10年沖縄慰霊の日に寄せて
思い付くことあれこれ (1)
沖縄慰霊の日は、沖縄戦での日本軍の組織的戦闘の終わった6月23日です。摩文仁の丘にある平和の礎には、朝早くから沖縄本島各地からの人々が、礎に花を供え、亡くなった人を偲び語り合っている。
私も、1997年、回天搭乗員として沖縄出撃途中粟国島近海で戦死した、兄房蔵の礎追加刻銘以来、毎年6月23日にここを訪れ、花を捧げ、本島、及び離島での戦没地点調査・探索を1年も欠かさず続けてきた。
今年は、残念ながら、体調不安で、また、ここ数年兄の戦没調査探索を支え介助してくれた若い仲間たちが、失業、転職等で来られないと云うことも重なり断念した。
来年3月下旬と、6月には、誰か介助の仲間も見つけ、是非訪れる予定である。
白龍隊輸送艦沈没地点
去年は、2人の若い婦人の仲間に支えられ、慰霊の日の後、粟国島を訪れた。琉球新報の私への取材で、21日には、回天白龍隊の基地が、沖縄に設けられたこと、白龍隊がアメリカ潜水艦の攻撃で全員戦死したことが沖縄で初めて報じられた。続いて24日には、白龍隊と兄の戦没状況調査で私が訪れていることが報じられた。
強風のため、粟国島1泊の予定であったが、5時間の滞在であった。
那覇南西60キロの粟国島は、3度目であった。強風のため、輸送艦沈没地点の海上での献花は出来なかったが、沈没地点至近の海岸で献花をした。さらに戦後64年ぶりに、ついに輸送艦沈没を目撃した人を発見した。払暁、放牛に出かけ、戦闘状況を目撃したのだった。
7年前に2度目にここに来たとき、漁協の協力で遊漁船が海上を案内してくれ、船没地点で献花した。
その船長が、800人の島民に、白龍隊船没の話をふれ回った。アメリカ潜水艦の記録で伝えられた戦闘状況であるが、そう言えばあの時目撃したのは、この事だったのかと、今回、初めて日本人の目撃者が出たのである。
さとうきびばたけ
沖縄に来たら,是非さとうきび畑に佇み、風に吹かれ、65年前を偲んでもらいたい。
さとうきび畑の歌は1964年、作曲家の寺島尚彦が、歌手石井好子の伴奏者として本土復帰前の沖縄を訪問した際、摩文仁の丘を観光して着想した作品である。沖縄戦で亡くなった人々が眠るさとうきび畑をざわわざわわと風の音が流れる。11連11分の歌であるが「ざわわ」が66回繰り返される。
初めに森山良子がレコーデングしたが、上条恒彦がレコードデビュー第2作目として1971年にこの曲を出した。上条は新宿の歌声喫茶でアルバイトをしているとき、声が大きいから歌唱指導してみろと歌ったのが、この当時、沖縄返還運動の高まりとともに、歌声運動や、歌声喫茶でこの歌が良く歌われるようになった。
ある集会で、いわさきちひろが上条のレコードを見つけた。いわさきちひろは、この頃がんの発症と闘いながら、「戦火のなかの子どもたち」を制作中だった。ちひろは、上条のさとうきび畑を聞きながら、ざわわざわわの風音に、戦火を想い、作品を仕上げたのだった。
そのご、しばらく、11連での歌を聴くことがなかった。せいぜい3連か4連に省略して放送されていた、
しかし2001年鮫島有美子がこの歌を取り上げた。NHKも鮫島である。11連11分を超えるさとうきび畑が、テレビから流された。鮫島の素晴らしい歌唱力に誰もが心を打たれた。
これを機に多くの歌手が歌い、森山良子も11連で歌うことが多くなり、大流行したのだった。
今日はこれまで
2010年6月30日水曜日
09年沖縄慰霊の日
09年沖縄慰霊の日
猪熊得郎
6月23日は沖縄慰霊の日です。
摩文仁平和祈念公園の平和の礎には、今年新たに123人が刻銘され、総数が24万856人となりました。
まだ薄暗い朝早くから遺族らが訪れ、平和の礎の名前を指でなぞったり、花を捧げ、手を合わせて、戦没者に語りかけていました。
私も18歳で戦死した兄の記銘碑の名前をなぞり、花を捧げ、65年前の別れをを思い起こしました。
44年8月の最後の日曜日、水戸の陸軍航空通信学校長岡教育隊の私に、父と兄が面会に来ました。別れの時、営門の前で黙って見つめ合いました。
前日、回天特攻隊を志願し採用された17歳の海軍予科練の兄は肘を前に出す海軍式の、15歳の陸軍特幹の弟の私は肘を横に張る陸軍式の敬礼を交わし別れを惜しみました。
父は黙って二人の少年兵の息子達を見つめていました。父と三人の最後の別れを思い起こし、碑の兄としばし語り合いました。
保存の会沖縄支局宮城さんの紹介で琉球新報本社から取材申し込みがありました。短い応答の後、東京支社の取材、そして沖縄での取材と云うことになりました。
琉球新報6月21日の記事です。
人間魚雷「回天」輸送艦撃沈 事実、元隊員らが解明
〔神奈川〕人間魚雷回天隊員ら352人を乗せた旧日本海軍の第18号輸送艦が1945年3月18日に粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈されて全滅されていた史実が、元回天隊員らの調査で明らかになっていたことが分かった。国の資料で那覇到着直前に「行方不明」とされ、その後「喪失認定」とされた同艦の史実が当事者らの掘り起こしで明らかになった。
遺族の中には国の戸籍謄本の訂正につなげた人もいる。回天搭乗員だった兄猪熊房蔵さん=当時(18歳)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=は、県内にあったとされる回天基地の所在を探すなど戦後64年を経た今も兄の痕跡を追い続ける。
第18号輸送艦の軌跡を調査したのは、元回天隊員らでつくる全国回天会長を務めた故小灘利春さんと同会事務局長を努めた河崎春美さん=東京都江東区=ら。米海軍の記録「第二次大戦潜水艦作戦史」などの資料から突き止めた。
河崎さんらは戦後、輸送艦乗員らの戦死の日や場所などが戸籍謄本などでまちまちなことに疑問を抱き、調査に着手した。「第18号輸送艦の搭乗者は、国の記録では死亡日が違っていたり、沖縄本島の陸上戦に参加していたりと、でたらめだった」と話す。
米資料によると、第18号輸送艦は45年3月13日に、回天白龍隊員らを乗せ山口県にあった光基地を出港。那覇到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発、1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら225人と、第1回天隊の白龍隊127人が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員127人は、14にんの氏名などが判明している以外は不明のままだ。
猪熊得郎さんの兄房蔵さんは、26年3月生まれ。44年8月に回天特攻隊に志願。」白龍隊搭乗員として、沖縄に赴く途次で死去した。だが、戦後の厚生省(当時)の記録(公報)や戸籍謄本では「荘河丸」で鹿児島を出発し東シナで死亡したと記録されていた。
「東シナ海はあるが、東シナなんて場所はない」。得郎さんは、小灘さんや河崎さんらの史実の調査も踏まえ、国に戸籍原本の記録訂正を要求し、2000年3月に実現した。
「回天の配備作戦は、司令官だけが知る秘密事項だったことが、後の記録が誤った原因の一つなのでしょう。本島中部に造られた回天の基地の所在ですら、今もって分からない」。兄の足跡をたどり何度も沖縄を訪れている得郎さんは今年も房蔵さんが追加刻銘された平和の礎を訪れ、兄を悼む。
平和の礎の兄の刻銘碑前で23日に現地取材を受けました。
琉球新報、24日の記事です。
兄の刻銘に決意新た
猪熊さん 回天隊員の最後調査
旧日本海軍の大18号輸送艦に搭乗し戦死した人間魚雷・回天隊員の猪熊房蔵さん=当時(18)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=が23日、糸満市の「平和の礎」を訪れた。
房蔵さんは44年8月に回天特攻隊に志願、白龍隊搭乗員として沖縄に赴く途中、戦死した。房蔵さんは1997年、礎に追加刻銘されたが、具体的な死亡場所や本島中部の回天基地の所在は不明で、房蔵さんの移動経路や任務の詳細も不明のままだ。
追加刻銘の後、毎年礎を訪れている得郎さんは「わたしも少年兵だったから兄がどんな気持ちで訓練し特攻隊に志願したか分かる。兄は、家族、国のためにと真剣に考えていた」と思いやる。
国が輸送艦を事実関係が不明のまま「喪失認定」としていることに対し得郎さんは「いつ、どこで兄が死んだのか分からないと言うのはあんまりだ。弟のわたしが少しでも調査し書き残さないといけない」と決意を新たにしていた。
第18号輸送艦は米資料で、45年3月18日、粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈され全滅したことが明らかになっている。
粟国島へ
第18号輸送艦沈没地点の粟国島行きを24日に予定していました。風浪が荒れて1日1便、片道2時間のフエリーは3日間欠航していました。
9人乗り1日2便の小型飛行機は今までの運行会社が4月で撤退し、6月から新しい会社で運行が再開されました。
フエリー欠航で飛行機に旅客が殺到しました。那覇空港でキャンセル待ちをしたが駄目でした。
私の体調を心配して、保存の会の若い女性ボランテイア2人が介添えで同行していました。諦めそうになる私を励ましてくれました。日帰りでもと25日の帰りの飛行便は確保しました。最後まで粘ることにしました。
幸い25日にフエリーが出ることになりました。12時粟国港着、1時間停留、13時粟国港発ということでした。
帰りの飛行機は運航するということです。12時から5時まで島にいることが出来ます。
私は97年にこの島に訪れています。
その時は、島の議員も、教育委員会も、一切記録もなく、手がかりは何も得られませんでした。
2001年に再びこの島を訪れました。民宿の女主人の努力で、私のために漁協が協議をして1艘の漁船を出してくれました。
第18号輸送艦沈没地点の海上で花を捧げることが出来たのです。島のすぐ目の前5キロの地点。しかし岸は断崖絶壁の岩場、1000メートルの海溝。回天隊員や輸送艦乗組員は、恐らく早い潮流に引き戻され、流され、また、鮫に襲われ一人も島にたどり着けなかったのでしょう。
現状を実際に見聞し兄や回天隊員の無念を思い知らされました。
今回は残念ながら海が荒れて漁船を出すことが出来ません。船長の案内で沈没地点の真正面の海岸を訪れました。水平線の遙か手前、石を投げれば届きそうな場所が兄たちの沈没地点です。
