「武装解除」
8月末です。ソ連軍が入って来て、武装解除されると云うことになりました。
飛行場の真ん中に武器、弾薬、飛行機を並べ、隊伍を組んで飛行場を離れるということです。
無線機はみんな壊しました。壊すとなると頑丈です。階段の上から転がり落としたり、二階から、下のコンクリートに叩きつけたり、口惜しさの思いを叩きつけたのでした。
将校は軍刀を持ったままで良し、銃は自衛のため三分の一は携行して良いと言うことでした。飛行場を日本軍の部隊が出て行くのと入れ違いにソ連軍の部隊が入ってきました。日本兵は背嚢一杯、荷物を抱え、新品の軍服上下、編上靴です。ソ連兵はマンドリンのような機関銃を抱え、汚れきった軍服に泥だらけの長靴を履き、目をぎらぎらさせてやってきました。
東部戦線から侵攻したソ連の部隊は、シベリアで収容所にいた囚人が多かったのです。ソ連兵の中でもとりわけ程度が低く、凶暴で、たいてい入れ墨をし略奪した時計をいくつも腕に巻いていました。
すれ違うときは緊張しました。お互いにらみ合いながら中には身構えている者もいました。あれで撃ち合ったらいちころでした。お互いがすれ違い離れたとき、ホッとしました。のどはからから、脇の下は脂汗でびしょ濡れでした。
日本軍は山の上の高射砲部隊の空き兵舎に移り、そこでソ連軍の管理下に入りました。ソ連軍の管理下と云っても、行動範囲を指定されそこで自活生活に入ったということでした。
食糧確保の特攻隊」
ソ連軍の管理下に入っても食糧はありませんでした。どこかで調達しなければなりません。兵舎と糧秣倉庫との間には街道があって、ソ連兵がマンドリン型機関銃を持って警戒に当たっていました。
「特攻隊」を編成して糧秣倉庫から食糧を盗んでくることになりました。十人ずつの「特攻隊」三班で、私は少年兵で生きがいいからと一つの班の特攻班長を命じられました。夜中に、「山」と「川」の合い言葉でソ連兵の警戒線を突破して、倉庫から味噌樽や、醤油樽、米袋を盗んで来ました。
ソ連兵に見つかれば射殺させられるのです。街道脇まで匍匐前進です。ソ連の歩哨が遠くに離れ、反対方向を向いている隙に街道を横切るのです。帰りは大変でした。樽や袋を担いでいるのです。よくやったと思います。
闇夜に、ぬかるみに足を取られながら、味噌樽や、醤油樽、米袋を担いで、とにかく必死でした。転んでひっくり返っても声を立てられません。泥まみれになって黙々と任務遂行でした。二日続けました。あれで見つかって射殺されたらどういうことになったのでしょうか。「特攻死」なのでしょうか。
あの敗戦の混乱時によく生きてこられたと思います。今日どう生きてゆくか、明日はどうなるかの毎日です。それだけが頭一杯の毎日です。他のことは何も考えていません。此処でどうするかの判断は、自分でしかできません。その瞬間瞬間に判断し行動し生きてきました。十六歳の夏のことです。
それでもこれから先どうなるかは、お先真っ暗です。我々の場合は戦争が終わって嬉しかったとか、喜んだなどと云うことは全くありませんでした。
「東京ダモイ」
千人ずつの単位で貨車に乗り「東京ダモイ」だということです。
「戦争が終わったのだから帰れるんだ」、「捕虜だ、どこか連れて行かれて重労働、挙げ句の果ては殺されるのだ」、半信半疑、それでも希望的観測にすがりつきたいのです。
私たち十人の小グループの悲哀です。五人、三人、二人の三つに分かれ、それぞれ他の部隊の半端の隅に置かしてもらうことになったのでした。
私は、少年飛行兵兵長と二等兵三人、そして特幹兵長の私の五人の組で、航空修理廠の埼玉県出身の軍曹の分隊と合流したのでした。偶然ですが、幸いなことにその分隊の大半は航空整備兵で特幹二期の上等兵が大半でした。
私たち五人は、他の部隊に組み込まれ、若造となめられてはならないと、どさくさに紛れ、星一つ宛ふやしたのでした。新兵二等兵は一等兵です。そして二人の兵長は伍長です。兵長と伍長は単に星一つの差ではありません。兵と下士官です。その立場は全く違います。「闇」伍長になったのです。
しかし内地に帰ってから調べたら、終戦による特別措置で、昭和二十年八月以前に兵長であった特幹は、昭和二十年八月二十日付けで伍長または軍曹に任官していました。
本隊から孤立した分隊で、そんなことを知るよしもなく、「闇」ということで、多少良心の呵責もあったのですが、その頃はそんなことおくびにも出さず、「伍長」を演じる図太さを備えていました。
「牛・豚以下の貨車輸送」
九月十一日、私たちを乗せた貨車は公主嶺を離れました。ソ連兵に「トウキョーダモイ」「ビストラ、ビストラ」(東京へ帰るんだ、早く、早く)とせき立てられ貨車に乗り込みました。
