時のお金で五円ありました。言外に別れを告げたのでしょう。

 営門の前で、別れの時がきました。
 海軍飛行予科練習生海軍飛行兵長の兄房蔵は、肘を前に出す海軍の敬礼で、陸軍特別幹部候補生陸軍1等兵の私は肘を横に張る陸軍の敬礼で、お互いを見つめ別れを惜しみました。兄が十八歳五ヶ月。弟が十五歳十一ヶ月でした。

 かたはらで、父は黙って二人の息子たちの別れを見つめていました。どんな思いだったのでしょうか。


       「回天搭乗員募集」

兄はその数日後土浦航空隊を後にしました。
 回天特攻隊志願と、予科練卒業、出発の模様を第七回天隊23突撃隊で高知県浦戸で出撃待機した菊池清吾さんは私書版「人間魚雷回天昭和之若者たち」にこう書いています。

「待望の卒業式も間近に迫った八月下旬、課業始めの時間に突然スピーカーが入り、聞き慣れない声が流れた。『十三期生、総員直ちに格納庫に集合せよ!』

全員集合の指令であったが、操縦分隊は除外されていた。
 土浦航空隊司令渡辺大佐が話し出した。

 『彼我の物量の差は理解し難い程、多大であり諸子の先輩搭乗員達の勇戦奮闘にもかかわらず、その損失は増大し、強大な国力を誇る米国の軍事力は、さらに増強されつつある。

 今ここに、総力挙げての反撃は、まさに焦眉の急である。この秋(とき)、諸子の卒業を迎える事は、全国民の大きな喜びであり、全軍の、諸子に対する期待は絶大なものがある。

 時を同じくして、退勢を一挙に挽回せんとする新兵器が登場した。今こそ、驕れる米軍に対して、一大反撃の好機が到来した。忠君愛国に燃える若く強靱な諸子の中からその搭乗員を募る。この新兵器は飛行機ではない。又、生還は期し難い。選抜された隊員は直ちに訓練に入り、同期の先陣を切り、三ヶ月ないし、六ヶ月後には戦闘に参加する。

 後刻、用紙を配るから、分隊名、班名を書き、
 一、乗員を希望するものは二重丸。
 二、命令に従うものは一重丸。
 三、飛行機以外は希望しないものは白紙。
 以上、良く考えて、後刻分隊長に提出する事。』

 人生、一生のうち。二度とはないと思われる決断の秋(とき)は、まさに今なのだ。予科練を志願した時の決断とは天と地・ほどの違いがある。

入隊するまでは『死』と云うものはあまり身近には感じられず、軍人なら当然戦死もあり得るが、それよりもまだ華やかな海軍航空士官、とか将来の栄達の方が、夢多い少年達の心の中に占める割合は遙かに大きい。

 それが一気に、戦地も靖国神社も、目の前に迫っているのだ。
しかも、本来 我々が乗るべき航空機にあらずして〝特殊兵器〟とは …
あまりにも重大、あまりにも短兵急。肌に粟が生じ、戦慄が全身を走る。頭の中は、火のついたように燃え立っている。飛行機乗りの夢はもう目の前だと思っていたのに。

同じ死ぬなら華やかに大空で散りたい。通信も航空術も 何の為に今まで頑張ってきたのか!

〝必死必殺〟の新兵器とはいったい何なのだ! 飛行機では無くても、必ず敵を倒せるのか! 想いは千々に乱れ胸はただ高鳴る。

 混乱の極の頭に、ふと 故郷の山河と父母たちの事が浮かんだ。と、思った途端全身を襲う身震いと 共に決断出来た。(これでもう、故郷ともさらばだ、…父や母にも逢えないな…)と、思ったが、次の瞬間、迷わず用紙に書き出した。おおきく、二重丸を書いたが頭の中はもう空っぽになっていた。