用意してきた花束を供え兄たちの無念を思い手を合わせました。 空も海も青く、兄が波の上に顔を出し、「得郎良く来たな」そう云って笑って手を振っているようでした。
介添え役の2人もまるで身内のように手を合わせてくれました。
船長の話
「あの辺は鯛の猟場です。私も海の穏やかな日は、毎日あそこに船を留め一日猟をします。いつもエンジンの音が聞こえました。何処に船がいるのかなと思って見渡しても他の船を見かけませんでした。ところが、前に猪熊さんを案内して、あそこで花を捧げました。それ以来エンジンの音が聞こえなくなりました。弟さんの訪れに兄さんの心が安らぎ、エンジンの音が聞こえなくなったのでしょう」
「前回の後、私の話から猪熊さんのこと、輸送艦の沈没のことが島の噂になりました。そうして、そういえばあれはそのことだったのか。明け方、牛の放牧にきた。海で船から火を噴いた。ジグザクに逃げていた。探照灯らしきものを照らしていた。大きな火柱を見た。船が沈むのを見た。」何人かの人から輸送艦沈没の状況を聞くようになったとのことでした。
その話は、米側資料の状況を裏付けるものでした。戦後64年目の発見です。
再訪までにより詳しい聞き取りをお願いして夕方、島を離れたのでした。
猪熊得郎
6月23日は沖縄慰霊の日です。
摩文仁平和祈念公園の平和の礎には、今年新たに123人が刻銘され、総数が24万856人となりました。
まだ薄暗い朝早くから遺族らが訪れ、平和の礎の名前を指でなぞったり、花を捧げ、手を合わせて、戦没者に語りかけていました。
私も18歳で戦死した兄の記銘碑の名前をなぞり、花を捧げ、65年前の別れをを思い起こしました。
44年8月の最後の日曜日、水戸の陸軍航空通信学校長岡教育隊の私に、父と兄が面会に来ました。別れの時、営門の前で黙って見つめ合いました。
前日、回天特攻隊を志願し採用された17歳の海軍予科練の兄は肘を前に出す海軍式の、15歳の陸軍特幹の弟の私は肘を横に張る陸軍式の敬礼を交わし別れを惜しみました。
父は黙って二人の少年兵の息子達を見つめていました。父と三人の最後の別れを思い起こし、碑の兄としばし語り合いました。
保存の会沖縄支局宮城さんの紹介で琉球新報本社から取材申し込みがありました。短い応答の後、東京支社の取材、そして沖縄での取材と云うことになりました。
琉球新報6月21日の記事です。
人間魚雷「回天」輸送艦撃沈 事実、元隊員らが解明
〔神奈川〕人間魚雷回天隊員ら352人を乗せた旧日本海軍の第18号輸送艦が1945年3月18日に粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈されて全滅されていた史実が、元回天隊員らの調査で明らかになっていたことが分かった。国の資料で那覇到着直前に「行方不明」とされ、その後「喪失認定」とされた同艦の史実が当事者らの掘り起こしで明らかになった。
遺族の中には国の戸籍謄本の訂正につなげた人もいる。回天搭乗員だった兄猪熊房蔵さん=当時(18歳)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=は、県内にあったとされる回天基地の所在を探すなど戦後64年を経た今も兄の痕跡を追い続ける。
第18号輸送艦の軌跡を調査したのは、元回天隊員らでつくる全国回天会長を務めた故小灘利春さんと同会事務局長を努めた河崎春美さん=東京都江東区=ら。米海軍の記録「第二次大戦潜水艦作戦史」などの資料から突き止めた。
河崎さんらは戦後、輸送艦乗員らの戦死の日や場所などが戸籍謄本などでまちまちなことに疑問を抱き、調査に着手した。「第18号輸送艦の搭乗者は、国の記録では死亡日が違っていたり、沖縄本島の陸上戦に参加していたりと、でたらめだった」と話す。
米資料によると、第18号輸送艦は45年3月13日に、回天白龍隊員らを乗せ山口県にあった光基地を出港。那覇到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発、1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら225人と、第1回天隊の白龍隊127人が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員127人は、14にんの氏名などが判明している以外は不明のままだ。
猪熊得郎さんの兄房蔵さんは、26年3月生まれ。44年8月に回天特攻隊に志願。」白龍隊搭乗員として、沖縄に赴く途次で死去した。だが、戦後の厚生省(当時)の記録(公報)や戸籍謄本では「荘河丸」で鹿児島を出発し東シナで死亡したと記録されていた。
「東シナ海はあるが、東シナなんて場所はない」。得郎さんは、小灘さんや河崎さんらの史実の調査も踏まえ、国に戸籍原本の記録訂正を要求し、2000年3月に実現した。
「回天の配備作戦は、司令官だけが知る秘密事項だったことが、後の記録が誤った原因の一つなのでしょう。本島中部に造られた回天の基地の所在ですら、今もって分からない」。兄の足跡をたどり何度も沖縄を訪れている得郎さんは今年も房蔵さんが追加刻銘された平和の礎を訪れ、兄を悼む。
平和の礎の兄の刻銘碑前で23日に現地取材を受けました。
琉球新報、24日の記事です。
兄の刻銘に決意新た
猪熊さん 回天隊員の最後調査
旧日本海軍の大18号輸送艦に搭乗し戦死した人間魚雷・回天隊員の猪熊房蔵さん=当時(18)=の弟得郎さん(80)=横須賀市=が23日、糸満市の「平和の礎」を訪れた。
房蔵さんは44年8月に回天特攻隊に志願、白龍隊搭乗員として沖縄に赴く途中、戦死した。房蔵さんは1997年、礎に追加刻銘されたが、具体的な死亡場所や本島中部の回天基地の所在は不明で、房蔵さんの移動経路や任務の詳細も不明のままだ。
追加刻銘の後、毎年礎を訪れている得郎さんは「わたしも少年兵だったから兄がどんな気持ちで訓練し特攻隊に志願したか分かる。兄は、家族、国のためにと真剣に考えていた」と思いやる。
国が輸送艦を事実関係が不明のまま「喪失認定」としていることに対し得郎さんは「いつ、どこで兄が死んだのか分からないと言うのはあんまりだ。弟のわたしが少しでも調査し書き残さないといけない」と決意を新たにしていた。
第18号輸送艦は米資料で、45年3月18日、粟国島沖合北北西5キロで米潜水艦に撃沈され全滅したことが明らかになっている。
粟国島へ
第18号輸送艦沈没地点の粟国島行きを24日に予定していました。風浪が荒れて1日1便、片道2時間のフエリーは3日間欠航していました。
9人乗り1日2便の小型飛行機は今までの運行会社が4月で撤退し、6月から新しい会社で運行が再開されました。
フエリー欠航で飛行機に旅客が殺到しました。那覇空港でキャンセル待ちをしたが駄目でした。
私の体調を心配して、保存の会の若い女性ボランテイア2人が介添えで同行していました。諦めそうになる私を励ましてくれました。日帰りでもと25日の帰りの飛行便は確保しました。最後まで粘ることにしました。
幸い25日にフエリーが出ることになりました。12時粟国港着、1時間停留、13時粟国港発ということでした。
帰りの飛行機は運航するということです。12時から5時まで島にいることが出来ます。
私は97年にこの島に訪れています。
その時は、島の議員も、教育委員会も、一切記録もなく、手がかりは何も得られませんでした。
2001年に再びこの島を訪れました。民宿の女主人の努力で、私のために漁協が協議をして1艘の漁船を出してくれました。
第18号輸送艦沈没地点の海上で花を捧げることが出来たのです。島のすぐ目の前5キロの地点。しかし岸は断崖絶壁の岩場、1000メートルの海溝。回天隊員や輸送艦乗組員は、恐らく早い潮流に引き戻され、流され、また、鮫に襲われ一人も島にたどり着けなかったのでしょう。
現状を実際に見聞し兄や回天隊員の無念を思い知らされました。
今回は残念ながら海が荒れて漁船を出すことが出来ません。船長の案内で沈没地点の真正面の海岸を訪れました。水平線の遙か手前、石を投げれば届きそうな場所が兄たちの沈没地点です。
用意してきた花束を供え兄たちの無念を思い手を合わせました。 空も海も青く、兄が波の上に顔を出し、「得郎良く来たな」そう云って笑って手を振っているようでした。
介添え役の2人もまるで身内のように手を合わせてくれました。
船長の話
「あの辺は鯛の猟場です。私も海の穏やかな日は、毎日あそこに船を留め一日猟をします。いつもエンジンの音が聞こえました。何処に船がいるのかなと思って見渡しても他の船を見かけませんでした。ところが、前に猪熊さんを案内して、あそこで花を捧げました。それ以来エンジンの音が聞こえなくなりました。弟さんの訪れに兄さんの心が安らぎ、エンジンの音が聞こえなくなったのでしょう」
「前回の後、私の話から猪熊さんのこと、輸送艦の沈没のことが島の噂になりました。そうして、そういえばあれはそのことだったのか。明け方、牛の放牧にきた。海で船から火を噴いた。ジグザクに逃げていた。探照灯らしきものを照らしていた。大きな火柱を見た。船が沈むのを見た。」何人かの人から輸送艦沈没の状況を聞くようになったとのことでした。
その話は、米側資料の状況を裏付けるものでした。戦後64年目の発見です。
再訪までにより詳しい聞き取りをお願いして夕方、島を離れたのでした。
2010年6月20日日曜日
「シベリア特措法」成立に思う」
「シベリア特措法」が16日夜成立した。感無量である。
舞鶴港に帰国した時、祖国日本の美しさに涙した感激を忘れられない。
しかし、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の美名のもと、「聖戦」に命を捧げよと、私たち兵士を送り出した祖国日本の冷酷な仕打ちを、深く胸に刻みつけられた65年であった。
地獄の淵を這いずり、やっと祖国に辿り着いたシベリア抑留元兵士たちは、「シベリア帰り」というただそれだけで日本社会から阻害され、職を求め、糧を得るのに必死の十数年であった。
私は中学3年15歳で、父の猛烈な反対を押し切り少年兵を志願した。
敗戦を関東軍兵士として中国東北部、旧満州、公主嶺飛行場で迎え、ソ連に強制抑留、そして昭和22年12月、シベリアから祖国の土を踏んだのは19歳の年である。
私の故郷東京の家は空襲で跡形もなく、私の帰国を誰よりも喜ぶはずの父は、度重なる空襲を生き延びつつも交通事故で前年になくなっていた。
