2010年2月1日月曜日

少年兵の無念 ― 生きているうちに語り継ぎたい その5

「シベリア抑留」

 ブラゴエチェンスクからシベリア鉄道でアムール州シワキ駅に着いたのが九月二十八日です。雪が降っていました。駅から10分程、おが屑をアスファルト代わりに敷き詰めた道を歩いた先に収容所がありました。ドイツ兵、ルーマニア兵の捕虜が収容されていた跡です。

 収容所は鉄線で囲まれ、望楼からマンドリン型機関銃を抱えたソ連兵が監視していました。シワキは、シベリア鉄道でハバロフスクとバイカル湖岸イルクーツクのほぼ中間、中国東北部がソ連に突き出したあたりから四〇キロほど入ったところ、緯度はサハリンの北端と同じくらいの所です。森林伐採の基地であり、また街の中心に製材工場がありました。

 シワキ収容所には千人ほどの日本人捕虜が収容され、おもに伐採、製材、貨車積載、鉄道工事、道路工事などの作業をさせられました。

一応、捕虜の食糧基準は黒パン三五〇グラム。米、雑穀四五〇グラムということでしたが、シベリアが飢饉と言うこともあり実際はもっと貧しいものでした。

 空腹と寒さに耐える毎日でしたが、さらに苦難を倍加させたのは、収容所の中にまで日本帝国陸軍の「階級章」が生きていたことでした。
朝、東の日本を向いての皇居遙拝の後、「将校を父と思え、下士官を母と思え、苦難に耐え、祖国に帰れる日のため団結して頑張ろう」と訓示した上官は、兵隊の食料のピンはね、防寒具も良い物の先取り、病人が出てもソ連側と交渉するのではなく、員数を揃えるために無理やり作業に駆り立てました。

 どうしても作業に出られない病人は「無駄飯は食べさせられない」と食事の取り上げ、さらには「弛んでいるから病気になるんだ」と薪割りや水汲みです。
 零下四〇度の寒さ、ほんの僅かの食糧、屋外での重労働、栄養失調・発疹チフス・凍傷、いつ帰れるか分からない絶望感、死ぬ間際にたいてい脳症になり、うわことを言います。
 夜中に突然起きあがって、「汽車が出ますね。帰るんですね。日本に帰れるんだ。味噌汁が飲める。お母さん」そう言って死んだ戦友のことが、今も忘れられません。

シワキの収容所では六人に一人くらいが死にました。死ぬと遺体は医務室の前に置かれるのですが、朝までの間にみんな裸になってます。着ているものをかっぱらうのです。もちろん盗るのは我々日本兵で、盗ったものをパンに換えるのす。

 製材工場だから木材は山ほどあります。あらかじめ棺桶を作っておきました。
しかし、遺体が棺桶よりも大きい場合は入りません。斧で足を叩くのです。凍っていますからポキッと折れます。
 土葬するのですが、土が凍っていて少ししか掘れません。やっと棺桶がかくれる程度で浅いまま土を被せるので、春になると山犬に遺体を掘り起こされていました。

 隣の戦友が下痢をすると「ああ良かった、こいつの飯が食える。」と思うのです。
病室の戦友が危篤になったと知ると、班長が先頭になって形見分けをしてしまいます。たまたま、病状が回復して彼が部屋に帰ると、持ち物は何もなく、遺骨箱が棚におかれています。
 ただ、自分だけ、どうやって生き延びるかの毎日でした。

  戦争が終わって六〇数万の日本軍将兵が捕虜となりました。スターリンのソ連は国際法を踏みにじって日本軍捕虜をシベリアに抑留し、強制労働で働かせました。六万数千人が死亡したとされていますが未だに正確な数字はわかっていません。

「ポツダム宣言」第九項は「日本国軍隊は完全に武装解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営む機会を得しめらるべし」と規定していましたが、ソ連政府はこれを無視し、八月二十三日のスターリン秘密指令によって、日本人捕虜を長期抑留し労働使役に服させました。
 「平和克服後、捕虜はなるべく早く本国に帰還せしむべし」というハーグ条約・ジュネーブ条約の規定に照らしても、ソ連の行為は著しく国際的道義に反しています。

