2010年3月3日水曜日

『 国体護持と・棄兵・棄民 』ー天皇の軍隊は、国民を守らないー

1945年初め頃の日本側の対ソ判断は、「ソ連は本春中立条約の破棄を
通告する公算が相当大きいが、依然対日中立関係を維持するであろう……」
(2月22日最高戦争指導会議決定の世界情勢判断)ということでありまし
た。

1945年1月17日大本営に提出された関東軍の作戦計画及び訓令は次
のような趣旨のものでした。

 その地域で玉砕させる
 「あらかじめ兵力・資材を全満・北鮮に配置する。主な抵抗は国境地帯
で行いこのための兵力の重点はなるべく前方に置き、これらの部隊はその
地域内で玉砕させる。じ後満洲の広域と地形を利用してソ連軍の攻勢を阻
止し、やむを得なくなっても南満・北鮮にわたる山地を確保して抗戦し、
日本全般の戦争指導を有利にする。」

 4月25日大本営陸軍部策定の「世界情勢判断(案)でようやく、本年
初秋以降厳に警戒を要す」と判断し、大本営は、5月30日、関東軍の態
勢転換を認める形で「対ソ作戦準備」及び「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を
発令しました。
関東軍は7月5日、ようやく作戦計画を策定したのです。ソ連軍が侵攻し
てきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦に持ち込むと
いう戦術でありました。

 関東軍総司令部は後退移転
 関東軍総司令部も新京(長春)を捨てて南満の通化に移る。そして、主
力は戦いつつ後退し、全満の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、
朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保し、最後の抗戦を通化
を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては
日本本土を防衛する。この作戦準備完了の目途を九月末までとする、という
ものでした。

 根こそぎ動員
 そうして、7月10日には、青年義勇隊を含めた在満の適齢の男子(19
歳から45歳)約40万のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員15万人
ほどをのぞいた残り25万人の根こそぎ動員をかけたのです。これが後に在
留日本人の悲劇を大きくしたのでした。街や開拓団には男は老人と子供だけ
となりました。ソ連の侵攻になすすべもありません。男はシベリア、女性は
残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。

この根こそぎ動員によって、関東軍の対ソ戦時の兵力は次のようになりまし
た。
師団24、戦車旅団2、独立混成旅団9、国境守備隊1、等を基幹とする兵
員75万、火砲約1000門、戦車約200両、戦闘可能な飛行機200機
でありました。
しかし、真の戦力となると、装備は極めて貧弱、訓練も半数はこれからとい
う状況でした。特に根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が10
万人はいたということで、野砲も400門不足していました。

関東軍は盤石 長谷川宇一大佐
 新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包
丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。ビール瓶はノモンハ
ン事件での戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。ところが、8月2日、
関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送
しました。「関東軍は盤石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は
安んじて、生産に励むがよろしい……」

「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘
らず、開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのでした。

 一方ソ連軍は、狙撃師団70、機械化師団2、騎兵師団6、戦車師団2、
戦車旅団40、等を基幹とする兵員約174万、火砲約30000門、戦車
5300両、飛行機5200機という圧倒的な戦力でした。

 日本政府和平交渉 労力提供
 政府やソ連の動向を、兵士たちは知るよしもありませんでした。政府は、
近衛特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼しようとしてい
ました。7月13日にソ連に申し入れましたが、ソ連は特使受け入れを拒否
するでもなく回答を引き延ばしていました。 その「和平交渉の要綱」の中
に、「国体護持」を絶対条件として「賠償として一部の労力を提供すること
には同意す」(四の{イ})との一項があり、日本政府は役務賠償という政
策を持っていました。

 ヤルタ協定
 7月5日に完成した関東軍作戦計画では、作戦準備の概成目標を九月末と
していました。7月26日ポツダム宣言が発表されましたが、翌27日の宮
崎周一参謀本部作戦部長の日誌によると「ソ連は八,九月対日開戦の公算大
だが、決定的にはなお余裕あり」と記されていました。

 一方、2月11日ヤルタにおいて米英ソ三国の間に締結された協定により、
ソ連はドイツ降伏2~3ヶ月後に対日参戦することを正式に約束していまし
た。ソ連軍最高司令部は、1945年早春から満州侵攻の作戦計画を検討し
ていました。

ソ連軍部は、日本軍と戦ったノモンハン事件(昭和14年夏)での教訓を生
かし、日本軍をこう観察していました。

『日本軍の下士官は狂信的に頑強であり勇敢であるとの認識に立っている。
その上に、日本の兵士たちは服従心が極端に強く、命令完遂の観念は強烈こ
の上ない。かれらは天皇のために戦場に斃れることを名誉と考えている。か
つ、ソ連軍に対する敵愾心は非常に旺盛である。 戦術面でいえば攻撃を最
高に重視しているが、不利な防御戦となっても頑強堅忍そのもの。夜襲の白
兵攻撃を得意とし、小部隊の急襲に長じている。

 しかし、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとはせず、支那事変の戦訓を極度
に自負し、いぜんとして〝皇軍不敗〟という根拠なき確信を抱いている。軍
隊指揮能力は脆弱であり、創意ならびに自主性が欠如している。 戦車やロ
ケット砲など高性能の近代兵器にたいし、将兵ともに恐怖心を強く持ってい
る。それはみずからの兵器や装備がかなり遅れているためである。師団その
ものの編成も人馬数が多いばかりで、火力装備に欠け、機動力は相当に劣っ
ている。』 (ソ連が満州に侵攻した夏・半藤一利・文藝春秋社)