2歳上の兄は、人間魚雷回天搭乗員として、沖縄出撃途中戦死、18歳であった。幸い3人の兄姉が肩を寄せ合い私の帰国を喜んでくれた。
母校の中学を訪れた。丁度、学制が、6.3.3.4制に変換するときであった。「復学」のためである。新制度の高校1年進学を申し出た。応接したのは校長で、私が少年兵を志願したとき、教頭として激励の挨拶をした。「祖国日本の難局に,学業途中で戦場に赴く、まさに日本男児の鏡、我が校の名誉この上ない」と万歳3唱の音頭を取ったのがこの人であった。
懐かしさと期待に胸を膨らませた私に彼はこう言った。
「旧制中学4年終了の免状を上げるから他所へ行って下さい。残った君の級友たちも学徒動員で工場で働き勉強などしていなかった。当時の学制で、旧制中学4年終了卒業となったのです」「シベリア帰りとか、元少年兵など云わない方が良いですよ」
「生きて還って良かった」などの喜びの言葉など一言もなかった。
迷惑げの「厄介払い」に、悲しさと口惜しさで胸は張り裂けるばかりであった。
あの時の惨めさ、空しさ、悲しさ、口惜しさは生涯消え去ることはない。
15歳から19歳の経歴を作り,職を求め、時には、「経歴詐称」で首切りの口実になる。何のための「青春」だったのだろうか。
私の軍人恩給は、「一時恩給」1万2千5百円、1回きり。5年間の軍歴は「公務員」でないから「年金」加算一切なし。そうしてシベリア抑留強制労働の労賃を支払えの要求には、戦後処理は終わったとの政府の対応。この65年でした。
日本政府から天皇のため「国体護持」を条件に労働力としてお使い下さいと「棄兵棄民政策」で差し出され、国際法を無視したソ連スターリンによって、不法に「拉致」され、シベリアに抑留された関東軍兵士60万人。
零下20~30度の酷寒、薄ぺらな黒パン一切れ、薄味の塩スープの食事の空腹、靴を削りかみしめ耐えた飢え、問答無用、前代未聞の奴隷労働。過酷な条件を加重する旧軍の階級支配の圧政に兵士の命を守るための前期民主運動(昭和22年まで)。階級章を獲ることは、ソ連軍管理の集団組織を破壊するものだとソ連軍からの弾圧、昭和23年頃からのソ連盲従の後期民主運動に日本人同士の対立と抗争。シベリアの凍土の眠る6万人の元兵士たち。
給付金は25万円から150万円ということだが、圧倒的部分は35~25万円。青春を奪われた数十ヶ月に比べればほんの僅か。
しかし金額の問題ではない。不十分にせよ政府が謝ったのだ。
私たち抑留者は、長年の間だ、労働の対価が支払われなかったとして、補償を求めてきた。しかし、日本政府はこれまで「戦後処理は終わった」と応じてこなかった。
法案は議員立法。条文に「補償」という文言は盛り込まれなかったが、提案した佐藤泰介・参院総務委員長は国会での趣旨説明で
「長期間にわたる強制労働にもかかわらず、その対価が支払われていない。問題解決に長い歳月がかかったことを社会全体として反省し、その労苦を慰謝することが必要だ」と述べ、給付金には補償・謝罪の趣旨が含まれていることを明言した。
のどに刺さった小骨が取れたようだ
しかし、課題は多く残っている。
シベリア抑留の真相解明だ。何故こんな事が起こったのか。
そして、実態を明らかにする。
一体何人が抑留され、何人が亡くなったのか。
遺骨の収集を早く。
韓国、朝鮮、台湾、中国もと抑留者への補償。
次世代への継承
等々である。
私も長生きして、痛苦の体験を語り継ぎ多少とも貢献できればと願っている。
舞鶴港に帰国した時、祖国日本の美しさに涙した感激を忘れられない。
しかし、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の美名のもと、「聖戦」に命を捧げよと、私たち兵士を送り出した祖国日本の冷酷な仕打ちを、深く胸に刻みつけられた65年であった。
地獄の淵を這いずり、やっと祖国に辿り着いたシベリア抑留元兵士たちは、「シベリア帰り」というただそれだけで日本社会から阻害され、職を求め、糧を得るのに必死の十数年であった。
私は中学3年15歳で、父の猛烈な反対を押し切り少年兵を志願した。
敗戦を関東軍兵士として中国東北部、旧満州、公主嶺飛行場で迎え、ソ連に強制抑留、そして昭和22年12月、シベリアから祖国の土を踏んだのは19歳の年である。
私の故郷東京の家は空襲で跡形もなく、私の帰国を誰よりも喜ぶはずの父は、度重なる空襲を生き延びつつも交通事故で前年になくなっていた。
2歳上の兄は、人間魚雷回天搭乗員として、沖縄出撃途中戦死、18歳であった。幸い3人の兄姉が肩を寄せ合い私の帰国を喜んでくれた。
母校の中学を訪れた。丁度、学制が、6.3.3.4制に変換するときであった。「復学」のためである。新制度の高校1年進学を申し出た。応接したのは校長で、私が少年兵を志願したとき、教頭として激励の挨拶をした。「祖国日本の難局に,学業途中で戦場に赴く、まさに日本男児の鏡、我が校の名誉この上ない」と万歳3唱の音頭を取ったのがこの人であった。
懐かしさと期待に胸を膨らませた私に彼はこう言った。
「旧制中学4年終了の免状を上げるから他所へ行って下さい。残った君の級友たちも学徒動員で工場で働き勉強などしていなかった。当時の学制で、旧制中学4年終了卒業となったのです」「シベリア帰りとか、元少年兵など云わない方が良いですよ」
「生きて還って良かった」などの喜びの言葉など一言もなかった。
迷惑げの「厄介払い」に、悲しさと口惜しさで胸は張り裂けるばかりであった。
あの時の惨めさ、空しさ、悲しさ、口惜しさは生涯消え去ることはない。
15歳から19歳の経歴を作り,職を求め、時には、「経歴詐称」で首切りの口実になる。何のための「青春」だったのだろうか。
私の軍人恩給は、「一時恩給」1万2千5百円、1回きり。5年間の軍歴は「公務員」でないから「年金」加算一切なし。そうしてシベリア抑留強制労働の労賃を支払えの要求には、戦後処理は終わったとの政府の対応。この65年でした。
日本政府から天皇のため「国体護持」を条件に労働力としてお使い下さいと「棄兵棄民政策」で差し出され、国際法を無視したソ連スターリンによって、不法に「拉致」され、シベリアに抑留された関東軍兵士60万人。
零下20~30度の酷寒、薄ぺらな黒パン一切れ、薄味の塩スープの食事の空腹、靴を削りかみしめ耐えた飢え、問答無用、前代未聞の奴隷労働。過酷な条件を加重する旧軍の階級支配の圧政に兵士の命を守るための前期民主運動(昭和22年まで)。階級章を獲ることは、ソ連軍管理の集団組織を破壊するものだとソ連軍からの弾圧、昭和23年頃からのソ連盲従の後期民主運動に日本人同士の対立と抗争。シベリアの凍土の眠る6万人の元兵士たち。
給付金は25万円から150万円ということだが、圧倒的部分は35~25万円。青春を奪われた数十ヶ月に比べればほんの僅か。
しかし金額の問題ではない。不十分にせよ政府が謝ったのだ。
私たち抑留者は、長年の間だ、労働の対価が支払われなかったとして、補償を求めてきた。しかし、日本政府はこれまで「戦後処理は終わった」と応じてこなかった。
法案は議員立法。条文に「補償」という文言は盛り込まれなかったが、提案した佐藤泰介・参院総務委員長は国会での趣旨説明で
「長期間にわたる強制労働にもかかわらず、その対価が支払われていない。問題解決に長い歳月がかかったことを社会全体として反省し、その労苦を慰謝することが必要だ」と述べ、給付金には補償・謝罪の趣旨が含まれていることを明言した。
のどに刺さった小骨が取れたようだ
しかし、課題は多く残っている。
シベリア抑留の真相解明だ。何故こんな事が起こったのか。
そして、実態を明らかにする。
一体何人が抑留され、何人が亡くなったのか。
遺骨の収集を早く。
韓国、朝鮮、台湾、中国もと抑留者への補償。
次世代への継承
等々である。
私も長生きして、痛苦の体験を語り継ぎ多少とも貢献できればと願っている。
2010年5月26日水曜日
靖国神社雑感4.人間機雷伏龍
遊就館には潜水服を着て、棒機雷を突き上げる『伏龍』特攻隊員の模型の像が展示してあります。
『伏龍』の訓練基地は、三浦半島の私の家から15分程の野比海岸にありました。夏に三浦海岸で海水浴をされる方も居るでしょう。海に向かって左の方、東京、横浜方面に久里浜東電の煙突と突堤が見えます。その手前左の砂浜、三浦海岸から4~7キロが野比海岸です。
予科練.少年兵と特攻兵器
「伏龍」.「土龍」.「神龍」三連続作戦
本土決戦に備え「伏龍」、「土龍」、「神龍」、三連続特攻作戦
1945(昭和20)年、米軍の本土上陸作戦に備えて海軍では水中・水上特攻作戦の部隊の配備と訓練がすすめられていました。米軍の本土上陸の時期は10月ないし11月、予想地点は九州の志布志(しぶし)湾、宮崎海岸、四国の桂浜、関東の九十九里浜、相模湾とされていました。
これに対応し連合軍上陸第一歩を洋上で迎え撃つために編成されたのが、人間魚雷「回天(かいてん)」、水中有翼小型潜航艇「海龍」、水中特攻「蛟龍」(こうりゅう)、水上特攻「震洋」(しんよう)による特攻攻撃戦隊です。
さらに最後の特攻作戦として考え出されたのが「伏龍」、「土龍」、「神龍」の三連続作戦でした。
そしてこれら特攻部隊の主力はすでに乗るべき飛行機もなくなった十六歳から二十歳前の「予科練」の少年兵たちでした。
「人間機雷『伏龍』」
水際特攻、人間機雷「伏龍」は、簡易潜水服に身をつつんで敵の上陸予想地点の海底に潜み、あらかじめ張りめぐらせた誘導索をたどって敵の停泊した艦船に近づき、あるいは上陸しようと沖から向かって来る敵上陸用舟艇に対して、「棒機雷」を船底めがけて突き上げて、これを爆破、撃沈しようというものでした。
伏龍の訓練
伏龍隊員の主力は飛行予科練習生(少年兵)であり、その指揮官は予備学生出身(学徒兵)の士官でした。飛行兵を志望し、その訓練半ばの少年兵にとって、航空隊から伏龍隊への心の転換は容易でなかったでしょうが、飛行機も少ない、燃料も乏しい戦況下に、心身ともに堅実な飛行予科練習生がその主力隊員として選ばれたのでした。主に甲種予科練14期生、乙種予科練20期生が中心で、後に予科練採用中止に伴って5月に創設されたばかりの海軍特別幹部練習生も、伏龍隊要員に組み込まれ、その中には後の作家城山三郎もいたのでした。
7月から各地で訓練が開始されました。
横須賀鎮守府では、第1特攻戦隊嵐部隊第71突撃隊として、7月上旬以降、順次3ケ大隊約1500名が横須賀の野比、対潜学校、工作学校に集められ、潜水訓練が行われていました。
