2010年4月9日金曜日

ナンバー4 戦場体験。元兵士のひとりとして、私の事 戦友会の解散

私は、陸軍特別幹部候補生(特幹)第1期の航空通信兵として、今から66年前の1944年(昭和19年)4月に陸軍航空通信学校長岡教育隊(水戸市郊外)に入隊した。陸軍特別幹部候補生、陸軍1等兵、襟に座金、胸に翼の航空胸賞の正式軍装をした入校式は10日であった。同期生は12ヶ中隊2500名である。

 当時15歳から19歳の紅顔の美少年たちも年輪には逆らえない。2009年(平成21年)11月28日、伊香保温泉で特幹第1期長岡会のの解散総会が開かれた。頭を高く上げているが髪は薄く、ほとんどが櫛を使わない。胸を張るが、杖をつくものもいる。
それでも33名が集まった。北海道からも飛んできた。

伊香保町長を3期務めた代表幹事、上野、日本橋、銀座、新宿などに寿司店を経営し今度7件目を台北に開業したという元全国料飲店組合会長、横浜中華街大幹部、毎年新製品を開発しているというk製菓株式会社会長等そうそうたるメンバーだ。

私の自己紹介に、俺もシベリア帰りだとカザフスタン抑留を語る戦友もいた。ずいぶん暖かかっただろうというと、それでもマイナス25度まで下がったよとのこと。私のアムール州シワキはマイナス35度だから、10度も暖かったんだなと話が弾む。

彼は台湾出身の熱血漢だった。爆撃機の通信士。特攻滑空挺身隊のグライダーを曳航して敵飛行場に運ぶのが任務だった。敗戦で脱走し、朝鮮国境38度線近くを歩いているときソ連兵に捕まり、朝鮮北東岸興南港から、ソ連沿海州、ボシエットへ。そしてシベリア鉄道を貨車で28日かけてカザフスタンに送られた。
「シベリア抑留などあまり思い出したくない」という。

会長・元伊香保町長の彼は、帯広で新司偵通信士として敗戦を迎え、郷里の伊香保町で町役場の職員となり、定年前は、町長を3期務めた。
彼は、戦友たちの消息を追い求め、また、群馬県の特攻戦没者の遺族をくまなく訪ね、慰霊碑の建立を昨年成し遂げた。

「猪熊さん。こんなの見つけました、陸軍少年飛行兵双六です。」拡げた、色刷りの双六を指しながら、「こんなんで、われわれ少年たちが釣り上げられたんですね。」「たくさん増し刷りして、宣伝しましょうよ」

握手して別れた彼は、1週間後、突如、急逝してしまった。

同期生戦死者の内38名が沖縄戦である。
名簿を見ると昭和20.6.18摩文仁艦砲射撃、5/17首里.5.29南風原、6.22山城付近、5.17名護湾上空、5.24伊江島西方海上、5.4南西諸島洋上、3.28慶良間洋上等々とある。機上通信士、機上無線機修理、通信大隊、対空無線隊が任務であった。生きて帰ったものは殆ど語ろうとしない。



少年兵・学徒動員世代

軍隊に入って、現地部隊に行くと古兵たちが「志願をしてくる馬鹿がいる。」と私たちを囃したてた。

もうみんな80歳を超えた「元少年兵」たちはどうして、「志願」までして戦場に赴いたのだろうか。

私は、1925年(大正14年)生まれ頃から29年(昭和4年)生まれ頃までの世代を「少年兵・学徒動員」世代とよんでいる。

 志願して少年兵になるか、そうでなければ、学校は休校で軍需工場へ動員され、軍事物資の生産に明け暮れた世代である。

私たちは、子どもの頃から軍人になることを夢見ていた。
小学校1年の国語教科書で
「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と学び、
唱歌の時間には
「僕は軍人大好きよ 今に大きくなったなら 勲章着けて 剣下げてお馬に乗って ハイドウドウ」と歌っていた、

日中全面戦争が始まった1937年(昭和12年)には「国民精神総動員要綱」が閣議で決定され、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガンのもと、毎月一日は「興亜奉公日」(後に8日が大詔奉戴日)で梅干し一つの「日の丸弁当」、国旗掲揚、神社仏閣への必勝祈願、そしてバケツリレーの防空訓練である。

「欲しがりません勝つまでは」、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」、「贅沢は敵だ」、「パーマネントはやめましょう」、「月、月、火、水、木、金、金」などのスローガンも作られていた。

新聞、ラジオ、少年少女雑誌では、「広瀬中佐」、「橘中佐」、「乃木大将」、「東郷元帥」などの軍国美談がたっぷりと繰り広げられていた。

3月10日の陸軍記念日は明治37・8年の日露戦争の奉天大会戦で日本陸軍が大勝利した日だ。子どもたちは講堂に集められ、陸軍の軍人から奉天大会戦の話や、旅順攻略戦の話だ。

5月27日は海軍記念日である。海軍軍人の日本海大海戦でロシア、バルチック艦隊を撃滅した話だ。戦艦三笠を先頭に「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ。本日天気晴朗なれど波高し」というz旗上がるの話に血湧き肉躍らされた。