 ソ連の侵攻
 5月7日ドイツが連合国に無条件降伏をしました。 ソ連軍最高総司令部
は6月27日、対日戦略基本構想を決定しました。攻撃開始時期は8月20
日~25日と予定されていました。 8月6日広島に原爆が投下されました。
8月7日午後4時30分、ソ連軍最高総司令部は極東ソ連軍最高総司令官に
対し、8月9日朝の攻撃開始を命令していました。国境線には、後方部隊を
含めてソ連軍将兵157万7千225名、大砲および迫撃砲2万6千137
門、戦車・装甲車・自走砲5千556台、戦闘機および爆撃機3千446機
が勢揃いしていました。
そして8月9日早朝、ソ連機の侵攻が始まりました。

ポツダム宣言
 トルーマン、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳は、7月17日か
らベルリン郊外のポツダムで会談をひらき、7月26日に米英中三国の名で
ポツダム宣言を発表し、日本に即時無条件降伏するよう要求しました。連合
国が日本にもとめた降伏条件は、軍国主義の除去、領土の制限、軍隊の武装
解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義復活強化、経済の非軍事、および以上の
目的が達成されるまでの占領などでした。

政府・関東軍の動向
 7月28日、軍部の圧力におされた鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を
「黙殺」し、戦争を継続するとの談話を発表しました。8月6日、アメリカ
は鈴木声明などを口実に広島へ原爆を投下し、ついで9日には長崎へも原爆
を投下しました。
8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、翌9日からソ連軍は、南樺太・満州
・朝鮮へ進撃したのでした。

 この事態に、「国体護持」を唯一絶対の旗印とする日本政府は、天皇の国
法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を10日朝行っ
ていました。一方大本営は、「国体護持」のため「対ソ全面作戦」を発動し
「朝鮮保衛」が関東軍の主任務とされる命令を、関東軍総司令部に下達しま
した。

 大本営の企図は対米主作戦の完遂を期すると共にソ連邦の非望破壊の為新
たに全面的作戦を開始してソ軍を撃破し以て国体を護持皇土を保衛するに在
り 関東軍総司令官は主作戦を対ソ作戦に指向し来攻する敵を随所に撃破して
朝鮮を保衛すべし……

 こうして「満州国の放棄」、「皇土朝鮮防衛」の戦略のもと、11日には
「総司令部を通化に移転する。各部隊はそれぞれの戦闘を継続し、最善を尽
くすべし」の命令を発し、関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行わ
れました。移転と云うより各部隊は戦闘せよ、総司令部は退却すると云うこ
とでしょう。総司令部は新京を捨てて小型飛行機で通化へ飛んでいったので
した。

 一般居留民置き去り軍人家族の新京脱出
 また同じ11日に、関東軍総司令部は満州国政府を通して「政府および一
般人の新京よりの離脱を許さず。ただし応召留守家族のみは避難を予想し家
庭において待機すべし」の命令を発しつつ軍部とその家族、満鉄社員とその
家族優先の南下輸送を始めました。第一列車が新京を出発したのは11日1
時40分で、正午までに18本の列車が運行され、当時、新京に残留してい
た居留民14万人のうち3万8千人が新京を脱出しました。

 3万8千人の内訳です。
軍人関係家族  2万0310人
大使館関係家族    750人
満鉄関係家族  1万6700人
民間人家族      240人

 このとき、列車での軍人家族脱出組の指揮をとったのは関東軍総参謀長秦
彦三郎夫人であり、また、この一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人
と従者たち一行は、さらに朝鮮の平壌から飛行機を使い8月18日には無事
東京に帰り着いています。

 また、牡丹江に居留していた なかにし礼氏は、避難しようとする民間人
が駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロ離
れた地点から特別列車を編成して脱出したと証言しています。

これより先、満州北部を放棄し、南部に後退する関東軍の作戦が決定され、
開戦の危機が高まった時、関東軍では開拓団など居留民の措置を検討しまし
た。しかし、居留民を内地へ移動させるには、輸送のための船舶を用意する
ことは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動するにしても、結局米ソ両軍の
上陸によって戦場となる、輸送に必要な食料もめどが立たない、実行不可能
の結論になりました。

 それでも老若婦女子や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引
き上げさせることが提議されましたが、総司令部第一課(作戦)は、居留民
の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、ひ
いてはソ連侵攻の誘い水になる恐れがあるとした、「対ソ静謐保持」を理由
にこの提議は却下されています。

 居留民の悲劇
 開戦するや、急激なソ連軍の侵攻に、国境周辺の居留民の殆どは、逃げる
いとまもなく、第一線部隊とともに最期を遂げる事態が続出しました。また、
「根こそぎ動員」によって戦闘力を失っていた、家族、村落、地域では、ソ
連軍兵士による暴行・略奪・虐殺が相次ぎ集団自決の悲惨な事例も各地で繰
り広げられました。また、辛うじて第一戦から逃れることができた居留民も、
飢餓、疫病、疲労で多くの人々が途上で生き別れ、脱落することになり、多
くの子どもたちが死亡し、また、残留孤児となり、置き去りにされ、残留婦
人となった人もいたのです。

こうして、開拓団約27万人の三人に一人強、7万8千5百人が死んだので
した。

 棄兵・棄民
 しかも日本政府と大本営はポツダム宣言の受諾、「国体護持」の条件の明
確化などの対応に紛れて、無条件降伏に伴う関東軍の収束、在満居留民の保
護などの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのです。
日本の軍隊は国体護持軍であり、まさに天皇の軍隊にほかならず、国民のた
めの軍隊ではないことを如実に示していたのです。

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