久里浜港から三崎に向かって千駄ケ崎のトンネルを出ると野比海岸です。トンネルを出てすぐ右手に大隊本部がありました。
その先の海軍病院(現久里浜アルコール症センター-)から久里浜寄りが第一実習場、三浦寄りが第二実習場。兵舎は病院の先で近くの小学校の分教場(今の横須賀第一老人ホームのところ)の一部も兵舎とされていました。
最初の十日間程の前期訓練は、久里浜の夫婦橋のたもとから伝馬船式潜水工作船に乗って平作川を下り海に出て右手に曲り、ペリー記念碑(1853年浦賀来航を前に上陸した米特使ペリーの上陸記念碑)沖での潜水訓練でした。
野比海岸での後期訓練は、導索を使って歩いて海中を潜水する訓練で、なれてくると索なしでの海中歩行訓練が行われていました。 潜水衣を着け、鉛の靴を履き、背中に酸素ボンベと空気清浄罐を背負って海に潜ります。水中では鼻からボンベの酸素を吸い、口から息を吐く。吐き出した炭酸ガスは清浄罐のなかの苛性ソーダに吸収させ循環させるという仕組みです。
困難と犠牲
しかしその訓練には多くの困難と犠牲が伴いました。
伏龍特攻隊の戦闘は、簡易潜水服を身につけ約5メートルの竹竿の先につけた五式撃雷(通称棒機雷)を持った隊員が、海底5~7メートルに潜み、頭上を通過する敵の上陸用舟艇の船底めがけて体当たり攻撃をかけるというものです。
問題は長時間海底に潜むことです。酸素は呼吸、浮上、水中懸吊に使うので大量に使用します。このため、炭酸ガスの混ざった呼気は口から吐き出し清浄缶を通して苛性ソーダに炭酸ガスを吸収させ、再び吸気として還元使用する仕組みになっていました。
しかし潜水中の鼻から吸い、口から出す呼吸法が難しく、3~4回間違え海中で気を失うこともあり、しばしば事故が起きました。清浄罐の破損や呼吸法を間違えて苛性ソーダ液を飲み込み、口中、食道、胃までただれてしまうのです。
事故の度に病院から医師が呼ばれてきましたが、訓練も装備も極秘作戦準備中の軍事機密で医師たちは治療法がわからずなすすべもありませんでした。わずか一、二カ月で数十名をこえる犠牲者が出たと言われていますが、正確な実態はわかっていません。真夏の陽光の下で何体もの死体が砂浜に並べられることもあったとのことです。遺体はは戸板にのせ担いで、当時、最宝寺の近くにあった火葬場まで1キロ以上の道を運び、遺骨にしたとのことです。また、8月に久里浜沖で起こった事故では、数体の遺体が見付からず、未だに海中に残されたままです。
伏龍を配備する地点は、敵の攻撃部隊の入泊が予想される海面付近が選定されました。待機する陣地は敵の砲弾に耐えることのできる地下施設でした。陣地から泊地に至る海底には、伏龍部隊を敵艦に誘導するに十分な誘導索を展張する予定でした。
久里浜での訓練では、歩数によって、50メートル間隔で5~7メートルの海底に伏龍隊員が展開待機する訓練が行われました。しかし、干満で潮流の変化する歩きにくい海底で、歩数で予定された展開配備点に着くのは至難の業でした。
五式撃雷の爆発安全圏は50メートルとされていました。しかし海底の困難な条件下で安全と言えるでしょうか。1発の爆発が、海水を伝播して、すべてが一挙に爆死することも十分考えられることでした。
日本の敗戦で伏龍作戦は実施されませんでした。しかし「天皇のため、国のため」侵略戦争の特攻訓練に青春を捧げさせられた少年兵たちの無念を忘れてはならないでしょう。
「もぐら作戦『土龍』」
もぐら作戦特攻「土龍」は、上陸した敵米軍の戦車を対象にして考えられた特攻作戦です。防衛すべき地域の外周に五メートル間隔に穴、いわゆる蛸壺を掘って、「急造地雷」といわれる四角な箱に詰められた火薬を背負い、この穴に潜み、時速三十キロくらいの速度で進んで来る敵戦車に葡匐(ほふく)前進で接近し、その戦車の腹に飛び込んで、これを爆破しようとする肉弾戦法でした。
武器としては、急造地雷のほかに「棒地雷」や「火炎瓶」などを使用することを考えていました。それに「蛸壺」との組み合わせで、文字通り肉弾突撃の戦法という以外にない悲壮なものでした。
主な要員には、練習生教育が中止された後の乙飛第22期、23期、24期や甲飛15期、16期などが予定されていました。彼らはどんな気持ちでこの訓練をしていたのでしょうか。
「滑空特攻機『神龍』」
「神龍」は、内陸部に進入してきた戦車に突入する滑空特攻機です。山腹に潜ませていて、山間を進撃してくる米軍のM1型戦車などに音もなく襲いかかって、これに体当たり自爆しようというものでした。
神龍は滑空機だから、もちろんエンジンはありません。飛行機に乗れなければせめて飛行服を着て戦いたい。少年兵たちの切ない願いです。神龍は空からのゲリラ特攻です。予科練は飛行兵だ。水に潜るのではなく、大空への夢に少しでも近づきたい、空を羽ばたくことが打ち砕かれた挫折感を、せめて空を滑空する兵器で戦う使命感で少年たちは訓練に励んだのでした。
要員は、予備学生第15期(前期)、予備生徒第2期(前期)、予科練からは甲飛第14期、乙飛第20期、特乙第6期、それに丙飛が予定されていました。
45年(昭和20)6月1日、三重空野辺山派遣隊が設置され、三重空において基礎訓練を終えた後、乙飛第20期などは滑空特攻要員として6月24日、長野県の野辺山に向かって出発しました。これら隊員の担当教員は、甲飛第12、13期、乙飛第18期、特乙第3、4期などでした。
○ どの展示にも勇戦奮闘の解説が表示されていますが、戦争への想像力を働かせ、軍命に従い、戦場に赴いた兵士たちの、悲しみ、苦しみ、怒り、無念さを偲び、戦争とは何か、是非考えて下さい。
私も健康に留意して長生きに努め、生きている限り、戦場体験を語続けます。
『伏龍』の訓練基地は、三浦半島の私の家から15分程の野比海岸にありました。夏に三浦海岸で海水浴をされる方も居るでしょう。海に向かって左の方、東京、横浜方面に久里浜東電の煙突と突堤が見えます。その手前左の砂浜、三浦海岸から4~7キロが野比海岸です。
予科練.少年兵と特攻兵器
「伏龍」.「土龍」.「神龍」三連続作戦
本土決戦に備え「伏龍」、「土龍」、「神龍」、三連続特攻作戦
1945(昭和20)年、米軍の本土上陸作戦に備えて海軍では水中・水上特攻作戦の部隊の配備と訓練がすすめられていました。米軍の本土上陸の時期は10月ないし11月、予想地点は九州の志布志(しぶし)湾、宮崎海岸、四国の桂浜、関東の九十九里浜、相模湾とされていました。
これに対応し連合軍上陸第一歩を洋上で迎え撃つために編成されたのが、人間魚雷「回天(かいてん)」、水中有翼小型潜航艇「海龍」、水中特攻「蛟龍」(こうりゅう)、水上特攻「震洋」(しんよう)による特攻攻撃戦隊です。
さらに最後の特攻作戦として考え出されたのが「伏龍」、「土龍」、「神龍」の三連続作戦でした。
そしてこれら特攻部隊の主力はすでに乗るべき飛行機もなくなった十六歳から二十歳前の「予科練」の少年兵たちでした。
「人間機雷『伏龍』」
水際特攻、人間機雷「伏龍」は、簡易潜水服に身をつつんで敵の上陸予想地点の海底に潜み、あらかじめ張りめぐらせた誘導索をたどって敵の停泊した艦船に近づき、あるいは上陸しようと沖から向かって来る敵上陸用舟艇に対して、「棒機雷」を船底めがけて突き上げて、これを爆破、撃沈しようというものでした。
伏龍の訓練
伏龍隊員の主力は飛行予科練習生(少年兵)であり、その指揮官は予備学生出身(学徒兵)の士官でした。飛行兵を志望し、その訓練半ばの少年兵にとって、航空隊から伏龍隊への心の転換は容易でなかったでしょうが、飛行機も少ない、燃料も乏しい戦況下に、心身ともに堅実な飛行予科練習生がその主力隊員として選ばれたのでした。主に甲種予科練14期生、乙種予科練20期生が中心で、後に予科練採用中止に伴って5月に創設されたばかりの海軍特別幹部練習生も、伏龍隊要員に組み込まれ、その中には後の作家城山三郎もいたのでした。
7月から各地で訓練が開始されました。
横須賀鎮守府では、第1特攻戦隊嵐部隊第71突撃隊として、7月上旬以降、順次3ケ大隊約1500名が横須賀の野比、対潜学校、工作学校に集められ、潜水訓練が行われていました。
久里浜港から三崎に向かって千駄ケ崎のトンネルを出ると野比海岸です。トンネルを出てすぐ右手に大隊本部がありました。
その先の海軍病院(現久里浜アルコール症センター-)から久里浜寄りが第一実習場、三浦寄りが第二実習場。兵舎は病院の先で近くの小学校の分教場(今の横須賀第一老人ホームのところ)の一部も兵舎とされていました。
最初の十日間程の前期訓練は、久里浜の夫婦橋のたもとから伝馬船式潜水工作船に乗って平作川を下り海に出て右手に曲り、ペリー記念碑(1853年浦賀来航を前に上陸した米特使ペリーの上陸記念碑)沖での潜水訓練でした。
野比海岸での後期訓練は、導索を使って歩いて海中を潜水する訓練で、なれてくると索なしでの海中歩行訓練が行われていました。 潜水衣を着け、鉛の靴を履き、背中に酸素ボンベと空気清浄罐を背負って海に潜ります。水中では鼻からボンベの酸素を吸い、口から息を吐く。吐き出した炭酸ガスは清浄罐のなかの苛性ソーダに吸収させ循環させるという仕組みです。
困難と犠牲
しかしその訓練には多くの困難と犠牲が伴いました。
伏龍特攻隊の戦闘は、簡易潜水服を身につけ約5メートルの竹竿の先につけた五式撃雷(通称棒機雷)を持った隊員が、海底5~7メートルに潜み、頭上を通過する敵の上陸用舟艇の船底めがけて体当たり攻撃をかけるというものです。
問題は長時間海底に潜むことです。酸素は呼吸、浮上、水中懸吊に使うので大量に使用します。このため、炭酸ガスの混ざった呼気は口から吐き出し清浄缶を通して苛性ソーダに炭酸ガスを吸収させ、再び吸気として還元使用する仕組みになっていました。
しかし潜水中の鼻から吸い、口から出す呼吸法が難しく、3~4回間違え海中で気を失うこともあり、しばしば事故が起きました。清浄罐の破損や呼吸法を間違えて苛性ソーダ液を飲み込み、口中、食道、胃までただれてしまうのです。
事故の度に病院から医師が呼ばれてきましたが、訓練も装備も極秘作戦準備中の軍事機密で医師たちは治療法がわからずなすすべもありませんでした。わずか一、二カ月で数十名をこえる犠牲者が出たと言われていますが、正確な実態はわかっていません。真夏の陽光の下で何体もの死体が砂浜に並べられることもあったとのことです。遺体はは戸板にのせ担いで、当時、最宝寺の近くにあった火葬場まで1キロ以上の道を運び、遺骨にしたとのことです。また、8月に久里浜沖で起こった事故では、数体の遺体が見付からず、未だに海中に残されたままです。
