2010年1月24日日曜日

少年兵の無念― 生きているうちに語り継ぎたい その2

生きるも死ぬも運次第

戦争では、兵隊の生命は自分で守ることはできません。「任地」や「任務」は「命令」で決まるのです。そこには自分の意思や希望を働かす余地は全くありません。それこそ「運」に恵まれるかどうかということだけで生命がもてあそばれます。

 特幹第一期の採用はか「航空」と「船舶」の二つの兵科でした。どちらかの希望に○をつけるのです。私は、一番上の兄が船舶兵でしたから同じ船舶兵志望に○をつけました。しかし少年として大空を飛びたいという憧れを打ち消すことはできませんでした。試験を終わって、退席直前になって、慌てて船舶の○を取り消し、航空に○をつけて試験場を出てきました。

 特幹一期の船舶兵は一八九〇人でしたが四五年四月から小豆島で訓練し、八月には一七一八人が特攻隊として第一線に配置されました。いわゆる陸軍海上挺進隊です。そのうち一一八五人がルソン島、沖縄、台湾沖で戦死しました。あの時、船舶兵に○のまま試験場を出ていたら、私もその中に入っていたと思います。

 陸軍海上挺進隊というのは、海軍の震洋特攻隊と同じです。特幹一期生を主力に創設された、陸軍の水上特攻隊でした。長さ五メートル、トヨタの六〇馬力ガソリンエンジンが付いたベニヤ板製で「連絡艇」通称レ艇(マルレ)に二五〇キロの爆薬を付けて敵艦に体当たりするのです。攻撃は三隻~九隻一体になって夜中に行われます。米艦は攻撃を避けるため、夜は港外に避難しています。そのため米艦に近づけず引き返してくることも度々ありました。

 ルソン島では米軍の進撃が早く、出撃基地を追われ、再度の出撃もならず、陸上部隊と地上戦闘に参加となります。すると「お前たちは特攻隊の生き残りだ。斬り込み隊で死んでこい」と命令されるのです。敵の見えるところまで進むと援護部隊はそこから一歩も出ずに、斬り込み隊の少年兵たちに「さあ、お前たち行け!」と突撃させられるわけです。生き残ると死ぬまで「斬り込み隊」です。

 入隊・問答無用で殴られる毎日

四四年(昭和一九)四月、私が入隊したのは水戸市郊外の陸軍航空通信学校長岡教育隊でした。私は対空無線隊要員でしたが、半日は数学、物理、電気工学の学習、そしてモールス信号の送受信の演習、無線機の取り扱いや実戦での送受信機材の設置整備の実技訓練、残りの半日は体育と軍事教練の毎日でした。

 今で言えば高校一年の年頃でしたが、自分の意志で志願した私たちにとって猛訓練も耐えることができました。然し、とても我慢がならなかったのは軍人精神を叩き込むための内務班の生活でした。

 起床ラッパが鳴って三分~五分で毛布をたたみ、服を着て、兵舎の前の広場に整列出来ないと竹刀で叩きのめされます。整頓が悪いといってビンタ。銃の手入れが悪いといって逆さに銃を持った捧げつつ一時間。返事が悪い、声が小さい、要領が悪い、たるんでいると二列に並び向かい合って殴り合う切磋琢磨、革のベルトで殴られる帯革ビンタ、机の端に逆立ちをする急降下爆撃等々、文字通り問答無用の私的制裁の毎日です。

 夜、消灯ラッパが聞こえると、あちこちの寝台からすすり泣きが聞こえてきました。一途な純情で入隊した少年の私は、当然、軍隊のもつ様々な矛盾とぶつかりました。「何故、こんなにぶん殴られ痛めつけられないと一人前の軍人になれないのだろうか。何かが間違っている。これはきっと、天皇陛下の大御心を途中でひん曲げる奴がいるからこうなるのだ。そいつ等をいつか叩き直してやろう。」そんな風に思ったのでした。

軍人勅諭と私的制裁

 一八八二年(明治一五)天皇から陸海軍軍人に与えられた「軍人勅諭」があります。天皇制政府は、「軍人勅諭」によって、軍人に天皇への忠誠心を叩き込み、天皇の命令に対する絶対服従を強要するため、暗記するまで覚え込ませました。