 又このようなソ連の態度を誘発した日本政府の対応も明らかにされなければならないと思います。
 一九四五年七月一六~一七日頃;近衛特使をソ連に派遣して連合国との和平交渉の仲介を依頼するために作成された「和平交渉の要綱」の中に、「国体護持」を絶対条件とし「賠償として一部の労力を提供することには同意す」という一項がありました。「国体護持」の為には労力もどうぞお使い下さい、こんなことを当時の政府は考えていたのです。
 
「帰国、特攻戦死の兄」

 私は一九四七年十二月、帰国しました。舞鶴港に着いたとき、小雨が降っていました。緑の道を傘をさした小学生が登校しながら手を振っていました。濃淡様々の色彩があたりの風景を水彩画のように色鮮やかに彩っていました。日本というのは本当に美しいと思いました。祖国に帰ってきたんだと思うと涙があふれてきました。十九歳でした。

 東京に帰ると、私の生まれた日本橋の家は空襲で跡形もありませんでした。戦争で私は故郷を失いました。父も既に亡くなっていました。私は、戦争のため、とうとう親不幸のまま終わってしまいました。,

 私はすぐ上の兄の戦死も聞かされました。
 二つ上の兄は昭和十八年十二月、海軍甲種飛行予科練習生第十三期生として三重航空隊に入隊したのですが、送別会で「元寇」を歌いました。
 蒙古軍襲来に民族挙げて戦おうという歌で、「国難ここにみる」と歌った兄の歌声は、今でも私の耳に残っています。

 昭和十九年八月二十七日のことです。水戸の陸軍航空通信学校に、突然、父と兄が面会にきましたた。三月に三重から転隊した土浦航空隊で「回天」搭乗員を志願した兄は、「回天」基地への移動を前にして、たまたま、面会に訪れた父と外出を許されたのでした。

 私も特別外出を許され、営外の食堂で親子三人、語り合いました。あまりの嬉しさに時のたつのを忘れましたが。やがて兄は財布を取り出し、有り金全部はたいて、「おいこれ使えよ」と渡されたお札(さつ)が、当時のお金で五円ありました。言外に別れを告げたのでしょう。

 営門の前で、別れの時がきました。
 海軍飛行予科練習生海軍飛行兵長の兄房蔵は、肘を前に出す海軍の敬礼で、陸軍特別幹部候補生陸軍一等兵の私は肘を横に張る陸軍の敬礼で、お互いを見つめ別れを惜しみまし。兄が十八歳五ヶ月。弟が十五歳十一ヶ月でした。
 かたはらで、父は黙って二人の息子たちの別れを見つめていました。どんな思いだったのでしょうか。

兄はその数日後土浦航空隊を後にして山口県大津島の回天基地に移りました。
 米軍が沖縄に来襲する直前の昭和二十年三月十三日、兄は、陸上から発進する最初の基地回天隊「第一回天隊」白竜隊員として山口県光基地を出撃しました。
十八歳の兄は出撃の際二つの辞世を残していました。
 
 益荒男の あと見む心 つぎつぎに
     うけつぎ来たりて 我もまた征く

身は一つ 千々に砕きて 醜(しこ)千人
       殺し殺すも なほあき足らじ

 回天八基、搭乗員七名、基地要員百二十名、輸送艦乗組員二百二十五名を載せた第十八号一等輸送艦は沖縄本島に向かいましたが、到着を目前にした十八日未明、米国潜水艦スプリンガーと遭遇し、三度にわたって魚雷計八本の攻撃を受け四発が命中、一時間もの交戦の後、遂に午前四時那覇北西約六〇キロの粟国島近
海で沈みました。

 第一回天隊員、輸送艦乗組員の殆ど全員がこのとき戦死したと見られています。
しかし、「公報」では一部の隊員が沖縄本島を目指し、慶良間基地付近および本島の海軍司令部付近の陸上戦闘で戦死したとされ戦死日も異なっています。さらに準備されていた洞窟出撃基地の場所も未だにわかっていません。