伏龍を配備する地点は、敵の攻撃部隊の入泊が予想される海面付近が選定されました。待機する陣地は敵の砲弾に耐えることのできる地下施設でした。陣地から泊地に至る海底には、伏龍部隊を敵艦に誘導するに十分な誘導索を展張する予定でした。
久里浜での訓練では、歩数によって、50メートル間隔で5~7メートルの海底に伏龍隊員が展開待機する訓練が行われました。しかし、干満で潮流の変化する歩きにくい海底で、歩数で予定された展開配備点に着くのは至難の業でした。
五式撃雷の爆発安全圏は50メートルとされていました。しかし海底の困難な条件下で安全と言えるでしょうか。1発の爆発が、海水を伝播して、すべてが一挙に爆死することも十分考えられることでした。
日本の敗戦で伏龍作戦は実施されませんでした。しかし「天皇のため、国のため」侵略戦争の特攻訓練に青春を捧げさせられた少年兵たちの無念を忘れてはならないでしょう。
「もぐら作戦『土龍』」
もぐら作戦特攻「土龍」は、上陸した敵米軍の戦車を対象にして考えられた特攻作戦です。防衛すべき地域の外周に五メートル間隔に穴、いわゆる蛸壺を掘って、「急造地雷」といわれる四角な箱に詰められた火薬を背負い、この穴に潜み、時速三十キロくらいの速度で進んで来る敵戦車に葡匐(ほふく)前進で接近し、その戦車の腹に飛び込んで、これを爆破しようとする肉弾戦法でした。
武器としては、急造地雷のほかに「棒地雷」や「火炎瓶」などを使用することを考えていました。それに「蛸壺」との組み合わせで、文字通り肉弾突撃の戦法という以外にない悲壮なものでした。
主な要員には、練習生教育が中止された後の乙飛第22期、23期、24期や甲飛15期、16期などが予定されていました。彼らはどんな気持ちでこの訓練をしていたのでしょうか。
「滑空特攻機『神龍』」
「神龍」は、内陸部に進入してきた戦車に突入する滑空特攻機です。山腹に潜ませていて、山間を進撃してくる米軍のM1型戦車などに音もなく襲いかかって、これに体当たり自爆しようというものでした。
神龍は滑空機だから、もちろんエンジンはありません。飛行機に乗れなければせめて飛行服を着て戦いたい。少年兵たちの切ない願いです。神龍は空からのゲリラ特攻です。予科練は飛行兵だ。水に潜るのではなく、大空への夢に少しでも近づきたい、空を羽ばたくことが打ち砕かれた挫折感を、せめて空を滑空する兵器で戦う使命感で少年たちは訓練に励んだのでした。
要員は、予備学生第15期(前期)、予備生徒第2期(前期)、予科練からは甲飛第14期、乙飛第20期、特乙第6期、それに丙飛が予定されていました。
45年(昭和20)6月1日、三重空野辺山派遣隊が設置され、三重空において基礎訓練を終えた後、乙飛第20期などは滑空特攻要員として6月24日、長野県の野辺山に向かって出発しました。これら隊員の担当教員は、甲飛第12、13期、乙飛第18期、特乙第3、4期などでした。
○ どの展示にも勇戦奮闘の解説が表示されていますが、戦争への想像力を働かせ、軍命に従い、戦場に赴いた兵士たちの、悲しみ、苦しみ、怒り、無念さを偲び、戦争とは何か、是非考えて下さい。
私も健康に留意して長生きに努め、生きている限り、戦場体験を語続けます。
2010年5月24日月曜日
靖国神社雑感3・回天の展示
遊就館に人間魚雷『回天』が展示されています。
回天とは、「九三式酸素魚雷」を改造して、頭部に爆薬を装填し、人が乗って操縦して敵艦に体当たりをするという文字通りの「人間魚雷」でした。 「回天」とは、「天を回らし、戦局を逆転する」という願いを込めた名前で、1944年に正式兵器として採用されました。
回天特攻隊は、兵学校、機関学校121名、予備士官(学徒兵)210名、現役下士官9名、予科練出身飛行科下士官(少年兵)1035名の、計1375名でしたが、、回天の製造が間に合わず実際に回天に乗って訓練したものは、その約半数、戦没者は106名、訓練中の事故死15名でした。
私の兄も、第1回天隊(白龍隊)搭乗員として沖縄出撃の途中、アメリカ潜水艦の雷撃で戦死、18歳でした。
特攻の思想は、神国思想「神風」と楠公思想「七生報国」がその背景にありました。蒙古襲来の時、「神風」が吹いて元船が転覆したと素朴に信じて、神国日本は神が守っているという思想です。
また、楠正成は湊川で討ち死しましたが、「七たび生まれて、逆賊を滅ぼし国に報いん」と語ったと伝えられています。いわゆる「忠君愛国」「滅私報国」「七世報国」の精神の源です。
回天特別攻撃隊は出撃のとき、「七世報国」の鉢巻きを締めていました。
この回天は、アメリカから還ったものを、生き残りの回天搭乗員たちが修理したものです。あるときこの周りに回天搭乗員が集まりました。その中に回天戦の作戦指導の中枢にあった元第6艦隊鳥巣参謀が居ました。鳥巣参謀は、「これが回天の実物ですか。こんな近くで見たのは初めてです。」といいました。
その場にいた、予科練出身の元搭乗員は烈火のごとく怒りました。
「俺たちの戦友はお前のような奴の作戦で殺されたのか」、「回天を遠くからしか眺めないで、何を指導していたのだ。こんな奴に死ねと命令されていたのだ」。怒った搭乗員たちは、元参謀を回天の中に放り込み閉じ込めました。
ここで鳥巣第六艦隊参謀の実像についての記述を紹介しましょう。
『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』小灘利春・片岡紀明 (光人社)
千早隊 伊44潜の戦闘 より
回天特別攻撃隊「千早隊」の「伊44潜」は第六艦隊命令「硫黄島周辺に遊弋中の敵有力艦船の補足攻撃」で、2月25日から28日の間に攻撃せよと指示された。
しかし硫黄島の周辺水域に、米軍は、対潜水艦戦闘を任務とする多数の護衛駆逐艦と護衛空母に搭載された対潜哨戒機とで緻密な防御システムを展開していた。
いったん彼ら対潜部隊に発見されれば、高性能のレーダー、ソナーを装備した対潜掃討の訓練を積んだ多数の対潜艦艇の執拗な追跡と攻撃にさらされる。
回天の発進可能な水域まで到達して回天を発進させることは、この戦場では到底無理であった。
ついに艦長は無念であっても不可能、との判断に至ったのである。
「伊44潜」は、3月9日、大津島港に帰着した。
「千早隊」の研究会が行われたが、それは実質的には「伊44潜」川口艦長の命令違反をお追求する査問会であった。
席上、川口艦長は、警戒厳重な敵洋上泊地に進入して、一度浮上した上で回天攻撃を決行するという計画自体に問題があり、潜水艦と回天に犬死を強いる無謀な作戦である」と意見を述べた。
その意見はきわめて正しいものであり、川口艦長は堂々と所信を述べたのであったのだが、第6艦隊の鳥巣参謀は、その川口艦長の向かって、
「卑怯未練!」と罵倒した。
これは武人に向かって発してはならない、最悪の侮辱の言葉である。
この鳥巣参謀という人は、「潜水艦は沈んで来りゃいいんだ。戦果は俺たちで作る」と放言したと伝えられる人である。
3月11日、 川口源兵衛艦長は、横須賀の桟橋に係留されたままの老朽潜水艦の艦長に異動、左遷された。
日本海軍としては異例なほど敏速な人事が行われた。
『特攻 最後の証言』特攻最後の証言政策委員会((株)アスペクト)
海軍水中特攻 回天 第2回天隊 小灘利春海軍大尉 より
「 ……私はアメリカ側の資料と突き合わせをやっていますが、それを見ると(回天を)とんでもない使い方をしているのがわかります。例えば、第六艦隊の潜水艦部隊で回天作戦を担当した水雷参謀、これが兵器を知らず、戦略眼もない」
「戦後、この人は回天の本をたくさん書きましたが、自分の責任や失敗には一切触れていない。回天の搭乗員に死を命令する担当参謀でありながら、「俺は戦争中、回天を見たことがない」なんて平気で言っている。無責任で態度も傲慢な男です。
私は、大津島では一番古いクラスの搭乗員ですから、彼がやって来れば当然顔は知っているはずですが、私はこの男を見たことも名前を聞いたこともない。当時は優秀な参謀がどこかで一生懸命作戦を考えて指導していると信じていました。
壮行式で搭乗員が出て行くときは確かに見送りに来ています。記念写真が残っていますから、来ていたのでしょうが、それだけで、遠くから眺めていただけなんだと思います。
無限の性能がある兵器はないですから、使う側はどういう使い方をするべきか、少なくとも知っていないと。で、かっての下士官搭乗員の前でも『どんな兵器か見たこともない』と言ったもので、その場にいた者が怒りまして、靖国神社にある回天にこの参謀を押し込んで上からハッチをバタンと閉めたそうです。ハッチをロックできるわけではないんですが、しばらくそのままにしておいたと言っていました。」
小灘利春氏は海軍兵学校72期出身で、45年4月八丈島海軍警備隊・第二回天隊隊長として8月15日を迎え、海軍大尉・前全国回天会会長をつとめ2006年9月死去しました。
私は、これらの事実について、生前の小灘氏から口頭で話を聞いています。また、靖国神社の「回天」押し込め「事件」について、複数の予科練出身元回天搭乗員からも話を聞いています。
鳥巣第6艦隊参謀のような人物が回天作戦を指導していたのです。そればかりではありません。回天作戦を立案し、推し進め、多くの純真な若者を死に追いやった海軍軍令部の参謀たちは、未だに誰も頬被りで、その責任も、謝罪も、闇のままになっているのです。
回天の兵器としての裁可は昭和天皇でした。どう思っていたのでしょう。
続 同期の桜
前回この唄について「俺と お前は」と紹介しましたが、正調は海軍流の、「貴様と 俺とは」です。
この歌は戦争末期の昭和19年半ば頃から、悲壮な曲と歌詞で、口伝えに伝えられ、部隊名や地名を替え、歌詞も追加されるなどして、多くの兵士たちに歌われました。特に回天、神雷などの特攻隊では、先に出撃した戦友を偲ぶ思いを込めて歌われていました。
戦後、「戦前懐古」の風潮とともに、鶴田浩二が歌って爆発的に流行しました。特攻隊やこの歌を肯定、否定するに拘わらず、戦争末期の兵士の心情を知る上で一考を要する歌と私は考えています。
元歌 「二輪の桜」 西条八十作詞
一番
君と僕とは二輪の桜 同じ部隊の枝に咲く
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて別れ
られぬ
二番
君と僕とは二輪の桜 積んだ土嚢の蔭に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国の為
