2010年7月4日日曜日

10年沖縄慰霊の日に寄せて
思い付くことあれこれ (1)

沖縄慰霊の日は、沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終わった6月23日です。摩文仁の丘にある平和の礎には、朝早くから沖縄本島各地からの人々が、礎に花を供え、亡くなった人を偲び語り合っている。

私も、1997年、回天搭乗員として沖縄出撃途中粟国島近海で戦死した、兄房蔵の礎追加刻銘以来、毎年6月23日にここを訪れ、花を捧げ、本島、及び離島での戦没地点調査・探索を1年も欠かさず続けてきた。

今年は、残念ながら、体調不安で、また、ここ数年兄の戦没調査探索を支え介助してくれた若い仲間たちが、失業、転職等で来られないと云うことも重なり断念した。

来年3月下旬と、6月には、誰か介助の仲間も見つけ、是非訪れる予定である。

白龍隊輸送艦沈没地点

去年は、2人の若い婦人の仲間に支えられ、慰霊の日の後、粟国島を訪れた。琉球新報の私への取材で、21日には、回天白龍隊の基地が、沖縄に設けられたこと、白龍隊がアメリカ潜水艦の攻撃で全員戦死したことが沖縄で初めて報じられた。続いて24日には、白龍隊と兄の戦没状況調査で私が訪れていることが報じられた。

強風のため、粟国島1泊の予定であったが、5時間の滞在であった。
那覇南西60キロの粟国島は、3度目であった。強風のため、輸送艦沈没地点の海上での献花は出来なかったが、沈没地点至近の海岸で献花をした。さらに戦後64年ぶりに、ついに輸送艦沈没を目撃した人を発見した。払暁、放牛に出かけ、戦闘状況を目撃したのだった。

7年前に2度目にここに来たとき、漁協の協力で遊漁船が海上を案内してくれ、船没地点で献花した。
その船長が、800人の島民に、白龍隊船没の話をふれ回った。アメリカ潜水艦の記録で伝えられた戦闘状況であるが、そう言えばあの時目撃したのは、この事だったのかと、今回、初めて日本人の目撃者が出たのである。


さとうきびばたけ

沖縄に来たら,是非さとうきび畑に佇み、風に吹かれ、65年前を偲んでもらいたい。

さとうきび畑の歌は1964年、作曲家の寺島尚彦が、歌手石井好子の伴奏者として本土復帰前の沖縄を訪問した際、摩文仁の丘を観光して着想した作品である。沖縄戦で亡くなった人々が眠るさとうきび畑をざわわざわわと風の音が流れる。11連11分の歌であるが「ざわわ」が66回繰り返される。

初めに森山良子がレコーデングしたが、上条恒彦がレコードデビュー第2作目として1971年にこの曲を出した。上条は新宿の歌声喫茶でアルバイトをしているとき、声が大きいから歌唱指導してみろと歌ったのが、この当時、沖縄返還運動の高まりとともに、歌声運動や、歌声喫茶でこの歌が良く歌われるようになった。

ある集会で、いわさきちひろが上条のレコードを見つけた。いわさきちひろは、この頃がんの発症と闘いながら、「戦火のなかの子どもたち」を制作中だった。ちひろは、上条のさとうきび畑を聞きながら、ざわわざわわの風音に、戦火を想い、作品を仕上げたのだった。

そのご、しばらく、11連での歌を聴くことがなかった。せいぜい3連か4連に省略して放送されていた、
しかし2001年鮫島有美子がこの歌を取り上げた。NHKも鮫島である。11連11分を超えるさとうきび畑が、テレビから流された。鮫島の素晴らしい歌唱力に誰もが心を打たれた。

これを機に多くの歌手が歌い、森山良子も11連で歌うことが多くなり、大流行したのだった。

今日はこれまで

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