2010年2月3日水曜日

少年兵の無念― 生きているうちに語り継ぎたい その6

『わだつみ会と少年兵』(『わだつみ通信』2008年№48号より)

わだつみのこえ記念館設立一周年記念「わだつみ会 12・1不戦の集い二〇〇七年」が十二月一日、文京区民センターで開かれ、リサ・モリモト監督ドキュメンタリー映画「TOKKO」の上映とともに、私は、「少年兵の無念―生きているうちに語り継ぎたい」という演題で講演した。

 講演で私は、大要次のような話をした。
『 予科練、特幹、少年飛行兵、海軍特別年少兵など、四十二万人以上が、十四歳から十九歳で志願した少年兵として十五年戦争に参加した。

 少年たちは当時の社会体制、軍国主義一色の社会風潮、幼い頃からの軍国主義教育、権力に迎合した新聞・ラジオ・雑誌・映画などのマスコミによる戦争賛美の宣伝煽動の影響のもと、「天皇陛下のため」「東洋平和のため」「家族の幸せのため」「祖国のため」と心から信じ、親や家族の反対を押し切って戦場に赴いた。そして多くの少年兵が戦場の露と消えた。

 しかも、その戦争は加害者の立場であった。これほど口惜しく無念なことはない。これを「少年兵の無念」という。当時の少年たちは、かけがえのない青春を、精一杯、あの戦争に捧げた。生涯の中で、最も美しく輝くたった一度の青春が、侵略のための青春だった。

 そして、少年兵を戦場に駆り出した者たちの後継者たちは、未だに侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、再び若者たちに銃をとらせようとしている。これほどの「無念」があるだろうか。

 若者を再び戦場に送り出してはならない。若者たちの青春が、平和のための美しく豊かな青春であることを心から願っている。』

 時間の制約ため述べられなかったが、少年兵とわだつみ会については歴史的に次のような経過があったことを最近知った。

 ご承知のように一九七〇年から一九八一年に亡くなられるまで、わだつみ会事務局長として活動された渡邊清氏は、一九四一年十六歳で海軍に志願し、マリアナ、レイテ沖海戦に参加。四四年十月二十四日武蔵撃沈の際奇跡的に生還。復員後は、『海の城¦海軍少年兵の手記』『戦艦武蔵の最後』『砕かれた海』『私の天皇観』などの著書とともに、昭和天皇と天皇制の戦争責任を解明する第一人者としても知られている。

 現わだつみ会渡邊総子事務局長は清氏の夫人であるが、大切に保管している渡邊清氏の日記帳を見せてもらったので以下に引用する。

 わだつみ会が再発足したのは五九年一一月で、氏は翌年初め入会した。そして、一九六一年、四・九に「わだつみ会総会で常任理事に選出される。」とあり、同年の八・一五には「第二回シンポジュームに出席。〃戦没少年兵の手記〃刊行の企画を提案したが、みなから賛成が得られた。これはなんとしてもやりとげたい」とある。

 翌日の八月十六日には「〃戦没少年兵の手記〃の母親大会へのアピールを書く。
それをもって本郷のルオーへ。山下事務局長はじめ山田(宗陸)、橋川(文三)さん、長崎大、広島大らの学生も出席」。

 そして八・二〇「〃戦没少年兵の手記〃のアピールをもって法大の母親大会へ。
受付で星野(安三郎)氏に手渡し、一部を各県代表に配る。大変な参加者だ。一万数千人という」とある。

 このアピールも見せてもらったので紹介したい。

   戦没少年兵士の遺稿を集めることについて
   母親大会出席の皆様へのお願い

 戦後十六年たちました。
 このあいだに、戦争の記憶のなまなましさはしだいにうすれ、それはともすれば、今日の見せかけの「太平のムード」の中に忘れられようとしています。けれども、十六年を経た今日もなお、戦争の脅威はなくなっていません。うすれかけたその記憶のすきまをぬって、それは私たちの上に重苦しくのしかかっています。

 私たち「日本戦没学生記念会」は、このような危機に対処して、再び戦争の悲劇をくりかえさないために、戦没学生をはじめ、無数の戦争犠牲者を記念し、そのかけがえのない遺産を正しく受けつぎながら、平和を願う多くの人たちと手をたずさえて、今日および未来の平和のための巾広い運動をくりひろげていくことをその目的としています。

 今度、戦没少年兵士の遺稿を集めることもその運動の一つであります。
 当時、まだ子供の世界からぬけ出たばかりの少年兵たちは、戦争を仕組んだものの言葉をひたむきに信じて、その殆んどが自ら志願して戦場に出ていったのでした。それだけに彼らは戦場にあっても、大人の兵隊たちに劣らず悲劇的に勇敢でした。戦死者二百万余のパーセンテージからみて、少年兵に戦死率が一番高いといわれているのも、そのためではないでしょうか。