三番
君と僕とは二輪の桜 別れ別れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢で咲いて会う
「同期の桜」 作詞 帖佐 裕
一番
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為
二番
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて 別れられぬ
三番
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機
四番
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
あれ程誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか
五番
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう
私の兄たち回天白龍隊の出撃前夜、搭乗員の壮行会で,「同期の桜」が歌われました。兄は、どんな思いで歌ったのでしょうか。
回天とは、「九三式酸素魚雷」を改造して、頭部に爆薬を装填し、人が乗って操縦して敵艦に体当たりをするという文字通りの「人間魚雷」でした。 「回天」とは、「天を回らし、戦局を逆転する」という願いを込めた名前で、1944年に正式兵器として採用されました。
回天特攻隊は、兵学校、機関学校121名、予備士官(学徒兵)210名、現役下士官9名、予科練出身飛行科下士官(少年兵)1035名の、計1375名でしたが、、回天の製造が間に合わず実際に回天に乗って訓練したものは、その約半数、戦没者は106名、訓練中の事故死15名でした。
私の兄も、第1回天隊(白龍隊)搭乗員として沖縄出撃の途中、アメリカ潜水艦の雷撃で戦死、18歳でした。
特攻の思想は、神国思想「神風」と楠公思想「七生報国」がその背景にありました。蒙古襲来の時、「神風」が吹いて元船が転覆したと素朴に信じて、神国日本は神が守っているという思想です。
また、楠正成は湊川で討ち死しましたが、「七たび生まれて、逆賊を滅ぼし国に報いん」と語ったと伝えられています。いわゆる「忠君愛国」「滅私報国」「七世報国」の精神の源です。
回天特別攻撃隊は出撃のとき、「七世報国」の鉢巻きを締めていました。
この回天は、アメリカから還ったものを、生き残りの回天搭乗員たちが修理したものです。あるときこの周りに回天搭乗員が集まりました。その中に回天戦の作戦指導の中枢にあった元第6艦隊鳥巣参謀が居ました。鳥巣参謀は、「これが回天の実物ですか。こんな近くで見たのは初めてです。」といいました。
その場にいた、予科練出身の元搭乗員は烈火のごとく怒りました。
「俺たちの戦友はお前のような奴の作戦で殺されたのか」、「回天を遠くからしか眺めないで、何を指導していたのだ。こんな奴に死ねと命令されていたのだ」。怒った搭乗員たちは、元参謀を回天の中に放り込み閉じ込めました。
ここで鳥巣第六艦隊参謀の実像についての記述を紹介しましょう。
『特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想』小灘利春・片岡紀明 (光人社)
千早隊 伊44潜の戦闘 より
回天特別攻撃隊「千早隊」の「伊44潜」は第六艦隊命令「硫黄島周辺に遊弋中の敵有力艦船の補足攻撃」で、2月25日から28日の間に攻撃せよと指示された。
しかし硫黄島の周辺水域に、米軍は、対潜水艦戦闘を任務とする多数の護衛駆逐艦と護衛空母に搭載された対潜哨戒機とで緻密な防御システムを展開していた。
いったん彼ら対潜部隊に発見されれば、高性能のレーダー、ソナーを装備した対潜掃討の訓練を積んだ多数の対潜艦艇の執拗な追跡と攻撃にさらされる。
回天の発進可能な水域まで到達して回天を発進させることは、この戦場では到底無理であった。
ついに艦長は無念であっても不可能、との判断に至ったのである。
「伊44潜」は、3月9日、大津島港に帰着した。
「千早隊」の研究会が行われたが、それは実質的には「伊44潜」川口艦長の命令違反をお追求する査問会であった。
席上、川口艦長は、警戒厳重な敵洋上泊地に進入して、一度浮上した上で回天攻撃を決行するという計画自体に問題があり、潜水艦と回天に犬死を強いる無謀な作戦である」と意見を述べた。
その意見はきわめて正しいものであり、川口艦長は堂々と所信を述べたのであったのだが、第6艦隊の鳥巣参謀は、その川口艦長の向かって、
「卑怯未練!」と罵倒した。
これは武人に向かって発してはならない、最悪の侮辱の言葉である。
この鳥巣参謀という人は、「潜水艦は沈んで来りゃいいんだ。戦果は俺たちで作る」と放言したと伝えられる人である。
3月11日、 川口源兵衛艦長は、横須賀の桟橋に係留されたままの老朽潜水艦の艦長に異動、左遷された。
日本海軍としては異例なほど敏速な人事が行われた。
『特攻 最後の証言』特攻最後の証言政策委員会((株)アスペクト)
海軍水中特攻 回天 第2回天隊 小灘利春海軍大尉 より
「 ……私はアメリカ側の資料と突き合わせをやっていますが、それを見ると(回天を)とんでもない使い方をしているのがわかります。例えば、第六艦隊の潜水艦部隊で回天作戦を担当した水雷参謀、これが兵器を知らず、戦略眼もない」
「戦後、この人は回天の本をたくさん書きましたが、自分の責任や失敗には一切触れていない。回天の搭乗員に死を命令する担当参謀でありながら、「俺は戦争中、回天を見たことがない」なんて平気で言っている。無責任で態度も傲慢な男です。
私は、大津島では一番古いクラスの搭乗員ですから、彼がやって来れば当然顔は知っているはずですが、私はこの男を見たことも名前を聞いたこともない。当時は優秀な参謀がどこかで一生懸命作戦を考えて指導していると信じていました。
壮行式で搭乗員が出て行くときは確かに見送りに来ています。記念写真が残っていますから、来ていたのでしょうが、それだけで、遠くから眺めていただけなんだと思います。
無限の性能がある兵器はないですから、使う側はどういう使い方をするべきか、少なくとも知っていないと。で、かっての下士官搭乗員の前でも『どんな兵器か見たこともない』と言ったもので、その場にいた者が怒りまして、靖国神社にある回天にこの参謀を押し込んで上からハッチをバタンと閉めたそうです。ハッチをロックできるわけではないんですが、しばらくそのままにしておいたと言っていました。」
小灘利春氏は海軍兵学校72期出身で、45年4月八丈島海軍警備隊・第二回天隊隊長として8月15日を迎え、海軍大尉・前全国回天会会長をつとめ2006年9月死去しました。
私は、これらの事実について、生前の小灘氏から口頭で話を聞いています。また、靖国神社の「回天」押し込め「事件」について、複数の予科練出身元回天搭乗員からも話を聞いています。
鳥巣第6艦隊参謀のような人物が回天作戦を指導していたのです。そればかりではありません。回天作戦を立案し、推し進め、多くの純真な若者を死に追いやった海軍軍令部の参謀たちは、未だに誰も頬被りで、その責任も、謝罪も、闇のままになっているのです。
回天の兵器としての裁可は昭和天皇でした。どう思っていたのでしょう。
続 同期の桜
前回この唄について「俺と お前は」と紹介しましたが、正調は海軍流の、「貴様と 俺とは」です。
この歌は戦争末期の昭和19年半ば頃から、悲壮な曲と歌詞で、口伝えに伝えられ、部隊名や地名を替え、歌詞も追加されるなどして、多くの兵士たちに歌われました。特に回天、神雷などの特攻隊では、先に出撃した戦友を偲ぶ思いを込めて歌われていました。
戦後、「戦前懐古」の風潮とともに、鶴田浩二が歌って爆発的に流行しました。特攻隊やこの歌を肯定、否定するに拘わらず、戦争末期の兵士の心情を知る上で一考を要する歌と私は考えています。
元歌 「二輪の桜」 西条八十作詞
一番
君と僕とは二輪の桜 同じ部隊の枝に咲く
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて別れ
られぬ
二番
君と僕とは二輪の桜 積んだ土嚢の蔭に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国の為
三番
君と僕とは二輪の桜 別れ別れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢で咲いて会う
「同期の桜」 作詞 帖佐 裕
一番
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ国の為
二番
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて 別れられぬ
三番
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機
四番
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
あれ程誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか
五番
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう
私の兄たち回天白龍隊の出撃前夜、搭乗員の壮行会で,「同期の桜」が歌われました。兄は、どんな思いで歌ったのでしょうか。
2010年5月23日日曜日
靖国神社雑感2、靖国神社と同期の桜そして戦前の教科書
靖国神社を意識するようになったのは,何時の頃からだったでしょ
うか。
新宿始発の東京市電は、11番と12番です。
11番は、四谷見附、半蔵門、三宅坂、桜田門、日比谷、銀座、築
地を経て勝鬨橋、築地です。
12番は四谷見附、市ヶ谷見附、九段、神田、須田町から両国です。
11番は、桜田門付近に差し掛かると、車掌の声がかかります。
『宮前を通過します。みなさん、宮城に向かって下さい。ハイ、敬
礼!』
小学校後学年の頃から、このお辞儀を覚えています。
1937年・昭和12年です。私が小学校3年の時に盧溝橋事件が
起こり、日中全面戦争となりました。
「国民精神総動員要綱」が閣議で決定されて「八紘一宇」「大東亜共栄
圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」「滅私奉公」のスローガンの下、