    「進め、進め、死ね、死ね」

 当時の少年たちは、戦場に赴き、生命を捧げることが、祖国を守り、愛する人たちを守ることだと、心から信じていたのでした。兄もまたその一人でした。

 ところが、戦争の指導者たちは、敗戦を挽回する方策もなく、若者たちの純粋な気持ちを利用し、無謀な、特攻作戦を繰り広げたのでした。
 たまたま出撃しながら回天が故障で、潜水艦から発進出来ず戻ってきた隊員に、命令を下し、「進め、進め、死ね、死ね」と叱咤激励した連中は、「おまえはなんで生きて帰ってきたんだ。スクリューを手で回してでも出撃しなかったのか」と叱りつけたのです。

 昭和二〇年二月、「イ四四号潜水艦」は回天四基を積載して硫黄島に向かいました。しかし厳重な米軍の探索網で米艦に近寄れず、効果のない無駄な出撃を諦め帰港しました。この潜水艦長は、第六艦隊の参謀から「卑怯未練!」「潜水艦は沈んで来りゃ、いいんだ。戦果は俺たちで作る」と罵倒され、そのまま老朽潜水艦
の艦長に異動、左遷されたのです。

回天作戦を推し進めた海軍は、第十八号輸送艦二〇年三月十八日消息不明、四月二日同艦喪失認定のまま放置し、昭和二十二年、同艦の乗員の大部分は四月二日、一部は三月十八日ほかとして公報を送致したのでした。

 戦争が終わって六十二年もたった現在でも、兄の正確な戦没地点は分かっていません。第十八号輸送艦が、沖縄粟国島近海で、アメリカ潜水艦スプリンガーの雷撃で沈没したことは、十五年ほど前に、生き残った回天隊員たちの調査で分かったのでした。

 また、、厚生省の記録では、私の兄は別の船に乗っていたことになっていました。厚生省の記録を訂正させたのは戦後五十五年、二〇〇〇年三月のことでした。一〇年以上の調査、沢山の元回天搭乗員の協力と証言、四年間の交渉によって、やっとのことでした。何日、何処で、どんな様に死んだかも曖昧なのです。

 私は、今でも、毎年、沖縄の平和の礎を訪れ、そして離島をめぐり、兄の足跡と、沖縄に設営されたた回天出撃基地を探し求めています。

「帝国陸海軍の少年兵」

 十五年戦争の下で、日本帝国陸海軍の少年兵は四十二万名を超えましたが、それは昭和五年一九三〇年の海軍飛行予科練習生の創設で始まりました。
 当時の海軍は、ロンドン海軍軍縮条約によって軍備を制限され、条約によって拘束されない航空力の拡充に力を入れていました。経済不況で東京帝国大学卒業生でさえ就職率三〇%という時代で、海軍は経済的な理由で進学出来ない少年に目をつけ、優秀な人材を確保するために予科練を発足させたのでした。

 年齢十五歳以上十七歳未満の者を対象とする予科練第一期の採用試験には、大空へのあこがれを抱く若者達が殺到し、志願者は五千八百七名にも及びました。
そのうち合格者は,わずかに七十九名。七十三・五倍の倍率でした。なおこの一期生七十九名のうち四十九名が戦死しています。
 アジア、太平洋全域への日本軍の進出、ミッドウエー海戦での敗北をきっかけとする戦局の悪化とともに、少年兵志願者の意識も社会の状況も変化していました。

 少年たちは「戦争しか知らない子どもたち」として育っていました。この少年たちが幼心に社会に触れる小学校入学の頃は、日本は既に戦争の時代に突入していました。「大空への憧れ」よりも、「軍人への憧れ」が、そして「戦場に赴き祖国の存亡に身命を捧げること」が「日本男児の本懐」として語られる様になっていました。

少年たちは当時の天皇絶対の社会体制、軍国主義一色の社会風潮、幼い頃からの軍国主義教育、権力に迎合した新聞・ラジオ・映画などのマスコミによる戦争賛美の宣伝煽動の影響のもと「天皇陛下のため」「東洋平和のため」「家族の幸せのため」「祖国のため」と心から信じ、戦場に赴くことを栄誉と考えるようになっていたのです。