 私たちは、このようないたいけな少年兵たちが、遠く親もとを離れた戦場の中で、どのように考え、どのように苦しみ、どのように戦い、どのように死んでいかなければならなかったを明らかにし、それを二度とくりかえしてはしてはならない戦争のかけがえのない国民的遺産の一つに加わえ、多くの人々に語って貰いたいと考えております。(これまでにも、「はるかなる山河に」「きけわだつみのこえ」、最近ではまた「戦没農民兵士の手紙」が刊行されましたが、これらはいずれも大人の兵隊たちの記録であって、少年兵の部分は全く空白のまま残され
ています。)

 日本戦没学生記念会は、以上のような趣旨で、戦没少年兵の遺稿を全国から収集して、これを一冊の本にまとめ、生きた戦争証言として長く保存しておきたいと思いますので、どうか以上の趣旨を御理解のうえ、皆さま方のご協力をお願いいたします。

 皆さま方の子供、兄弟、あるいは家族、お知り合いの方に、少年兵として戦没された方がございましたら、左記によりお力添えいただきたく思います。


一.対象は狭義の「少年兵」に限らず、勤労動員、空襲時の少年少女の犠牲者を含みます。
一,年令は戦(病)死時の年令が二十才未満のものに限ります。
一.本人の手紙、日記、その他遺書。
一.手紙には、本人の入隊(団)年月日、およびその時の年令。戦(病)死時の年令、階級、
  場所、また入隊(団)前の職業、(学校在学の場合は学年)続柄、を必ず明記の上お送り
  下さい。
一.送り先 東京都中野区宮里町二 山下方 日本戦没学生記念会事務局
一.本の題名は「戦没少年兵士の手紙」(仮)

        昭和三十六年八月十五日
日本戦没学生記念会(わだつみ会)
 日本戦没兵士の手紙 編集委員会
     代表 阿部 知二


 大変残念なことであるが、遺稿が集まらなかったのか、この企画は実現に至らなかった。これが実現していたならば、わだつみ会のイメージも今とは変わっていたのでなかろうか。
 何故反応がなかったのだろうか。次の私の文章を参考に考えていただきたい。


 「学徒兵に比べ何故少年兵が語られぬのか」 
                   猪熊得郎
  (不戦兵士・市民の会機関誌「不戦」」二〇〇三年一三五号より)

 学徒兵一〇万余、少年兵四二万以上。しかし学徒兵に比べ少年兵のことは殆ど知られていない。何故だろうか。

 戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』などで、ペンを捨て銃を持った学徒兵のことはよく知られている。四三年十月、理工系・教育系以外の学徒は徴兵猶予停止となった。十月二十一日には神宮外苑で、当時の東条英機首相が出席して出陣学徒壮行会が開かれた。「学徒出陣」である。

 学生は少年兵と違って、国際國内情勢などについても、政府のいうことを鵜呑みにしていることは少なかった。学問・知識への探求心もより強いものがあった。だから戦争への懐疑心を持つ学生も多く、彼らはペンを捨てることに積極的ではなかった。しかし当時の体制で彼らはそれを拒否することも出来ず戦場に赴くこととなり、死に直面した。

 少なくない学徒兵たちがその思いを手記として残していた。それは悲劇的であり、戦後、多くの人の心をとらえ、「学徒出陣」「わだつみのこえ」として語り継がれているのであろう。

 しかし、少年兵たちは、まだ批判的精神の未熟な時期、自立的自主的思考思想の成長初期に、純粋に、あるいは無批判に、体制の要請を受け入れ、その多くは、自分の意志で志願し積極的に戦場に赴いた。

彼らは幼い頃からの軍国主義教育に加えて、少年時代の入隊から、それこそ正真正銘の軍隊教育で戦場に送り出された。だから彼らは余り記録を残さなかったし、遺されたものも、純粋に「国難に立ち向かう至情」を述べるものが多かった。さらにまた復員した後、大学や学生組織のような受け皿もなく、しかも「志願」して「積極的」に戦場に赴いた負い目が、生き残った者の口を堅くした。

 これらのことが、戦没学生のことが語り継がれる一方、少年兵のことが忘れ去られる大きな要因となったのであろう。
 付け加えるならば、学徒兵の多くは将校となった。「消耗品」であるにせよ、書くための時間的余裕も、場所も、年少下士官であり、兵士であった少年兵に比べ保証されていた。少年兵たちがものを書くなどは、兵舎の中で論外の行為として、排除された。

 また、少年兵たちは、復員後、その経歴が復学にも、就職にも障害となり、家族たちも口を閉ざした。こういった事情が、少年兵の遺書の収集を困難にしたと思われる。
 少年兵の問題が、これを機に、さらに解明されるとともに、わだつみ会においても取り上げられることを心から望むものである。