 土浦航空隊の甲十三期後期生は総員約四千名。 内、約半数の二千名が、偵察分隊員である。その中から選抜隊員は百名だった。

 この特殊兵器の搭乗員は、今後の戦局に大きな影響を及ぼすと思われるので、優秀な練習生の中から選ぶ必要あり、との要旨で、次の条件を選考の基準にしたとの事。

 一、身体強健で意思強固なる者。
 一、攻撃精神旺盛にして、責任感の強い者。
一、家族構成に後顧の憂い少なき者。

 従って、長男、一人息子は極力避けられた。
 尚、年齢は十七歳以上。船に強く、水泳不能者は除くとある。


 卒業式と、○○方面行き出発の日が来た。
 晴れた暑い日だった。選抜隊員百名だけが朝礼台前に整列し、司令官より卒業式の式辞と訓辞があり、簡素ながらも厳粛な式は終わる。

 その後、土浦航空隊の練習生全員が練兵場から隊門まで整列して見送る中を、四列縦隊で挙手の礼をしながら隊門に向かう同期生も後輩も見送る練習生全員が、″特攻隊員″の出発ということを知っている。

 各分隊共、自分の分隊の隊員が通ると、皆一斉に声をかけてくる。『〝おい″○○しっかり頼む!』『〝俺は選にもれたが後からきっと行くぞ!″』彼の顔、この顔、仲の良かった奴も、喧嘩した奴も、皆、顔中を口にして叫んでいる。

(ああ、もう彼らにも逢えなくなるな…)
 感傷が胸に迫るが、隊員は皆笑顔で飛び交う声にうなずきながら進む。
 往く者より送る方がより感傷的になるのか、中には涙を流しながら手を握ってくる者。

 いつしか整列も乱れ隊門まで来て一斉に(″帽振れ!)をして送ってくれた。」



        「第一回天隊・白龍隊」

 兄は最初に開設された回天基地大津島に着任した後、十九年十一月に、新しく開設された光基地に移動しました。そして十九年十二月半ばに第一回天隊(白龍隊)搭乗員八名のの編成が行われ、光と大津島をめまぐるしく移動し、基地から出撃する「回天」隊の先駆けとしての訓練を重ねていました。

「回天」とは全長一四・七五メートル重さ八・三トンの魚雷の頭部に一・五トンの爆薬を装填し、人間が操縦して敵艦に体当たりをする、文字通りの人間魚雷でした。

 「回天」はもともと潜水艦から出て行く兵器でしたが、大型潜水艦の消耗激しく、「回天」を搭載する潜水艦が少なくなりました。また戦場が本土周辺におよぶ戦局の急迫に、敵の上陸予想地点に近い海岸に「回天」を配備する「基地回天隊」が編成されることになったのです。

「回天」を格納庫に納めて秘匿して、その中で整備しながら敵部隊の近づくのを待ち、敵艦船が近づくや、陸上洞窟陣地から「回天」を発進して敵を撃滅する「回天隊」であります。

 「第一回天隊」通称「白龍隊」は沖縄向けて出発することになっていました。

 沖縄回天特攻部隊戦則案によれば第一回天隊は十八基の回天での編成が予定され、
 
 「回天戦闘の伝統は必死必殺大義に殉ずるに在り
 基地における隠密秘匿を厳重にし敵艦隊又は輸送船団入泊前後昼夜を問はず攻撃撃滅するを最上とす

回天の襲撃は隠密肉弾強襲により必死必中克く大艦を轟沈せしむるを以て生命とす」

とありました。

多聞隊366潜で出撃、八月十一日パラオ北方五〇浬で発進戦死した佐野元(はじめ)一等飛行兵曹は出撃日誌(まるろくだより第十号)の中で次のように書いていました。

「基礎訓練は二月十一日、紀元節の日をもって終了。その後出撃命令を待つのみであった。この間、白龍隊の赤近、伊東、猪熊等と親しく交際す。実に彼らは万人の範たる人物なりき。如何に航行艦襲撃を学び、習得し、来たるを待ち在りしや。」 

