2010年1月24日日曜日

少年兵の無念― 生きているうちに語り継ぎたい その3

「水戸から新京へ」

水戸の長岡教育隊からは四月十日、約四十名の特幹が第二航空軍に向かいました。途中東京を通るとき、車窓からの眺めは三月十日の空襲で辺り一面の焼野原、品川の海が見えたのにはびっくりしました。

 戦後、姉から三月十日のことを聞きました。私の家は日本橋・浜町三丁目にありました。父は警防団の班長をやっていました。近所の人はみんな逃げ出したのに、父は、隣の家の消火に夢中でした。そのうち我が家が燃えだし、慌てて隅田川沿いに浜町公園に逃げ込みました。

 しかし、公園には高射砲隊が陣取っていました。明治座に入ろうとしましたが満員で人が一杯、入れません。仕方なく、新大橋のたもとで夜を明かしました。ところが明治座は猛火で炎上しました。中に入った沢山の人は焼け死に、父と姉は命拾いをしたということでした。

 第二航空軍の本部は新京(現長春)にありました。水戸から転属した特幹は本部でそれぞれ配属先を決められました。私たち七名は本隊がこの新京にある第二十二対空無線隊となりました。

 情報無線隊に配属されたものもかなりありました。彼らの多くは、二名づつ無線機と食糧を持って国境に配置され、ソ連の動向を探っていましたが、ソ連の侵攻の時は置き去りにされ、殆どが戦死、あるいは自決したということです。ここでも私は強運を引き当てたのでした。

「女も買えない奴に敵を殺せるか」
 四月二十九日は天長節(昭和天皇の誕生日)です。街の中央の公園には関東軍司令官と満州国皇帝溥儀の大きな花輪が飾ってありました。然し満州国皇帝の花輪は関東軍司令官の下座でした。

 いわゆる身体を使う仕事はみんな中国人で日本人は威張っていました。兵隊たちは電車では無賃乗車、街の物売りからはかっぱらいの日常茶飯事です。

 兵舎の内務班の柱にはには慰安所ごとの慰安婦の源氏名と、いつ検診をしたか、その結果どうであったかの検診状況の告知書がぶら下げられ、休日には「慰安所」の前に日本兵が並んで順番を待っていました。日本ピー(慰安婦)は将校相手、朝鮮ピーは下士官相手、中国人の満ピーは兵隊が相手です。

 中国部落は危険だからと立ち入り禁止でしたが、演習で重武装して入った時、子供たちに石をぶつけられました。

 新京での最初の休日です。私が「突撃一番」(コンドーム)を持っていないので外出を許可しないというのです。私は、「帝国軍人がなぜそんなものを持たなければならないのですか」と反論し、食いさがりました。「生意気言うな。女も買えない奴に敵を殺せるか」と殴り倒され、踏みにじられ、血まみれになったあげく、外出禁止となりました。

 その時の屈辱、口惜しさ、怒り、痛みを私は生涯忘れることが出来ません。

「五族協和・王道楽土」

 「満州国」建国の理念「五族協和・王道楽土」とは一体何だろう。「八紘一宇・大東和共栄圏の確立」と言うけれどもどうなっているのだろうか。私の胸に疑問がわいてきました。

 八紘とは広い地の果て、天下という意味です。一宇とは一つの家ということです。神武天皇が即位のときに発した言葉をもとにしています。八紘一宇、大東亜共栄圏の確立というのは、日出ずる国の天子、つまり天皇の意向のもとにアジアをそして世界を統一しようという、対外膨張を正当化するために使われたスローガンです。

 五族協和、王道楽土というのは「満州国」建国の理念です。満州民族、大和民族、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族の五民族が協力し、アジアの理想的な政治体制を「王道」として、満州国皇帝を中心に理想国家を建設するというものです。

天皇はこのことを知っているのだろうか。天皇に申し訳ない。誰がこんなことをやってんだ」と、また疑問に思うのです。

純粋に八紘一宇・大東亜共栄圏の確立を信じていた少年兵の私は「何か間違っている、天皇の御心をねじ曲げている奴がいる。」そんな怒りと悲しみの想いがいっそう高まっていきました。

     「人間性があったら強い兵隊になれない」

 関東軍の内務班での私的制裁は内地に比べ遙かに酷いものでした。六年兵、七年兵が寝台の神様として内務班に君臨する一方、奥さんや子供を家に残してきた三〇歳過ぎの召集兵たちは、おどおどしながら先輩兵たちの身の回りの世話に追い回されていました。銃剣で喉を刺し自殺をした兵隊もいます。

 軍隊というところは、人間性があったら強い兵隊になれないのです。天皇のため、沢山殺せば殺すほど軍人の鏡として褒め称えられるのです。

内務班では、古兵たちを指して「早くドンパチないかな。あの野郎ども、後ろから撃ち殺してやる。」などという言葉も囁かれていました。 七月にはいると毎週のように脱走兵捜しが行われるようになりました。殆ど捕まることはありません。中国人部落に逃げ込むのです。