毎月1日は「興亜奉公日で、梅干し一つの「日の丸弁当」、国旗掲
揚、神社仏閣への「必勝祈願」、防空訓練が行われるようになりまし
た。
12番は、九段で靖国神社横を通過します。靖国神社に電車の中か
ら敬礼するのは、ずっと後のことです。日中戦争が長引き泥沼化し
て、「国の英霊」の帰還が目立つようになります。1941年・昭和
16年12月に太平洋戦争が始まります。私の中学1年の時です。
靖国神社へ電車の中からのお辞儀は、この頃からでしょう。
15歳で私は少年兵を志願しました。「日本が危ない。今こそ戦場に
行き国のため,家族のため戦おう」と考えたのです。しかし、戦場で
戦うことと、「戦死」すること、「靖国神社」に祀られることは結びつ
いていせんでした。
陸軍特別幹部候補生航空通信兵の教育課程は、当初、1年6ヶ月の
予定でしたが、戦局の激化に従って、9ヶ月に短縮され、翌年早々
には第1線で任務に就くと44年・昭和19年10月に告げられま
した。
戦うことと死ぬことが,意識の中でまだ結びついていない私たち少
年兵は、戦場に赴く日が近づいたと喜び勇んだのでした。
その頃、神風特別攻撃隊の体当たり攻撃が、はじめて報じられまし
た。「航空隊」です。情報は早く、どこからとなく伝わって来ます。
「志願して特攻隊員になるとその日から『今日からお前たちは神様だ』
といわれるそうだ」,「毎日白米を食べるんだそうだ」、「グライダーで
敵飛行場着陸する特攻隊も出来たそうだ」「航空隊員は、地上勤務者で
も、機関銃手とか爆撃手とか、特攻要員に指名されるそうだ」
軍歌『同期の桜』が歌われ始めました。
この歌の原曲は『戦友の唄(二輪の桜)』という曲で昭和13年1月
の少女倶楽部に発表された西条八十の歌詞を元として、後に人間魚雷
回天の搭乗員となる帖佐裕海軍大尉がアレンジしたものです。なお、
この帖佐大尉は、私の兄が、回天搭乗員として山口県大津島に着任し
たときの最初の分隊長でした。
1. 俺とお前は同期の桜 2.俺とお前は同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 血肉分けたる 仲ではないか
見事散りましょ 国のため 何故か気が合うて 別れられぬ
3. 俺とお前は同期の桜 4.俺とお前は同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く 同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に 花の都の 靖国神社
未だ帰らぬ 一番機 春の梢に 咲いて会おう
近づく戦場への思いと重なり、少年兵たちは、夕暮れの練兵場で、兵
舎の陰で、営舎の窓辺で、声を合わせて良く歌ったものでした。ゆっ
くりとしたテンポで、唄の情景と、私たちの行方を重ね合わせ、繰り
返し繰り返し涙を流しながら歌ったものでした。
『戦場』と『死』と『靖国神社』は、それでもまだ『遠い』唄の中の
ものでした。
それが現実のものとして『戦場』と『死』と『靖国神社』が結びつい
て『戦争とは、人と人の殺し合いだ』と心に刻みつけたのは、翌年2
月に常陸飛行部隊での初めての戦闘体験で、同期生の死と向き合った
時だったのでした。
それにしても、ここに辿り着く心の底には、何よりも小学校時代から
蓄積された軍国主義教育があったと言えるでしょう。
『靖国神社』は、小学校4年で教えられました。
戦前の教科書の靖国神社
尋常小学終身書 巻4
第3 靖国神社
東京の九段坂の上に、大きな青銅の鳥居が高く立っています。其の奧
にりっぱな社が見えます。それが靖国神社です。
靖国神社には、君のため国のためにつくして死んだ、たくさんの忠義
な人々がおまつりしてあります。毎年、春4月30日と秋10月23
日には例大祭があって、勅使が立ちます。又、忠義な人々をあらたに
合わせまつる時には、臨時大祭が行われます。其の日には天皇・皇后
両陛下の行幸啓がございます。
お祭りの日には陸海軍人はもとより、一般の人々も、ここにおまつり
した人々の忠義の心をしたって参拝する者が引きもきらず、さしもに
廣いけいだいも、すき間のないまでになります。
君のため国のためにつくして死んだ人々をかうして神社にまつり、又
ていねいなお祭りをするのは、天皇陛下のおぼしめしによるのでござ
います。私たちは、陛下の御めぐみの深いことを思ひ、ここにまつっ
てある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりませ
ん。
(注 君とは、天皇のこと。天皇は現人神ーあらひとがみーであり
一般庶民は、臣民でした。)
尋常小学唱歌 第4学年用
4、靖国神社
1.花は桜木、人は武士。
その桜木に圍(かこ)まるる
世を靖国の御社(みやしろ)よ。
御国(みくに)の為に、いさぎよく
花と散りにし人々の
魂(たま)は、ここにぞ鎮(しづ)まれる。
2.命は軽く、義は重し。
その義を践みて大君に
命をささげし大丈夫(ますらお)よ。
銅(かね)の鳥居の奧ふかく
神垣高くまつられて、
譽は世世に残るなり。
注
臣民の命は大君への「忠義」に比べたら鴻毛(鳥の羽)よりも軽
かった。しかし、貧乏人の子どもでも、「戦死」したら「神様」に
なって「靖国神社に祀られる。そうして、畏くも「現人神」の天子
様が頭を下げてお詣りして下さる。有難いことだ、子々孫々ま
で語り伝える名誉なことだ、そんな時代であったのです。
うか。
新宿始発の東京市電は、11番と12番です。
11番は、四谷見附、半蔵門、三宅坂、桜田門、日比谷、銀座、築
地を経て勝鬨橋、築地です。
12番は四谷見附、市ヶ谷見附、九段、神田、須田町から両国です。
11番は、桜田門付近に差し掛かると、車掌の声がかかります。
『宮前を通過します。みなさん、宮城に向かって下さい。ハイ、敬
礼!』
小学校後学年の頃から、このお辞儀を覚えています。
1937年・昭和12年です。私が小学校3年の時に盧溝橋事件が
起こり、日中全面戦争となりました。
「国民精神総動員要綱」が閣議で決定されて「八紘一宇」「大東亜共栄
圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」「滅私奉公」のスローガンの下、
毎月1日は「興亜奉公日で、梅干し一つの「日の丸弁当」、国旗掲
揚、神社仏閣への「必勝祈願」、防空訓練が行われるようになりまし
た。
12番は、九段で靖国神社横を通過します。靖国神社に電車の中か
ら敬礼するのは、ずっと後のことです。日中戦争が長引き泥沼化し
て、「国の英霊」の帰還が目立つようになります。1941年・昭和
16年12月に太平洋戦争が始まります。私の中学1年の時です。
靖国神社へ電車の中からのお辞儀は、この頃からでしょう。
15歳で私は少年兵を志願しました。「日本が危ない。今こそ戦場に
行き国のため,家族のため戦おう」と考えたのです。しかし、戦場で
戦うことと、「戦死」すること、「靖国神社」に祀られることは結びつ
いていせんでした。
陸軍特別幹部候補生航空通信兵の教育課程は、当初、1年6ヶ月の
予定でしたが、戦局の激化に従って、9ヶ月に短縮され、翌年早々
には第1線で任務に就くと44年・昭和19年10月に告げられま
した。
戦うことと死ぬことが,意識の中でまだ結びついていない私たち少
年兵は、戦場に赴く日が近づいたと喜び勇んだのでした。
その頃、神風特別攻撃隊の体当たり攻撃が、はじめて報じられまし
た。「航空隊」です。情報は早く、どこからとなく伝わって来ます。
「志願して特攻隊員になるとその日から『今日からお前たちは神様だ』
といわれるそうだ」,「毎日白米を食べるんだそうだ」、「グライダーで
敵飛行場着陸する特攻隊も出来たそうだ」「航空隊員は、地上勤務者で
も、機関銃手とか爆撃手とか、特攻要員に指名されるそうだ」
軍歌『同期の桜』が歌われ始めました。
この歌の原曲は『戦友の唄(二輪の桜)』という曲で昭和13年1月
の少女倶楽部に発表された西条八十の歌詞を元として、後に人間魚雷
回天の搭乗員となる帖佐裕海軍大尉がアレンジしたものです。なお、
この帖佐大尉は、私の兄が、回天搭乗員として山口県大津島に着任し
たときの最初の分隊長でした。
1. 俺とお前は同期の桜 2.俺とお前は同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 血肉分けたる 仲ではないか
見事散りましょ 国のため 何故か気が合うて 別れられぬ
3. 俺とお前は同期の桜 4.俺とお前は同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く 同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に 花の都の 靖国神社
未だ帰らぬ 一番機 春の梢に 咲いて会おう
近づく戦場への思いと重なり、少年兵たちは、夕暮れの練兵場で、兵
舎の陰で、営舎の窓辺で、声を合わせて良く歌ったものでした。ゆっ
くりとしたテンポで、唄の情景と、私たちの行方を重ね合わせ、繰り
返し繰り返し涙を流しながら歌ったものでした。
『戦場』と『死』と『靖国神社』は、それでもまだ『遠い』唄の中の
ものでした。
それが現実のものとして『戦場』と『死』と『靖国神社』が結びつい
て『戦争とは、人と人の殺し合いだ』と心に刻みつけたのは、翌年2
月に常陸飛行部隊での初めての戦闘体験で、同期生の死と向き合った
時だったのでした。
それにしても、ここに辿り着く心の底には、何よりも小学校時代から
蓄積された軍国主義教育があったと言えるでしょう。
『靖国神社』は、小学校4年で教えられました。
戦前の教科書の靖国神社
尋常小学終身書 巻4
第3 靖国神社
東京の九段坂の上に、大きな青銅の鳥居が高く立っています。其の奧
にりっぱな社が見えます。それが靖国神社です。
靖国神社には、君のため国のためにつくして死んだ、たくさんの忠義
な人々がおまつりしてあります。毎年、春4月30日と秋10月23
日には例大祭があって、勅使が立ちます。又、忠義な人々をあらたに
合わせまつる時には、臨時大祭が行われます。其の日には天皇・皇后
両陛下の行幸啓がございます。
お祭りの日には陸海軍人はもとより、一般の人々も、ここにおまつり
した人々の忠義の心をしたって参拝する者が引きもきらず、さしもに
廣いけいだいも、すき間のないまでになります。