 出撃を前にした兄について、第五回天隊33突撃隊で宮崎県南郷栄松に戦闘配備され八月十五日を迎えた多賀谷虎雄さんは、私への手紙の中でこう書いています。

「名前から受ける感じとは全然異なり、一見貴公子然とした坊ちゃんタイプで、東京の出身だった。洗練された振舞いからは育ちの良さとでもいったものさえもうかがわれた。

 口数が少なく、つねに多くを語ろうとしなかったが、回天に関する研究問題になると、赤近兄らとしばしば激論を闘わせていたのを覚えている。

外柔内剛というのか、外見は温容ながら、その底には燃えたぎるような闘志を秘めている感じだったが、すでに死生を達観したもののごとく、私などが足許にも寄れないような、老成した心境をのぞかせて、思わずその顔を見直させるような場面が、ままあった。

『おれは字が下手だし、こうしたものは大の苦手なんだが……』
ー何か面はゆげに微笑みながら、私の乞いにまかせて、そっと掌(てのひら)の上にのせてくれたのが次の色紙である。

まだ童顔のぬけきらぬその面影は、澄徹(すみとお)った心境をほのぼのとたたえて、みじんの揺らぎも見せていなかった。悠々淡々としたその表情は、今も私の胸に生きて、何事かを語りかけて止まない。



       「遺詠」

  辞世 海軍二等飛行兵曹 猪熊房蔵

 益荒男の あと見む心 つぎつぎに
     うけつぎ来たりて 我もまた征く

十八歳の兄のもう一つの辞世が光突撃隊の遺墨集に書き残されていました。

海軍二等飛行兵曹 猪熊房蔵

身は一つ 千々に砕きて 醜(しこ)千人
       殺し殺すも なほあき足らじ


  
     沖縄へ出撃

 轟隊、多聞隊と二度出撃し、奇跡的に生きて帰ることの出来た石橋輝好さんは白龍隊の出撃の模様をこう語っていました。

「昭和二十年三月十三日白龍隊は第18号輸送艦乗船のため、大勢の基地隊員、整備員、勤務員たちの見送りの激励の中を庁舎前の広場から桟橋に向かいました。 

 出撃する白龍隊の隊列の先頭は、河合隊長をはじめとする回天搭乗員たちでした。隊長の河合中尉、予備学生出身の堀田少尉、新野・田中の二人の二等兵曹、そして予科練土浦航空隊出身の赤近・猪熊・伊東二等飛行兵曹の三隊員で、七人の搭乗員がいました。

 搭乗員たちは見送りの人たちの激励に応えて、手に持った桜の小枝を頭の上にかざして、振っていました。出撃の時、白龍隊搭乗員たちの持っていた、あの桜の小枝が印象深く、今でも鮮やかに思い出されます。」

光基地で軍医として勤務した田中重照さんも出撃の模様をこう描いています。(『回想軍医中尉島田昌』佐賀県昭和医専戸塚一期生会誌『海ゆかば』より)


 「 ある日、彼は、基地隊軍医長に『回天隊と一緒に沖縄方面への出撃命令』を伝達された。
 ……
突然、外から威勢のよい回天節が聞こえてきた。それは、明日出撃する回天特攻隊の壮行会が回天搭乗員宿舎(食堂)で行われていたからである。

      沖の白帆の揺らぐを見れば
        男心は湧きに湧く
       国の守りの太平洋に
         やがて枕めんこの命

 壮行会が終わった後、杯を交わしつつ夜の更けるのも忘れ、故郷のことなど、あれやこれや雑談に花を咲かせしゃべり通した。そして彼は。故郷の山河や、慈しみ育てて下さった父や母、愛する弟達の事などに想いを馳せながら床に就いたのであった。

 いよいよ出陣の朝が来た。基地隊内部はいつもと違った緊迫した空気が漲っていた。出撃者として回天搭乗員七名、他に整備員数名がおり、彼らはお互いに今日ある日を待っていたかのような顔付きをしていた。