「少年兵の大量採用と護国の捨て石」

 こうした状況を背景に、予科練をはじめとする少年兵の大量採用が行われるようになったのでした。
 米英蘭等へ開戦した一九四一年十二月以前の少年兵は、陸軍が少年飛行兵、戦車兵など約一万四千名、海軍が予科練で約一万二千名の合計二万五千名でした。

 しかし、これ以後急激に増えました。
陸軍は少年兵、特幹などで約十四万名。海軍は予科練、特別年少兵などで約二十六万名。合計四十万名です。
 結局十五年戦争に参加した少年兵は四十二万名以上となります。学徒出陣が約十二万と言われていますから少年兵が如何に多かったかが分かります。
 この少年兵の大量採用はどういうことだったのでしょうか。予科練の場合で見てみましょう。

 太平洋戦争が始まった四十一年十二月の海軍の保有機数二一九九機でした。
戦時中に生産したもの三万機、損耗は二六二八五機でした。
ですから敗戦時はボロも含めて五一四五機となります。
ところがこの期間、予科練には二三万人が入隊しました。 どうやって飛行機に乗るのでしょうか。

四十一年十二月以前の予科練入隊者の損耗率は八〇・三%でした。損耗率とは戦死率のことです、乗るべき飛行機の消耗が甚だしい状況で、水上・水中特攻を乱発し、その殆どが「護国の鬼」として散華することを願っていたとしか考えようがありません。

 事実彼らは「神風」「回天」「桜花」「震洋」「蛟竜」特攻隊員の主力としてくの戦死者を出しました。また「橘花」「海竜」「伏龍」「土龍」「神龍」特攻隊員として準備され、「靖国神社に祀られるため」の「壮烈な戦死」のため、生きて過酷な訓練に耐え、そして四五年の敗戦によって死を免れたのでした。
 特攻隊でなかったものたちも、その多くは陸戦隊に編入され、国体護持の国土防衛のため壕を掘り、護国の捨て石として上陸してきた戦車のキャタビラに、地雷もろとも飛び込む訓練に明け暮れていました。

一体、彼ら少年兵の青春は、何のための青春であったのでしょうか。

「粟国島を訪ねて」

 数年前の六月、兄たちの船が沈没した沖縄の粟国島を訪ねました。六月の沖縄はもう三〇度を超え真夏の太陽が照り輝き空も海も蒼く澄み渡っていました。
 第十八号輸送艦沈没地点で船のエンジンを停めました。「海軍の兵隊さんなら島まで泳げます。だがここは水深一〇〇〇メートル以上海溝の入口、潮の流れも速い。三月はとりわけ西南久米島の方に向かってこの船の速度くらいの潮流(時速約一二キロ)波高三~五メートルの波、恐らくみんな流されたでしょう。

 やっと島にたどり着いたとしても断崖絶壁の岩場、疲れ切って荒波に引き戻されたのでは」船長の話でした。
 その時の情景が目に浮かんできました。海に投げ出された兵隊たちが波間を漂い、声をかけ励まし合いながら一人また一人と沈んでゆきます。兄はここだったのだろうか。それとももっと離れたところでは…。

 十八歳の兄は死を目前にして何を考えたのでしょうか。きっと故郷のこと、家族のことを思いふるさとの歌、赤とんぼの歌を歌いながら波間に隠れたのに違いないでしょう。もっともっと生きたかったのでしょう。

 兄や沢山の少年兵が、若い青春が、戦争のためだけに燃えつくし、平和の時代を知ることなく大空に海原に消えていったのでした。 どんなに平和な、豊かな、幸せな生活を夢見たことでしょうか。


(注) 昨年十一度目の沖縄探訪、三度目の粟国島調査で、白龍隊十八号輸送艦の沈没はアメリカ潜水艦の記録でのみ確認されていたのですが、戦後64年、ついに輸送艦が撃沈される状況を目視した人を複数見つけることが出来ました。

 昭和20年3月18日明け方、島の西北方、無人地帯の台地で、牛の放牧に出かけた当時の青年数人が、煙を吐き、傾きつつ、照明弾を打ち上げ、ついに沈没した船をのを望見したというのでした。

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