 中国戦線の拡大と共に出征兵士を送ることが毎月のようになった。日の丸の旗を振りながら、「天に代わりて不義を撃つ 忠勇無双の我が兵は…」と軍歌を歌って行進した。上海陥落、南京陥落など日本軍の大勝利が伝えられると旗行列、提灯行列で街中大騒ぎだ。子どもたちも一緒に万歳万歳と歩き回った。

そうして、日本民族は優秀な民族だが、中国人は、支那人、チャンコロ、朝鮮人は、鮮公、バタ屋、南方の人たちは土人とさげすみ、彼らは劣った民族だから、白人に侵略されるのだ。

「我々は日出ずる国の天子の下、アジアの平和のため大東亜戦争に征くんだ」と、「大東亜共栄圏」、「八紘一宇」と言う言葉を子ども心に信じていた。

 八紘とは広い地の果て、天下という意味、一宇とは一つの家と言うことである。八紘一宇とは、日出ずる国の天子、すなはち日本の天子の意向のもとに全世界を一体化しようという意味で日本の対外膨張を正当化するために用いられたスローガンである。

高等小学校卒業後16歳で海軍に志願して戦艦武蔵に乗り組み、マリアナ、レイテ沖海戦に参加。武蔵撃沈の際に脱出して奇跡的に生還。戦後わだつみ会事務局長として活躍した渡辺清は、『少年兵における戦後史の落丁』で次のように書いている。

「僕は小学校3.4年頃から、将来自分は必ず兵隊になろう。兵隊で一生過ごそう、と固く心に決め込んでいた。当時の心境を今、動機論的に一応要約してみると、
『俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃ偉くなれるんだ』(出世意識)
『国を守り天皇陛下に尽くせるのは兵隊だけなんだ』(忠誠意識)
そして『その兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる靖国神社の神様になれるんだ』(価値意識)ということになろうか。

こうして僕は幼時から『国家の規格品』として身ぐるみ兵隊につくられていったのだ。つまり、生まれ落ちてから一本調子に戦争の末端に組み込まれていたのである」

こうして少年たちは当時の天皇絶対の社会体制、軍国主義一色の社会風潮。幼い頃からの軍国主義教育、権力に迎合した新聞・雑誌・ラジオ・映画などのマスコミによる戦争賛美の宣伝煽動のもと、

   「天皇陛下のため」
   「東洋平和のため」
   「家族の幸せのため」
   「祖国のため」

と心から信じ、戦場に赴くことを栄誉と考えるようになっていたのだった。

昭和17年5月のミッドウエー海戦の敗退と,同年8月7日のガダルカナルへの米軍の侵攻を機に戦局は大きく転換し、日本は守勢に立たされるようになっていた。

昭和18年に始まった連合軍の反抗は、ソロモン群島を次々と攻撃しに北上していった。

アッツ島守備隊の「玉砕」が報道された。昭和18年5月31日付け朝日新聞は大見出して報道した。

アッツ島に皇軍の神髄
山崎部隊長ら全将兵
壮絶夜襲を敢行玉砕
敵2万・損害6千下らず

1兵も増援求めず
烈々戦陣訓を実践

戦陣訓には 生きて虜囚の辱めを受けず 死して悠久の大義に生きよ とある。

次いで11月22日ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊の玉砕が報じられた。

旧制中学在校生を対象とした、海軍の甲種飛行予科錬の募集は、昭和18年前半の12期生が3200名、18年後半の13期生が一挙に28000名。

「七つボタンは桜に碇」の「霧島昇」「若鷲の歌」とともに「少年」は皆海軍に持って行かれてしまう。

戦局の悪化、下級幹部、下士官の不足と共に陸軍の危機感が「旧制中学在学」の少年を対象とした、陸軍特別幹部候補生の制度を発足させたのだった。

「藤原義江」が「特幹の歌」を歌い、「灰田勝彦」が「特幹兄は征く」で次いだ。
瀬戸内海で全国から中学生を集め、陸軍船舶部隊の大演習が行われた。

ちなみに特幹1期は航空と船舶。船舶特幹1期は、1900名。内1700名が、ベニヤ製モーターボートに爆装して敵船舶に体当たりをする特攻海上挺身隊。そのうち1200名が、フイリッピンルソン島、沖縄、台湾沖で16歳から20歳の青春を散らしたのであった。

私が特幹志望を父に話したのがマキン。タラワの玉砕が報じられた数日後、1943(昭和18年)年11月25日である。私の中学3年2学期である。

陸軍の特幹は1期から4期まで約8万名、同時期の海軍の甲種予科練とほぼ同数の少年を確保したのであった。

志願入隊の時、3人に一人は、家族の反対で、保護者の印鑑を盗み出し捺印した。合格通知が来て初めて親は子どもの受験強行を知りやむなく承知した。

戦友たちとは戦後の生き方も,考え方も、思想も、信条もそれぞれ10人10色様々である。

しかし、
私たちのような想いをもう若い者にはさせてはならない。
生涯の中で最も美しいたった一度の青春が、
戦争の片棒を担いだ青春だった、
こんな口惜しいことがあるだろうか、

若者たちの青春が戦争のための青春でないよう
戦争の真実を、戦場体験を語り残こそうではないか
の呼びかけには、強弱はあれ、全員うなずき、考え、握手を交わす心地よい戦友会解散であった。

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