      「根こそぎ動員」

 七月五日に策定された関東軍の作戦計画は、ソ連が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して持久戦に持ち込む。主力は戦いつつ後退し、満州国の四分の三を放棄し、関東州大連、新京(長春)、朝鮮北端に接する図門を結ぶ線の三角形の地帯を確保する。

 関東軍司令部も新京を捨てて南満の通化に移る。最後の抗戦を通化を中心とする複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を守る。準備は九月末まで。ソ連侵攻はその後であろうというものでした。

 七月十日には在満の適齢の男子約四十万人のうち、行政、警護、輸送そのほかの要員十五万人ほどを除いた残り約二十五万人が根こそぎ動員されました。これによって関東軍は七十万に達しました。しかし、根こそぎ動員兵は老兵が多く、銃剣なしの丸腰が十万人はいたと思はれます。竹筒の水筒、革靴がなく地下足袋と言った有様でした。

 新京では、ガリ版刷りの召集令状に、「各自、かならず武器となる出刃包丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とありました。ビール瓶はノモンハン事件での戦訓もあり体当たり用の火焔瓶であります。

 ところが、8月2日、関東軍報道部長の長谷川宇一大佐は、新京放送局のマイクを通してこう放送した。「関東軍は盤石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生産に励むがよろしい……」

 「国境開拓団」の住む土地は、作戦上すでに放棄されるとされているにも拘らず、開拓団の人々は騙され、おきざりにされたのです。
 この根こそぎ動員が後に在留日本人の悲劇を大きくしたのでした。街や開拓団には男は老人と子供だけとなりました。ソ連の侵攻になすすべもありません。男はシベリア、女性は残留婦人、子供は残留孤児という悲劇が起ったのでした。

   「ソ連軍の侵攻」

 「本日早朝、東満国境虎頭・虎林よりソ連軍が越境し我が関東軍と戦闘状態に入った。特別幹部候補生猪熊兵長は、公主嶺飛行場の第二分隊応援のため、無線機材と共に出発せよ」八月九日昼過ぎの命令でした。早速、新京から南約五〇キロの公主嶺にトラックで駆けつけましたが、二日後「情勢の変化に即応し全満州に展開する対空無線隊の再編成を行う。すべての分隊は中隊本部に急ぎ集結せよ」の命令で再び新京に戻りました。

 新京の街は戦々恐々としていました。軍事施設の破壊が始まり重要書類を焼却する黒煙が立ちのぼっていました。公園や広い道路には防御陣地を構築し、水平射撃でソ連戦車を迎え撃つと高射砲が配置されていました。

「関東軍は最後の一兵まで戦う。電鍵とダイヤルを血に染めよ。関東軍もし破れたならば白頭山に集結せよ」。ソ連機の空襲下、暗闇に蝋燭を灯し、日の丸鉢巻で水杯を酌み交わしました。故郷東京での家族との思い出が走馬燈のように頭をよぎりました。

  ソ連軍は東部牡丹江に迫り、西北部は大興安嶺山脈を突破、また朝鮮北部の雄基、清津等の港から上陸したソ連軍は北朝鮮配備の関東軍を攻撃していました。私たちの分隊は、朝満国境近くの梅花口飛行場に派遣されることになり、十四日夜、新京駅で貨車に乗り込み出発を待っていました。

「国体護持」「棄兵・棄民」

 しかし日本政府は、天皇の国法上の地位を変更しないこととしてポツダム宣言受諾の通告を十日朝行っていました。一方大本営は「対ソ全面作戦」を発動し満州国の放棄、朝鮮防衛の戦略のもと、十一日には「総司令部は通化に移転する。
各部隊はそれぞれの戦闘を継続すべし」の命令を発して関東軍総司令部の新京離脱、通化への移転が行われました。また同じ十一日、関東軍総司令部は、一般居留民を置き去りにしての軍部とその家族優先の南下輸送を始めました。

 しかも、日本政府と大本営は、ポツダム宣言の受諾と「国体護持」の条件の明確化などの対応に大童で、無条件降伏に伴い関東軍をどう収束するのか、在満居留民の保護をどうするかなどの対策は放置し、まさに「棄兵・棄民」の事態が進んでいたのでした。

事実、旧満州・中国東北部にいた開拓団の三分一の八万人が、戦禍の中で、望郷の想いむなしく命を落とし、取り残された残留婦人・残留孤児は一万五千人以上でした。

私たちの分隊は深夜の命令変更で、再び公主嶺飛行場での、第十三錬成飛行隊との協力となり、十五日昼過ぎ、公主嶺駅に着きました。駅の様子がおかしいのです。天皇のラジオ放送があり戦争が終わったというのです。私たちはとにかく飛行場に向かいました。

十三錬成飛行隊長は「命令など何もない。我が飛行部隊は最後の一兵まで戦う」と言いました。分隊は早速ピスト(戦闘指揮所)にはいり、送受信所を開設し、対空無線隊として戦闘行動に参加しました。戦闘機がソ連戦車群攻撃のため次々と出撃して行きました。