その中には、未だあどけない童顔の予科練出身の搭乗員三名が混じっていた。果たして選ばれた彼らの胸中は、本当のところはどうだったのであろうか。

 別れの杯に紅潮した回天搭乗員の若武者どもは、菊水の旗印を真ん中に、七生報国と墨書された白鉢巻きも凛々しく、第三種軍装に身を固め、搭乗靴を履き、手には聯合艦隊司令長官から送られたという錦の袋に入っている短刀一降りを固く握りしめ、二列横隊に並んだ戦友の間を、しっかりとした足並みで大地を一歩一歩ふみしめながら、別れの挨拶が始まった。誰が手折ったのであろうか、彼岸桜がそっと無言のまま搭乗員に手渡される場面を散見した。

 『いろいろお世話になりました。お先に行きます』
 『しっかり頼むぞ』

 と朋友の一人一人と固い握手、互いに炎の様にぶつかり合う瞳は、血湧き肉躍る一瞬であった。送る者、送られる者、万感無量、無限の感慨と悲壮を感ぜずには居られなかったのである。

 やがて出撃一団は内火艇で、すぐ前に浮かんでいる第18号輸送艦に乗り移った。間もなく『出港用意』のラッパが若人の幸先を祈るかの様に一際高く鳴り響くと、錨は上がり艦は静かに動き始めた。

 『帽振れ』の号令と共に基地隊員の振り絞る声援に送られ乍ら、永遠に母国日本の土と別れていった。上甲板上にワイヤーで固定された回天の上に仁王立ちに立ち、抜刀して静かに軍刀を左右に打ち振るう搭乗員の姿が朝日に照り映えた海上にくっきりと浮かんでいた姿は非常に印象的であった。」

……
 それから間もなくして、島田君の戦死の報を受け愕然とした。すなわち島田君は、太田実海軍中将の率いる沖縄方面根拠地隊に配属せられていて、沖縄攻防戦の戦局が我に利あらず、昭和二十年六月十三日、全将兵と共に切り込みに参加して壮烈な戦死を遂げたのであった、」
(注島田中尉は、佐世保から隊と別れ、飛行機で沖縄に先行したと伝えられています。)


 米軍が沖縄に来襲する直前の昭和二十年三月十三日、陸上から発進する最初の部隊「第一回天隊」白竜隊は、山口県光基地を出撃しました。その頃、米機動部隊は既にウルシー泊地を出発し南西諸島に近づいていました。


          「交戦・戦没」

 回天八基、搭乗員七名、(最初八名で編成されたが、最後の訓練で一名が岸壁に衝突して重傷を負い七名となった)基地要員百二十名、輸送艦乗組員二百二十五名を載せた第18号一等輸送艦は途中佐世保に寄港した後、之の字運動を繰り返しながら沖縄本島に向かいました。

しかし到着を目前にした十八日未明、護衛艦怒和島、済州と分離した輸送艦は米国潜水艦スプリンガーと遭遇し、三度にわたって魚雷計八本の攻撃を受け四発が命中、一時間もの交戦の後、遂に午前四時那覇北西約六〇キロの粟国島近海で沈みました。

沈没地点は北緯二六度三九分、東経一二七度一三分、沖縄本島那覇市北西三三浬(粟国島北北西三・五浬《約五キロ》)でした。

 第一回天隊員、輸送艦乗組員の殆ど全員がこのとき戦死したと見られています。

しかし、「公報」では一部の隊員が沖縄本島を目指し、慶良間基地付近および本島の海軍司令部付近の陸上戦闘で戦死したとされ戦死日も異なっています。

 搭乗員は、三月十八日田中兵曹、伊東飛行兵曹沈没時戦死、二十四日猪熊飛行兵曹進出途次戦死、三十日堀田少尉進出途次戦死、同日河合中尉慶良間基地付近で戦死、六月十三日赤近飛行兵曹沖縄本島陸上戦闘で戦死、十四日新野兵曹陸上戦闘で戦死となっています。(飛行兵曹は予科練出身搭乗員)

 また、基地要員は、一名が進出途次、一名が輸送艦沈没時、五名が陸上戦闘で戦死とされています。その他百十三名の氏名が不明です。さらに準備されていた洞窟出撃基地の場所も未だにわかっていません。沖縄戦史のどれにも「白龍隊」のことは触れられていません。