 最後に少年兵の遺書のいくつかを紹介しよう。

 神風特別攻撃隊 第一草薙隊
海軍二等飛行兵曹    長谷川喜市
第十二期甲種予科練出身十九歳

 お父さん、お母さん、お達者ですか。お伺ひ致します。喜市は、いつも変わりありません。
お父さん、お母さん、喜んで下さい。遂に来たるべき秋が来ました。
 征くに当たって、改めて申上げることはありませんが、ただ二十年このかた、喜市は孝行といふ孝行をしたこと がありません。お許し下さい。
  ―『十八歳の遺書 予科練・学徒兵の死』(昭和出版)

      神風特別攻撃隊 菊水部隊天山隊
海軍一等飛行兵曹    嘉戸  仡 十八歳

 (冠略)……度々の帝都空襲で被害も多い事と存じますが私達はそれに倍する様な事を敵さんにお返しする様に努力して居ります。
 愈々此が最後です。父様母様御元気で、白木の箱がとどいたら、たいした手柄は立てないが泣かずに褒めて下さいな。此れにて絶筆。
                    ―(同)

      回天特別攻撃隊多聞隊
      海軍一等飛行兵曹」   上西 徳英
          第十三期甲種予科練出身十八歳 

 妄想する勿れ。故郷を憶うも、自から限度あり。先輩の霊、照覧しあり。自ら省み恥ずべき行ひ、否、考えすら持つべからず。

 家人もしこの項を見られなば、深く蔵して人目に曝す勿れ。特攻隊といへども人間なり。何も言はず、考ふるも直ちに忘れ、ただ純忠に生くる筈なり。神なり。人に非ず。深くこの点を考えよ。

 夢は、正常なりや。余りにも見る夢の、真に迫る。以心伝心なりや。故郷の夢ばかり。

 明日は必ず死なん。予感あり。
祖国を既に千海里、南十字星を仰ぎつつ、偲ぶは故郷か、想ふは誰か、彼の人か。

勇士陣中に閑ありて、雲と波とその世界。歌あり、詩あり、涙あり。
 剣の心得。「迷はず、疑はず、怯まず」と。
 剣の道は無我、死とは、無なり。
遺書
 お父さん、お父さんの鬚は痛かったです。
お母さん、情けは人の為ならず。
 忠範よ、最愛の弟よ、日本男児は″御盾″となれ。他に残すことなし。
 和ちゃん、海は私です。青い静かな海は常の私、逆巻く濤は怒れる私の顔。
 敏子、すくすくと伸びよ。兄は、いつでもお前を見ている。
              ―『回天』(回天刊行会)

 これらの少年たちの遺書は、人の心をうつものがある。親を思い、家族を思い、国を想い、純粋に祖国のためと生命を捧げた。彼らの残した手記や遺書は、私たちを深い厳粛と哀悼の気持ちに浸らせる。

 然し、戦争が侵略戦争であったことは厳然たる歴史の真実である。
 「國のため」「天皇のため」と少年兵を死に駆り出した、「国家」と「指導者」に激しい怒りを禁じ得ない。

   「少年兵の無念」 平和のための青春を

 私は兵士として戦争体験をした最年少、最後の世代です。
 私たち当時の少年は、かけがえのない青春を、純粋に、一生懸命、精一杯あの戦争に捧げたのでした。沢山の少年兵が戦場の露と消えました。生涯の中で最も美しく輝くたった一度の青春が 戦争のための青春でした。

 ところがその戦争が侵略戦争だったのでした。これほど口惜しく無念なことがあるでしょうか。私はこれを「少年兵の無念」と言います。

 私は直接の加害行為をしたことはありません。しかし私は、侵略国の軍事力の一員でありました。私の主観的意思がどうあれ、日本はその軍事力を使ってアジア諸国を侵略し他民族を抑圧しアジアの人々に限りない悲しみを押しつけたことは厳然とした客観的事実なのです。

 ところが戦争の最高の指導者大元帥昭和天皇の戦争犯罪はうやむやにされ、侵略戦争を積極的に推進した者やその後継者たちは、侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、第九条を柱とする憲法を改悪し日本を戦争をする国にする企みが強まっています。

 戦争体験を語ることは過去の昔話を語ることではありません。今、現在の問題です。私は、私自身の体験から、若者たちの青春が戦争のための青春でなく、平和のための美しく豊かな青春であることを心から願っています。私は生きている限り、「少年兵の無念」を語り続けます。 若者たちを再び戦場に送り出してはなりません。

   若者たちの青春が、戦争のための青春ではなく、   平和のための 美しく豊かな青春であることを、私は心から願ってやみません。

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