 「軍人勅諭」で最も強調されたのは、天皇への忠誠であり、軍隊は天皇の軍隊であるということでした。

「我国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある」「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と軍隊の最高指揮者であることを自ら宣言した天皇が、一番に訓示しているのが、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」ということです。

 「軍人勅諭」のもう一つの重大な内容は、天皇への忠誠と表裏一体の関係として、天皇への絶対服従と、天皇のために死ぬことを名誉とすることを兵士に叩き込んだことです。「上官の命を承ることは実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」という「軍人勅諭」の一節で不合理な命令も私的制裁も正当化されました。

こうして習性となるまで服従が強要され、それは兵士に自分の頭で考える余裕を与えず、命令に機械的に服従する習性をつけさせるまで行われました。こうした服従の強要は「只々一途に己が本分の忠節を守り義は山岳より重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」という「軍人勅諭」によって、天皇のために死ぬことを美徳とし、兵士の命を鳥の羽よりも軽いと見る非人間的な思想に他なりません。

  
繰り上げ卒業
 
 航空総監部管轄の教育隊に入校した特幹一期生の教育課程は、アメリカ軍の急速な反攻に一年六ヶ月から九ヶ月の半分に短縮されましたが、転属先も戦線の後退で当初の予定が大幅に変更になりました。フイリッピン、シンガポール方面など南方行きが出来なくなったのです。

昭和十九年十一月五日、少年兵学校の一斉繰り上げ卒業が行われました。
 南方総軍派遣要員のとして少年工科兵(200名)、少年戦車兵(256名)、少年通信兵(600名)、少年重砲兵(15名)、少年野砲兵(70名)、少年高射兵(205名)が乗り組んだ輸送船団はフイリッピンに向かいましたが、十一月十五日から十七7日にかけて済州島沖および五島列島沖で米潜水艦の攻撃を受け乗艦が沈没、その大部分が戦死したのでした。

 昭和二〇年一月九日には、フイリッピン、ルソン島リンガエン湾に米軍が上陸しました。

 シンガポールに司令部のある第三航空軍関係には、輸送船が次々に撃沈されて行くことが出来ません。第四航空軍は、富永司令官がフイリッピンのマニラから台湾に逃げ帰り、昭和二〇年二月に消滅しました。航空部隊は、地上部隊に併合されました。

 教育課程の繰り上げ修了したのに正規の転属先が決まらず、私は、四五年二月、対空無線隊員として、今のひたちなか市にあった、常陸教導飛行師団の水戸東飛行場に配属され、ここで初めての戦闘体験をしたのでした。

アメリカ軍艦載機の襲撃

二月一六日から三日間、硫黄島を取り囲んだアメリカ軍機動部隊は、猛烈な艦砲射撃の後、一九日、上陸を強行しました。その二月一六・一七日、鹿島灘沖に接近したニミッツ提督指揮下のアメリカ航空母艦から飛び立った数千の艦載機群によって、関東一円の日本軍飛行基地が壊滅的打撃を受けました。

 水戸東では空襲警報のでないうち、気が付いたら雲霞の如き大群のアメリカ艦載機が頭の上にやってきていました。日本のレーダーに捉えられないように海上すれすれに飛んできて、海岸で急上昇したのです。

 二日間にわたる猛烈な爆撃と銃撃を受け、四〇〇を超える陸軍の飛行機は炎上破壊され、一八〇名を超える兵士が戦死しました。急襲した米軍機は、まず格納庫前に置かれ銃弾と燃料を満載して何時でも飛び立てるよう準備された邀撃戦闘機のすべてを破壊しました。

 胴体に米軍爆撃機B29の撃墜マークを描いた戦闘機が猛烈な勢いで火を吹きました。機関銃や機関砲の銃弾が盲発してあたりに飛び散ります。近くに寄ることは出来ません。たまたま飛び立つた日本の戦闘機は袋だたきで瞬く間に撃ち落とされてしまいました。

