2007年12月1日土曜日

少年兵の無念 ― 生きているうちに語り継ぎたい その1

少年兵の無念
 ― 生きているうちに語り継ぎたい (第1回)
 (2007年12月1日わだつみ会12・1不戦の集い講演から)         
                         猪熊 得郎

「戦争しか知らない子供」として

 私は一九四四年(昭和一九年)十五歳で少年兵を志願し、一九四七年(昭和二二)十二月にシベリアでの抑留生活を終え復員したのは十九歳でした。二歳上の兄は人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員として沖縄出撃途中、一九四五年(昭和二〇年)三月、十八歳で戦死しました。

 十五年戦争といわれるアジア・太平洋戦争は一九三一年(昭和六)九月十八日の柳条湖事件を発端とする満州事変で始まりましたが、私が小学三年のとき、一九三七年(昭和十二)七月七日には廬溝橋事件が起こり中国に対する全面的戦争となりました。そして中学一年の時、一九四一年(昭和一六年)十二月には、日本軍のマレー半島上陸、真珠湾奇襲攻撃とアメリカ、イギリス、オランダへの宣戦布告によってアジア・、太平洋戦争が全面的に繰り広げられ、一九四五年(昭和二〇年)八月十五日の「ポツダム宣言」の受諾による日本の無条件降伏によって戦争は終わりました。

 七〇年代に「戦争を知らない子供たち」というフォークソングがヒットしましたが、私たち兄弟は、「戦争しか知らない 子供」として育ち私たちの「青春」は、まさに戦争の中の青春だったのでした。特攻隊員として十八歳で戦死した兄は、戦争のためにだけ生き、そして平和の時代を知ることなく、短い生涯を沖縄の海に散っていったのでした。

三七年には「国民精神総動員要綱」が閣議で決定され、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンのもと、毎月一日は「興亜奉公日」、後に八日の「大詔奉戴日」ですが、梅干しの「日の丸弁当」、国旗掲揚、神社仏閣への必勝祈願、防空訓練が行われていました。 小学一年の国語教科書では「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」「ヒノマルノハタ・バンザイ・バンザイ」と学び、唱歌の時間には「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったなら 鉄砲担いで剣下げて お馬に乗って はいどうどう」と歌いました。

   「チャンコロ.バタ屋・クズ屋」

 小学二年では上海事変の軍国美談、「爆弾三勇士」の話を聞きました。支那軍の鉄条網に、三人の兵隊が爆薬を詰めた筒を抱えて跳びこみ、自分の身を犠牲にして突破口を切り開いたという話です。支那と言う言葉は中国を侮蔑した言葉です。そして「なぜ、支那人をチャンコロというのか」と先生から教えられました。
明治二七・八年の日清戦争の時「日本は当時貧しかったから鉄砲を撃ってもチャンとしか言わなかったが、日本の兵隊は優秀だから鉄砲でチャンと撃つとコロリと支那兵が倒れる。チャン、コロリだ。だから彼らはチャンコロなのだ。」と真面目に教え込まれました。

 子ども心にバタ屋とクズ屋の違いを知っていました。クズ屋というのはお金を払ってクズを買って、それを売って生計を立てている人です。バタ屋というのは、拾って、それを売って生計を立てているのです。当時朝鮮は日本の植民地でした。
故国で食べていけず、多くの朝鮮人が日本に移り住んでいました。貧しい朝鮮の人たちは、肉体労働やそういう仕事をしていました。私たち日本の子どもは、それを見て、「朝鮮人、バタ屋、バタ屋」とからかっていたのです。

    「八紘一宇」

 三月一〇日の陸軍記念日は明治三十七・八年の日露戦争の奉天大会戦で日本陸軍が大勝利した日です。講堂に集められ、陸軍の軍人から奉天大会戦の話です。
五月二十七日は海軍記念日です。海軍軍人の日本海大海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅した話です。戦艦三笠を先頭に「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ。本日天気晴朗なれど波高し」というz旗上がるの話に血湧き肉躍らされました。

 中国戦線の拡大と共に出征兵士を送ることが毎月のようになりました。日の丸の旗を振りながら、「天に代わりて不義を撃つ 忠勇無双の我が兵は…」と軍歌を歌って行進しました。上海陥落、南京陥落など日本軍の大勝利が伝えられると旗行列、提灯行列で街中大騒ぎになりました。子どもたちも一緒に万歳万歳と歩き回りました。

 それから、天皇陛下、つまり大元帥陛下が代々木練兵場に来るようなときは、学校が近いので連れて行かれました。天皇陛下が白馬に跨って白い羽毛の帽子を被っているのを遠くから見て涙が出るほど感激していました。

 そういうふうに育ってきたわけですから、日本民族というのは優秀な民族で、朝鮮人や中国人は劣った民族だと思っていました。「我々は日出ずる国の天子の下、アジアの平和のため大東亜戦争に征くんだ」と、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」と言う言葉を子ども心に信じていました。

 八紘とは広い地の果て、天下という意味、一宇とは一つの家と言うことです。
八紘一宇とは、日出ずる国の天子、すなはち日本の天子の意向のもとに全世界を一体化しようという意味で日本の対外膨張を正当化するために用いられたスローガンです。