 しかし十七日夕刻、関東軍の停戦命令を傍受しました。ところが「ザ・バイカル方面のソ連戦車を攻撃する」と言って高級将校を乗せた戦闘機が飛び立ちました。沈みかかっていた兵隊たちがみんな元気になり、一斉に帽子を振り出撃を見送りました。戦闘機は上空で旋回すると機首を東に向け、日本に向かって飛び去りました。八月十五日から二日遅れの停戦でした。
 
     「撃ち合い・殺人・脱走」

 ソ連軍が入る前に混乱が始まりました。八路軍(中国共産党軍)のゲリラが決起し、満州国軍(日本の傀儡軍)が反乱を起こしました。日本の植民地的支配で苦しめられていた中国人が日本人を襲撃するようになりました。襲撃、略奪、暴行、撃ち合い、殺人で街中に死体が転がっていました。

 日本軍の兵舎の中ももう全く無秩序です。街に食糧や衣糧を略奪に出かけるもの。「あの野郎ひどい目にあわせやがって」と古兵や上官を追いかけ鉄砲を乱射するもの。撃ち合い。古参下士官の中には飛行場で自決するものも出て、遺体にガソリンをかけ燃やす炎が燃えさかっていました。

 まともな兵隊たちも、どうしても食糧を確保しなければなりません。食糧や衣料は街の外の貨物廠に集積してあります。中国人も竹槍を持って群がっています。こちらも集団で武装して、そこに行きます。にらみ合い一触即発です。一歩間違えば殺し合いです。はぐれれば引き込まれなぶり殺しです。脱走が始まりました。
何もかも統制がとれなくなっていました。

 敗戦で指揮命令系統もなくなっていました。私たち十五人の分隊でも今後どうするかという議論になりました。このまま部隊について行くか。それとも自分たちだけで単独行動をとるのか。意見は二つに分かれました。一〇人は、大きな部隊についていった方が生きて帰れる可能性がある、それこそが天皇のためだとい
う意見でした。私は迷ったあげく、大きな部隊と一緒の側に付きました。残り五人は「それは捕虜になることだ。生きて虜囚の辱めを受けず。歩いてでも日本に帰り祖国再建に尽くすのだ」と反論しました。

        「戦陣訓」

 四一年(昭和一六年)一月に東条英機陸軍大臣が軍の規律を引き締め戦意を高揚させるために「戦陣訓」を示しました。

(軍紀)  「命令一下毅然として死地に投ぜよ」
(生死感) 「生死を超越し……従容として悠久の大義に生きることを悦びとす
べし」
(名を惜しむ)「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」

 満州事変前には二〇万の常備軍を持つのみであった日本陸軍は、一九四一年末には一挙に二五〇万の大軍に拡大されていました。軍隊の急速動員と、戦争の長期化に伴い軍紀の退廃は急速に進行してゆきます。「軍人勅諭」と「私的制裁」で服従を強制し軍紀を確立しようとしても、そしてまた、どんな大義名分をたてようとも、それが他国を侵略し、他民族を抑圧するものであれば、軍隊の戦闘力を高める上で兵士の自発的愛国心を期待することは出来なくなります。

 そこで、「悠久の大義」という美名をかざし、天皇のために死ぬことを強制する精神的な支柱として、「戦陣訓」がつくられ押しつけられたのでした。

 議論は平行線のままで結論が出ません。どっちも根拠がないわけです。歩いてでも帰るという一団の中心は特幹同期生の戦友で十七歳でした。三日間の激論で結論が出ない状況に業を煮やし、彼らは、夜中、武器や食糧を持って兵舎を出て行きました。ごそごそと身支度するのを私たちは感じ取りました。しかし、止めることは出来ません。どちらが生きて帰れるかは誰にもわかりません。彼らの後ろ姿をピスト(戦闘指揮所)の二階の窓から見送りました。銃を担ぎ、食糧を入れた背嚢を背負い、とぼとぼと飛行場のはずれまで小さくなる影を、じっと無言で見つめていました。それが彼らとの最後の別れでした。彼らはまだ日本に還っていません。
 
生きて虜囚の辱めを受けず。この言葉の強制で、どれほど多くの兵士が、無意味な死を選ばされたことでしょうか。
  
       「天皇の軍隊」

 そのうち収拾のつかなくなった部隊長が「自分の身は自分で処せ」なんて言う通達を出しました。無責任な話です。半分近くが脱走しました。その時脱走した連中は機関車の運転手にピストルを突きつけ、貨物列車を走らせたのですが、ソ連の飛行機から機銃掃射を受け停車させられ、そしてまた、武装した中国人に襲撃され、命からがら、大部分が部隊に戻ってきました。部隊長はまた、慌てて、「一丸となって帰り、天皇の御為、祖国再建に尽くす」と命令を出しました。関東軍に「在留邦人」を守ろうなどという使命感などひとかけらもありませんでした。

日本の軍隊は国民の軍隊でなく天皇の軍隊であり、まさに。国体護持軍でした。
大本営も、関東軍総司令部も、各級指揮官も、下級兵士の生命や、非戦闘員居留民の保護安全など夢にも考えていませんでした。国民を見放すことなど当然のことなのでした。

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