 空には 米海軍戦闘機グラマンF6ヘルスキャットと、双胴で二〇ミリの機関砲を持ったロッキードP38です。数百機の米軍機はいくつもの編隊に別れ、「8」の字のたすきがけに交互に小型爆弾の爆撃と機銃掃射を繰り返えすのです。

 完全に飛行場の空を制した米軍機は続いて格納庫を狙い、次々に爆弾を投下し破壊し尽くしました。その後は対空射撃の銃座と兵員を狙い撃ちしてきました。
一つの銃座に何十機もが、編隊で交互に組んで突っ込んでくるんです。ほとんどの銃座が沈黙してしまいました。

     機銃掃射

 米軍機が真っ直ぐに降下し、土煙を上げながら機関銃の弾道が近づいてきます。飛行士の顔が見えます。飛行眼鏡がきらりと光ります。「天皇陛下万歳と言って死ぬのだろうか」「いや、お母さんといって死ぬのだそうだ」「母の早く亡くなった私はお父さんといって死ぬのだろうか」一瞬そんなことを考えた私の数メートル先で機銃掃射をやめ、小型爆弾を落とした米軍機は機首を上げ、私は泥まみれになりながら命拾いをしました。

 対空射撃の銃座をあらかた沈黙させると、次は格納庫の周りや兵舎の間に掘ってある壕に向かって爆撃と機銃掃射です。日本兵を捜し、狙い撃ちです。兎に角、高度十メートルもない低空飛行で攻撃するのです。

 何度目かの攻撃の後、私は受信所にいました。受信所は指揮所と同じ飛行場の真ん中にあります。それこそ攻撃の焦点です。飛ぶ飛行機ももう一機もありません。何もしないで狙われているだけです。送信所に行こうと言うことになりました。送信所は飛行場から離れた丘にあって、崖に掘った横穴式の壕の中にありました。

戦争とは殺し合いだ

 ところが送信所は壕の入り口に爆弾が落とされ全員が死んでいました。みんな爆風でバラバラになっていて、首が取れたり、腕が切れたり、無惨な姿になっていました。死体は文字通りバラバラで、それを私たちが集めるのです。揃えるんです。もうただ無我夢中で集めました。
 
 何と言ったら良いのか、涙も出てこないです。ちょっと言い表せないです。しっかりしなきゃいけないと自分に言い聞かせながら、もう戦友は死んだという、そういう何とも言えない口惜しさと、悲しさと、それからむごたらしいけれども、彼らを何とか守ってやらなきゃいけないというような使命感とか、そんなのがごちゃ混ぜになっていました。何とも言い難いです。

 五体揃えていって何人死んだかわかるんです。そうやって十一人揃えました。
志願して未だ一年もたたない、十六歳から二〇歳の同期生です。身体の部位は全て揃うわけではなくて「だいたい」です。機関銃や機関砲で機銃掃射を何度も受けると、死体がちぎれて跳ね上がって電線にぶら下がったり、どこかへ飛んでわからなくなるからです。脳味噌の出ている頭が転がったりもしていました。

 私はこのとき、戦争とは格好良いものではない。人と人との殺し合いそのものだと骨身にしみて思いました。

 転属待ち

 常陸飛行部隊が壊滅的大打撃を受けた後、、私は、水戸・長岡教育隊で待機することになりました。沖縄と台湾への転属組が、それぞれ、隊伍を組んで出発しました。前線に喜び勇んで別れの手を振る戦友たちを、じりじりとする焦りと、うらやましい思いの入り交じった気持ちで、「がんばれよ!」と送り出しました。

 台湾か沖縄か。アメリカの反攻は沖縄に向かいました。台湾組みの殆どは、戦後無事に帰国しました。あの時手を振って別れた沖縄組みの半数は、生きて還りませんでした。二十歳前の青春を沖縄戦で散らしたのでした。

 本土防衛のために編成された第六航空軍に残りの大部分が転属となり、抜刀した中隊長を先頭に、意気揚々と隊伍を組んで出発をしました。京城に司令部があり中国方面を守備範囲とする第五航空軍組は、それぞれの任地に別れて出発しました。

 四月、やっと関東軍に転属になりました。兵長でした。中国東北部、当時は日本の傀儡国家満州国の首都「新京」、現在の長春に第二航空軍の司令部がありました。

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