  「ススメ ススメ ヘイタイススメ」

  私たちを育てた当時の教科書の一部を紹介します。

  小学一年 修身
 木口小兵は、勇ましく戦(いくさ)に出ました。
 敵の弾に当たりましたが、死んでも、ラッパを口から離しませんでした。

  四年唱歌 靖国神社
 命は軽く 義は重し。
 その義を踏みて大君に 
 命を捧げし大丈夫(ますらお)よ。

 鋼(かね)の鳥居の奥深く
 神垣高くまつられて、
 誉れは世々に残るなれ。

  六年唱歌 出征兵士
  老いたる父の願いは一つ。
  義勇の務め、御国に尽くし、
  孝子の誉れ、我が家にあげよ。

  老いたる母の願いは一つ。
  軍(いくさ)に行かば、からだをいとえ。
  弾丸(タマ)に死すとも、病に死すな。

国民学校四年の音楽,
    「無言のがいせん」
一  雲山万里かけめぐり、
       敵を破ったおじさんが、
       今日は無言で帰られた。

二 無言の勇士のがいせんに、
 梅のかおりが身にしみる。
 みんなは無言でおじぎした

三 み国の使命にぼくたちも、
    やがて働く日が来たら、
   おじさんあなたが手本です

四五年に 「国民合唱」として日本放送協会のラジヲをつうじて歌唱指導された
「勝ち抜く僕ら少国民」という歌があります。
     勝ち抜く僕ら少国民 
     天皇陛下の御ために    
     死ねと教えた父母(ちちはは)の 
     赤い血潮を受け継いで   
     心に決死の白襷
      掛けて勇んで突撃だ
 
     必勝祈願の朝参り
     八幡さまの神前で
    木刀振って真剣に
     敵を百千斬り倒す
    力をつけてみせますと
     今朝も願いを掛けてきた

 そうして中学生時代は、日本軍の戦果を伝える大本営発表にラジオの前で万歳をし、軍事教練で戦場を夢見たのでした。さらに戦局の推移とともに「撃ちてし止まむ」「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」「月月火水木金金」などの新しいスローガンと「軍艦行進曲」「元寇」「抜刀隊」「加藤隼戦闘隊長」「若鷲の歌」等の軍歌に少年達は「正義感」と「愛国心」を燃え立たせたのでした。

   十五歳で少年兵志願

 私は四三年(昭和一八年)中学三年の冬、陸軍特別幹部候補生、略称特幹の志願を父に訴えました

 特幹というのは、その時陸軍で初めてできた制度です。戦線の拡大で航空、船舶などの下級技術系幹部が不足してくる。それで未だ頭が柔軟で一定の軍事教練の下地のある十五歳から十九歳の少年を集め、速成の下士官として戦地に送り出すというものでした。

 中学三年の私が少年兵を志願するというのです。父はびっくりしました。もちろん反対です。私の家は男四人、女一人の五人兄弟でしたが、私が末っ子の四男でした。昭和十六年七月に召集された長兄は満州で船舶兵の訓練を受け、その後南方に転戦していました。次兄は、昭和十八年十二月の学徒出陣で鉾田飛行部隊に入隊しました。三兄も次兄と同じ日、十七歳で海軍の予科練で三重航空隊に入隊しました。その上一人残ったまだ十五歳の私が特幹を志願するというのです。。

 父の説得
 父は必死で私を説得しました。「お父さんはお前が兵隊に征くことに反対するのではない。もう三人も征っている。充分お国のために尽くしている。銃後の守りも大切だ。お前だってもう何年か後には兵隊に征く。それまで心と体を鍛え、銃後を護ることも大切なことだ。」然し私は引き下がりませんでした。

 あまりの頑強さに父は論調を変えてきました。  
「そんなに軍人になりたいのなら士官学校に行きなさい。学校でも推薦しているではないか。特幹でも士官学校でも軍人になることに代わりはないだろう。まして士官学校を出て将校になれば、下士官や兵隊よりもっと大切な任務について、よりいっそうお国のために役に立つことになるのだろう。士官学校に行きなさい。」

 今こそ志願し日本を守る
 私は意志を変えませんでした。
 「アッツ島も、マキンもタラワも玉砕した。いま、我々が立ち上がらなければ日本は大変なことになる。士官学校に行けば、確かに将校になって偉くなれる。だけれども戦場に出るのは五年も六年も先だ。それでは間に合わない。その頃日本はどうなっているのか分からない。今志願して祖国日本を守る戦いに参加したいのだ。」

 三日間論争してとうとう私は、父をにらみつけたまま、口もきかなくなりました。根負けした父は四日目「それなら征きなさい。しかし命だけは大切にしなさい。」と許してくれました。

 「それでは征け」と言った父の、その時のがっくりとした姿は今でも目に浮かびます。がっくりと肩を落として許してくれた父の後ろの壁には「大元帥陛下」 昭和天皇の白馬に跨った写真と、「日の丸」の額が掲げられていました。

 生涯忘れることの出来ない痛恨の思い出です。