     「粟国島」

 昨年(01年)六月、私は沖縄の那覇北西六十キロの粟国島を訪れました。45年6月9日、人口僅か九百・周囲一二粁の島を米艦が包囲し艦砲射撃、そして戦車を先頭に米軍四万が上陸。だから村に記録は何も残っていません。

 漁協が遊漁船一隻を出してくれました。6月の沖縄はもう三〇度を超え真夏の太陽が照り輝き空も碧く海も蒼い。船は粟国港から30分、第18号輸送艦沈没地点でエンジンを停めました。粟国島はすぐ前方にみえます。

 「海軍の兵隊さんなら島まで泳げます。だがここは水深1000米以上の海溝の入口、潮の流れも速い。3月はとりわけ西南久米島の方に向かってこの船の速度くらいの潮流(時速約12粁)波高3~5米の波、恐らくみんな流されたでしょう。

 やっと島に辿り着いたとしても断崖絶壁の岩場、疲れ切って荒波に引き戻されたのでは」。船長の話に涙が止めどなく溢れその時の情景が目に浮かんで来ます。波間を漂い、声を掛け励まし合いながら一人また一人と沈んで行く。兄は此処だったのだろうか。それとももっと離れた所では……。

 一八歳の兄は死を目前にして何を考えたのでしょうか。きっと故郷の事、家族の事を思い、故郷の歌、赤トンボの歌を歌いながら波間に隠れたのでしょう。

もっともっと生きたかったただろうに。花束が揺れて見えなくなりました。粟国島にうち寄せる波しぶきがきらきら輝いていました。遠くに久米島と渡名喜島が霞んでいました。

 私は兄の生きた証を探し求め、その思いを語り継ぐこと。それは兄と同じ時代を生き、そして平和の時代を生きることの出来た、遺された弟の生涯の仕事です。

 それが兄への何よりのはなむけと信じています。
        (02年2月記)


追記
 昨年、2009年6月、11度目の沖縄探訪を行いました。
 粟国島は3回目でした。
 第18号輸送艦の沈没は、これまで、回天元搭乗員による調査の米潜水艦 戦闘記録によるものでした。
 今回の調査で、粟国島島民数名が、黒煙を吹き、照明弾を上げ沈没する 輸送艦の状況を目撃したことが確 認されました。戦後64年ぶりです。
 
  粟国島行きは海上が荒れ、往きは連絡船、帰りは9人乗り飛行機の四時間の滞在でした。

 海から船での18号輸送艦沈没地点献花が出来ず、船長の自動車で、沈没地点に最も近い海岸に行きました。沈没地点は水平線から三分の一程手前、すごそばに見えます。

 七年前に遊漁船で私の献花を案内してくれた船長はこう語ってくれました。

「あの地点は海溝で水深千メートル、鯛の漁場です。私も良く漁をします。時々、エンジンの音か、呼び掛ける声が聞こえ、辺りを見回しても何も見えません。そんなことが何度かありました。

 七年前、あそこで献花をしました。それ以来、そのエンジンも声も聞こえなくなりました。『霊』が呼び掛けていたのでしょう。『献花』でみなさん落ち着いたのでしょうか。

あの地点は潮の流れが速く、島に近寄ることはとても無理でしょう。この海岸に向かって船を座礁させれば助かった人もいたでしょう。
 「献花の話を島の人たちに話しました。島の人たちの中で輸送艦の沈没をみた人が見つかりました。

 こへん一帯、島の西北部は誰も住んでいません。早朝牛の放牧にやってきた当時の青年、数人が見たのです。……」

 杖をついた私の介添えの「戦場体験放映保存の会」の若い婦人二人と、花束を捧げました。
 沈没地点はすぐ目の前です。空は何処までも青く澄んでいます。蒼い海に潮の流れがキラキラと光っています。

 光の中で、18歳の兄が、手を振っているようでした。
 ここで亡くなったの…。それとも大発艇でどこか他所で…。
 やがて兄の姿は見えなくなりました。

 兄と白龍隊の調査は、私の生きている限り続けられます。

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