君のため国のためにつくして死んだ人々をかうして神社にまつり、又
ていねいなお祭りをするのは、天皇陛下のおぼしめしによるのでござ
います。私たちは、陛下の御めぐみの深いことを思ひ、ここにまつっ
てある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりませ
ん。
(注 君とは、天皇のこと。天皇は現人神ーあらひとがみーであり
一般庶民は、臣民でした。)
尋常小学唱歌 第4学年用
4、靖国神社
1.花は桜木、人は武士。
その桜木に圍(かこ)まるる
世を靖国の御社(みやしろ)よ。
御国(みくに)の為に、いさぎよく
花と散りにし人々の
魂(たま)は、ここにぞ鎮(しづ)まれる。
2.命は軽く、義は重し。
その義を践みて大君に
命をささげし大丈夫(ますらお)よ。
銅(かね)の鳥居の奧ふかく
神垣高くまつられて、
譽は世世に残るなり。
注
臣民の命は大君への「忠義」に比べたら鴻毛(鳥の羽)よりも軽
かった。しかし、貧乏人の子どもでも、「戦死」したら「神様」に
なって「靖国神社に祀られる。そうして、畏くも「現人神」の天子
様が頭を下げてお詣りして下さる。有難いことだ、子々孫々ま
で語り伝える名誉なことだ、そんな時代であったのです。
2010年5月19日水曜日
靖国神社雑感1・例大祭の思いで
靖国神社の春季例大祭は4月30日、秋季例大祭は10月23日
でした。
小学生の頃、私の家は新宿伊勢丹裏から市ヶ谷の陸軍士官学校の脇を通り市ヶ谷見附を経て靖国神社に至る『靖国通り』に面した『ロク薬局』でした。今の厚生年金会館の少し先になるでしょうか。
当時は4メートル通りで、牛込区市ヶ谷富久町、向かい側は四谷区花園町、100メートル程新宿よりは、淀橋区大久保でした。
その頃の子どもたちの行動範囲は広く、何処の神社、何処のお寺の境内では、何月何日に『店』が並ぶ。何処の商店街に夜店が並ぶのは何日と何日だと全部把握していてその情報をしっかり掴んでいるのが『ガキ大将』なのでした。
何処へでも出かけて行きました。戸山が原射撃場も、神宮外苑も、代々木練兵場も行動範囲で、その頃の横綱玉錦と双葉山の取り組みを『太宗寺』の境内で見物し、双葉山がタクシーに足をかけたらぐらっと傾いたのを覚えています。
靖国神社の例大祭には1時間以上かけて毎年、必ず遊びに行来ました。
九段坂の大鳥居のすぐ後ろに大村益次郎の銅像があります。
そこから神社に向かって左側は食べ物屋の店がずらりと並んでいます。
焼きそば、おでん、お好み焼き、パンかつ、お汁粉、綿菓子、べっこう飴等々子どもたちの食欲をそそる何でもありでした。
向かって右側は見世物小屋がずらりと並んでいます。
肝試しの化け物屋敷、娘さんのクビが伸びるロクロ首、オートバイの曲乗り、猿の曲芸、入り口には客寄せの口上師がだみ声を張り上げて口上をまくし立てています。
『さあさあお立ち会い、見ていかなければ一生の悔やみだよ。何見せるんだって、そりゃあ木戸銭払って中に入れば分かるよ。そこの坊やたち、小遣いもらってきたんだろ。見て、楽しんで、帰って土産話を親に話してやりな、それが親孝行ってもんだぜ。さあ入った入った。小遣いなんて手に握っていただけじゃ駄目だよ、使うときに使ってこそ小遣いだよ。それが江戸っ子ってもんだよ』
私の定番は、お化け屋敷に、オートバイの曲乗りでした。その後が、焼きそばに、お好み焼きに、綿菓子。
社殿でちょこんと頭を下げて当時その後ろにあった『国防館』、それから『遊就館』に回ります。何があったかメモは必ず取っておきます。家に帰って何を見てきたか親父に答えられるよう帰りの道すがら考えていくのです。答えの仕方によっては来年の小遣いの額に大きく響きます。
昭和20年正月、訓示の後『来年の正月はあると思うな、各人決意を述べよ』と班長の命令です。
私は16歳の陸軍特別幹部候補生、陸軍上等兵です。前年の暮れ、昭和19年12月29日に陸軍航空通信学校長岡教育隊で航空通信兵、対空無線隊要員として9ヶ月の教育課程を終え、第一線への転属待ちです。
『命を賭けて戦います。靖国神社で会いましょう』。『特幹の名誉にかけて任務を遂行します。靖国神社で待ってます』。『自分が靖国神社一番乗りです。』……
みんな立派なことを言ってます。『何言ってやんで、おべんちゃら、心にもない格好良いこと云いやがって』。順番が近づいてきます。何を言おうか考えているうち、『猪熊候補生、お前の決意は』……。班長の怖い顔が睨んでいます。みんながこちらを向いています。
私の靖国神社は、焼きそばに綿菓子、そしてお化け屋敷です。それしか浮かんで来ません。
とっさに答えました。
『最後の一兵になるまで戦い続けます。』
班長の罵声が飛んで来ました。『なに!貴様は靖国に行きたくないのか。』
私は答えました。『みんな死んだら、ワシントンのホワイトハウスに誰が日章旗を掲げるのでありますか。』
鉄拳でぶちのめされました。『みんな死のうと言ってるのに貴様ひとり一体、なんだ。』
私の16歳の正月の思い出です。
境内に佇むと2歳上の兄の姿が浮かんできます。
兄は、予科練甲種13期生で、土浦航空隊で人間魚雷回天特攻隊を志願し大津島回天基地を経て山口県光基地から出撃、昭和20年3月沖縄粟国島近海で戦死したのが18歳でした。
兄の生き様を調査しています。
兄の土浦、光基地での同期生の手記から昭和19年7月に、ここ靖国神社に来たことが分かりました。
土浦から2千名の予科練甲13期生が、7つボタンの白い制服で、軍楽隊を先頭に隊伍を組んで、上野駅から行進をはじめ、靖国神社と明治神宮に参拝したのです。
戦意高揚の大デモンストレーションでした。
兄は胸を張り意気揚々と行進をしたことでしょう。
兄の姿が浮かんできます。
それから半年余、兄は南の海に果てたのでした。
そして、正確な戦死日時も、戦没地点も、戦没状況も、未だに分からないまま、弟の調査が続いているのです。
でした。
小学生の頃、私の家は新宿伊勢丹裏から市ヶ谷の陸軍士官学校の脇を通り市ヶ谷見附を経て靖国神社に至る『靖国通り』に面した『ロク薬局』でした。今の厚生年金会館の少し先になるでしょうか。
当時は4メートル通りで、牛込区市ヶ谷富久町、向かい側は四谷区花園町、100メートル程新宿よりは、淀橋区大久保でした。
その頃の子どもたちの行動範囲は広く、何処の神社、何処のお寺の境内では、何月何日に『店』が並ぶ。何処の商店街に夜店が並ぶのは何日と何日だと全部把握していてその情報をしっかり掴んでいるのが『ガキ大将』なのでした。
何処へでも出かけて行きました。戸山が原射撃場も、神宮外苑も、代々木練兵場も行動範囲で、その頃の横綱玉錦と双葉山の取り組みを『太宗寺』の境内で見物し、双葉山がタクシーに足をかけたらぐらっと傾いたのを覚えています。
靖国神社の例大祭には1時間以上かけて毎年、必ず遊びに行来ました。
九段坂の大鳥居のすぐ後ろに大村益次郎の銅像があります。
そこから神社に向かって左側は食べ物屋の店がずらりと並んでいます。
焼きそば、おでん、お好み焼き、パンかつ、お汁粉、綿菓子、べっこう飴等々子どもたちの食欲をそそる何でもありでした。
向かって右側は見世物小屋がずらりと並んでいます。
肝試しの化け物屋敷、娘さんのクビが伸びるロクロ首、オートバイの曲乗り、猿の曲芸、入り口には客寄せの口上師がだみ声を張り上げて口上をまくし立てています。
『さあさあお立ち会い、見ていかなければ一生の悔やみだよ。何見せるんだって、そりゃあ木戸銭払って中に入れば分かるよ。そこの坊やたち、小遣いもらってきたんだろ。見て、楽しんで、帰って土産話を親に話してやりな、それが親孝行ってもんだぜ。さあ入った入った。小遣いなんて手に握っていただけじゃ駄目だよ、使うときに使ってこそ小遣いだよ。それが江戸っ子ってもんだよ』
私の定番は、お化け屋敷に、オートバイの曲乗りでした。その後が、焼きそばに、お好み焼きに、綿菓子。
社殿でちょこんと頭を下げて当時その後ろにあった『国防館』、それから『遊就館』に回ります。何があったかメモは必ず取っておきます。家に帰って何を見てきたか親父に答えられるよう帰りの道すがら考えていくのです。答えの仕方によっては来年の小遣いの額に大きく響きます。
昭和20年正月、訓示の後『来年の正月はあると思うな、各人決意を述べよ』と班長の命令です。
私は16歳の陸軍特別幹部候補生、陸軍上等兵です。前年の暮れ、昭和19年12月29日に陸軍航空通信学校長岡教育隊で航空通信兵、対空無線隊要員として9ヶ月の教育課程を終え、第一線への転属待ちです。
『命を賭けて戦います。靖国神社で会いましょう』。『特幹の名誉にかけて任務を遂行します。靖国神社で待ってます』。『自分が靖国神社一番乗りです。』……
みんな立派なことを言ってます。『何言ってやんで、おべんちゃら、心にもない格好良いこと云いやがって』。順番が近づいてきます。何を言おうか考えているうち、『猪熊候補生、お前の決意は』……。班長の怖い顔が睨んでいます。みんながこちらを向いています。
私の靖国神社は、焼きそばに綿菓子、そしてお化け屋敷です。それしか浮かんで来ません。
とっさに答えました。
『最後の一兵になるまで戦い続けます。』
班長の罵声が飛んで来ました。『なに!貴様は靖国に行きたくないのか。』
私は答えました。『みんな死んだら、ワシントンのホワイトハウスに誰が日章旗を掲げるのでありますか。』
鉄拳でぶちのめされました。『みんな死のうと言ってるのに貴様ひとり一体、なんだ。』
私の16歳の正月の思い出です。
境内に佇むと2歳上の兄の姿が浮かんできます。
兄は、予科練甲種13期生で、土浦航空隊で人間魚雷回天特攻隊を志願し大津島回天基地を経て山口県光基地から出撃、昭和20年3月沖縄粟国島近海で戦死したのが18歳でした。
兄の生き様を調査しています。
兄の土浦、光基地での同期生の手記から昭和19年7月に、ここ靖国神社に来たことが分かりました。
土浦から2千名の予科練甲13期生が、7つボタンの白い制服で、軍楽隊を先頭に隊伍を組んで、上野駅から行進をはじめ、靖国神社と明治神宮に参拝したのです。
戦意高揚の大デモンストレーションでした。
兄は胸を張り意気揚々と行進をしたことでしょう。
兄の姿が浮かんできます。
それから半年余、兄は南の海に果てたのでした。
そして、正確な戦死日時も、戦没地点も、戦没状況も、未だに分からないまま、弟の調査が続いているのです。
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