2010年3月2日火曜日

2009年6月シベリアデー 追悼の辞

6月23日は、スターリンがシベリア抑留の秘密指令を出した日です。

60万の関東軍兵士が抑留され、6万の兵士がシベリアの土となりました。

正確な数字は未だに不明のままですが、数万の遺骨が未だに放置された
ままとなっています。

2009年6月23日午後、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で「シベリア・モンゴル抑留
犠牲者追悼の集い」が行われました。

私も「追悼の辞」を述べ、献花してきました。    

         追悼の辞

私は、十七歳の誕生日にアムール川を渉り、
シベリア鉄道沿線、アムール州シワキ収容所で重労働に従事しました。

一九四六年二月のある日、栄養失調の隣の戦友が、突然起き上がりました。

「汽車が出るんだ。帰れるんだ。牡丹餅が食える。
 味噌汁が飲める。お母さん。」

 そして、彼は倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
 その声を、今でも、はっきりと覚えています。忘れることはできません。

私たちは、関東軍の兵士だったというだけで、ただそれだけの理由で、
何のいわれもなく、日本政府から、国体護持のために、
労働力として差し出され、スターリンによってソ連に拉致されたのでした。

私たちは、敵と戦うこと、敵を殺すこと、天皇のため、
国のために死ぬことだけを教えられていました。

戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられ、
捕虜となることは最大の恥辱、
捕虜になるくらいなら死んでしまえと、
骨身にしみて叩き込まれていました。

その、畜生以下の、捕虜になったのでした、
生きるよりどころは、何もなくなりました。

なんとしても生きて故郷にたどり着くこと。
生きて人間に戻り、家族と暮らすこと。
生きるためにはなりふり構わず、居場所を守り、
パンにありつくこと。

戦争と、シベリア抑留は、兵士たちから人間性を奪い、
畜生以下であろうと、何としても、どんなことをしてでも
生き抜くことが、日々の暮らしの規範になったのでした。

隣の戦友が下痢をおこすと嬉しくなりました。
「ああこいつの分まで飯が食える。」

医務室の前に並べられた凍った死体は、
朝までにみんな裸になっていました。
衣服はパンに換えられるのです。

危篤を伝えられた戦友が、快復し部屋に帰ると、骨箱が置かれ、
形見分けで持ち物は何もなくなっていました。

それでも、地獄の淵を這いつくばり、生きて帰れた者は幸せです。

シベリア抑留者は多くを語りません。
 口惜しいのです。悲しいのです。空しいのです。情けないのです。

 誰がこんなことに追い込んだのでしょうか。激しい怒りを禁じ得ません。

 私は現在、戦争を知らない若いボランテイアと、無名の元兵士が一体と
 なった、戦場体験放映保存の会の運動に取り組んでいます。

 戦場体験の記憶も、シベリア抑留の話も、今、消え去ろうとしています。

敗戦の時の初年兵が八十三才、十五歳で志願した元少年兵の私でも八十才、
 シベリア抑留者の平均年齢は八十七才。

 戦場の姿、シベリア抑留の事実を、後生に語り継がなければなりません。
 これまでの収録は約二千名、うちシベリア抑留体験者は二百名です。

 生きている戦友に訴えます。
 亡くなった戦友は語ることが出来ません。
 戦友よ 語らずに死ぬことは 止めよう
 戦友よ 語ってから死のう

シベリア抑留で亡くなられた方々を心から哀悼し、私の追悼の辞と致しします。

            二〇〇九年八月二十三日

        戦場体験放映保存の会
                 元兵士の会 幹事
                        猪熊 得郎、

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