貨車は真ん中から両側に、二段になっています。上の方に格子の付いた小窓があるだけです。狭い中にすし詰めですから、交互に頭と足を反対側にして横になります。牛や豚の輸送の方が遙かにゆったりしています。扉を閉められたら完全な密室の牢獄です。
貨車は北に向かって出発しました。「北に向かってなにがダモイだ」と言うと、「いや、新京で東に向かうのだ、吉林、敦化を経て朝鮮の清津から船だ」と意見が分かれます。
しばらく走っては停車の繰り返しです。扉を開けられると慌てて飛び出して用を足します。貨車の天井の上にはマンドリン型機関銃を持ったソ連兵が監視しています。良い場所を探してうっかり貨車から離れれば撃ち殺されます。警告などありません。問答無用です。「捕虜」の悲哀が心の底からわき上がってきます。
新京では、やはり北上です。悲鳴が上がりました。「まだまだだ、諦めるな」、「捕虜ということだ、一旦ソ連領に入れてから日本に帰すのだ」、「ハルピンから牡丹江を目指す、綏芬河を通って国境を越え沿海州の港から船に乗るのだ」。「わらをもつかみたい」のです。
ハルピンでは引き込み線に入って半日以上も停車したままです。口数が少なくなってきました。右か左か、吉か凶か、それだけを思い詰めています。
「ビストレ、ダワイ」、「ダワイ、ダワイ」、「トーキョーダモイ」「スコーラダモイ」「ビストレ、ダワイ」(早く、乗れ、乗れ、東京へ帰るぞ、早く帰れるのだ、早くしろ)
いよいよ発車のようです。みんな貨車に乗り込み扉が閉められました。全員固唾をのんで声も出ません。ポイントを揺れてどっちへ行くのでしょう。
真っ直ぐ北上です。「ダメだー」、泣き声のようです。「いやおかしいぞ」、「右牡丹江ではないぞ」「左満州里でソ連でもない」「いったいどこへ行くのだ」「黒竜江で行き止まりだ」「どこか途中でおろされて穴を掘れ、目隠し、ズドンか」、どうなるのだろう。いろんなことを考えました。
ソ連の警乗兵は貨車の天井を歩き、鳥を撃つのか威嚇をするのか、時々抱えたマンドリン型機関銃を乱射します。
半袖の夏姿では寒くなってきました。うるさく飛び回っていたハエは真っ黒なかたまりになって壁に張り付いたままになりました。
小窓の鉄格子の間から見える樹々は紅葉しています。日本兵を乗せた貨車は、確実に北へ向かっています。もう誰も喋りません。押し黙ったまま膝を抱えています。
「アムール河畔」
9月14日、黒竜江(アムール)河畔の黒河の街に着きました。
土手には先着の日本兵が腰を下ろし、休息しています。
ここでアムールを渉りシベリアへ入る船待ちのようです。
兵隊たちの後ろには縄が張られソ連兵が警戒しています。中国人がたくさん立ち並んで何か叫んでいます。時折ソ連兵の目をかすめ中に飛び込んで日本兵の荷物をかっぱらいます。
私たちの集団も待機場所を指定され腰を下ろしました。
目の前をアムールが悠々と流れています。川幅は1000メートルを超えるでしょうか。川の向こうに青々としたソ連領の森が横たわっています。時々キラリキラリとひかるものがあります。監視哨でしょうか、銃口の光でしょうか。
夕暮れです。このままここで夜を明かすのでしょう。ソ連兵が上流で手榴弾を河に投げ魚を捕っている音が「ドーン、ドーン」と響きます。河原でたき火の粉が勢いよく舞っています。ソ連兵が歌い踊り出しました。今思えば「バルカンの星の下に」や「カリンか」だったようです。
「故郷のこと・家族のこと」
黒々としたソ連領の森を眺めながら、走馬燈のようにいろいろ思い浮かべました。「ふるさと東京のこと」、「隅田川をポンポン蒸気船で上り浅草雷門の茶店で焼きそばを食べたこと」、「兄たちのこと」、少年兵志願を訴えたとき「それでは征け、生命だけは大切にな」そういってがっくり肩を落とした悲しそうな父
の顔 。「得郎、お前も征っちゃうのね」そう言って涙を光らせた姉。
「どうしてこんなことになったのだろう」、
「この戦争っていったい何だったのだろうか」、
「これからどうなるのだろうか」、
「生きて帰れるのだろうか」。
水戸の教育隊の頃、面会に来た父と姉が、しょんぼりと帰る後ろ姿が思い出されます。
「どんなことがあっても生きて帰ろう」、「生きて帰えって親孝行するのだ」そんな想いにふけりました。
月が煌々と川面を照らしていました。
その翌々日、私は、船でアムールを渉り、ソ連に入りました。
昭和20年9月16日、私の十七歳の誕生日でした。
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